「幹さん」のあゆみ

1935年(昭和10年)北海道「新十津川村」生まれ、の様な男になれとの期待の名と思うが、“ミッキーちゃん”と呼ばれ育った。

 

新十津川(シントツカワ)村は、奈良県「十津川村」の分村で、明治22年未曾有の豪雨により、十津川村は壊滅状態となり、政府の助けにより、北海道へ集団移住して開いた村である。

   (川村たかし著「十津川出国記」、同「新十津川物語」)

 

奈良の十津川村は、史実上「保元の乱」、「南北朝の動乱」などに“十津川郷士”として京都御所と関わってきた由緒ある村で、武芸が盛ん、我々子孫もそれを誇りに思い“正しく”生きてきた。

   (司馬遼太郎 街道をゆく NHKスペシヤル 「十津川街道」)

十津川村は出湯の郷であり、「笹の滝」(滝日本百選)、「大小55の吊り橋」などが有名で緑と水に映えるところ。
        
(両村は関東郷友会などを通じ今も交流・協力が盛んなので同村のPRのため一寸協力をさせてもらいました。)

 

1942年(昭和17)戦中、”男女席を同じゆうせず”して下徳富国民学校入学し戦後男女席を同じゆうして下徳富小・中学校を卒業下徳富はシモトップと言いアイヌ語の地名である。

 

昭和29年(1954年)は、「幹さん」にとって、”人生の大きな分かれ道が始まった忘れ得ぬ年。新制4期の砂川北高を卒業し上京、中央大学へ進んだ。カミさんを見つけたのもこの年。(写真:19歳、大変革の頃、頭はヤマアラシ)

 

昭和33年もまた「幹さん」にとっては大きな節目。戦後続いた上昇景気が一旦ドン底まで落ち込んだ下のピークの年、大学は出たものの最就職難の年。

後日、同級生が集まって“白門33会”を結成したが、あの年は散々(サンザン)なだったなあ、しかし我々はこれをさんさん(燦燦)と発音しようと決めたものであった。

 

この年()川口屋林銃砲火薬店へ入社。最盛期200名を擁した、知るものぞ知るシニセの銃砲・火薬の卸売商。一般にはピンとこない商売だが、当時500社からあった全国の銃砲火薬店へ鉄砲や火薬類を卸したり、石炭を掘る、トンネルを掘る、ダムを造る、砕石を行うなど日本の建設にはなくてはならない爆薬を全国へ供給する商売で、昔は大名商売と言はれたりしてきた。(写真:3等社員の頃)

 

鉄砲は戦前、金持ちの道楽であったが、戦後民主化され希望すれば誰でも持てる様になったので、所持者の層は物凄く広がった。“ガンブーム”と言う言葉が生まれたとおり、昭和27年以降3年で2倍の勢いで約20年間拡大していた。

 

しかし大勢になると必ずバカモノ”が現れるもの、ケンカに持ち出すもの、不慣れのため事故を起こすもの、その内「過激派が銃砲店を襲い銃を強奪して武器に使い出したり、シージャック事件、ハイジャック事件、金嬉老事件、浅間山荘事件などが起き、最もひどかったのは三菱銀行梅川事件であった。

 

銃との歴史に関わりが深いヨーロッパやアメリカでは“そんな事も起こるさ”と理解も深く、割合平気で冷静に対処しているのは、狩猟民族の伝統があるからである。しかし悲しいかな我が日本は、農耕民族の子孫であり、事件が起きるとヒステリックに“そんな危ないものを何故持たせておくのか”、“直ぐ取り上げてしまえ”とワメく。

 

スポーツとは「狩猟」のことである、とウエブスター(イギリスの辞書)にもある如く狩猟はあらゆる「スポーツの元祖」であり、「ゴルフ」は銃を逆さまにして「銃床で石を叩いた」事から始まる。

