クロノ博士とカイロ氏

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆2000.7.29 Updated by Δ(deltelta@cc.rim.or.jp)


●はじめに

 斎藤環さんの著作「戦闘美少女の精神分析」で日本の漫画の特殊性を説明するために「カイロス時間」「クロノス時間」という言葉が導入された結果、漫画評論において使用されるケースも出てきており、これを読まれた方が掲示板にて広く認められた用語の様に使用されたり、漫画の現場にいらっしゃる方が「目から鱗が落ちる思い」をされたりすることにもなっています。

 「カイロス時間」「クロノス時間」については本htmlにも一部を抜粋してありますが、全体の流れもありますので、書籍として御一読願えればと思います。Δはこの著作を読んで、異なる種類のものを「カイロス時間」と見做していること、どれが「カイロス時間」に該当してどれが該当しないのかが曖昧であること、「カイロス時間」に括れることで多くのことを説明しようとしていることに対し、強い違和感を覚えました。

 これらの言葉については「戦闘美少女の精神分析」ではあまり詳しい説明が無いため、従来から使用されている言葉の単なる言い換えに過ぎないのか否かがよく解りません。もしこれが精神医学に基づく考え方であるとすれば、その引用元を理解した上で読み直せばしかるべき妥当性が感じられるに違いない…と思えたため、まず中井さんの書籍を購入致しました。


★PART1)中井さんと斎藤さんで「*時間」の定義がずれている?(2000/7/3)

★PART2)中井さんの定義の拡張で斎藤さんの説明と整合する?(2000/7/5-7)

★PART3)漫画の技法を3層構造説に基づいて説明すると…?(2000/7/9-22)

★PART4)「カイロス的時間」記述がある中井さんの訳書が…?(2000/7/29)

 




PART1)中井さんと斎藤さんで時間の定義がずれている?


●中井久夫著作集 1巻 精神医学の経験 分裂病 (岩崎学術出版社)

 早速ナナメ読みしてみました(>つまり、きちんと通しては読んでません)ところ、この本に現れる「クロノス的時間」と「カイロス的時間」は下記の記述から始まるようです。この章においては、分裂病の「寛解過程」を説明するために発病の過程から順に(急性分裂状態→臨海期→寛解期前期→寛解期後期)記述が進んでゆきます。

p.140

「急性分裂状態においては、空間構造に比して時間構造は一般にそこなわれない(例外は後述)とはコンラートの言である。しかし、このコンラートの指摘があくまでクロノス的(物理的)時間に限ることは是非ともいっておかねばならないことである。これに対してカイロス的(人間的)時間は崩壊する。すなわち、過去と未来を現在の相において統合する”歴史的意識”(「現在は過去を荷い未来をはらむ」−ライプニッツ)は解体する。したがって、すべての系列的に進展する過程は停止する。カイロス的時間が、投影的および構成的心理空間のそこなわれない能動的活動性と密接な関係があることはすでにのべたとおりである。」

…ところが、下線部(Δ)にあたる記述をこの本の140頁以前を探しても、何故か見つかりません。別の言い方になっているのか、中井さんの他の著作にあるのか…あるいは単純なΔの見落としなのか。(下線部については)ここの周辺の記述から、何を言っているのかは何となく解るのですが。

ここだけでは、誰がどこで最初にこれを言い始めたのか、よくわかりません。そのような状態ではありますが、続きを続けます。

同頁

「カイロス的時間においては予感は次第に意識の中にうかびあがり、ためらいつつ言語化され、より大きな文脈の中で修正され、行動化され、記憶され、回想のうちに消え去る。それゆえにこそ夢やロールシャッハ・テストが予見的意味をもちうる。これに対して、急性分裂病状態においては着想はただちに言語化され行動化されねばらないという、ほとんど絶対的な要請があるかのごとくである。奇妙な一種の”同期化”がここにみられる。それゆえに彼らは決して”待てない”。」

「例外は後述」について、少し後で語られます。

p.141

「ただ緊張病の極期である”アポカリプス期”においては、コンラートの言うごとく、病者は一旦「死」を体験するごとくであって、この極点をひとたびきわめれば、分裂病においても(クロノス的意味における)時間構造が変改され、しばしば「時間溯行体験」がおこる。緊張型にあっては、逆接的にもクロノス的時間の停止(決定的に世界の側に属すること、すなわち事物の無時間性に同化すること)において「死−再生」というカイロス的時間の、たとえ一時的であっても、急激な出現をみるのである。緊張型の寛解可能性が一般的に高いことをここで想起すべきであろう。しかし、たとえば1913年に溯行して再びクロノス的時間がはじまること、あるいは永遠に34歳に留まることなども少なくない。稀有な「死−再生」体験も、必ずしもカイロス的時間の持続的な再生というより実りある結果になるとは限らないのである。」

臨界期の小章には時間についての記述はありません。次に出てくるのは寛解期前期の小章で、

p.170

「また、社会的行動の拙劣さは、この時期における自己身体像の覚束なさと、少なくとも意識の範囲におけるカイロス的時間の再生の不十分さとに関連付けうる事態であろう。この時期において、周囲が強引に社会的行動を強いるならば、病者はみずからの内的リズムに対する感覚を失う。彼はいわばクロノス的時間の奴隷となり、もはや直接的の外的強制によらずしては行動することが困難になる。」

