モンテヴェルディ以降の作曲家については
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「Happy Birthday, Maestro!」にも掲載されています。ご覧下さい。
ジョスカンと同時代を生きた盛期フランドル学派の大家。ジョスカンがミラノ・ スフォルツァ家の庇護を受けたように、イザークはフィレンツェ・メディチ家 およびドイツ・ハプスブルク家において活躍。現在はジョスカンの 影に隠れて目立たない存在となってしまっているが、生前は貴族にも庶民にも わかりやすい曲づくりが受けてジョスカンより人気を博していた模様。実際 「使徒たちのミサ」などにみられる和音の瞬間的美しさはジョスカンに勝るとも 劣らない。(ジョスカンのすごいところは空間軸方向の音の重なりに加え時間軸 方向の昂揚感にあると思いませんか?) ひたすら自分の音楽を追求したジョスカン、リクエストに柔軟に対応したイザーク、 この二人の関係は後代のバッハとテレマンにたとえらることもある。 「インスブルックよ、さようなら」など独仏伊語の世俗曲、弟子の ゼンフルによって完成されたミサ作品集「コラーリス・コンスタンティヌス」 などがあるが、その全貌はいまだ解明されていない。世俗曲は録音も演奏される 機会も多いのだが、ミサ・モテットは相対的に少なすぎると言わざるを得ない。 そんな中、96年1月のタリス・スコラーズに よる「ミサ・ヴィルゴ・プルデンティッシマ」は印象的だった。
後期ルネッサンスの代表的リュート奏者、作曲家。イギリス人としてはめずらしく 大陸各地を渡り歩いた。晩年にはイギリス宮廷音楽家としてモーリーやトムキンズ の同僚となる。代表作として器楽曲「ラクリメ/涙のパヴァーヌ」、リュート歌曲 「流れよ、わが涙」「悲しみよとどまれ」など。独特の叙情的表現が好評を博し、 編曲も多数。器楽独奏、リュート伴奏付独唱、無伴奏合唱と多彩な形態で演奏される。 リュート音楽に関しては最大の作曲家といってよいだろう。 歌曲「もどっておいで、甘い恋」は最近CMソングにも取り上げられた。
大陸ルネッサンスの黄金期を担うフランドル楽派最初の巨匠。15世紀の フランス宮廷においてシャルル7世時代には先輩バンショワの影響を受け、 ルイ11世時代には後輩のジョスカン・デプレに影響を与えた。後代の細密画に 描かれた肖像はまるで妖怪のよう :-)。代表作にミサ「プレスク・トランジ」 「プロラツィオーヌム」など。「レクイエム」は楽譜が現存する最古の多声レクイエム として有名。97年は没後500年ということで記念盤の録音、記念コンサートが 相次いでいる模様。
16世紀後半のローマ楽派の巨匠にしてルネッサンスの集大成者。 宗教曲、世俗曲合わせておよそ850曲という膨大な数の作品を残す。 「教皇マルチェルスのミサ」「ミサ・ブレヴィス」「ミサ・アスンプタ・エスト・ マリア」、モテット「谷川慕いて」「バビロン河のほとりに」など。 完璧なポリフォニー様式と協和音からなる音楽はまさに職人業。 映画の題材にも取り上げられるなど知名度も高い。「ア・カッペラ(礼拝堂様式)」 という言葉も彼の時代から使われ始めた。 システィナ礼拝堂聖歌隊歌手、サンタ・マリア・マジョーレ教会楽長などを歴任。 没後400年に当たる1994年に同教会で行われた記念式典での タリス・スコラーズの名演(マルチェルスのミサ他)は記憶に新しい。
この人の世俗曲を聴いたことのない人にはぜひ歌詞カードを見ながら鑑賞される ことをお勧めする。ルネッサンス最大の世俗シャンソン作曲家。ミサがわずか2曲 なのに対し400曲以上のシャンソンを残す。「鳥の歌」「狩」「ひばり」など絶妙な 擬音効果によって歌詞がわからなくても十分楽しめる曲がある一方、「恋の戯れを 知りたい娘がおりました」のようにわかっていると楽しさ256倍の曲も多数。 同時代の詩人クレマン・マロによる(ときにヒワイな)詩に付けられた粋な曲の数々は 現代においてますます新鮮に感じられる。本国フランスでは「恋の…」のような 露骨な表現の曲もそのままコンサートで歌われてしまうのだろうか? なお、18日は 遺書がしたためられた日で正確な没日はわかっていない。
