鉄砲・火薬の歴史(2)

【U】鉄砲業界の推移
  @明治から昭和20年まで
    概要(昭和38年通産省実態調査報告より)
 幕末から明治の初期にかけて、国の内外の治安が乱れ、膨大な軍用銃砲の需要が生じた。この需要は、専ら外国からの大量の旧式銃と、少量の新式銃との輸入によって充たされ、国内の産業はほとんど発展しなかった。

 和銃の生産力が衰微の極に達して、膨大な需要に対して問題にならず、また新式の薬莢、雷管後装式等の銃と、旧式の和銃とは別種のもので、ある程度違っており、技術の差がかけ離れて、生産ができなかった事などがこの理由であろう。

 明治中期から昭和20年までの間、日本は富国強兵の資本主義の発展を続け、再び品質・数量共に世界一流の鉄砲国になった。しかしながら、これは専ら国営の工場や研究所によって行われ、民間工場にはほとんど発注されなかった。従って、戦争の末期、東洋工業ならびに豊和工業などの銃器工場が2、3生まれた程度であった。

明治以後、銃身のライフルや、銃尾機関の連発装置、等の発生という技術の進歩に伴って、軍用銃と鳥猟銃とはほとんど別種のものになった。

 この民間工場の不振と、軍用銃と鳥猟銃との分離、という2つの大きな理由によって、日本の鳥猟銃業界は、この時代の全盛期間を通じて、全く欧米の業界に圧倒されており、微々たるものであった。

 欧米では多少の盛衰はあったが、数百年の歴史と技術の進歩とを基礎とする、強大な民間の軍用銃製造業があり、これが副業または副産物的に猟用資材を生産していたのである。

 獣猟にはライフル銃も使用されるが、日本では軍用ライフル銃を民間人に私有させず、獣猟用ライフル銃は生産されなかった。

 明治の後期から大正時代にかけて、旧式になって不用になった大量の村田銃が、造兵廠の余暇を利用して滑腔散弾銃に改造されて払い下げられた。この銃は堅牢で機能確実であったので、国内に普及し、国産銃の信頼性を宣伝した。

1881年(明治14年)ごろから徐々に発生した散弾銃の国産化は、この刺激を受けて生産の兆しをみせ、造兵廠退職者等によって数人または数十人程度の町工場が設立された。

 戦前の鳥猟銃業界の状態は、資料が無いので不明であるが、その最盛の時期でも年間2,000〜3,000丁程度の生産量であったようであり、東南アジア等に対して単身単発の低級銃が年間1,000〜2,000丁程度まで輸出されたことがあったようである。

 火薬と雷管とは、当初全く輸入に依存していたが、大正・昭和にかけて、陸軍造兵廠で国産化され、払い下げられるよになり、民間の生産はほとんどない状態であった。

 散弾・薬莢などは、大正・昭和にかけて、国産品がいくらか生産された程度であった。

               (イ)戦前までの狩猟界

 幕末に至って開国した日本は、数百年間の発明改良を忠実に採り入れていた、新銃「洋銃」を輸入せざるを得なかった。明治の初期からヨーロッパ最新銃や猟法・猟犬までもが、猟具猟装品と共に相次ぎ輸入された。

 明治40年10月25日発行の“猟友”という雑誌に

 『今日に於て猟銃と言えば即ち精巧なるニ連中にして、中にも有鶏頭の如きは既に稍(ヤ)や野暮視(ヤボシ)せられ、無鶏頭もエジェクター付きならでは、紳士的にあらずとせられ、更に進みては、或いは単引き銃と言い、或いはブローニング連発銃と言い、殆んど欲する所として得らざるなきの状ありと雖(イエド)も(買おうと思えばいつでも入手できる)、若(モ)しそれ僅々(セイゼイ)数十年に溯(サカノボル)らんか(数十年前には)此の種の銃器は未だ想像もできず、多くは不便なる燧石銃(ヒウチイシ)の使用に甘んぜざるを得ざりしなり(その頃は不便なヒウチイシ銃であった)。顧(オモウ)うに此の数十年間に於ける猟銃の変遷は他に其の比を見ざる所にて、、随(シタガ)って拾餘年前の流行すらも今日に於ては殆んど忘却さるるの状あり。昨の流行は即ち今日の廃物となりたり』としるして、明治時代のめまぐるしい、変遷振りがうかがえる。猟銃については、当時ヨーロッパで開発されたばかりの新しいものが、相次いで輸入の形で押し寄せ、日本は銃砲の国際見本市の状態にあり、上記のように「昨の流行は今日の廃物となりたり」となったものである。