続けて、寛解期後期の小章で、

p.171

「この時期の大きな標徴の一つは、季節感の回復である。病者は「幾年ぶりかに春を感じます」「先生、秋ですね!」と語る。カイロス的時間の再生が白昼の意識に達したとみることができよう。事実、現在の相に過去を眺め、未来を予測しようとする努力がなされる。不安を催起せずして過去を回想し、それを一つの連続した物語として捉えることが可能となってくる。」

申し訳ありませんが、まだ時間について記述した箇所が他にもあるかもしれません。しかし、上記からΔが推測するところ、カイロス的時間とは(内的外的をとわず)感覚として生じた刺激を、仮の時間軸上に展開して他の要素と絡めて物語に仕上げて検証する、まさにその時間のことを言っているようです。カイロス的時間が機能しないなら、確かに刺激に対して検証抜きに反応することになり、この状態を「クロノス的時間の奴隷」というならクロノス的時間がいったい何のことなのかが見えてきそうですが、上の「時間の溯行」のところを読むと、急になんだか解らなくなってしまいます。しかし、カイロス的時間については、上の太字部のように言ってよさそうに思います。


●戦闘美少女の精神分析 斎藤環 著 (太田出版)

ここで、斎藤さんの「戦闘美少女の精神分析」に戻って228頁をみると、

「退屈な授業が永遠のように長く感じられたり、恋人と過ごす時間があっと言う間に過ぎてしまったりするのは、われわれがカイロス的な相のもとで時間を経験するためだ。」

中井さんの本を読んでくると、微妙な違和感があります。人間的時間を一般的にカイロス的時間と呼び、その中に上記太字部分の時間が含まれるのであれば、おかしいことにはならないと思われますが、中井さんの上の記述からは、クロノス的時間も人間的時間に入るようなので(”永遠に34歳”等)、斎藤さんの説明はどちらかというとクロノス的時間感覚の変動についてのものであるように見えます。

斎藤さんはさらに続けて

「中井氏は分裂病のある時期において「カイロス時間が崩壊し、クロノス時間が保たれる」という相を経るとする。それでは、この逆の事態も起こりうるのではないか。すなわち「クロノス時間が後退し、カイロス時間への無制限の没入が起おこる」ということ。たとえば境界例やヒステリーにおいては、あきらかにカイロス時間が優位になっている。そこでは体験される時間がしばしば、ナルシスティックな「いまここ」性を帯びてしまう。」

境界例やヒステリーの話が中井さんの本の話ではないことは明らかですが、境界例やヒステリーを専門とする方が「カイロス時間」という概念を使用するのかは、これを読んだだけではわかりません。少なくとも「逆の事態」は分裂病では起きないようです。

Δが仮に定義した太字部分を再度読むと、何らかの刺激が入ってこない限りカイロス的時間が発生しないのではと思われるので、展開された物語がさらなる刺激とならない限りは「無制限の没入」とはならないように思います。その点で、確かに「起こらない」とは言えません。

しかし、続く箇所を読むと、斎藤さんの言う「カイロス時間」は、どちらかと言えばやはりクロノス的時間の変動のうち、「時間が延びて感じる」方向を指しているように思えます。

「アニメや漫画が無時間を志向する、つまりクロノス時間を抑圧するやりかたには、ほかにもいくつかの形式がある。加齢を知らない『サザエさん』や『ドラえもん』などのように、ある設定の中で無時間的なストーリーが循環する場合。ありは『少年ジャンプ』などを経由してアニメが採用した「トーナメント形式」もまた、無限音響的な無時間である。際限なく強くなる敵の系列は、時間の経過を偽装しつつ、循環的無時間を導入するための手法に他ならない。この他アニメには「声優」という問題もある。例えば声優が、不老不死の存在であるということ。」

抑圧する→伸ばす、無時間→延長、と置き換えると違和感がなくなります。しかし、斎藤さんの記述にも、カイロス的時間の太字部分の定義に合致しそうなものがあります。

p.230

「例えば主人公の主観的葛藤を、せりふや説明によらずにコマ割りのみで表現しようとするとき、そこにはすでにカイロス時間が流れはじめている。」

主人公が何かを考えているときに、主人公の視点でコマを割っていくことでより豊かな情報を提供できるわけですが、それはまさに「仮の時間軸上で過去の認識をもとにして物語を展開する」ことなので、カイロス的時間と言って違和感がありません。


●PART1の暫定的な結論

漫画は各コマの大きさや形をある程度自在に変えることができます。従って、クロノス的時間の長さ感覚の変動(作者の意図した変動)を表すのは映画より得意かもしれません。カイロス的時間についても、漫画も映画も明らかなシーンの切り替わりを要しますが、「カイロス的時間の中で展開する物語」を描写する際に、やはり時間の感覚の変動を表そうとすれば、漫画の方が有利であろうと思われます(本当に短い方向;フラッシュバックは難しいですが)。

結論が「時間的感覚の変動を表すのに漫画が有利である」であるとすれば、特に中井さんの「カイロス的時間」「クロノス的時間」といった言葉を導入する必要は無いとおもわれます。Δが気になるのは「漫画の基調に流れる時間は”誰”のクロノス的時間なのか」ということなので、こっちの方向での話なら興味深いものがあると期待します。

また、これらを強く意識して描かれた漫画には、非常に面白いものがあるかもしれません。

2000/7/3


★PART2)中井さんの定義の拡張で斎藤さんの説明と整合?


