「鼓煙陣図」について


 鼓煙陣図の原型は中国の戦国時代までさかのぼれる。南方の小国である舛(せん)は燧烽(のろし台)の扱いに長け、各地からの戦況を軍議で検討するために「煙陣図」と呼ばれる特殊な記録法が用いられた。舛の通信技術は、「千里も傍らの如し」(李永伝)と評されるほどで、直接戦地に将が赴かなくとも、迅速に兵が動いたとも言われている。戦国時代後期になると小国である舛は滅亡、舛の通信技術は各国に流出し、煙陣図は高度な通信技術として定着する。特に西方の小国では、その複雑な地形のため目視による戦況の把握が難しく、効率的に情報を管理できる煙陣図が重要視された。主に軍鼓と燧烽が用いられたため、この頃から「鼓煙陣図」の名が用いられ始めたようである。

 秦統一後は、その記録法の複雑さゆえ、鼓煙陣図は実戦では用いられなくなったが、唐代では宮中の遊技として行われた事が岨啓伝にみられる。順帝の頃、各宮殿に配置された将軍や軍師が、伝令を用いて兵法を競い合い、それを随時記録した鼓煙陣図を帝が観戦した。この頃には現在とほぼ変わらない遊技形態であったようである。その後、民間の知識階級にも広がり、清代には最も盛んに行われた。


 日本へは平安時代後期には韓国を経て伝えられており、やはり宮中の遊技として盛んに行われた。江戸時代からは民間にも広まり、「富くじと鼓図は親泣かせ」(六方雑記)と揶揄されるほどであった。使用される通信手段も伝馬、飛脚、伝書鳩、電信などと変遷し、特に電信を用いた明治時代にはその隆盛を極めた。現在、名対局として伝えられるものが、明治期に集中しているのはそのためである。


 このゲームの特徴としては、対戦希望者は対戦中であるなら、何人でも、いつからでも参加できる点と、対戦者が一カ所に集まる必要も無いため、遠方からも居ながらにして参加できる点が挙げられる。この二点の特徴が如実に現れたのが、中国で1973年に行われた金杯戦である。このタイトル戦は、国内外から記録上最も多い1,509人もの参加者を数え、電信を用いたものの開始から決着まで5年と2ヶ月かかった熱戦となった。1982年に曹屈山が勝者に決定したが、20年前に引退していた屈山の顔はほとんどの参加者が知らなかった。そのため、すべての参加者が屈山の顔を知ったのは2年後の1984年だったが、すでに高齢だった屈山は1983年の時点ですでにこの世の人ではなくなっていたのである。


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