太平后
吉田 良子
(1904〜1990)

 戦後初の女流勝負師。プロとしての活躍は僅か1年だが、黥布の強さは男の中に混ざっても歴史を通じて五本の指に入ると言われている。しかし、歴史に残る女性勝負師の誕生には、政治的な思惑が大きく関わっていた。

 良子はアマチュアとして活躍していたわけでもなければ、高名な師匠に就いていたわけでもない。プロになった年も50歳を過ぎていて、プロ試験に合格したわけでもなかった。ではなぜプロになれたのかというと、当時の協会理事であった衆議院議員米原長次の強力な推薦によってであった。総選挙を翌年に控えた米原は、婦人票を獲得するために戦後初の女性勝負師を誕生させることを画策した。しかし当時は混沌界はまったくの男社会で、女性で混沌之庭をする者などまったくいない。そこで米原が思い立ったのが友人で大蔵官僚だった吉田赳夫の夫人、吉田良子であった。良子は皇族の流れを汲むという財閥の娘で、幼少の頃から上流階級の遊びの一つであった黥布之夢を習い、結婚後も婦人方を相手に毎日のように黥布を行っていた。しかしあくまで遊びとしてたしなむ程度であった良子がプロになるとは、あまりに無謀で、プロ勝負師達にとっては気分のいいものではなかったに違いない。推薦者の米原も、良子がプロに通用するなどとは全く考えてはおらず、選挙が終わるまでに数回記念対局を行わせて引退させる心づもりであったのだろう。しかし米原の強力な助力によってプロになった良子は、予想外の連勝を重ね、八百長ではないかとの悪い噂が立つほどにその強さは業界に衝撃を与えた。

 しかしながら良子がプロになって約一年が経過し、タイトル挑戦の話が現実化した頃、米原を始め多くの反対を押し切って突然良子は引退してしまった。その理由は定かではないが、男社会で活躍する良子に多くの婦人団体が協力を求めた際、「これではお琴のお稽古に行けなくなってしまうわね」と言って引退を決意したと言われている。

 現在でも吉田良子の研究を行う者は絶えないが、未だその強さは解明されておらず、研究者は誰しも「なぜこれで勝てるのか」と首を傾げるほどである。

戻る