●クロノス的時間を延び縮みしないものとしたなら

 前回では「斎藤さんの説明はどちらかというとクロノス的時間感覚の変動についてのものであるように見えます」としてみましたが、中井さんもクロノス的時間を「物理的」時間としているので、「クロノス的時間は、人間の感覚に従って延びたり縮んだりする様なものではありえない」のではないか?という疑問はΔにもあります。

そうすると、ここの読み方を

このようにすれば、「通常は一定のペースで刻まれ、壊れる場合もそれを前提とした壊れ方をする」時間として認識できます。


●「人はカイロス的時間を通してクロノス的時間にアクセスしている」と仮定

 中井さんの本では時間の長さの感覚の変動については特に記述がありません。さて、これをカイロス的時間で説明することができるでしょうか。太字部分の定義

「正常な状態の人はクロノス的時間に直接はアクセスせず、この上に展開したカイロス的時間へアクセスしている」

と”接ぎ木”してみます。感覚器に入った刺激がカイロス的時間の中で言語的な活動によって物語となった「意味」にアクセスしているとするのです。(何故このような仮定を置くかというと、何に付けても認識がなされる際にはそれなりに時間を消費している筈だから、時間の話をする際は必ずこれを組み込んだものでなければならないと考えるからです)

そうすると、斎藤さんが挙げた例については下記のように解釈できます。

1)「退屈な授業が永遠のように長く感じられる」

授業を聞く気にもならず、しかし自分の席に留まらざるを得ないため、教室の中にある机やクラスメートやらが言語活動による物語化の対象となるが、新たな「意味」は殆ど生まれて来ず、おなじみの物語化処理が何度もキャッシュの中でループする。

→従って長く感じる

2)「恋人と過ごす時間があっと言う間に過ぎる」

次から次と新たな「意味」が生まれ続け、言語活動がオーバーヒート気味になり、物語化処理のスキップが起きる

→従って短く感じる

 クロノス的時間が提供する一定のリズムが通常は上層のカイロス的時間に反映している訳ですが、上の例のようにカイロス的時間が「一種ハイパーな状態」に陥ると、クロノス的時間が見かけ上「抑圧」されているように見えます。この調子で他の例を見てみると、

  1. サザエさん状態・不死身の声優…クロノス的時間が周期的にリセット。つまりこれと同じ。
  2. 少年ジャンプのトーナメント状態…クロノス的時間が周期的に重複(…く、苦しいですね)。
  3. アストロ球団状態…結果を待つ緊張が言語活動を過剰にする。その結果新たな「意味」が、(本来は生まれない程の)非常に短い時間内でも生まれるようになる。

新たな「意味」が適度に生まれているうちはクロノス的時間のリズムが反映されますが、短い間に生まれすぎたり、逆にあまりにも生まれなかったりすると、反映されにくくなるように思われます。このような状態を引き起こすものを「カイロス的にハイパーな要因」と呼ぶことにします(<変な言葉で申し訳ありませんが、何度も後で出てきますので取り敢えずひとくくりにさせてください)

とはいえ、上の例のうちAとBでは、クロノス的時間の異常の原因をカイロス的時間に求めるのは難しいのではないかと思われます…。


●暗示

 と…思われるのですが、それでもアクロバットな説明をすることは可能です。

 もしAやBのような事を貴方が本当に体験することになったなら、「クロノス的時間のリズムがうまくカイロス的時間に反映されていない」ように感じることでしょう。

 ここで、クロノス的時間のリズムが反映されにくくなるのは、「タイクツ」「オーバーヒート」「結果を待つ緊張」のようなカイロス的にハイパーな要因があるときである…と、私たちの躯が知っているとすれば、上のAやBの様な状況にあっては、躯の方で「クロノス的時間のリズムが反映されていないからには、カイロス的にハイパーな要因が何処かにあるに違いない」としてしまうことがありえます。

 と、いうことは…。クロノス的時間が変になっているように見える技法は、カイロス的にハイパーな要因の存在を暗示するテクニックであることになります。


●時間の3層構造説

 ところが、この接ぎ木した説明だと、カイロス的時間が崩壊した急性分裂段階では、人は「意味」にアクセスできないために、素のクロノス的時間において「意味になる前の生の刺激」を受け取る羽目になってしまうことになります。

 しかしながら「意味」にアクセスできないのであれば、「着想はただちに言語化され行動化されねばらないという、ほとんど絶対的な要請」がある状態には成り得ないと思うのです。もはや「着想」すら成立しないでしょうから…。

 すると、急性分裂状態にて崩壊するのは、少なくとも「いつもの意味」は少なくともちゃんと生まれている世界の上で、さらに「新たな意味」が生まれるような言語活動が行われる時間であることになります。後者の方をカイロス的時間と呼ぶべきでしょう。

