[其ノ参]北海道上陸作戦('94.7/29〜8/7)

 日本は島国である。とある内地人が北海道を「島」と呼んでオレの顰蹙を買ったが、北海道は確かに「島」だし、本州も「島」だ。日本は日本列島という島しかない国なのだ。したがって、沖縄を外しているとはいえ、この島国の日本を全国制覇するには海を渡る必要がある。本州−九州は関門トンネルが通じている。四国はこの時点で海外だが、本四連絡橋が建設中。そして北海道は青函トンネルが開通してはいるものの、車は通れない。北海道が一番難所なのである。
 しかし実はワタシの実家は北海道なのである。帰省がてら北海道に帰れば手間はない。なーんてことで安易に北海道上陸作戦は計画されたのである。

 ともかく、北海道上陸の計画を立てよう。
 青函トンネルが完成してから、惜しいことに青函連絡船は廃止になっている。しかし下北あたりから出るカーフェリーは残っている。また、確か青函トンネルを抜けるカートレインがあるとか聞いたことがあるような気がしたのだが、見つけることができなかった。したがって、北海道への侵攻ルートは以下の選択肢が考えられる。

 千葉→大洗→カーフェリーで苫小牧
 千葉→青森→カーフェリーで函館

 ふつーに考えるとこの2ルートであるが、北海道をバイクで走り回るミツバチ族御用達のもう1ルートがあるのである。それは、

 千葉→新潟→カーフェリーで小樽

というルート。日本海航路は太平洋航路に比べて遙かに安いのである。但し新潟までの高速道路代はかかる。この3ルートを比較した当時のメモが残っていないので正確には分からないが、青森経由は高速代が高額、大洗経由はフェリー代が高く、新潟までの高速道路代を見込んでも、新潟→小樽の日本海航路が一番安かったのである。と、いうわけでまだぺーぺーの新米社員だったビンボー人は、迷わず日本海航路で行くことを決めたのであった。

 まあしかしいくら安いと言ったって、車のガス代・乗船賃があるので、単身飛行機でいくよりは高くなる。それじゃというわけで、ちょうど同郷のIが会社にいるので誘うと、即OK。これで高速代とガス代が半分になれば、飛行機よりも相当安くなる。

 そんなこんなで出発は'93年7月29日木曜日。当時ウチの会社は夏休みをお盆からずらして取ることができたのである。出発したのは午前10時頃。まずは柏まで行ってIを拾う。それから国道16号から常磐自動車道、首都高を経由して関越自動車道へ。当時外郭環状道路は関越まで開通していなかったのである。関越に乗ってからは、新潟の終点まで一直線である。経由するのは東京→埼玉→群馬→新潟である。長岡ジャンクションから北陸自動車道で新潟市へ向かう。
 関越自動車道はまだ前の車に乗っていた時に、スキーなんかでよく走った道なので、だいたい様子が分かっている。ちなみに前の車は始めて買った車で、乗り出し10万円のトヨタカリーナ・マイロード。そもそも学校の卒業年に北海道札幌市で教習所に通ったものの本試験までに間に合わず、免許の交付は東京の鮫洲免許試験場で受けている。冬期の札幌で教習を受けたので、高速実習もやらず原付も乗っていなかったりする。そのかわり仮免から雪道だけど。んで、東京に出てきて、友人が昔バイトしていた長野の車屋で、格安の中古マイロードを買ったのである。まあ、可も無し不可も無しの運転しやすい車であったが、車検を前に乗り換えを検討している最中にMINIに遭遇。試乗して一発で恋に落ちたのであった。
 乗って第一の印象は、「ブレーキが効かない。」試乗したMINIは赤いヤツだったが、まだドラムブレーキが付いていたのである。だもんで思いっきしブレーキをスコーンと踏んでも、すーっと走っていくのである。ちょっと怖かったね。でもきびきび動くのが面白かった。結局買ったこのMINIは88年式なので、当時で3年落ちで170万円。4年ローンでMINI丸山さんで買った。新車より高かったが、自分でドレスアップする気があまりなかったので、それなりに一式揃ったMINIにしたのである。んで、この当時は買って1年くらい。一番面白かった時なのである(今でも飽きてないけどね)。

 話がそれた。というか、もう10年も前のことなんで、ほとんど覚えていないのである。文章を水増ししているワケやね(笑)

 この日はとてもいい天気でぽかぽか陽気。関越自動車道も水上あたりを過ぎると空いてくる。当然眠い。はっと気がつくと、すーっと中央分離帯に近づいていたり、同乗のIがびっくりしたりしている。危ない危ない。関越自動車道は基点の練馬インターから終点の長岡ジャンクションまで246.2km。事故りかけた以外は記憶にない。

