鉄砲・火薬の歴史(1)

【T】鉄砲火薬発展の歴史
    @鉄砲伝来から幕末まで
        概要(昭和38年通産省実態調査報告より)
 天文12年(1543年)ポルトガル人より入手した鉄砲の倣造が、わが国での銃製造の始めである。        
 
古来優秀な刀鍛冶の製鋼・鍛錬技術が、この鉄砲の製造に応用され、種子島・国友(現在の長浜市国友町)・紀州の3ヵ所で、種子島銃(火縄銃)の製造が開始され、戦国時代の影響もあり、量質とも急激に進歩し、鉄砲伝来後、約30年後には約20万丁の鉄砲が存在していたといわれている。

その後、徳川幕府300年に及ぶ平和時代が続き、鉄砲の需要がほとんどなくなったために、鉄砲の製造は幕府や各藩などの為政者の監督・指導保護の下に、かろうじて国友・高知・水戸・名古屋などに、家内工業として存続するにすぎない状態となった。

 また、鎖国政策のために外国の技術と隔離されたため、進歩した外国技術は全然導入されなかった。
一方、国内には多くの優秀な発明考案が生まれたが、少数の試作に止まり、量産も実用化もされずに終わった。

 このように、鉄砲の質と量とは、全く世界の一流国から取り残されて、明治維新を迎えた

 明治以前の鉄砲は、先込め火縄滑腔丸弾銃であって、獣猟にも鳥猟にも1個の丸弾(マルダマ)が使用され、軍用銃と猟用銃との区分はなかったので、猟用資材業を軍用銃業界と分けて調べることができない。
 
 散弾は、1556年に発明されたといわれており、その後、欧州では盛んに使用されたが、日本では明治までは、ほとんど使用されていなかったようである。

 弾丸は、鉛の球であって、使用者によって鋳造され、弾丸製造業といえるものはなかったようである。

 火薬は、1865年までは黒色火薬であって、木炭・硫黄・硝石の三位混合薬であったが、その調合比率等が各流各派の秘伝として秘匿され、主として口伝を受けて製造され、製造業といえるものはなかった。

  (イ)伝 来
 
 鉄砲記に天文癸卯(12年)8月25日(1543年9月23日)酉(午後6時)我が西ノ村小浦に一大船有り、何れの国より来たれるか知らず、客百余人、その形(カタチ)類(ルイ)せず、その語(ゴ)通(ツウ)ぜず、その食うや手食(テグイ)して箸(ハシ)せず、見る者以って怪奇となす。

   ―中略―
 賈胡(ポルトガル)の長(オサ)、2人あり。1は牟良叔舎(フランシスコ)。1は喜利志佗孟太(キリシタンダマウタ)という。

手に一物を携さう。長さ2〜3尺、その形体は、中通で外直、重きを以って質となす。その中は常に通ずと雖(イエド)も、その底は密に塞(フサ)ぐるを要す。その傍(カタワラ)に一穴あり、火を通ずるの道なり。その用いたるや妙薬(火薬)をその中に入れ、添うるに小団鉛(鉛玉)を以ってす。

まず、一小白(標的)を岩畔に置き、親ら(ミズカラ)一物を手にして、その身を修めて、その目を眇(スガ)め(細め)、その一穴(火口)より火を放てば、即ち直ちに当らざるなし、その発するや、雷電の光の如く、その鳴るや、驚雷のとどろくが如し。

この物一度発せば銀山も砕くべく鉄壁も穿つべし。時尭(トキタカ・・・種子島14代)之を見て思えらく「希世の珍なり」と。』

 かくして鉄砲2丁を、2千両で買い取るという決断を下し、1丁を「古郷」(フルサト)、1丁を「腰差」(コシザシ)と命名し家宝とした。時尭16才6ヶ月の時である。

 さて、銃は買ったが妙薬と鉛玉は、わずかしかない。そこで時尭は、小姓で学に秀でていた篠川小田部秀重に命じて、妙薬を搗(ツイ)いたり、篩(フル)ったり、配分する方法を、ポルトガル人を師として学ばせ之に成功した。(この時、篠川家のつくったものは立派な黒火薬ができている)。

