鬼神
国洲屋番頭某
(なにがし)
(安土桃山時代)

 
 戦国時代後期から江戸時代初頭にかけて、混沌之庭の中心地は堺だった。当時名を馳せた豪商達の間で流行し、十六法師と呼ばれた面々を中心に、茶の湯に次ぐ文化の中心となっていた。

 熊野井洞斎を筆頭にした十六法師は、全て大だなの主であり、混沌にかけた金銀の量は相当なものであったと言われている。それだけに混沌の実力も破格で、その16人以外でまともに勝負できる相手がいなかったため、わざわざ大陸から勝負師を呼び寄せたりもしていたが、彼らを満足させるには至らなかったという。しかし、そんな彼ら全員に黒星を付けた男が存在した。それが国洲屋番頭某(なにがし)である。

 説明するまでもないが。某とは名前が不詳であることを示しており、国洲屋の番頭である誰それ、という意味だが、そんな名も知らぬ男が、十六法師各々が記した混沌日記に尽く登場し、恐ろしいほどの強さを持って勝負を決めていく。間違いなく当時の日本混沌界の最高峰であった16人が、口を揃えて「鬼神のよう」と例えた国洲屋番頭某とは一体何者であるかというのは、現在も論争の種となっている。

 国洲屋番頭某は十六法師の一人、三島典膳の混沌日記「理雑記」に登場して以来、約2年の内に十六法師全員と対戦し勝利を収めている。国洲屋の番頭で、恐ろしいほどの強さを誇るという事以外、ほとんど謎に包まれているのは、十六法師の混沌日記以外には巷間の噂や評判程度にしか登場しないからであった。そこで生まれてくるのが、国洲屋番頭某という勝負師は実在せず、十六法師の創作であった、という説である。その説の中心的な根拠となっているのは、まず十六法師全員の混沌日記に登場しているのにも関わらず、名前が未詳であるという点である。本人が敢えて名乗らなかったとも考えられるが、初登場した「理雑記」の記述に「名を忘れしが、国洲屋番頭某という者…」とある所から、本人が隠していたとは考えられず、偶然全員が名を忘れたとすれば不自然さは拭えない。当時あまりに強かった十六法師が、架空の無名勝負師を作り上げて負けることにより、十六法師に挑もうとする気持ちを盛り上げ、混沌の裾野を広げようとしていたという説が、実在否定派の主流である。実際、国洲屋番頭某登場以降、混沌人気は再加熱をみせ、盤面販売や関係書籍の出版も行っていた十六法師達は新たな土蔵を構えたと言われている。

 しかし国洲屋番頭某実在説も数多く存在する。資料に残っていた、休泉寺の門前に「とがきまし」(砂糖菓子のような物)を販売していた国洲屋の存在がその根拠となっているが、その実像については諸説様々である。ある説では昆人流の始祖である綿貫刀尽であり、ある説では宮廷混沌の流れをくむ者、中には伊賀の乱波であったという説まであるが、どれも決め手に欠けていた。しかし最近、神戸の古書店が買い取った「卯月談」に、堺の勝負師、番頭五平という者が記されているのが発見され、これから益々論争に拍車がかかるものと思われる。

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