 こうなると、クロノス的時間を覆っているのはカイロス的時間ではなくなります。これらの間に1層追加した、次のような3層構造が必要でしょう。

○第1層:伸縮不能な「意味」が生じる前の物理的時間

○第2層:「いつもの意味」が受動的に生じ続ける時間(第1層を覆っている)

○第3層:「新たな意味」が生まれるような言語活動が行われるカイロス的時間

カイロス的時間において発生した「ハイパーな状態」が、クロノス的時間のリズムを狂わすように動くメカニズムは、2層のときと同様の説明でいけます。クロノス的時間が変になったような表現を見た人が、カイロス的に「ハイパーな状態」になっていると誤認してしまうという仮説もやはりありえます。

ところで、↑を良く眺めると、

「第1層は取り敢えず置いておいて、第2層の方をクロノス的時間、第3層をそのままカイロス的時間とすれば、中井さんの記述と斎藤さんの記述がきちんと整合するのでは?」

という疑問が出てきます。卵を見た人の「それは卵」と認識するまでの時間がだいたい決まっているとするなら、第2層は第1層のリズムを比較的良好に反映していて「基本的に延び縮みしない」としても問題はなさそうです。ですから、↑の疑問はもっともであり、かくして中井さんのカイロス的時間は斎藤さんのカイロス時間に、斎藤さんのクロノス時間は中井さんのクロノス的時間に整合することになります。この二つの時間に限れば接ぎ木した説明は必要ありません。

随分と回り道をしてきたように思えます。とはいえ、「クロノス的時間」であっても意識の作用を受けた時間であると見做し、意識の作用が生じる前の時間である第1層の後を若干遅れながら走ってきている第2層であり、その上に主体的な意識がムラっ気たっぷりに動くカイロス的時間の層があるとイメージするには、これくらいの回り道が必要であったと考えます。

もし、「時間」に関する中井さんの考え方と斎藤さんの考え方がこのように本当に整合するのであれば、この考え方を漫画の技法に使用したときの妥当性が次に検証されるべきです。

Ver.1●2000/07/05

Ver.2●2000/07/06

Ver.3●2000/07/07

Ver.4●2000/07/11


★PART3)漫画の技法を3層構造説に基づいて説明すると?


●モードチェンジ

再び「戦闘美少女の精神分析」に返って、222頁に始まる「無時間」の小項を読んでみると、斎藤さんは一つの作品中でクロノス時間からカイロス時間への「モードチェンジ」のテクニックについては、はっきりとは言及していないことが解ります。

p.229

「ここに述べた意味で、漫画・アニメに描かれた時間はカイロス的ということができるだろう。この技法を開発した『功績』は、やはり手塚治虫にあったと考えられる。手塚以前と手塚以後で、もっとも決定的に漫画を変質させたもの、それこそがカイロス時間の導入ではなかったか。例えば主人公の主観的葛藤を、せりふや説明によらず、コマ割りのみで表現しようとするとき、そこには既にカイロス時間が流れはじめている。

かくして講談から漫画、アニメに至るまで、わが国の大衆文化におけるカイロス時間の技術は、特異な基本文法として受け継がれてきた。この技法無くして、日本に置ける漫画の、あるいはアニメの突出した隆盛ぶりを理解することは難しい。

例えば最先端のアメリカンコミックすら、日本の漫画に比べれば決定的に遅いのである。この『遅さ』こそがアメ・コミの限界であり、どうしても映画を超えられない原因の一つになっている。」

ここは、二通りに解釈できます

1)一つの作品にどちらかの時間を採用する。日本の漫画はカイロス時間の作品が多く、アメコミはクロノス時間の作品が多い。両方の時間の混在はありえない。

2)一つの作品において、基調はクロノス時間である。日本の漫画の場合、頻繁にカイロス時間へのモードチェンジを行う。これをカイロス時間の導入と呼ぶ。

「速度」の記述からすれば、斎藤さんは1)を言いたいようにもみえますが、もしかしたらご自身の中に混乱もあるかもしれません。とりあえずどちらも受けられる線で行ってみましょう。

パート2で示した三層構造説における時間感覚の変動は次のように書くことが出来ます。

新たな「意味」が、能動的な言語活動により適度に生じている間は、第2層(クロノス時間)のペースが一定の割合で第3層(カイロス時間)に反映しているが、新たな「意味」が生じにくくなったり逆に大量に生じたり緊張によって言語活動の感度が上がって生じやすくなったりすると、第3層はこれらの影響を強く受け、第2層のペースとの割合が不定となってくる。

ハイパーな状態に移行しようがしまいがクロノス時間の記述を続けるのがアメコミで、常にカイロス時間を追っているため変動をもろに反映するのが日本の漫画…とすると1)に整合します。

第2層の第3層に反映する割り合いが一定のときはクロノス時間を追い、ハイパーな状態になったらカイロス時間を追うのが日本の漫画、本当に特別なとき以外は滅多に追わずそのままクロノス時間を追うのがアメコミ…とすると2)に整合します。


●速度

『速い』『遅い』についてはどうでしょうか。

p.230

「例えば最先端のアメリカンコミックすら、日本の漫画に比べれば決定的に遅いのである。この『遅さ』こそがアメ・コミの限界であり、どうしても映画を超えられない原因の一つになっている。