火薬の補充の途がついたので射撃の練習も進み、百発百中するようになった。この辺の事を『その妙薬の搗篩和合の法は、小姓篠川小四郎をして之を学ばしむ。時尭、朝に磨(マ)し、夕に淬(サイ)し勤めて己(ヤ)まず。ここに於て百発百中も失するもの無し』と告げている。

  (ロ)日本国内への伝播
 

        [1]2丁の内1丁を根来寺へ
 種子島鉄砲伝来の報は、坊の津・薩摩・博多などを経て境に入り、根来(ネゴロ・・・今の和歌山県)に伝わった。近畿地方の戦術の中心地で、2万の僧兵を持つ根来寺はその政治力を駆使して、津田監物を使者として種子島に遣わし、鉄砲1丁の譲り受けを強引に「腰差」を貰い受け、妙薬の製法と火を放つ道(射撃法)をならった。津田監物は1544年3月根来へ帰り、1545年芝辻清衛門に鉄砲を作らせ、のち家伝の津田流砲術を伝えた

  [2]国産第1号
 当時、種子島の刀鍛冶、農具鍛冶の技術では、鉄砲の外形はできても底を塞ぐことはできなかった。時尭から鉄砲の製作を命じられた刀鍛冶、八坂金兵衛清定は、ポルトガル人が本当のことを教えないので、自分の娘若狭(ワカサ)をフランシスコに与えて製法を聞き出そうとしたが、底を塞ぐ方法を知らなかった

1543年来、ポルトガル船が去る時、時尭は鉄砲鍛冶を連れてくれば、莫大なお礼をするといっておいたところ、翌1544年春、マカオ辺りのポルトガル基地の鉄砲鍛冶が熊野浦に現れた
清定に命じて底を塞ぐ術を学ばせ、翌1545年初め頃になって、やっと国産数十丁ができ上がった

  [3]足利将軍家へ献上
時尭は、1545年国産鉄砲ができたので1546年(天文15年)、本能寺の僧に携行させて足利将軍家へ献上した。

1547年(天文16年)将軍は、管領細川晴之を通じて国友鍛冶に倣作を命じ、国友鍛冶は1548年(天文17年)8月、6匁玉鉄砲2丁を完成、将軍に献上している。

  (ハ)信長の鉄砲戦略

 信長は、1548年(天文3年)生まれだから、時尭より6っ年下である。鉄砲伝来の年は10才であった。15才の時(1548年)、父信秀は斎藤道三と和し、道三の娘、濃姫(10才)を信長の妻とした。
16才の時、父信秀病死し織田家を継ぎ、この年7月国友鍛冶に鉄砲を注文。17才の時(1550年)、10月国友鍛冶6匁玉・鉄砲500丁を納入

21才(1554年)、1月今川義元が岡崎を本陣として尾張小川城を攻めた時、堀端から鉄砲を取りかえ射たせ、一斉に攻め上り敵を破った。

25才の時(1558年)、木下藤吉郎(23才)信長に仕える。37才、6月姉川合戦に勝った木下藤吉郎を横山城主として、国友村の鉄砲を支配させた。9月第一次石山合戦では、津田監物の育てた根来・雑賀(サイカ)の3,000丁の鉄砲隊に悩まされた。

42才(1575年)、5月信長は武田の誇る騎馬兵の突撃を3,000丁の鉄砲を用いて破り、天下に覇をとなえる第一歩を踏み出した。この戦いで鉄砲の威力はあますところなく発揮され、戦術は従来の戦略戦術や築城術を根本的に変えてしまった。

