一万回目の魔法 深井龍一郎 1 「やぁ、また会ったね」  全く、我ながら陳腐きわまる挨拶だと思う。でも、このときの僕にそんなことを 考える余裕なんかないのだ。  僕の目の前には都会の野良猫達と戯れる一人の少女がいる。ちょっとつり上がり 気味の目、逆三角形の小さな顔、世間一般の評として"美少女"と称しても構わない と思う。まあ、相手が美少女がどうかに関係なく、女の子に免疫がない僕はあがっ てしまうのだろうけど。  彼女はまるで何か自分には関係のない、単になにか物音を立てるものがそこに現 れたかのような無関心な表情で、僕の方にちょっとだけ視線を向け、すぐにまた猫 達の方へと視線を向けた。  僕は彼女のそういう対応にはすっかり慣れっこになっていたので、こんな彼女の 態度に気分を害することもなく、いつものようにカメラを取り出し、一言、 「じゃあ、撮らせてもらうよ」 と断わりを入れてから、シャッターを切り始めた。高感度フィルムを使い、シャッ タースピードを押さえているので、フラッシュは使わない。  彼女の方はといえば、僕のことなんかはすっかり無視して、僕には伺い知れない 猫達との無言の会話に没頭してるみたいだった。そう、これもいつもの通りだ。 2  僕は、アマチュアにまだ両足を突っ込んでるみたいなカメラマンだ。いや、カメ ラマンの卵、と名乗った方がより正確かも知れない。まだ写真の仕事だけでは食べ ていけないので、バイトをして生活費を稼ぎつつ、暇を見つけては写真を撮り、雑 誌社に持ち込んでいる。  今は、ふと思いついた企画―「都会の野良猫達」というタイトルで、東京の野良 猫の集会所の写真と、ちょっとした文章をあわせた記事―が持ち込んだ雑誌の編集 長に気に入られ、連載になっている。初めての連載なので、ぼくもこの企画に入れ 込んでいて、生活できるほどの原稿料なんかとても期待できないのに、ひと月のう ちの半分以上をその取材に費やしていた。  猫の集会所を探すにはちょっとしたコツがいる。いや、コツというよりは言葉に して説明することのできない、感覚のようなものだ。もちろん、人通りのあまり多 くない裏路地やちょっとした広場であることは間違いないのだが、それだけが条件 じゃないのだ。そこから先は、他人には説明できないある種独特の感覚に頼って探 すしかない。  昼間のうちにいくつか当たりをつけておき、そろそろ日付が変わろうかという時 間になってからその場所を回る。最初のうちこそ二週間に一度程度しか実際に猫達 が集まっている場面に出会えなかったのだが、最近は三日回れば一回は出会えるよ うになった。言葉にして説明こそできないが、やはりコツのようなものは掴んでい るのかもしれない。  そんなふうに今では、始めたころに比べれば半分以下の時間で、一回分の記事の 原稿に必要な写真は揃うようになっているのだけど、この取材にかける時間はちっ とも短くなっていなかった。いや、むしろ長くなっているといってもいいくらいだ 。こんなにこの企画に入れ込んでいるのは、初めての連載ということもあるけど、 もっとほかの理由もあるのだ。 3  最初に彼女に会ったのは、もう半年くらい前になるだろうか。僕は持ち込んだ企 画が連載になるかもしれないと編集者に云われて、喜び勇んで猫の集会場を探して 回っていた。既に3〜4回分の記事になるだけの写真は確保できていたのだけど、初 めてのまともな仕事のために、もっと良い写真を集めておきたかったのだ。  昼間のうちに当たりをつけておいた場所をいくつか回る。最初の場所は外れだっ た。今と違ってこの頃は外れの方が当たりよりもずっと多かった。だから僕は気に もしないで次の場所へ向かう。  次の場所に近づくと、猫が嫌いな人には気味悪く聞こえるらしい、長く後を引く 猫の鳴き声が聞こえてきた。今度は当たりだ。  今日はついてるな、と思って自然と足が速くなる。が、その場所のすぐ近くで僕 は唐突に足を止めた。先客がいたのだ。  彼女は、集まった猫達に囲まれて、もの憂げな視線を下に向けつつ、綺麗な毛並 みのシャム猫(きっと雑種だろうけど)ののどをなでていた。