 作画が緻密すぎるため?たしかに『ヘヴィーメタル』のようなコミック作品では、写実画なみの細密さで書き込みがなされ、読み飛ばしがしにくい一面は否定できない。しかし日本にも荒木飛呂彦や原哲夫などのように、重厚な書き込みで他を圧倒する作家は少なくない。にもかかわらず、彼らの漫画は、アメ・コミと比較にならないほど『速い』。これはなぜだろうか。

 アメ・コミは基本的には映画の手法に忠実である。つまり、アメ・コミはクロノス時間を全面的に採用する。フレームごとの時間の流れはあくまでも均質であり、情緒的な引き延ばしや誇張は最小限にとどめられる。人物の主観は常にモノローグで記入されており、必要以上に読者の没入を要求しない。これに対して日本の漫画では、とりわけ手塚以降のカイロス時間の導入によって、一瞬の出来事を高密度に、しかしごく自然な手つきで描くという技法が一般化した。この表現技法はその後も発展的に受け継がれ、読者の主観的没入を強力に呼び込み、きわめて速い読解を可能にするべく洗練されてきた。」

もし、第2層の速度を遅めにとっている場合、技法的なモードチェンジを行わないのであれば、確かにその速度が保存され、ずっと遅いままになります。↑でなされている幾つかの仮定を受け入れれば、三層構造説で説明が成り立ちます。

Δが抱く疑問は、技法上のモードチェンジを行うとされる日本の漫画において、『遅さ』が目立つものについて取り上げず、『速さ』の方を強調する理由は何かということです。

(*アメコミには時間が均質でないものもある、という反論に対しては”日本の漫画の影響”を持ち出すものと予想されるので、非常に詳細な調査が必要になってしまいます。ですからここでは取り上げません。)


●説明の破綻

パート2で、苦しい説明をしたのを覚えていますでしょうか。ここの元部分を引用してみると、

p.229

「アニメや漫画が無時間を志向する、つまりクロノス時間を抑圧するやりかたには、ほかにもいくつかの形式がある。加齢を知らない『サザエさん』や『ドラえもん』などのように、ある設定の中で無時間的なストーリーが循環する場合。さるいは『少年ジャンプ』などを経由してアニメが採用した『トーナメント方式』の技法もまた、無限音階的な無時間である。際限なく強くなる敵の系列は、時間の経過を偽装しつつ、循環的無時間を導入するための手法にほかならない」

戻ってp.227

「もちろんイマジネール(想像的)なもの、すなわち想像や空想の領域は、ほんらい無時間的だ。例えば、そこでは死者が決して年をとらない。ただし、それはフロイトが想定した『無意識の無時間』とは、明らかに異質のものである。無意識はその本質において無時間的だが、想像界は正確には無時間性を志向するに過ぎないからだ。そう、想像においてはしばしば『体験の無限性』が志向され、特権的瞬間のむさぼりがおこる。」

『循環』は、パート2で示した三層構造説に上手く収まりません。収めようとして苦しい説明をしても、「2層目が循環して見える程カイロス的にハイパーな要因とは一体何なのか?」というところで、要因*が見あたらない場合には行き詰まってしまいます。

(*サイコスリラーにすればそのような要因を循環した時間を体験する作中人物の内に設定することができます)

さらにアクロバットな説明は、『体験の無限性』を志向して循環的無時間を導入している(まさに上の引用を繋げたもの)ので

そのような漫画においては、時間の主体が実は読者であり、2層目の循環を体験した読者は、カイロス的にハイパーな要因として自身の『体験の無限性』への欲求を見いだすのだ。

となりますが(そういう漫画も描けるでしょうが)、通常読者は「他人がでっくわした時間を追体験する」ことを期待しているので、作中の「他人の時間」にそのような要因が見いだせない場合には、単に「作品の成立のために必要とされているらしきもの」あるいは「大多数が要求している結果」として受けとる筈です。


●再び速度を考える

こうなると、『循環』を含めているからおかしいので、『循環』を除外すれば良いのか、といった疑問が出てきます。

ここでもう一度「速度」について考えてみます。読み手の時間の速さを、作中の人物のカイロス時間の速さに同調させるという前提で、読む手の時間のスピードを上げる技法とはどのようなものかを考える際には、「コマの中の、読み手の目を引く要素」がキーになると思われます。速く読めるためには

となりますが、一旦これ↑をはじめると、これ↑から外れるのが難しくなってきます。早く読めるようになったが最後、遅くはさせてもらえない訳です。そうなると、読む方の速い遅いはカイロス的時間の変動を表すことはできず、「常に速い」前提で表す必要性が出てきます。頁にしめるコマの位置と大きさ、人物の頁やコマに占める位置と大きさを変えられることは「常に速い」前提でもペースを変えられるということですし、コマとコマの間をどの程度はしょるか(あるいは)きっちり一つのコマとするかで密度を変えることができます。極端に短く、しかし密度を上げようと思えば、一つのコマに複数の時間を配置する(残像現象)こともできます。(*このあたり、荒木飛呂彦の”ジョジョの奇妙な冒険”を思い描いて下さい)