イタリア・ボローニャ楽派の音楽家。バロック後期にあって器楽の演奏形態、 コンチェルトとソナタ形式の発展に大きく貢献。「クリスマス・コンチェルト」 「ラ・フォリア」「トリオ・ソナタ集」その他。単にフレスコバルディと ヴィヴァルディをつなぐ存在とは片付けられない独特の高貴な香りが漂う。 録音は古楽器・現代楽器とも比較的多くある。
私の知る唯一のボヘミア人作曲家。おそらくチェコとして考えてもドヴォルザークや ヤナーチェク以前に知られた数少ない音楽家ではないだろうか。テレマン、バッハと 同時期にドイツで活躍。6つのトリオソナタ、「エレミアの哀歌」「レクイエム」など を残す。近年再評価されつつあるが録音はまだ少ない。
下のデュファイによって幕開けられたルネッサンス音楽を幕引きし、新たな バロックの世界を切り開いたあまりにも有名な作曲家。ルネッサンスに終止符を 打ったモンテヴェルディは受け入れることができないとするルネッサンス信者も 多いが、既にルネッサンス様式の限界が見えていたこの時期での彼の登場は 歴史の必然とも思える。初期・中期のマドリガーレには2つの時代の要素が 混在しており、その点においてデュファイと共通するものがある。しかし一連の オペラ群「オルフェオ」「アリアンナ」「ウリッセの帰郷」「ポッペアの戴冠」 においてはバロック音楽の方向性が明確に示され、後のA.スカルラッティによって ひとつの完成をみることになる。忘れてならない代表作に「聖母マリアのための晩課」 があるが、この録音の数はすごい。ガーディナー、パロット、コルボ、ヘレヴェッヘ、 フレーミヒ、コッホ、サヴァール、ヤーコプス、アーノンクール、ピケットと、 およそ古楽演奏家を名乗る指揮者が一通り録音している(他にもあったかな、 レオンハルト、クリスティは?)。「ヴェスプロ」の名で親しまれるこの曲は プロだけでなくアマチュア団体の間でも高い人気を誇っている。
中世からルネッサンスへの橋渡しを担ったブルゴーニュ楽派にあって最大の 音楽家と評される。彼の作品にはアイソリズムからポリフォニーへの移行が がみられるという様式的転換のほか、ミサ曲「もしも顔が蒼いなら」 のように世俗的な愛の歌の旋律を宗教曲の素材とするという革新があった。 ルネッサンスの父という意味で「ルネッサンス期のバッハ」と呼ばれることもある。 この時代にはまだ職業としての音楽家の地位は確立されておらず、デュファイも ワイン貯蔵所長という職にあったらしい(しかも酒豪とのウワサあり)。 晩年にはオケゲムと直に接している。ミサ「ロム・アルメ」モテット 「ばらの花が先ごろ」シャンソン「さらば我が恋」など多数録音されている分野が ある一方、非通作ミサやアンティフォナの録音が少ないのは残念。
16世紀のイギリスを支配したテューダー朝の混乱の元凶は全てヘンリー8世に あるといっても過言でない。最初の王妃キャサリンの侍女アンとの愛人関係を成就 すべく、ローマ教会と決別し王妃との離婚を認めさせる。しかしアンが男子を もうけないと知るや否やその侍女ジェーンに心を移し、なんとアンを処刑 (←ひどすぎ)。彼の死後、ジェーンとの子エドワード6世の時代に宗教改革は 強力に展開。礼拝の英語化が推し進められる。ところがエドワード6世は短命に終り、 次に座に着いたキャサリンの娘メアリー1世は熱狂的なカトリック信者であった。 改革派は次々処刑され、典礼はすべてラテン語に戻される。 だが彼女の治世も長くは続かず、次に即位したアンの娘エリザベス1世の穏健政策に よってようやくゴタゴタは収束、イギリス国教会を基本としながらもカトリックも 容認されることとなる。タリスはまさしくこの激動の時代に生きた。 結果的に「もし汝われを愛さば」「大主教パーカーのための詩篇曲」といった 英語テクストによるものと、「40声のモテトゥス」や 有名な「エレミアの哀歌 I,II」などの ラテン語による作品が混在して生み出されることになった。ルネッサンスの 英国人作曲家として後継者のバードと並んで最も重要な人物と評される。この後 この国はモーリー、ダウランド、トムキンズそしてギボンズといった音楽家を 輩出することになる。タリスの作品は後輩たちのそれに比べストレートな感情の 表出が抑えられているように感じる。そしてその慎ましげな音楽の裏にぞくっと するような何かが隠されているように思えてならない。 彼がおよそ80歳で亡くなった時、彼の墓碑には次のような言葉が刻まれたという。 「彼は生きてきた時と同じように亡くなった、温和な、そして物静かな性格で。」