これは後から思い出し ながら考えたことだけど、その光景は、普段の僕ならきっとすぐさまシャッターを 切っているだろうと思うほど、美しかった。なんでこんなことを云うかというと、 その時には見とれてしまってカメラを構えることなんか思いも寄らなかったからだ 。我ながら、カメラマン失格だと思う。だけど、そんなことを考えるほど冷静でい られないくらい美しい光景に心を奪われていたのだ。  彼女は僕が来たことにはまったくお構いなしに、猫達との無言のコミュニケーシ ョンを続けていた。僕はといえば、舞い上がってしまって彼女の様子なんかほとん どお構いなしに、うわずった声で、自分が駆け出しのカメラマンであることや、雑 誌の仕事で猫達の写真を撮っていることなど、自己紹介を始めていた。  結果をいえば、僕は彼女にまったく無視されていた。でも、僕の「写真を撮って もよいか?」という問いかけに肯定も否定もしなかったのをいいことに、僕は彼女と 猫達の写真を撮り始めた。シャッター音が聞こえたとき、彼女は聴き慣れない音の 発生源に訝しげな視線を向けたが、自分に危害を与えるものでないことを確認して から、先ほどと同様にまるで無視することに決めたらしかった。そういうところも 猫らしかった。  そう、彼女の第一印象を一言でいえば、まるで猫のよう、だった。それも、自分 に危害が加えられる可能性か、自分の獲物になる可能性がないものに対しては、ほ とんど冷淡ともいえる無視を決め込み、人に媚びを売ることなく孤高を保つ誇り高 い野良猫のそれだ。  それからというもの、僕が見つけた猫の集会所にはほぼ確実に彼女がいた。いく ら狭いといっても、東京だって人間の足で歩き回るにはそれなりに広い。それにも 関わらず彼女に出会い続けるというのは、なにか運命めいたものを僕に感じさせた。  いや、それは彼女に一目惚れをしてしまった僕の勝手な思い込みかもしれないの だけど。 4 「ねぇ」  突然、彼女が僕に声をかけてきた。これはいつもにはないアクシデントだ。僕は シャッターを切っていた手を止め、カメラを下ろして彼女を見た。彼女の声はとて も甘く、ここちよく僕の耳に響いた。きっと僕は目を見開いて、よくいわれる「ハ トが豆鉄砲をくらった」ような顔をしていただろう。  言葉こそ返さなかったが、僕が自分の言葉に反応したのを確認して彼女は続けた。 「一万匹の猫達とお友達になると、どうなるか知ってる?」  僕は、跳ね上がる心臓をなんとか押さえつけ、少しでも気を抜けば震えて吃りそ うになる声帯を押さえつけていった。 「さぁ、どうなるんだろう? 教えてくれないかな」  微笑みを返したつもりだったけど、顔の筋肉がきちんと動いてくれたかどうかは 自信がなかった。  彼女は、そんな僕の反応に少し微笑んで、いちど地面に視線を向けてから、また 僕の方に向き直って云った。 「じゃあ、これから教えてあげる。少しむこうを向いていてくれない?」  彼女の頼みなら聞かないわけにはいかない。僕は慌てて体ごと後ろを向いた。そ して彼女の許しを待った。  1分が経ち、5分が過ぎ、時計の針が30゜回った時、僕は待ちきれなくなって振り 向いてしまった。  そこには彼女はいなかった。ただ、彼女が着ていた黒のシャツと洗いざらしのジ ーンズの上に、一匹のアメリカンショートヘアーとおぼしき猫が座って、僕の顔を 見上げて一声「にゃあ」と鳴いただけだった。まるで自分のしかけたいたずらに引 っかかった間抜けを笑う子供のような表情だった。からかわれたんだ、と僕は思っ た。  それから、僕は彼女に二度と会っていない。ただ、その時のアメリカンショート ヘアーが僕に着いてきてしまって、ちゃっかり僕の部屋に居すわってしまった。し かたなく、大家には内緒で僕は彼女(雌の猫だったのだ)を飼っている。  連載はまだ続いているので、猫の集会所探しは続けている。前と違うのは、なる べくそこに集まる猫達と友達になる努力をし始めたことだ。結局教えてはもらえな かった、彼女の云っていた"答"は、たぶんもうすぐ確認できるだろう。