ここまで来て、「速く」なった事自体はカイロス的にハイパーな要因の反映ではないことがわかります。これは読む側の生理的欲求によるもので、その欲求は作中人物の時間とは直接関係がありません。実は、「遅く読ませる技法」によって登場人物のカイロス時間を読むスピードに反映させることも可能ですし、そのような漫画も日本にある筈ですが、斎藤さんのご主張からすればそのような漫画は少数派であるということになりますので、「読む側の速い遅い」は作中人物のカイロス時間の変動に反映されない(常に速いから)ということになり、斎藤さんのご主張と矛盾してしまいます。


●もっとシンプルな説明

『循環』に続いて『読める速度』も除外すれば、確かにパート2で示した三層構造説で説明できるかもしれません。

できるかもしれませんが、本htmlの目的である「用語を使用することの妥当性」についていえば、「妥当でなくもないが適切ではない」といったところでしょう。「タイクツしてるので時間が長く感じる」「オーバーヒート気味で時間が短く感じる」「結果を待つ緊張のために一瞬が永遠のように感じる」のも、それを漫画に表すに際しては、以下のように「時間の理論抜き」で組み上げることができるのです。

1)タイクツしている感じを出す

2)オーバーヒートしている感じを出す

3)重要な結果を待つ緊張感を出す

シーンの要求に従って必要な要素を入れていくと、「時間」を意識せずともこのようになるのです。まとめると

★漫画家は各場面の「シーンの意図*」に合わせて、コマの配分やレイアウトを変えることにより、適切なシーケンス**を組み上げることが出来る

*「シーンの意図」とは、各場面に要求される役割というかスペックみたいなもので、例えば「主人公の前に徐々に異様なものが出現する」「…の意外な告白に動揺する主人公」「一方そのころライバルのいるA市では」というように、ある程度パターン化できそうなものです。

**シーケンスとは、連続する(一連の)コマの組み合わせのことです。上の例で並べているのはシーケンスです。作中人物がどう感じているかを効果的に表すには、その作中人物寄りの印象を与えるシーケンスを挿入すると視点が切り替わったように見せることができます。あえてそのままで進むと「客観的」な印象を与えることができます。

漫画全体を高速で読ませる必要があるか、緩急を使い分けて良いか、ずうっと遅くてよいかは、掲載紙によって異なります(日本でも通常遅いペースで読ませ、局地的に速くなる漫画が普通である雑誌があるはずです)。ですから「速度」は上に含めてません。

「シーンの意図*」に合わせて適切なシーケンスを組み上げるとしているのは、「2種類の時間がある」のではなく、「シーンの意図」自体がいろいろなパターンを持っていて、さらに特定の「シーンの意図」に対し適切なシーケンスのパターンが複数存在する(上に挙げた例で、それぞれのシーンの意図に対し複数のシーケンスを挙げていることにご注意下さい)ことを主張したいがためのものです。クロノス時間とカイロス時間の2種類とすることで最も問題になってしまうのは、「シーンの意図」もシーケンスも、それぞれについて存在する異なった複数のパターンも、まとめて括られてしまうことです。

(作中人物寄りの印象を与えるシーケンスの挿入は、必ず「主観への移行」と読ませますが、逆に言えばそれはまさにそれだけのことです。)

 

これが適切であるとするなら、「手塚以降」導入されたのはカイロス時間ではなく、「シーンの意図*」に合わせて適切なシーケンスを組み上げることができること、すなわち

1)何をコマの枠外に隠し、何を残すか。何を大きく描き、何を小さく描くか。隠した上でも全体がつながって追えるようにすること。

2)作中人物の回想・想像・妄想をシーケンスとして挿入すること

でありましょう。

貴方がまだ幼く、ようやく漫画を読み初めた頃に

収まっていて、

でないと読めなかったことに思い至れば「漫画発生の時点で↑のような技法が存在することはありえない」事に、妥当な印象をもたれると思います。

「一部を隠しても読めること」の発見が、ターニングポイントだったのではないでしょうか。

そして一旦その発見がなされれば、各コマは著しく差異に富んだものとなり、それまでは殆ど意味を持たなかった「大きくしたり小さくしたりすること」「コマの配置を工夫すること」が非常に大きい効果を上げることに気づいたことでしょう。


●再度暫定的結論

本htmlでは斎藤さんの「…時間」をと別物として、切り放して捉えることはしていません。何故なら、もし関連が薄いものであれば、そのような名前を借用して来る理由が無い筈だからです。中井さんの時間についての記述にも「1層分の欠け」が感じられ、不完全なものと思われますが、それとこれとは別です。(精神医学の他の書籍で、「…時間」について別の説明がなされている可能性もまだあります。と、書いておいたら案の定、掲示板で中井さんの訳書にカイロス的時間についてかかれたものがある、との情報をいただきました。)

とはいえ、これまで↑の内容を見返せば、斎藤さんの「…時間」と中井さんの「…時間」を切り放して考えれば考えれるほど、異質なもの(伸縮、循環、速度)を少数のキーワードで説明しようとしていることになり、その理由を思い描きにくくなることが解ります。

その意味では、別物とせず捉える方がより破綻が少ないとは思えます。しかし、どうにも上手く説明出来ないもの(循環)がありますし、何とか説明できるものであっても、Δが上に挙げた考え方のほうが妥当なのではないでしょうか。

Ver.1●2000/07/09

Ver.2●2000/07/11

Ver.3●2000/07/22


★PART4)「カイロス的時間」記述がある中井さんの訳書が発見されて?


