を踏む

 誰かが雪を踏んでこちらに近づいてくる。
 便所の外に目隠しの生垣があり、その向こうは幼稚園の庭になっている。幼稚園の庭をへだてた正面には小さな墓地がある。その墓地から便所に向かって、重く雪を踏みしめる足音が近づいてくるのだ。便所の小窓からは、生垣に阻まれて姿は見えないが、大柄な男であるらしい。
 時刻は午前一時を少し回った頃である。
 足音は生垣のすぐ向こうまで迫ってきた。慌てて便所を出る。
 
 そんな父の体験談をタケオが思い出したのは、昨日から降り続けた雪のせいだ。
 「まだ、雪は降っているのかねえ」
 茶の間で背中をまるめてコタツにあたりながら父が言う。
 「いや、もう止んだみたいだね」
 父と向かい合わせに座って、新聞を広げたままタケオは耳を澄ます。屋根の上に積もった雪が、ときおり重くこもった音をたてて落ちる。
 「前にさ、お父さんが話してくれたろ、雪の夜に墓地から誰かが来るって」
タケオはカマをかけるような気持ちで話を切り出すのだが、切り出しながら心の中で「よせばいいのに」と舌打ちする自分がいる。
「あの墓地は、あのあたりの地主の墓地でね」
父はもう話し始めている。
 その頃、一家が住んでいた墓地の近くの家は、戦争末期に渋谷から疎開して来た歯科医が建てた平屋の貸家だった。その貸家を引き払って、同じ市内にある今の家に引っ越してから四十年近くになる。
 「あの墓地には戦死者が葬られているんだよ」
 父が声を潜めた。
 「地主の家にお爺さんがいたろう。あのお爺さんの長男が戦争で亡くなったんだよ。体の大きな人だったそうだよ」
 だから、あの雪の夜、墓地から出てきたのはその地主の息子だというのか。
 父には、変な風に話を結びつけて無用の心配をする癖があった。それはタケオが子供の頃から変わらない父の一面だが、母が死んでからはますます突飛な結びつけをするようになった。母の実家は九州の豪農だったが、母の右足が生まれつき左足よりも小さかったのは小作人の恨みを買ったからだという具合に、現実の問題を、現実を飛び越えて未生以前に結びつけて一人で決め込んでいる。
 「お前は気がつかなかっただろうけど、ゆうべ、家のまわりをうろうろしている奴がいたんだよ」
 父がさらに声を潜めた。
  「家のまわりを何周か回って、玄関のところで足音が途絶えたんだよ」
  「俺は昨夜は遅くまで起きていたけど、そんな足音は聞こえなかったよ」
  「きっと、今夜も来るぞ」
  父に変な話を持ち出さなければよかったのだ。
  「あの墓地から来るんじゃないかねえ」
  父は寄る辺なさそうな顔をした。
  「さあ、もう寝ようよ」
 タケオは新聞をたたんで腰を上げた。

 翌朝、外に出てみると、空は晴れているが、庭も道もふっくらと雪に覆われたままだった。出勤時のダイヤの乱れが思いやられて、タケオは憂鬱になった。
 昨夜、遅く帰宅した勤め人の靴跡が雪の上に幾筋か残っている。その中に、道からそれてタケオの家に入り込んでいる足跡があった。それはタケオが立っている玄関口で途絶えていた。女のものと思われる裸足の足跡で、右足が左足よりも小さかった。雪の上の足跡の中に、青い影が溜まっている。
 父は、まだ起きてこない。

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