ボシ

その一 ミズ

 人に繰り返し学校の夢を見させるものは後悔の念か、首尾よく行かない現在の生活からの逃避か。私は今日も何度目かの潜入を試みた。窓から体育館の丸屋根の見える教室へ、忘れ物を取りに行くのだ。
 いつものように、下駄箱が整然と並ぶ薄暗い玄関ホールに入る。
 靴を脱ぎ、はだしのまま冷たい廊下を踏んで進む。廊下伝いに並ぶ木枠のついたガラスのケースには、埃をかぶって光沢を失ったトロフィ、盾、色あせたペナントが飾られている。
 廊下の窓の外に見える中庭は真昼の日の光を湛えて、上空を滑って行く雲の影が向かい側のモルタル校舎の方にひたひたと打ち寄せている。
 廊下に沿って教室が並び、職員室、校長室、事務室が続く。さらに廊下を進むと、中央の玄関ホールに出た。先ほど入ったホールよりも広く、白塗りのドーム式天井は青みを帯びて明るみ、伽藍のように高い。
 ホールには卒業制作の壁画がある。合奏の風景を描いたもので、リコーダー、鍵盤ハーモニカ、木琴、大太鼓小太鼓を演奏する生徒たちの姿が区々の大きさと色彩で描かれている。ヤヌスのように二つの顔を持ち、双面の一方がリコーダーを、もう一方が喇叭を吹く姿もある。リコーダーからは音符が、喇叭からは花束が噴き出ている。
 玄関ホールから外を覗くと、広い校庭一面に花を散らしたように色とりどりの服を着た大勢の子供が、盲目的な動物の群のように輪になって音もなく走り回っていた。一人だけ、後ろ向きになって走っている子供がいた。その子供は両手を顔の高さのところまで挙げ、他の子供たちを手招きするように手首を上下に振っていた。砂埃が濛濛と立ちこめ、子供たちの姿はその中に見えなくなる。空には黒と赤の吹流しが何本も翻っていた。
 
 私は再び廊下に戻り、階段を上り始めた。目指す教室は校舎の三階にある。
 一階と二階の中間に踊り場があり、細長い嵌め殺しのガラス窓から外を覗くと、実際の階層よりもはるかに高い位置から学校の周辺を見下ろすことができる。民家の家並みが広がり、緑に覆われた丘が光る。公園の砂場に建設途上のプラネタリウムが見える。パイプを組んでドーム状の骨組みを作り、大きなコンクリート製の下水管をドームの横腹から差し込んで出入口にしている。
 一階上の踊り場から再び公園を見下ろすと、ドームの骨組みは消え去って、子供が砂場で遊んでいる。
 階段を上り切って、三階の廊下を滑るように進んで行くと、途中にキヨスクがあった。新聞や雑誌を並べたその売店だけが、周囲と不調和にけばけばしく浮き上がって見える。
 長い廊下を抜けると、天井がガラス張りになったホールに出た。そこが旧校舎と新校舎の境目になっており、半円形の階段を数段下りると新校舎に入る。
 教室の中で子供たちが天井を指差して騒いでいる。天井板に亀裂が入り、そこから机の上に水が滴り落ちているのだ。亀裂の周囲に滲みが円形に広がりはじめ、滴り落ちる水の勢いが増して行く。天井板は水を含んで亀裂を広げ始めた。子供たちが四方に散った直後に天井板が張り裂けて教室に落ちた。天井板の裏側には土ぼこりに覆われた長方形の棺らしきものが載っており、その全面にホースのように太いミミズがびっしりと取り付きのたうち回っている。
 棺の蓋が少しずつずれて中の暗闇が見え始めると、子供たちは悲鳴を挙げて教室を逃げ出した。棺の中から何かが身を起こす気配に恐慌をきたし、私は夢中で廊下を走り、螺旋状の滑り台を滑り降りて校舎から脱出した。


その二 ウメ

 こうして何度か探索を繰り返したが、私は忘れ物を取り返すことができなかった。
 そしてしばらくの間、学校の夢を見なかったのだが、ある夜、再び校舎の中に入ることができた。
 私は、以前のように部外者としてではなく、一人の生徒として、峡谷の上に架けられた吊り橋を渡って、校舎の屋上に辿り着いた。
 屋上は植樹林になっていた。季節は冬に近いらしく、一面に枯葉が散り敷いている。木々を縫うようにして小道が続き、片側には鏡を嵌め込んだような小さな沼がある。
 小道を抜けると広々とした畑に出、さらに畑の中を進むと半分土に埋もれた図書室があった。私は図書室のわきの通路を通って校舎の中に入った。
 文化祭の最中でもあるのか、どの教室も色模造紙で飾りつけがしてある。階段を下りて一階の玄関ホールに行くと人だかりがしていた。学生たちが掲示板に貼り出された名簿のようなものに食い入るように見入っている。授業の履修に関するものらしい。後ろの方から背伸びをして見てみると、私の名前があった。名前の横に「数2b 長期無断欠席」と書いてある。どうやらこれは留年該当者の名簿らしい。全身から血の気が引いていくのがはっきりわかった。
 私は今まで、毎日授業には出席していたし、単位の取りこぼしもなかったから、無事に卒業できるとタカをくくっていたのだが、授業科目があまりにも多すぎたため、「数2b」のことはすっかり忘れていたのだ。記憶をたぐってみると、一年ほど前に一回だけ出席した覚えがあるのだが、はっきり思い出せない。何しろ一年も欠席しているのだから、単位はもらえそうもない。
 しかしともかく、今からでも授業に出て遅れを取り戻そうと思い、私は巨大な蟻の巣のような校舎の中を「数2b」の教室を探して歩き回ったが、結局見つからず、螺旋状の滑り台を滑り降りてすごすごと学校から出て行った。