 高級品はイギリス製であり、誰も彼もがイギリス製高級銃を渇望した。しかしまた、アメリカ・レミントンやベルギー製品も入ってきた。とりわけ注目すべきは、ベルギー・ブローニング氏の発明した銃身後退式連発銃(自動銃)であろう。

これは発射の反動を利用して、遊底を後退させ、脱包、弾込め、次射の用意を完了するという、実に驚嘆すべき銃である。50年以上にわたって圧倒的地位を占有して、わが国のみならず世界中のハンターに愛用されていた。

レミントンは、1816年個人の町工場で最初の銃を製作したが、のちブローニング氏の特許の分乗を受けて自動銃を製作した。レミントンは後程民用銃だけでなく、多数の軍用銃を作って軍に納入し、また外国に輸出した。

欧米においては、民用銃器は軍用銃器と一体不離の関係の下に発達している。このほかレピーターと呼ばれる、手の力でピストンを後退前進させて脱包と弾込めをするスライド・アクション銃も出現した。

 これらに刺激され、わが国では明治13年村田経芳少将により、13年式村田歩兵銃が完成されたのが、近代的な銃として国産最初のものである。これは元折式ではなく、遊底を前後に操作して脱包・装填をする、ボルト・アクション銃である。この銃は後程三八(サンパチ)式が完成されると滑腔に改造して大量に猟銃として払い下げられた。

さらに明治14年、藩お抱えの鉄砲師(火縄銃)であり、のち砲兵工廠で村田少将の片腕となって働いていた松屋兼次郎氏が猟銃としての村田銃の製作をはじめた。

松屋氏の後は、横浜の金丸謙次郎氏、東京の川口屋・川口亀吉氏岡本光長氏などが工場を持ち、村田銃の製造をはじめ、外国銃の元折単身銃やニ連銃を模倣して国産元折式散弾銃の製造をはじめた。

明治初年、陸軍の銃工として砲兵工廠に勤務していた宮田栄助氏も退役して宮田銃と称して村田銃の製作をはじめたが、後年自転車の製造に転向した。

 明治15年頃から国内各地で、グリーナ、リチャード、ボッスなど英国銃を範としてスタートした、わが国の民間銃造り師たちは、長い年月銃造りへのひたむきな情熱を傾け続け、やがて大正から昭和へと、名和仁三郎氏などに代表されるような次代の名工と評判の高い弟子達を生みながら、技術的探求と修練を積み重ねて、ついには先輩国の技術を乗り越えるまでに至っていた。

しかし、わが国の民間銃造り師たちは、自営する鉄砲鍛冶として、各地で細々と生き続けているにとどまり、レミントンのように大工場へ発展することはなかった。

 大正から昭和へかけても、欧米における猟銃分野の進展はめざましく、わずかに国産村田銃や元折銃を細々と提供し続けていたのが、我が国製造の実態であり、新しいもの、良いものの主力は、大正・昭和時代とも輸入品であった。

            (ロ)軍用銃の分野

 徳川300年の平和な時代、わが国の銃砲鍛冶は軍備に意を用いた大名の保護の下、わずかに国友村、高知、水戸、名古屋などに存続するに過ぎない状態で明治維新を迎えた。明治以前の鉄砲は、火縄滑腔先込めの丸弾(マルダマ)銃であり、軍用、民用、鳥猟、獣猟などの区別がなく、同じものが使われていた。また民間で所持されていたものは、数の上でもはなはだ少量であった。

幕府の政策を忠実に履行していた東北諸藩は、戊辰戦争時に先込め滑腔銃(和銃)を使用したが、これに対する薩長土肥藩は、密輸により大量に輸入していた元込めライフル銃(洋銃)を使用した。かくして、有効射程および発射速度の隔絶した鉄砲を装備した、両軍の勝敗は明らかであった。

