にほんのことば
長屋亭
(1872〜1940)

 明治の中頃、陸軍大尉吉永惣児によって日本に紹介された駝文樹は、混沌界に多くの言葉のプロ(文人、講談師、書家、歌人、俳人など)を引き込み、僅か数年で黥布之夢や五岳興と並ぶ、混沌之庭の定番となった。その最も初期を支えた勝負師が、元々落語家であった長屋亭である。

 長屋亭は、駝文樹が日本に紹介される数年前まで「戸菊屋蔵八」の名で高座にも上がっていたが、現在で言うところの創作落語があまりにスジが滅茶苦茶であったため、ついには高座に上げてもらえなくなってしまった。とはいえ、武田信玄が大蛸と決闘し、やがて友情を深めたり、カサブタをめくったら日本ごと裏返ってしまうという落語は、少なからず愛好家がいたようで、戸菊屋を自ら破門されてからはその変わった愛好家達に呼ばれては、少人数相手に落語を続けていた。その頃から「長屋亭」の名を使っていたようである。やがて駝文樹の人気が出始めると、長屋亭も勧められて駝文樹に身を投じる。日本における初期の駝文樹は手探り状態で、当然棋譜も中国語のものしか無く、しばらくは漢文による勝負しか行われなかった。しかし長屋亭は落語の言葉を駝文樹に持ち込み、観戦者まで勝負に巻き込む特徴的な対戦法を確立、連戦連勝によって見せ物としての駝文樹対戦を日本に定着させた。

 しかし前述した通り言葉のプロ達が大挙して駝文樹に参戦したために、その対戦方法は雨後の竹の子の如くに数多く研究され、長屋亭の戦法はそれらに埋もれてしまった。そのため長屋亭の全盛期は短く、僅か二年ほど歴史に名を残すのみであった。その後の長屋亭は勝負の世界からは身を退き、混沌之庭の興業主として活躍、さらには映画の脚本や小説など多彩な才能を発揮し、混沌界以外にも名を残している。

戻る