百万石攻め
鏡山入道
(1779〜1838)

 江戸時代初期、混沌之庭は庶民の間に広がり、中期にはその競技人口は数倍になったと考えられている。そして、盤面によって多少違いがあるものの、江戸後期にはそのほとんどが流行の最盛期を迎えこととなる。黥布之夢に限定すると、有名な荻窪の谷争いを契機に急激に増えた黥布各流派を、一堂に会させるために素封家多治見屋惣八が深川に「天離館」を建てたのが享和2年(1802年)。それからの二十年間が、黥布之夢が最も流行した期間だと言われている。上野山の好事者、村野井遊奴が「黥布石高図」を流布させるに至っては、すっかり江戸庶民の楽しみとなっていた。「黥布石高図」は江戸各流派の実力を石高として評価したもので地図のように色分けされており、一目で各流派の実力を見分けらるものだったが、その石高図で最も多くの石高を占め、加賀百万石に比されて「加賀奥井」と呼ばれたのが奥井全至流である。

 連歌師奥井潤圭を始祖とする奥井全至流は、二代目奥井登圭の代で門人数百人を誇り、師範に保科刀路、木根屋喜助、貫田小三郎などの実力者を要して、天離館でも奥井全至流のために別の間が用意されるほどであった。名を上げたい我流の勝負師達はこぞって奥井全至流の門を叩き、剣客宜しく道場破りを挑んだが返り討ちに合うこと必至で、数年の内に道場破りは激減、まれに事情を知らぬ地方の勝負師が門をくぐり、井の中の蛙とは自分のことだと知るばかりだったという。陸奥から出てきたというこの巨躯の僧侶が奥井邸を訪ねた時も、門人は他の道場破りのように、この大男が背を丸めて足重く帰っていく姿を想像していたに違いない。しかし奥井登圭はその僧侶が鏡山入道と名乗るや師範達を奥井邸に集めさせ、我流の道場破りとしては異例の本陣戦にて勝負を決することにした。本陣戦とは奥井全至流独自の、本来名の知れた流派の実力者に対してしか用いない対戦方法で、挑戦者は奥井全至流の5人の師範に連勝して始めて奥井登圭と対戦できるという、いわば守るに有利の必勝の対戦方法だった(この対戦法こそが道場破りを激減せしめた最大の要因であるとも言われている)。道場破りの鏡山入道にとってはかなり不利な対戦方法であったが、自らの実力を認めてもらった事に礼を言うや諸肌を脱いで先鋒に相対した。

 鏡山入道は姿形のままの荒々しい打ち回しであったが、その力業をどの師範も押さえ込むことができず、最後の砦であった保科さえもねじ伏せて、遂に奥井登圭との対戦まで到達した。しかし5人との対戦を休みなく丸一日行った鏡山入道は疲労困憊。登圭に対して北寄りを掴まんとした一手を最後に、盤面に突っ伏したまま大いびきで寝込んでしまった。これにより登圭の勝利となったわけだが、その強さを評価した登圭は鏡山入道を厚くもてなし、連日酒席を設けるうちに居心地がよくなったのか、結局鏡山入道は奥井全至流の食客に納まってしまった。その後奥井全至流を正式に学び、奥井登圭が若くして亡くなると早々に隠居して、幼い三代目の奥井先圭の教育係として後年を送った。剛胆な気性からは想像できないが、教授の才は異能であったらしく、混沌はもちろん諸学に通じる奥井先圭を作り上げたのは、鏡山入道の教育あってこそと高く評価されている。しかし不思議と仏法は一切教えなかったという。

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