明治政府はあわてて、外国から旧式の軍用銃を輸入して軍備したり、村田銃の開発で充実させて一応の態勢を整えた

明治38年には、砲兵大佐有坂成章氏により村田銃が改良され三八式歩兵銃ができたので旧村田銃は、制式廃止されて散弾銃に改造されて民間へ払い下げられた。

 日本の軍銃は環境の変化と関係者の絶大な努力によって、急速に追いつき追い越し、その後九九式軽機関銃などを生み、第二次世界大戦直前までは、日本は再び軍用銃界は質量とも当時世界一流にのし上がって行ったようである。

           A昭和20年以降昭和40年まで

         概要(昭和38年通産省実態調査報告より)
 昭和13年に、猟銃は戦時不要不急のゼイタク品として、輸入も製造も禁止され、これが敗戦に至るまで続いたが、敗戦後に占領軍の武装解除の命令によって猟銃の製造は禁止され、昭和25年に至って初めてこの禁止が解除された。

 この間の13年間、猟銃業界では、軍需品の製造、中古銃の修理、空気銃の製造等を行っており、新銃の供給が皆無であったから、薬莢、散弾などの猟具業界もほとんど発展しなかった。

 戦災による損耗と、戦時中の供出と、自然衰損とによって、保有数量が減少した上に、新品の供給を断たれていた猟用資材は、製造禁止が解除され、造ればいくらでも前金で売れるという有史以来の黄金時代を出現し、数百人、数十人の工場が続出して「三年毎に生産倍増」という状態が昭和40年頃まで続いている。

30年代も後半になって、ようやく異例の盛況も落ち付きの傾向が現れ、需給のバランスも大体とれるようになって、業界にも品質と価格との競争の徴候が見え始め、これに加えて、貿易の自由化の大勢に伴って、外国品との競争も現実の問題として、クローズアップされてきた。

               (イ)戦後銃砲製造業の飛躍

 戦前の散弾銃製造業界は、ほとんど家内工業であった。戦前日本の鉄砲屋には銃身孔明機械を保有している所はなかった。徒弟が普通旋盤を使って、一寸明けては削粉をかき出し、また鑓を入れては一寸削りという風に、一日かかって2、3本の銃身孔明を行っていた。最大の工場でも数十人であった。

 だからその最盛期でも、年間全国生産数はせいぜい2,000丁から3,000丁であっただろうと推定されている。

その後昭和13年に、猟銃の輸入および製造は禁止された。大東亜戦争の末期に海軍は、5万丁の12番自動散弾銃を供出させて、サイパン島の飛行場設営隊などに装備させた。

この頃の調査によると、昭和19年に海軍へ献納したあとの猟銃数は約163,000丁となており、10番が1,000丁、12番は31,000丁、16番から30番径の細いもので131,000丁となっており、ライフル銃はたった298丁であった。

 戦後昭和21年勅令第300号は、その名も「銃砲等所持禁止令」であった。これが昭和25年11月15日政令第334号「銃砲刀剣類等所持取締令」となり、次いで昭和33年現行法になった。敗戦後の日本は、占領軍によりそれまでの軍用銃業は跡形もなく破壊され、自動車業や電動工具或いはミシンなどの製造業に転業してしまった。

それとは無関係に、昭和25年純平和産業として猟銃の生産が許可された。昭和13年以降この許可まで、13年間に亘りわが国では散弾銃もライフル銃も、共に1丁も新造されなかったし、この間保有の猟銃は、戦災やら老朽、損耗により、また12番径以外の口径のものが多くなり、実際に使えるものは少なくなっていたから、戦後26年頃より実際の生産が再開されるや、需要は圧倒的に供給を上廻り、作れば売れるという黄金時代が出現し、即金はおろか前金を払わなくては、入手できないというような現象を呈した。

 レジャーブームの波にのって、需要層も中産階級への浸透、という新たな大量の需要を生み出した。工場の規模は、数百人または数十人と、戦前にはみられなかった大工場も現れ、銃身孔明機械や輸入新鋭機械等も一斉に姿を現し、普通旋盤で銃身の孔明けをするという工場は姿を消した。