「銃砲」はスポーツ性が高く、ライフル射撃、クレー射撃、ピストル、近代5種、バイアスロンなど伝統あるオリンピック国体での古くからある種目である。それを日本ではこれほどスポーツを奨励しているのに、一辺に“取り上げてしまえ”と言った短絡議論になってしまう。「幹さん」は銃砲業界のため、{“天声人語”と雖(いえど)も}と言う「異義有り」の一文を投じた。(「私のデーターベース」に収録)

天声人語といえどもへリンク

 

銃砲刀剣等所持取締法(銃刀法)が“銃”に関わるメインの規制法であるがこの他「狩猟法など「関連の諸々の法律」と共に、数回に亘り改正され、締め付けられる見通しとなってきたので、「幹さん」は早くお得意先へ情報を伝えるため「KFCニュース」を3年間ほど毎月編集発行した。

 

KFCとはKawaguchiya Firearms Co の頭文字で当時国内の有名ブランドであるばかりでなく、アメリカ、ヨーロッパへ広く輸出し世界へ名の知れ渡ったブランドであって、ケンタッキー フライド チキンのことではありません。

 

ゴルフの如くもっと日頃世論に対して「銃砲スポーツ」をPRしないと、潰されて仕舞うと危機を感じた「幹さん」たち業界で「Fund」を作り“芸能文化人ガンクラブ”の協力を得て、広くテレビでスポーツ性を見せるトライを繰り返した。

 

当時は森繁久弥会長始め、三船敏郎、三橋達也、松方弘樹、ジョージ川口、本郷功次郎、いかりや長介、加藤茶、高木ブー氏などと交流があった。(写真:右から重鎮、三船・森繁・三橋・川口の諸氏)

 

射撃振興のため、企業ベースのクレー射撃大会や業界グルミの射撃大会を多数計画実行たり海外との親善射撃大会へ選抜選手を引率して行くなど、”役得で訪ねた国も多く、結構楽しい体験も沢山ありました。(写真:豪快なマレーシア王様のショット、於王様の私設射撃場でS49年)

 

昭和52年8月の、日本・アメリカ・カナダ射撃大会では、当時カナダが誇る世界の英雄、S・ナトラスとJ・プリムローズの男女二人の世界チャンピオンが来日、射撃大会が終了した、彼等は我が社KFCへ来社した。
 

子供の時、「オモチャの銃」を貰わなかった「男の子」はいないと言うのに、「本物」を持とうとすると”そんな危ないものを”と親が止める。実際、”何所へ行ってどうして持てば良いか”一般に知られていない。そこで「幹さん」たちは「業界Fund」の中から、「How to begin Cley pigeon shooting and Hunting」(クレー射撃と狩猟を始める人のために)と言う、「劇画の入門書」と「模擬試験の解答書」をつくり、全国の銃砲店へ無料配布して「銃砲スポーツ」の普及を図った。
(「私のデーターベース」に一部収録)

射撃と狩猟を始める人ヘリンク

 

総じて銃砲業界は、法の締め付けにより、衰退の一途をたどり、我が社は早い時期の1980年(昭和55年)ころから、他への転向を図った。

 

 

 

 

の代わりに「次の柱」建てよう、と「幹さん」が言い出しっぺで、展示会デスプレイの骨組みを作る新しい商売”へ乗り出した。KFC銃をアメリカ、ヨーロッパへ輸出するため、現地の“猟銃ショー”などへ出展するとき、外国ではブース(小間)の製作をアルミの柱」と「アルミのビーム(梁)で組み立て、解体して繰り返し何十回も使っている。日本では「資源の無駄使い」や「ゴミ捨て場」が問題になって来ていた時期だけに手応えがあった。(写真は、システムによる展示小間のデスプレイ)

 

約10年かかたけれど、この商売を日本へ持ちこんで、我が社も新しく展博業界の一員として一つの部門が成り立つところまで作り上げることが出来た。その名前は「FT展示会システム部」である。これを置き土産としてリタイヤできたのはラッキーであった。
 

1961年(昭和36年)26歳で結婚、「久美」と「深雪」の二女をもうけ。二人とも嫁に出し、今はカミさんと二人で自分達だけの事を考えて居ればよい身分である
 
 

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