流山八部衆
原一門
(1970年代頃)

 五岳興の名手である原良和は、七人の弟子と共にその卓越した技術で活躍し、一門の人間でタイトルを独占するなど一時代を築いた。原一門に特徴的なのは、原直伝の驚異的なまでの読みと跳ねの技術で、その繊細さは八人全員が超人的な域まで達していたといわれている。千葉県流山にある原の自宅では毎夜原からの徹底的な指導がなされていたようで、一門の人間以外は一切立ち入ることは許されなかった。

原 良和(1910〜1988)
 復員してきてから戦後の闇打ちで名を挙げ、協会設立後のプロリーグには初年から参加した最古参の一人。当初はそれほどの成績は残さなかったが、一番弟子の森下が入門してからは読みと跳ねの技術に磨きがかかり、1980年には最年長で壺王になるなど年を経る毎に強さが増していった。

森下 洋平(1929〜)
 原一門の一番弟子。原の技術に加え、身長を生かした上展開は数多くの名勝負を生み出した。

神崎 肇(1930〜)
 二番弟子。生来の気性の荒さと原の技術が融合し、多くの勝負師からやりずらい相手として名を挙げられている。得意の向こう越しは、未だ負け知らず。

松田 義男(1920〜1977)
 三番弟子。勝負師としては遅咲きで、五岳興と出会ったのも30半ばになってから。原に師事してから急成長し、アマで3連覇後の翌年、年齢制限間際でプロになり、原一門の中では名人位を含めて最多数のタイトルを保持した。原の技術を最も忠実に拾得しており、「影武者」とも言われていたが、若くして病に倒れ急死。松田の死に衝撃をうけた原は一年間対局を行わなかったほどだった。

森 一夫(1930〜)
 四番弟子。神崎とは同期で、プロ二年目までは師匠にはついていなかったが、神崎の薦めにより原に師事。格上に対しては異常なほどの執念を見せ、何度も対局時間の最長記録を更新したほどだった。

村田 団三(1942〜)
 五番弟子。差込のタイミングには右に出る者がおらず、原も「一門で最も上手い」と高く評価していたが、好不調の波が激しいため、現在までタイトルに恵まれていない。

吉岡 幸利(1944〜)
 六番弟子。原一門で最年少。梶原名人との初対局で千衆を迎えるなど、勝負度胸には定評がある。

田村 涼州(1940〜)
 七番弟子。最も繊細な唐面を打つ。原、松田亡き後の後継者として目されており、その精緻な事の運びは他の弟子からは抜きんでている。

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