 修理業者も含む銃の製造業者は国内に500を超えたが、いわゆる製造業者といえるものは僅かに十数社であり、3〜4の大メーカーが全体の8割以上を生産していたのが実情であった。

戦後大工場としていち早く生産を開始したのは高知のミロク製作所であり、昭和27年から単発銃を供給している。27年11月には岡崎に日本猟銃精器製作所ができフジ号猟銃が供給された。

 昭和36年頃より生産は需要を上廻るようになり、少量が輸出に向けられるようになったが、その後猟銃工業は、日本の輸出産業の一つとして、毎年確実に50%から100%の割合で一直線に輸出を伸ばし続けた

昭和36年における生産数3万丁は、国内販売2万6千丁、輸出はわずか3千丁であったが、40年になると生産7万3千丁であり、国内販売は3万3千丁、輸出は3万5千丁と輸出の方が多くなっている

 昭和36年には、大手メーカーSKB工業が猟銃の製造を開始しており、同年晃電社が米国ウインチェスター社との合併で「オリン晃電社」を発足させている。

昭和30年代の業界動向の背景としては、ナベ底景気が昭和33年で終わり、昭和34年からは、いわゆる神武景気は始まり、昭和35年池田内閣の誕生により所得倍増論や消費は美徳といったムードがガンブームを作り出し、設備も近代化されて、昭和39年の東京オリンピックまでは、国民所得といい景気動向といい泰平の時代であった。

            B昭和41年以降昭和55年頃まで(輸出産業としての生長と国内の凋落)

 昭和も40年代に入ると日本製鋼所の子会社であるパインミシン豊和工業など旧軍用銃会社などが自動散弾銃猟用ライフル銃を供給し始めるようになった。貿易自由化時代を迎えつつあった日本の猟銃業界は、輸入品が相当にふえ、国産品と輸入品の間、及び国内各メーカー品相互間の自由競争を通じて、消費者はそれぞれの特徴・品質・価格などの自由選択ができる買い手市場に転じた

40年代初期には毎年、年1万丁程度の輸入品が入っており、生産数の上昇した国内の競争は年と共に高まり、過当競争時代へと入って行った。

 猟銃の国内需要は、戦後ガンブームという状態が長い間続き、昭和37年までは上昇の一途をたどっていたが、昭和38年からは年に3万5千丁から5万丁ラインへ向けて横バイからやや上昇を続ける傾向へと変って推移した。

この間耐久消費材である銃は、一通り希望者には潤沢に行き渡り、昭和44年には散弾銃とライフル銃を併せた猟銃の所持許可数は約60万丁に達した。

 ’60年代まで高度成長期を通じて発展していた日本経済も、昭和44年いわゆる動乱の’70年代へ突入するや、一方ではGNP世界第一位となり、経済大国ニッポンと言われながら、他方ではシージャック、ハイジャック、金嬉老事件というように、世の中のひづみ現象が表れて銃を用いた犯罪が続発した

戦後日本の銃砲業界も、銃そのものが大衆化され逐年増加普及したが、一方ではマナーの低下と銃の取り扱いに未熟な多数のハンターも輩出した。この年昭和45年狩猟解禁時における事故多発から、閣議で「狩猟見直し」の声がかかり、狩猟法、銃刀法、火取法、狩猟税など、銃関係法規の一斉改正の動きとなった。

昭和46年2月、法改正を検討中に京浜安保共闘グループによって銃砲店銃強奪事件、いわゆる真岡事件が発生、続いて赤軍派による浅間山荘事件が起こって、狩猟見直しの方向は、過激派に対する治安対策の方向へと発展し、先進国へ仲間入りしたばかりのわが国は、銃に関する限り、先進国の中では他に例をみない、最も規制の厳しい国となり、銃砲業界は一大打撃をこうむった

 ライフル銃の狩猟への使用制限、5連発銃の発射弾数制限、初代大石環境庁長官の全国禁猟説などのあおりなどを受けて、銃の国内販売数はピーク時の昭和43年5万5千丁から漸次下落し、法改正が実施された昭和47年には、一気に2万9千丁にまで落ちている。翌48年には3万9千丁まで回復したが、その後は毎年じりじりと後退を続けた