 長岡ジャンクションから北陸自動車道に乗り換えて、新潟を目指す。ここもなんということもなく新潟に到着。新潟は遠そうな気がするが、実際には300kmちょいで、道さえ空いていればそんなに時間はかからない。所要時間はおそらく5時間くらいだったと思う。車をすっ飛ばせば3時間と言われている。
 新潟港がどんなだったのかは覚えていない。フェリーは確か予約して行ったはずである。心配だったのが、フェリーの中。ウチのMINIは10インチタイヤをはいているので(おそらく赤帽のトラックのタイヤが13インチ。正規のMINIは13インチである)車高が、というかロード・クリアランスが低い。なんたってそのせいで立体駐車場に入れられないし、後輪にロックがかかるタイプの無人駐車場にも停められないのだ。歩道から車道へ出る時の小さな坂を越えようとすると底をする難儀な車である。フェリー乗り場の段差、フェリーの中の駐車場の様子によっては、新潟くんだりまで来てそのままお帰りになるかも、という心配があった。事前に船会社に聞いた所では、フェリー内はOKだが、乗下船の時に段差があると言っていた。多少びびってはいたが、そろそろとフェリーに乗り入れると、無事に乗り込むことができた。だいぶ早く着いたので、かなり前の方である。
 フェリーの中はただの平らな駐車場で、それに輪止めをかますだけであった。まあ、ひと安心。あとは沈まなきゃいいや。

 さてそんなわけでフェリーである。おそらく新日本海フェリーだったと思う。現在の時刻表で調べると、朝10時30分に新潟港を出発して、次の日の朝4時に着く便しかない。そうだっけなあ? 確か夕方4時か5時くらいの出発だったと思う。
でないと朝出発して午前中に新潟に着いたとは思えない。

 さてフェリーである。お金がないので当然2等旅客である。2等旅客は集合部屋というが、ただのだだっ広いカーペットの大部屋に雑魚寝するだけである。奥の方のよさそうな場所をキープする。回りはなんだかお金のなさそうなビンボー人ばかりである(嘘)。んで、小樽まで18時間である。一口に18時間とはいうが、船室に押し込められての18時間は、はっきり言って苦痛である。やっぱお金のある人は飛行機に乗って、現地でレンタカーを借りた方がよい。しかしワタシの場合は、このMINIで行くことに意義があるのである。たとえ飛行機より金がかろうとも。

 てなわけで船上の暇つぶしアイテムは、バックギャモンである。なぜかこの当時バックギャモンがマイブームだったのだ。それをIに無理矢理教えて「一時の娯楽に供する」程度のモノを賭けて、往路延々ゲームを続けていたのであった。飽きると船上に出てみてもしたが、風が強くていまいち。日が落ちると寒くなるし、で、結局船内でバックギャモンをやるか、ひっくりかえって寝てるか、本を読んでるかくらいなのである。ちなみにシャワーくらいはあったような気がしないでもない。
 寝て起きてだらだらして飽きが来まくった頃、船内アナウンスがあって、北海道が見えてくる。この日は'93年の7月30日であるが、この18日前、7月12日に北海道南西沖地震で奥尻島が壊滅状態になっている。その奥尻島も見えたと思う。ただし町の様子はほとんど分からなかったが。

 小樽港が近づくと、「車で来てるやつぁ全員車に乗り込みやがれ、この貧乏人ども!」てなアナウンスが流れ、ぞろぞろと薄暗い貨物室に押し込められる。接岸したゴーンという低い音、エンジンが止まる音に続いて、ハッチが開き、陽光が差し込む。カーフェリーは始めてだったが、船の後ろから乗り込み、出るときは前から出るのである。なるほど合理的。調子に乗ってぶいんと下船すると、段差で底をすった。ありゃりゃ。

 小樽港から国道5号線を走って札幌へ。その途中、源義経の墓という看板が(笑)
 兄の源頼朝に追われた義経は、青森は下北半島の先まで落ち延び、津軽海峡に阻まれる。対岸の北海道は見えるのに、為すすべがない。そこに竜が忽然と現れ、義経を乗せて海峡を渡ったという。だから下北半島の突端は竜飛岬というのである。北海道に渡った源義経は、カラフト経由で大陸に渡り、モンゴルで成吉思汗(ジンギスカン/チンギス・ハン)と名乗ったのは周知の通りである。もちろんその名前は、北海道で食べた羊肉料理がとても美味しかったので、それを名に付けたのである。
 なんてバカな話はともかく、義経の墓は日本中にあるのである。日本にはキリストの墓まであるのだから、何があっても不思議じゃないけどね。