聡明なるエリザベス1世によって開花したイギリス・ルネッサンスも、 ステュアート朝末期の清教徒革命以降暗黒の時代に入る。クロムウェルの共和政が 芸術活動そのものを弾圧・制限したためで、多くの劇場が破壊された。 その後王制復古によって音楽活動が再開されたが、そこにはイギリス・ ルネッサンスの影はなく新しい大陸バロック音楽が幅を利かせることとなった。 その大陸バロック音楽を単なる模倣でなくイギリス的に昇華させたのがパーセル。 「ダイドーとエネアス」「アーサー王」「妖精の女王」「テンペスト」といった 劇音楽が有名。この他声楽曲を中心に200以上の作品を、36歳の若さで世を去るまでに 残している。しかし彼の死後、イギリス音楽はまたしても長い停滞の時代に 入ってしまう。唯一、大陸からやってきたヘンデルが活躍した一時期を除いて。
ドイツにはハスラーやM.プレトリウスなどのルネッサンス音楽家がいたのだが、 イタリアやイギリスの隆盛の前にはどうしても隠れがちであった。 モンテヴェルディがイタリア・バロックを開花させたころ、ドイツでも ようやく国際的に名を馳せる人物が登場した。プロテスタント教会音楽家、 H.シュッツである。大バッハのちょうど100年前に生まれ、教会カンタータの 基礎を作った。「ダヴィデの詩篇曲」「クリスマス・オラトリオ」「ヨハネ受難曲」 「葬送音楽」など作品のほとんどが教会音楽に捧げられている。 バッハのみならずベートーヴェンやブラームス、ブルックナーらドイツ音楽大家の 源流はこのシュッツにあった。
息子のドメニコはチェンバロ・ソナタで有名だが、こちらは教会音楽とオペラで 重要な仕事をした。モンテヴェルディによって開花したバロック・オペラを イタリア国内のナポリにおいて継承し、ナポリ楽派の始祖となった。この後 ヘンデルに影響を与えることになる。残念ながら楽譜・資料は散逸しており、 彼のオペラを再現するのは困難な状況にあるようだ。
16世紀前半のイギリス・ヘンリー8世時代にタイ、シェパードとともに活躍した人物。 ミサ「西風」ほかモテット、世俗歌曲をいくつか残す。彼の後に続くタリス、バード に比べると知名度が今一つのためか、同国の現代宗教作曲家であるジョン・タヴナー (John Tavener、一字違い)とよく間違われる。CDショップの古楽コーナーに置いて いないといって諦めるべからず。70%の確率で現代音楽のコーナーに紛れている :-)。 (稀に逆パターンもあり。)
ジャヌカンとともにルネッサンス・シャンソンの黄金期を形成した人物。 パスロー、プリミュス、ラフォンらと同時代でパリ楽派と呼ばれる。彼らの シャンソンの楽しさについては ECJのコンサートでも触れたが、 セルミジも実は王室礼拝堂の責任者を務めた立派な聖職者であった。その作風は ポリフォニーの多いフランドル楽派のそれとは異り、同音型の反復や効果音を 採り入れるなどストレートな表現が目立つ。庶民に広くシャンソンを普及させた 功績は大きいものがある。
デュファイ、ビュノアらとともにブルゴーニュ楽派の一員として大陸ルネッサンス の成立に寄与。ル・フランの詩「婦人たちの擁護者」の写本の挿絵として残る デュファイとのツーショットの肖像画はマンガチックでとてもかわいらしい。 モテット「新しき旋律の歌を」等100以上の作品を残したが、現状では録音が 非常に少ない。 彼の死に際して後輩のオケゲムは「バンショワの死を悼む哀歌」を作曲。
下のクープランがクラウザン作品に注力したのに対し、ラモーはリュリが開花させた フランス・バロックオペラを継承しイタリアのそれとは異った味付けにした、とある が、私はまだオペラにほとんど手を付けていないのでコメントできず(-_-)。 晩年にはイタリア音楽を支持するルソーら百科全書派と対立。音楽を和声に基づいて 初めて体系化し、物理学や数学によってその原理を説明した、とあるが、このあたり 理系としては興味大(^^;)。いずれ集中的に聴いてみたい作曲家のひとり。