 経済面では、昭和46年8月にニクソンショックがおこり、第一次の円切り上げ、48年には円の再切り上げオイルショックのはじまり、49年には狂乱物価の高騰と、めまぐるしい経済変革が続き、全般的な景気の後退と、輸出の不振により、銃砲業界は年々衰退の一途をたどることになった。

 戦後続いていた販売ルートは、異常インフレ下で経費は膨張し、数量減退と過当競争の間で、そのまま維持できなくなり、販売ルートの整理統合が活発に行われた。昭和45年岡西商事の銃部門をSKB販売会社へ移したのを皮きりに、46年日本装弾の設立と吉沢商店銃砲部門の吸収、47年ニッサンミロク販売会社の設立と日本商事銃砲部門の吸収、48年ニッコー販売会社の設立など、業界は49年までに再編成を終えた。

 この頃、このような景気後退と不振の中で業界は、海外派遣の賞典付き射撃大会を活発に行って、需要維持に努力した。

 昭和50年以降は不況低成長経済時代へと突入し、世界が同時に不況へのめり込んで行く。わが国の輸出ドライブに対するトラブルが出はじめた頃であるが、銃砲業界の輸出は、昭和40年以降も49年まで、2年で50%近いサイクルで、めざましい勢いで一直線に輸出を伸ばし続けたが、昭和50年以降はそのテンポが全く変わった

すなわち、40年3千5百丁、44年10万丁、46年17万丁、49年23万丁と一直線に上昇したが、その後は横バイとなり、55年28万丁でピークとなって、56年には25万丁に下落している。

この間、輸出先はアメリカが圧倒的に多いけれど、その内容はほとんどアメリカブランドのOEM生産であり、数量は伸びたけれども、必ずしも生産者を豊かにさせるものではなかった。

輸出の中で、ライフル銃の輸出は、昭和44年から始まったが、受注単位が大きく、初年は1万5千丁から始まり、その後8年間にわたり目を見張るような急上昇を続け、52年ピークに達した時の数量は13万丁であった。
これは同年輸出した総数の約半分近くを占めるものであった。

 輸出の数量はとも角、昭和50年から数年間、わが国の銃メーカー及び装弾メーカーは一括して円高関連臨時措置法、ならびに雇用保険法に基づく、給付対象不況業種の指定を受け、各社とも減量経営に乗り出した。

狩猟界は、各地で放鳥事業が推進されているにも拘わらず、全国的にブルトーザーによる大規模開発で環境破壊が進む中、ゲームの減少は認めざるを得ない状況にあり、農薬や化学薬品の影響と、マナーの低下したハンターの乱獲と相俟って、一層狩猟環境を悪化させていった。

 このような背景の中で、昭和52年には、再び銃砲関連法令の改正が次々に行われた。新たに狩猟免許試験制度、射撃教習制度、4連発から3連発への発射の制限、などが織り込まれるにおよんで、その影響は業界に少なからずのものがあった。

 法改正と2年連続の円高不況に見舞われた、53年の国内販売数は、1万5千丁となり、この数字は不況低成長時代へ突入した昭和50年の半数であった。昭和50年代以前から目立ったことではあるが、不況や法規制の強化のよって、手放された中古銃が異常にふえて一層新銃の販売数を圧迫した。

業界では、銃をローンで買える制度を設いて、減退し続ける需要の回復に努力をした。この年度推定中古銃は、3万丁に達していたと想像される。

 昭和54年1月梅川事件が発生した。狂人ともいえる、異常性格者が起こした事件ではあるが、その凶悪さと、前科ある者に何故銃を許可したかをめぐり、許可をした警察側が責められ、その反動として、脳波測定をさせる、酒グセ、借金の有無、夫婦仲はどうかに及ぶ徹底した人物調査をさせる、自宅に上がって保管状況の立ち入り調査をさせるなど、人権じゅうりんすれすれの所持規制強化の実施がなされ、銃砲業界は壊滅的な打撃をこうむっている

銃の更新を5年から3年に短縮し、銃の使用実績を証明させ、使っていない銃は許可を取り消す。申請者には受け付け前に、申請取り下げを指導するなどを行った結果を反映して、55年の国内販売数は、1万丁を大きく割って、わずか3千9百丁になってしまった