●エランベルジェ著作集2精神医療とその周辺 中井久夫編訳 みすず書房

掲示板で頂いた情報とは、こ↑の書籍に「カイロス的時間」を誰が最初にどのような意味で言い始めたかが書かれている、というものでした。

購入してみると、この本はエランベルジュという方の12の著作を集めたもので、その中の10番目として、「精神療法におけるカイロスの意味−理解と真の解釈の秋」という16頁の論文が載っていました。

「カイロス」という言葉の起源や変遷に直接関係のある箇所を抜粋してみましょう。

p.243

「”カイロス”ということばは哲学者と神学者が使ってきた。この場合もいくつかの違った語義で使われている。新約聖書においては、カイロスとは宗教的回心に適した秋(とき)のことを指すようだ。現代の神学においては、パウル。ティリッヒがこのことばに”成就の時”という意味を与えた。」

p.233

「”カイロス”ということばの意味は元来”正確な尺度””望んだとおりの比率””適切な場所””正確な充実度”そして特に”まさにしかるべき瞬間”であった。医学で主に使われたのはこの最後の意味である。ヒポクラテス文書は、重傷の疾患においては、患者の状態が悪化に向かうか軽快に向かうかの分かれ目の瞬間が存在すると教えている。短期間しか続かない症状がいくつも現れるが、熟練した医師はそれらを即座に何であるかと同定して、ただちに望ましい処置を講じなければならない。…中略… しかし私は、いつ、またどうして、医学の哲学からカイロスということばが消えたのかはまったく知らない。」

p.233(出だし)

「現代精神医学に”カイロス”の概念を導入したのはスイスの精神分析家アルトゥーア・キールホルツである。その論文は1956年に雑誌に掲載されたが、以後十年間ほとんど誰一人として気づく者もなくて過ぎた。ここにもう一人の精神分析家がいて、それはアメリカ人でハロルド・ケルマンといったが、この人がこの概念を再びとりあげ、1960年をてはじめに次から次へと論文を刊行して、この概念をふんだんにふりまいた。このことばは次に実存主義的精神科医に使われた。特にカリフォルニアにおいてであり、いくつもの違った意味で使われた結果、 大混乱が生じた。私がこの概念の正確な意味を明らかにしようという気になったのは、精神療法の観点からみたこの概念の射程を決定したかったからである。」

”精神医学では最初”である1956年のキールホルツ論文についてエランベルジュさんはこの↓ように要約しています。

p.234

「分裂病の診断のもとに精神病院に二度入院させられた後、この34歳の男性は両親の家で暮していた。気落ちし、やる気が出ず、エネルギーがない彼はひどく暗い考えを反すうして日を送っていた。そのようにして希望なき未来に直面していた。精神病患者は脳の手術をして直ることがあるという噂を聞きつけ、彼はキールホルツの診察室に現れて、自分にそういう手術をしてもらいたいと要求した。

キールホルツはこの申し出に耳を傾けて聞いてから、言葉少なにこう返事しただけであった。『親がかりになっていないで、もう一度働きなさい。やれそうにない、いや、やれないと思えても、だ。労働のおかげで、きみは自分自身への信頼を取り戻すだろう。きみはよい働き手だった。もう一度なること。』このことばを聞いた患者はその足で姉夫婦のところへ行った。義兄は園芸家で人手を求めていた。契約をその場でして、患者はその時から力を尽くして働くことにした。キールホルツがこの男性についての論文を刊行したときには六年来精神病症状を何一つ出していなかった。

キールホルツは、この患者との一度だけの面接のあまりの効果にわれながらびっくりした。それまでに何十人もの精神科医と心理士が会っていた。この人たちもキールホルツのと似たようなアドバイスをしていたけれでも、患者は全然従っていなかった。…中略… キールホルツの答えは結局、治療的に働いた主なものは”まさにしかるべき瞬間”に彼が働きかけをしたことだった。」

この後、エランベルジュさんはこの患者の方ご本人の自伝?を抜粋して検証し、キールホルツさんの見解を以下のように支持しています。

p.243

「しかしながら、この物語において第一の治療因子はなんといっても時間という要素である。つまり、キールホルツの介入は”まさにしかるべき時”に起こった。キールホルツは、患者がすでに同じ助言を何度となく受けており、それが稔らなかったことをはっきりと指摘しており、また、この言明には患者の物語るところによるたくさんの裏づけがある。」