フランスの名門クープラン家のなかにあって最大の功績を上げた人物。同名の 叔父と区別するため、大クープランとも呼ばれる。ヴェルサイユ王立礼拝堂 オルガン奏者、王室クラウザン(チェンバロ)教師の任にあったころ、「クラウザン 奏法」をルイ15世に献呈。トリオ・ソナタ「コレッリ賛」「リュリ賛」も有名だが、 4巻からなる「クラウザン曲集」がなんといっても最高傑作。ドレヒュス盤が私の お薦め。リュリほどの派手さはないが、そこはかとなく醸し出される官能の調べは ジャヌカン以来のフランス音楽に共通しているかのようだ。
なお、この日はエストニアの現代音楽の雄、アルヴォ・ペルト(Arvo Part, 1935--) 生誕の日でもある。中世・ルネッサンス音楽の要素を採り入れ現代音楽の新境地を 開いた功績をたたえ、また私と同じ誕生日(^^;)ということでここに紹介。
ルネッサンス期に名をなした作曲家はほとんどが聖職者か職業音楽家だが、 この人はめずらしくアマチュアの作曲家。妻の不貞を恨み、妻とその愛人、さらには 出生に疑問を持った息子までも殺害し放浪の旅に出ることになったジェズアルド。 彼の創る音楽には不協和音や半音階が随所に表れ、バードやラッススに慣れた耳には いささか違和感を覚える。マドリガーレ「いとしき君よ」やモテット「めでたし、 いと優しきマリア」などは現代音楽家の創った作品だといっても通用するだろう。 既にパレストリーナによってマニエリスムの時代に突入していたとはいえ、かの ような事件がなけれはこのような前衛的な作品が生まれ得なかったかもしれない ことを考えると、歴史と人生の不思議な関係を想わずにはいられない。
なんと、ビクトリアがジョスカンの死後ちょうど90年後に没していたとは! (ただし没日を8月20日としている資料もあり。) スペイン出身の作曲家といえば最も著名なのがこの人ではないだろうか。 パレストリーナに師事していたため彼の影響を多分に受けているが、初めて聴く 曲でも「これはもしやビクトリアでは?」と思わせる独特の雰囲気を持っている。 多くの作曲家が世俗曲も手掛ける中、ビクトリアは純粋な典礼音楽のみを残した。 4声・8声の「アヴェ・マリア」、「おお、大いなる神秘」、「聖週間の レスポンソリウム集」、「死者のための聖務曲集(レクイエム)」などが有名。 ビクトリアの曲を聴くとどこか別世界にワープしたような不思議な感覚にとらわれ、 いつまでもそこに身を委ねたくなってしまう。他国が宗教改革問題で揺れる時代、 強固なカトリックの支配下にあったスペイン。そこで育まれたビクトリアの宗教的 情熱は、時を超え信教の違いを超え我々の心に深く迫ってくる。
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ジョスカン・デ・プレ
Josquin Des Prez [French/Flemish]
(1440?--AUG/27/1521) 没後475年
ルネッサンス最大の作曲家のジョスカンですら、誕生日はおろか その出生地もわかっていない。おそらくは北フランス出身というのが有力らしい。 肖像画も例のターバンのようなものを巻いている一枚があるだけ。しかし、 彼の残した音楽はグーテンベルクの活版印刷の発明と同期したこともあって 瞬く間にヨーロッパ全土へ。当時の人々にとっても衝撃的だったと思うが、 死後500年近く経った現代人の耳にも十分にインパクトのある音楽にはただもう 感動するしか。あまりにも彼の感性の趣くままに創作されたため、技術的に 難しく演奏者を泣かせることもしばしば。「他の作曲家は音楽に操られているが、 ジョスカンだけは音楽を操っている」と言われた。 数々の名曲を生み出したが、3つだけ選べと言われたら ミサ曲から「パンジェ・リングヮ」、モテットから「アヴェ・マリア」、 シャンソンから「オケゲムの死を悼む挽歌」ということになろうか。 単に彼のというだけでなく、フランドル楽派の、いやルネッサンスを代表する 3曲とすることに私は異義なし。なお、日本でも最近ジョスカン教の信者が 多数コンサート会場に集結し彼の音楽を愛でているそうな。喜ばしいことなり:-)。