 業界では「銃スポーツ振興委員会」を結成し、テレビ、新聞、週刊誌などあらゆる媒体を使って、直接需要喚起を図ると共に、銃砲スポーツを正しく知ってもらう運動に乗り出した。少しづつその反響が起こっており、今後の成果が大いに期待されるところである。

 銃の生産量のピークは昭和52年であった。ついにこの年、30万丁の大台を上廻る生産があったが、その後は漸次減少し昭和55年は26万丁と減っている。わが国の銃砲製造業は現在、有数の輸出国にまで成長したが、国内需要に廻る部分は55年3千9百丁であったから、わずか1.5%に過ぎなかった

 昭和54年、大手メーカーが商法上の整理会社に入ったのを始め、昭和55年には大手S社が倒産した。その他の大手メーカーにしても無傷の会社はないくらい厳しい現実と直面している。

 戦後単発銃の供給から始まった散弾銃は、昭和38年〜39年頃水平銃全盛時代となり、昭和40年からはみるみる自動銃全盛時代にとって替わった。昭和47年の自動銃の発射弾数の制限を境に自動銃は激減し、代わって昭和50年からは、上下銃が需要の主力となっている。現在水平銃の需要は数えるほどしかない。

 ライフル銃は、昭和46年改正時、10年の銃砲所持歴がないと持てないこととなり、その年のライフル銃所持許可数3万7千丁をピークに以後漸次減少しつづけ、51年には2万3千丁まで減少したが、55年には2万8千丁まで回復している。
                                                                                                                            【V】実包・装弾業界の推移

      @終戦から昭和40年頃まで

 戦前の日本では、2、3のメーカーが時々装弾を製造販売した程度で、量もわずかであり、5年・10年にわたって相当量が造られるという状態にはならなかった。猟用装弾はほとんどが手詰装弾であり、クレー射撃は有産階級の極く少人数が輸入装弾で行った程度で、とうてい国産装弾メーカーが育つような一般環境ではなかった。

 弾はその昔、真鍮薬莢・黒色火薬・雷管などを別々に購入し、自らの好みによる装弾を組み立てていたが、その後紙薬莢・無煙火薬の時代になってもこの方式により、各自独特の装弾を作っては自慢し合っていたものである。この作業がまた楽しみの一つでもあった。

銃砲店で材料を購入して頼めば、銃砲店がご奉仕で無料で装弾に詰めてくれることも多かった。しかし、いづれの場合でも、手詰めは性能においてもバラツキが多く、時には著しく腔圧が上がって、保安上好ましくないものがあった。

 戦後クレー射撃の普及と大衆化によって、はじめて日本にも国産装弾が生まれ得る状態になった。昭和34年頃から日邦工業、旭精機工業、吉沢商店などが、相次いで本格的機械詰め装弾の製造態勢に入った。一部銃砲店などでリローデイングして再生弾を売る場合もあった。

 昭和34年の日本の銃用雷管の製造は約2千5百万個で、この内機械詰め装弾は初年度の34年で約50万発であり、完成装弾は50分の1にすぎなかった。昭和40年になると雷管約5千万個に対し、装弾は2千2百万発となり、44%と半数近くに迫っている。雷管の製造数も2倍に飛躍している。

 昭和35年「豊和モデル300」という国産ライフル銃が、日本ではじめて発売されるにおよんで、旭精機工業から、「30ADA]というライフル実包が、日本ではじめて発売されている。戦前の日本では、明治38年軍用村田銃が、ライフルを滑腔にして猟用に払い下げられた以外、国産ライフル銃は一切供給されたことがなく、銃も弾も全て輸入品を使用していた。

昭和37年頃から昭和40年頃まで、横浜のYSS工業が手造りの猟用ライフル銃を出したが、最盛期で月産80丁くらいであった。

 昭和35年以降他のライフル実包も発売されたが、需要は極めて少なく、あまり大きな数量とはなっていない。輸入ライフル実包も時々入荷発売された。

 22径ロングライフル銃は、外国ではリスや野ウサギなどの小動物に使用されるが、日本には適当な小獣がおらず、地形もなく、またライフル銃で鳥を撃つことが、禁止されたので専ら射撃用に使われている。これ用の実包はほとんど全部が輸入されている。