 それから何回か似たような夢を繰り返し見た後、私はようやく「数2b」の授業に出席することに成功した。
 三、四十人の生徒がうやむやかたまって座っている薄暗い教室のちょうど中央あたりの席に私はいた。
 黒板を背にして立っている教師は黒縁眼鏡をかけて茶色いカーディガンを羽織った五十代半ばに見えるはげ頭の小さな男だった。怖そうな人ではない。私はたいへん素直な気持ちで、長期無断欠席を教師に詫びた。
 教師は穏やかな丸みのある声で、
 「かまいませんよ。授業に出る出ないは君自身の問題なのだから」
 と言って静かに笑った。
 私はひどく怒られるかと思ってびくびくしていたのだが、教師の言葉は怒鳴られるよりももっと身にこたえるものだった。その言葉は夢から醒めた後も胸の中に響いていた。

 そんなこともあって、私は卒業を半ばあきらめかけていたのだが、まだ試験があるではないか。試験に合格さえすれば、道は開ける。たとえ平常点が悪かろうと、学年末試験で合格点を取れば卒業できる。そう考えたら私はうれしくなって、さっそく寝床に入った。

 試験会場は古めかしいモルタル校舎の中の大教室だった。絣の着物を着た少年たちのいびつな坊主頭がびっしりと並んで大教室を埋め尽くしている。みんな背筋を伸ばして前方に注目している。これから試験が始まるのだ。
 教壇に立っているのは、あの優しそうな禿の先生ではなく、腕っ節の強そうな四角い箱みたいな感じのする大柄な男だった。眼鏡をかけているが、あまり知的には見えない。試験監督の事務員か何かだろう。
 男は答案用紙らしい紙の束を教卓の上に置き、太い親指を舐めながら思わせぶりに紙束をぺらぺらめくっていたが、やがて顔を上げると、大きな濁った目玉をぐりぐり動かしながら教室中を見回した。
 それから男は私の目をまともに見て、
  「オイ、お前。ちょっとこっちへ来い」
 と横柄な口調で私を呼んだ。
 私は男に殴られそうな予感がして、恐る恐る前に出た。他の生徒たちは押し黙って下を向いている。
 私が前に立つと、男は紫色の風呂敷に包んだ四角いものを私に向かって差し出し、
 「お前はこれでも持って帰れ」
 と言った。
 包みを解いてみると、それは駅弁の空箱だった。蓋を取り除けると、中には一面にご飯粒がついていて、金魚の形をした醤油差しと、へし折られた割り箸が入っていた。割り箸には醤油が滲み込み、海苔がべったりと付着している。
 あまりのことに呆然としていると、男が弁当箱の上に深々とお辞儀をした。そして唇をすぼめて真っ赤なウメボシの種を箱の中にプツリと吹き出した。
 私は頭の中でシンバルが鳴っているような気持ちがした。
 しかし他の生徒たちに気づかれては笑いものになると思ったので、つとめて平静を装い、いかにもご褒美を頂戴したという顔をして、汚らしい弁当箱をうやうやしく両手にささげ持ち、教室を退去した。
 
 気がつくと、私は見知らぬ商店街をふらふら歩いていた。どの店もシャッターを下ろしていた。
 町を吹き抜ける風に背中を押されながら歩いて行くと、運河に出た。大きな鉄橋があり、そのすぐ下を真っ黒な水が生き物のようにうねりながら流れて行く。鉄橋は運河の半ばで折れ曲がり、その先は水没していて対岸には渡れなかった。
 「この夢から醒めても行くべき道はない」という誰かの言葉を私は思い出した。
 私は鉄橋が急激に傾斜して水没しているところまで歩き、傾斜の縁に座り込んで、流れる水を眺めた。黒々とした水を透かして、巨大な建造物が沈んでいるのが見える。獅子や蛙や羊をかたどったガーゴイルが煉瓦の壁面に並ぶ学校の校舎が、水の中にある。

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