 んで、札幌到着。札幌駅でIを降ろして、その日は札幌で友人と久しぶりに遊ぶ。
 どこに泊まったかも覚えていないが、きっとすすきので飲んだくれていたのであろう。

'93年8月1日

 朝出発。今日は旭川へ向かう。たしかこの当時道央自動車道が札幌から旭川まで開通して間がない頃なのだが、高速を使っても下の道を使っても時間は大して変わらない。熊の方が多いと言われるゆえんであるが、そんなわけで、往路は下道で行くことにする。札幌から旭川へは国道12号線が走っていて、それに沿って走るだけで旭川につく。03年度現在ワタシの実家は引っ越しているが、当時の実家は国道12号線沿いにあったので、本当にそのまままっすぐで家に帰ることができる。この道は、ほとんど同じコースを鉄道も走っているので、何度も電車で往復しているので、そんなに珍しい景色はない。というか、北海道の景色は、道東へでも行かなければ、そんなに代わり映えがしないのである。まあ、道外の人が見るとまた違うのかもしらんが。
 そんなわけで国道12号線に乗ってちんたらちんたら走る。ちんたらとはいえ北海道の道は都市部を除けば渋滞知らず。道も広いのでかなりトバせる。岩見沢、滝川、深川と過ぎて、石狩川と平行に走り出すようになると、もうここらはワタシの生活圏内である。神居古潭、伊納と小学校時代の遊び場所を横目で見て、実家あたりからもよく見える東海大学の赤いとんがり屋根を過ぎ、サンバレースキー場(現在はサンタプレゼントパーク)を通り抜ければもうすぐ近く。旭川大橋をわたって、在籍していた旭川市立聖園中学校を抜けて、もう少し走って到着。
所要時間3時間。とーちゃくー。

 んで、旭川にいた間は、入院していたじーちゃんのお見舞いに行ったりなんかしていたはずである。このじーちゃんは90歳を過ぎてすっころび、頭蓋骨陥没の大けがを負ったにもかかわらず、元気に病院内を飛び回っていたのである。すげえ。
 今はもう亡くなっているけどね。南無南無。
 あと、家の前で洗車していると、道行くおばさんに声を掛けられたりしたような気がする。雪が降る北海道ではこのテの車はあんまり走っていないのだ。それとも習志野ナンバーが珍しかったのかな? 寮の前でも洗車してたらおばさんに「ウチの息子が欲しがってるのよね〜」と声を掛けられたことがあるが、「よく壊れますよ」と言っておいた(笑)

 どうも当時の手帳によると、8/1,2の2日間だけ旭川にいて、8/3にはもう札幌へ戻っているようだ。なんとも慌ただしい帰省である。

 8/3の復路は昼過ぎに出発したはずだが、同じ道を帰ってもしょうがないので、高速道路を使ってみることにする。先ほど書いたように、下を使っても札幌までの所要時間は殆ど変わらない。意味がないっちゃないのだ。鷹栖インターから道央自動車道に乗り込む。初めて道央自動車道に乗るが、片側1車線であった。萎え萎えである。対向車との境界はオレンジ色のポールが立っているだけで、中央分離帯はない。まあ、後に北陸なんぞに行くと、対向道路との境になんにもない自動車道なんてざらにあったし、それよりはマシなのかもしれない。
 まあ、それはたいしたことなかったし、新しいだけに道もよかったのはいいのだが、いかんせん、前のサニートラックが60kmくらいしか出していないのだ。片側1車線で追い越し車線があるわけでなし、てこてこ走るトラックを後ろをじーっと走るだけなのである。これだったら下道の方が早くないか?
 このトラックは美唄だかどっかでいなくなったので、その後は快適なドライブではあった。ぽかぽか陽気に前にも後ろにも車はいないし、たまにすっ飛ばしてくる車はパスして行かせて、往路とほとんど変わらない3時間かけて札幌インターに到着。もう2度と乗ることはないだろうとその時思ったが、やっぱりそれ以来乗ったことがない。

 8/3〜5は札幌で遊ぶ。何してたかなあ・・・? まあ、ススキノ通いだとは思うが。
 そんで8/6にIを拾って、小樽からフェリーで新潟へ戻り、関越自動車道で帰る。
 が、往路の様子はまだかすかながらに覚えているが、復路のことはきれいさっぱり覚えていない。おそらく大した事件もなかったのだろう。8/7に柏に帰着。

 なんてことで、他の人がわざわざ北海道まで車を運んで乗り込んだならば、当然大自然に囲まれた快適な国道をひた走る風景を書き連ねるのであろうが、こちとらただの帰省なのである。牛がいようが水平線まで車がなかろうが、別に珍しいこっちゃないのである。
つーことで、日本周回MINIの旅・北海道上陸作戦はこれにて一巻のおしまいっ!


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