      A昭和41年から昭和55年頃まで

 戦後の銃の製造は、昭和27年頃より生産が始まり、以後急上昇で伸び続け、国内需要は昭和43年〜45年でピークとなり、この間におけるライフル銃と散弾銃を併せた猟銃の所持許可数は、約60万丁に達していた。この内ライフル銃は、わずか3万5千丁にすぎない。

 散弾銃所持者の増大と、クレー射撃の普及に伴ない、昭和34年頃から紙薬莢機械詰め装弾が供給されだしたが、海外では既に全天候性のプラスチックによる時代に変わっており、わが国でも昭和43年頃より東京カートリッジからプラ装弾が供給されだした。

追って昭和45年には旭エスケービーが1億発まで供給できる工場の設備に着手し、時代は正に銃砲業界のピーク時でもあり、ホワイトカラーの射撃界への吸収を狙って、従来の半分の価格で装弾を供給する方針を打ち出した。

昭和47年に入ると吉沢商店を吸収して、日本装弾がアメリカウインチェスターと提携して、ウインチェスターブランドの日本製品の生産が開始された。

それぞれのメーカーが、操業率を上げることに努力をしたため昭和40年代の装弾の生産数には目を見張るものがある。

 すなわち、昭和44年には生産数四千万発であったが、45年には8千5百万発と一躍2倍以上となり、46年1億発、47年1億2千万発と伸び、昭和48年には遂に1億3千8百万発を記録した。

 猟銃の所持許可数は年々増加し続けており、44年約60万丁、47年65万丁、49年70万丁と増大はしているけれど、1億3千万発という数は必ずしも銃砲業界における装弾需要数をそのまま反映したものではなかった

メーカーの都合による生産数的なところがあり、当然のことながら製品はダブつき価格は乱れた。しかし、安価で危険性の少ない安定した機械詰めによる良い装弾が提供されれば、最早リローディング弾の入り込む余地もなく、射撃用ばかりでなく狩猟用においても、極く少数の手詰めを楽しむ人以外、ほとんどの人は市販の機械詰め装弾を用いるようになった。

アメリカでは、現在でもかなりの数が、自らリローディング用機械を購入して装填し、自らの使用分に供しているが、日本では、一つ一つの構成材料が高いため、個人リローディングはみられない。九州の一部に、年間百万発程度のリローディング装弾を供給している会社があるにすぎない。

 昭和47年以降は、製造銃用雷管のほとんど100%近くが、完成装弾として供給されたと見なして差し支えない。

 昭和50年代に入ると不況低成長経済時代へ入り、消費が減退し、総体的に景気停滞のうちに推移するが、猟銃の所持許可数は依然として年々増加した。昭和51年73万丁、52年73万3千丁、53年74万6千丁となったが、昭和54年梅川事件が起こって、厳しい銃の所持規制が行われたため、54年には72万5千丁に減じ、翌55年は69万6千丁と53年に対し5万丁も減少している。この傾向は今後年を追うごとに続くものと予想される。

不況も徐々に浸透し、景気停滞消費節約ムードの拡大は、弾の消費数にもはっきり反映されるように、昭和53年1億発を割り、54年8千万発、55年7千6百万発と減退している。

 昭和40年代の初めは、狩猟用装弾の需要が70%に対し、射撃用装弾の需要は30%であったが、徐々に狩猟用とクレー射撃用装弾の需要が逆転し、昭和50年では狩猟用35%に対し、射撃用65%、昭和55年では狩猟用25%に対し、射撃用75%となっている。

このことは、ゲームの減少や3連発射制限などにより、狩猟で実際に使われる数量が減ったことの他、価格の安い射撃用装弾が、実猟の時にも使われるようになったことを意味している。

 現在わが国の装弾メーカーは5社あるが、厳しい競争の賜物として、研究に研究が重ねられ、製品そのものは、どのブランドをとっても、世界最高の品質となっており、この点大いに誇れるものである。
                              
                                                                                                     ーおわりー

「銃」・「装弾」の生産・出荷統計とグラフ
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