 このようにして、鉄砲の使用は日本国内で驚くほど急速に増大していった。

  (ニ)鎖国による遅れ

 天文12年種子島火縄銃の渡来後、それより約百年を経て寛永16年(1639年)、時の三代将軍家光の鎖国政策によって、小銃の進歩は阻止された。皮肉なことに鎖国の翌年(1640年)には、フランスにおいて燧石銃(ヒウチイシ・・・フリントロック)が発明され、ヨーロッパ各国の軍隊はこの銃で軍備をしている。

ヨーロッパは雷管、無煙火薬の発明、薬莢の実用化など、鎖国の間に長足の進歩をとげ、1800年代にはリヤーズ、グリーナー、ホーランド&ホーランドなど著名な製銃会社ができており、エレー火薬会社もできて、それらの製品がめまぐるしく、わが国に押し寄せることとなった。

           A外国における発達史

       (イ)銃の起源と変遷

 1200年代にはハンド・キャノンという大砲があった。点火手と射手が2人以上で扱う不便なものであり、これが次第に改良され、1240年より1300年代にかけて、双手に支持して発射するいわゆる「小銃」が発明されたが、原始的なものしかなかった。

小銃は、ヨーロッパに深く攻め入った蒙古軍が、1241年4月15日リーグコックの戦いで、初めて使用したとも伝えられる。

 歴史に明記されるとしては、1382年ロスベックの戦いに、白耳義人(ベルギー)が用いたのを以って鏑矢とする。

 その後15世紀になって欧州各国でカルベリン銃が製造されている。この銃は一人で発射できぬこと、点火の極めて不便なことのニ欠陥があった。各国は競ってこの改良に苦心したが、当時の先進国スペインが初めて火縄銃を発明している。

すなわち、1500年代に入ってからである。ポルトガル人が日本へ伝えたものはマスケット銃と呼ぶ銃であった。

 1515年には、ドイツで歯車式発火装置銃が発明されている。これは火縄銃の風雨の場合の発射不能をおぎなうものであった。

 この頃固定照門装置のある銃や、銃腔腔絨(コウセン)を刻した、いわゆる施条銃も発明されている。弾は、鉄弾から鉛弾、あるいは鉛で被包した鉄弾、を使用するようになった。

 1640年には、フランスにおいて燧石銃(ヒウチイシ)が発明されている。撃鉄を上げておき、引鉄を引くと、燧石の衝撃によって火花を発し、火門に伝えるという機構のものである。

その後フランスでは、リフォーの針撃銃に次いで、1800年の終りには管撃銃が出現し、世界製銃史上に一大転換期を画した。

 火縄銃ー燧石銃ー車輪式燧銃ー管撃銃と幾多の変遷を経て、今日の中心撃無鶏頭後装銃に至ったのである。

 1867年に、元込中心撃の銃が出現しているが、なお有鶏頭(撃鉄が外へ出ている)の域を脱していなかった。

数年後、コードバの無鶏頭銃の発明に引き続いて、現在のボックスロックが、アンソン氏とデーリー氏によって、1875年案出され大いに名声を博した。まさに、この出現で有鶏頭が駆逐された。その後、パーディ氏によって、パーディ式サイドロック機構が発明された。

        (ロ)黒色火薬

 中国では808年頃、錬金術者の書物「鉛汞甲辰至宝集成」・「真元妙道要略」等に硝石・硫黄・木炭を配合すれば発火することを述べている。ただ配合比率が適当でなかったなどの理由で火薬に結びつかなかったようである。

970年には、火箭(ヒゼン・・・矢)に火薬を使用していた。1045年曾公亮の著「武経総要」に火薬の配合比が記載されている。そのころアラビヤでも全く独自または中国から伝来して火薬が発見されている。

ヨーロッパでは、アラビヤからの技術が伝わる一方、その応用などにより火薬が知られている。

 このように、13世紀またはそれ以前に中国アラビヤ、およびヨーロッパで自然発生的に発見されていたが、長い時代を経て徐々に改良された。

 今日の黒色火薬としての製法を明かにしたのは、イギリスのロジャー・ベーコン(1270年)であり、砲弾に使えるようにしたのは、ドイツのベルトルド・シュワルツであるといわれている。