このような「カイロス」の使われ方は、↑で書かれている古代医学での使い方とよく整合しているように見えますが、何故か直接それに言及した記述はありません。

精神医学に導入された「カイロス」が様々な意味に使われるようになっていったことについて、いくつか書かれていますが、↑の意味から段々離れていっているものについて挙げた箇所を抜粋すると、

p.244

「エルナ・ホッホ博士はカイロスの概念をサンスクリット語の”カーラ”kara(原義は”時間”)に近づけて考えている。ヒンドゥーの伝統は人生を4つの時期に分けている(学生期、家住期、林棲期、遊行期)。それぞれの時期ははっきりと分かれ、次の時期に移行することは生き方も考え方もまったく別の座標系に移るということである。この変化に従わない者は精神障害を起こす危険がある。」

p.245

「アメリカの精神科医カール・メニンガーは、”カイロス”の名を精神分析の過程で必ずやってくる特別な瞬間に与えるべきであると考えていた。これは退行の過程が自然に消滅し、正常に回帰する逆過程に道を譲る瞬間である。」

そして、あまりに離れた使いかたについて下記のように述べ、別の用語を使うことを勧めています。

同頁

「最近*、合衆国で行われた、ある精神医学シンポジウムにおいて、私はカイロスに関連した討論がバベルの塔的なはなはだしい混乱に陥るのをこの目で見た。ある実存主義的心理学者は、時間には2種類ある、クロノス(時計)的時間とカイロスとであると述べた。後者は人間の現存在の経過中に起こる決定的あるいは画期的瞬間の総体である。それは離乳の瞬間、入学の瞬間、ある職業を選んだ瞬間、結婚の瞬間などである。カリフォルニアのある実存主義的精神医学者はこれに輪を掛けて『人生全体が一個のカイロスである』と高らかに宣言した。ここまで一般化すると、このことばがいっさいの意味を失うのはいうまでもない。

このように考えると、医学、心理学、哲学の用語を改訂して、プラスの結果を得るためにある行動をしなければならない選ばれた瞬間や、人生において一期を画する瞬間の総体を指すには、それぞれにぴったりあてはまる(別の)用語を使うのがよいであろう。」

*この論文が書かれたのは1973年

ここで「おや?」と思います。この実存主義的心理学者の考え方は、「戦闘美少女の精神分析」での斎藤さんの考え方の一部に近いものがあります。一方で、中井さんが「分裂病」で書かれたものとはかなり異なっています(中井さんがエランベルジェ著作集2を訳されたのは1995年以降と思われますが、「分裂病」の上記抜粋箇所を書かれたのはそれよりずっと前の1974年です。中井さんが一体何をもとにしてこのように考えていたのか?という謎も残ります)

斎藤さんは、カイロス的時間とクロノス的時間の考え方について、中井さんより強い影響を、他の心理学者?達から受けているように見えます。そう考えるとパート1で述べた「ずれ」はかなり自然に感じられます(中井さんを引用したのは不適切であるとも言えますが)。

再びp.243

「新約聖書においては、カイロスとは宗教的回心に適した秋(とき)のことを指すようだ。現代の神学においては、パウル・ティリッヒがこのことばに”成就の時”という意味を与えた。おそらくティリッヒの影響によって、カイロスということばは、一部の実存主義的精神科医にふたたびとりあげられる光栄にあずかったのであろう。」

エランベルジェさんは明確には述べていませんが、精神医学に「カイロス」が導入されたために、神学的な意味として残っていた「カイロス」に何か精神医学的な補強(裏づけ?)がなされたように感じられたり、逆に精神医学上の「カイロス」に何か神学的な裏づけがなされたように感じられたりして、共振しながら「カイロス」の使われ方が膨張していったように思えます。


●原理的な問題

斎藤さんの「カイロス時間」「クロノス時間」を確定していく上では、上のような考え方を支持する心理学者達の著作についても情報が必要です。しかし、現段階でも以下のようなことは言えそうに思われます。

「カイロス」という「特別な時間」があるとしたとき、「特別」が拡張していくのは自然の成り行きのように思えます。「特別」であることをいうために、「特別」でない「クロノス的時間」が対置される言葉として導入され、しかしそのどちらも明瞭な定義を与えられなければ、それぞれの方が「特別」と考える時間を「カイロス」に入れたがったり、またどのような時間が「特別でない」のか解らなくなって「人生全体が一個のカイロスである」と考えたりする結果が避けられないように思えます。

斎藤さんも、日本の漫画で発明された(ことになっている)特定の表現形式を評価したい一心で、これらが「人間にとって特別な時間であるカイロスを表現している」ことにしたい誘惑にかられたのではないでしょうか。


●またまた暫定的な結論

そうなると、日本の漫画の特定の表現形式から逆に「斎藤カイロス時間」が定義されるような感じになってきます。つまり「カイロス」に精神医学上の意味があることを忘れて、単に「斎藤さんが特別な時間と考えるもの」くらいにしておけば、これはこれで有効ではないか?という指摘は掲示板でもあったように思います。

しかしながら、以下の点でΔは賛成できません。

  1. 「日本の漫画は『人間にとって特別な時間』を表現する技術を発達させた。たとえばこれこれのような漫画である」という記述から、『人間にとって特別な時間』を特定しようとするのは、(循環参照というか)不自然な状態に陥る可能性が高い。
  2. たった一つの用語(考え方)でこれこれこれこれを説明してしまおうとするのは無理がある。

定義が不明瞭な「特別な時間」など、そのもたらす結果を思えば”呪われている”に決まっています。何故そのような考え方をとらなければならないのでしょうか。

Ver.1●2000/07/29


Δ
TEXT'OOTH
FOR THE FURIES