対戦時間33年6ヶ月17日5時間23分24秒 
第一回中富港開港記念杯

 時間制限のない対戦の場合、その対戦が数日に渡る場合もあるが、勝負師達の体力の限界もあり一週間を越えるような対戦はほとんど記録されていない。しかし混沌之庭史上最も長い対戦として記録されている黥布之夢第一回中富港開港記念杯は、その対戦時間33年6ヶ月17日5時間23分24秒と、常識的に考えて信じがたいものである。しかし当然の事ながら33年間半もの間対戦を続けていたわけではなく、約一時間半を除いたほとんどの時間対戦が中断されていたためにこのような記録が残ってしまった。

 昭和10年、東南アジアを視野に入れた貿易港として開港した中富港。その開港記念企画として海軍主催で行われた第一回中富港開港記念杯は、当時関西で初の十軍獲得を果たした神波惣史郎八段と、かつて朝鮮で二冠王となったことのある梁高仁によって行われた。双方とも実力は折り紙付きで、記念対戦として大変注目されるものであった。とはいえ、梁高仁はこの20年前に持病が悪化して朝鮮混沌界を引退しており、その後日本軍の朝鮮半島占領によって息子夫婦と共に強制移住させられてからは、59歳になる当時まで全くといっていいほど混沌之庭に触れる機会などなかった。それにひきかえ神波惣史郎八段は若くしてその実力は五本の指に入る強豪。日本人である神波が、朝鮮人である梁に勝利するのは誰でも予想できるものであり、主催者の思惑も同じものであったのであろう。しかし始まってみると意外な展開になった。

 会場を軍人を含んだ日本人達が埋め尽くす中、梁は神波の攻撃を見事に受け流し、決定打を打たせない。それどころか徐々に陣地を広げ続け、一時間を過ぎる頃には誰が見ても勝利確実という展開になった。そうなると会場の雰囲気は尋常ではない。日本人が占領下の朝鮮人に負ける事など認めないとばかりに、会場からは梁に向けて罵声が浴びせられ、脅迫ともとれる言葉が飛び交った。このまま続ければ乱闘騒ぎになるし、軍主催で日本人を負けさせるわけにはいかなかった責任者はこの対戦を梁の体調不良を理由に中断。担架に乗せられた梁は無事に会場を出られたものの、今度は朝鮮半島へ強制的に帰国させられてしまった。

 その後太平洋戦争で日本が敗北し、中富港は地元経済の中心地として経済復興に利用され始めると、昭和43年、民間企業主催で中富港開港記念杯は再開される。その再開記念として第一回の参加者である神波惣史郎十段に参加を要請したところ、十段のかねてからの希望により梁高仁との対戦が続行されることとなった。約三十年ぶりに来日した梁高仁はすでに九十歳を越える高齢であったが、屋外に作られた特別会場では全盛期を思わせる追い込みを見せ、見事33年6ヶ月17日5時間23分24秒にわたる勝負に終止符を打った。勝負を終えた神波十段は、「やっと本当に負けることができた。」と感想を述べたという。皆さんもご存じの通り、中富港開港記念杯は現在も人気の高いタイトル戦として続けられ、多くの名勝負を産み続けている。

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