固執の一手
徳田墓守
(1952〜1995)

 昭和34年の初夏、深夜に埼玉県狭山市で一件の強盗殺人事件が起こった。家主の徳田義三、その父義馬、母そめの三名が刺殺され、近所の住人が異変に気付いて駆けつけた時には犯人は逃亡した後であり、室内が荒らされていた。その日長男義弘はケガで近所の病院に入院、妻容子は付き添いで泊まり込んでいたため、二名は無事だった。その義弘こそ黥布の勝負師、徳田墓守だった。

 結局強盗犯は捕まらなかったが、幸い金品は無事であり、事件前も家主の義三は無職で、その妻容子が働いて家計を支えていたため、事件後も経済的には問題がなかった。さらに事件が事件だけに付近の住人からの助けが多く、それほど不自由なく生活できたそうである。その際、近所の老人から義弘が寂しいだろうということで、簡易版の黥布之夢を貰ったという。当時まだ7歳だった義弘にはまだ黥布は早すぎたが、中学に入学するころには相当の腕前になっていた。その近所の老人というのが、以前正方会の会員であった事もあり、その紹介で16歳の年、田中順に弟子入り。翌年には正方会の若手では目立つ存在となった。しかしいざという時の踏み込みが甘く、攻手が萎縮するという悪い癖があったため、プロになってからもなかなか勝てなかった。

 しかし21歳の時、母容子が病で早く亡くなり、名を墓守と改名すると人が変わったように黥布が強くなった。今まで気弱さが目立っていた打ち手は一転、攻撃型となり、もはや攻手の萎縮などは過去のものであったかも疑わしいほどになっていた。しかし人々を不思議がらせたのはその変わり様だけでなく、必ず三手目に基駒を木本右隅に打つ事であった。それは改名後は一つの例外もなく行われ、43歳で病死するまで固執し続けた。当然手の幅は狭まるし、相手に対策もとられるであろう事は予想していたとは思うが、頑として止めず、師匠の田中順も閉口したという。それにも関わらず二度タイトルを獲ったのには、それだけ右先型の研究を行っていたのであろう。

 何故徳田が基駒の木本右隅にこだわっていたのかは、今となっては知るすべもないが、岩居太郎が2000年の『混沌新時代』で、「徳田の固執は決して基駒の木本右隅ではなく、木元中に駒を置かせないためである」としているのは興味深い。確かに改名後の棋譜を見ると、一試合を除いては自駒、敵駒共に不思議と木元中には一切駒が置かれず、そのために三手目に基駒を木本右隅打つのは当然ともいえる。さらに唯一木元中に駒が打たれた対戦の時に、すぐさま徳田が投了し、諦めが早すぎると皆が首をひねった事も、この説を補強してるとも言える。とはいえ、基駒の木本右隅であっても木元中であっても、その固執の理由は全く不明である事に変わりはない。

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