シュワルツは、1313年硝石・硫黄・木炭を乳鉢で混ぜていたところ燃焼したので、その乳鉢に石の蓋をしたところ、閃光と爆鳴を伴って石の蓋が飛び散った。このことから後は、石の弾を砲弾として用いるようになったという。

西洋では1516年、イギリスで初めて火薬工場ができている。日本へはその27年後、天文12年(1543年)ポルトガル人によって鉄砲と共に種子島へ伝えられている。

日本では家伝秘法として伝わったので、進歩が幼稚であり、製造が本格的になったのは、幕末になってからである。

                (ハ)散 弾
 
1556年ドイツの一農民が、一つ弾の代わりに散弾を開発し、一つの弾よりもはるかに命中率の高い、散弾銃を発明している。

                (ニ)無煙火薬

 綿薬 1846年シエーンバイン(スイス・バーゼル大学教授)は、綿を硝硫混酸で処理して硝化綿を作った。
これは従来、黒色火薬しか火薬が存在しなかったのに対し、硝酸より誘導した火薬の可能性見いだしたもので、火薬界の新紀元を画した。(同時期フランクフルトのベットゲンやオットも綿火薬を発明している。)

この特許をイギリスに売って工場を作ったが、1847年爆発し21名の死者を出した。20年後イギリスのF.アーベルは、この硝化綿の安定度に関する徹底した研究を行い、1866年「アーベルの硝化法」を完成し、硝化綿の実用化への道が開かれた。

 綿薬は、黒色火薬に比し燃え方が早く、力も数倍強い。また、黒色火薬は射撃をすると煙のため、一瞬前方が見えなくなるが、無煙火薬は文字通りそれほど煙は出ない。

 猟用火薬は1864年、プロシャのシュルツが、硝化木繊維から猟用火薬を作り、シュルツ・パウダーと名づけた。

 無煙火薬、1884年(明治17年)フランスのアヴィエーユは、ついに今日の無煙火薬を発明した。これは火薬界の一大革命で、この発明で火器は長足の進歩をとげた。

この火薬は、フランスの当時の将軍ブーランジェーの名をとって「B火薬」といわれた。(1888年アルフレッド・ノーベルはバリスタイトを、同年アーベルはコルダイトという無煙火薬を発明し、今日の3つの主役はすべてこの頃登場した。)

この年(明治17年)このB火薬は、フランスから日本の陸軍卿大山巌へ少量贈られている。このことは、日本がフランス式陸軍制度を採用したことに対する好意の表れであろう。

 この薬は、日本で分析され明治21年(1888年)の試製テストを経て、明治26年(1893年)板橋火薬製造所で、はじめて製造が行われるに至った。

                (ホ)雷こう(雷管の起爆薬)

 1800年イギリスのエドワードが雷こうの発見を発表した。1805年スコットランドのアレキサンダー・フォスターによって猟銃の起爆薬(撃発雷管の一種)として用いられた。当時の発射薬はもっぱら黒色火薬が用いられており、雷こうは起爆雷管として研究された。

 雷こうを用いて、爆発力を意のままに発生させることができるこの発見は、火薬界に最大の進歩をとげさせる契機をなった。

 雷管とは、雷こうをつめた管という意味である。今日一般に使用される撃発式雷管は、1813年イギリス人ジョセフ・エッグが発明したものである。

                (ヘ)薬 莢

 1777年イギリスのウイリアム・ロールが発明した。後装銃に応用したのは、1836年フランスのレフォチューが最初だ、と言われている。この頃の形は、いわゆるヘリウチ薬莢で、破裂あり不発ありで幼稚なものであったが、改良が重ねられ、1882年イギリスのジョイスによって現在の形、中心撃薬莢になった。
 
 

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