匕首を持った餓狼
金木 厳辰
(1868〜1935)

 明治後期から昭和にかけて、数多くの流派が生まれては消えていったが、金木が立ち上げた「心匕流」はその凶暴性から最も忌み嫌われた流派だった。金木は青春期を駝文樹にささげ、関東では名の知れた勝負師の一人であったが、勝負のあり方に疑問を持ち三十路を目前に関東を離れた。その後、二十年に渡る古武術の修行を経て、相手の命を奪いかねない攻撃的な駝文樹の技を体系化する。それこそが「心匕流」であった。

 元々精神的な負担の大きい駝文樹は、競技者が体調を崩したり、精神に痛手を負うことが多々あった。しかし金木と対戦した相手は確実に勝負師生命を絶たれ、時にはその命さえも奪われたという。当時の武道の手合いは「死合」と称し、簡単に言うと殺し合いを行っていたが、そのスタイルを駝文樹にも持ち込んだものと思われる。そのような危険な勝負を続ければ、当然対戦相手はいなくなり心匕流は孤立する一方だった。そこで金木は、史上初めて古武術の武道家との勝負を行うことになる。四肢対言葉の壮絶な戦いは筆舌に尽くしがたいものだったが、結果は金木の勝利に終わったという。その評判により一時は門下生も増えたが、無言流の神谷頼象に挑戦を受けた金木が、無傷のまま敗退すると心匕流は急激に衰退、金木の死後には完全に廃れてしまった。

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