混信 深井龍一郎 0.  "二兎を追うものは一兎をも得ず"という諺があるが、僕のした体験はそんな言葉じ ゃ表せないくらい酷いものだった。万事が万事、この蓬莱学園では拡大傾向にあると いうことは承知しているつもりだ。それにしたって、ちょっと僕の体験は酷すぎると みんなが感じてくれると思う。僕がなぜこんな狭苦しくて壁がむやみにでこぼこで落 ち着かない小部屋に一日中ずっと居なきゃいけなくなったのか。それはまさに"二兎 を追った"結果によるものなのだ。 1.  その朝、僕は今日の行動について二者択一を迫られていた。  うかつなことに、よりによって口頭試問がある日にデートの約束を入れてしまった のだ。  僕は研究部に進むつもりでこの蓬莱学園に来ていた。明日の口頭試問は、僕が進む つもりの研究室の先生の授業だったから、いくら蓬莱学園では単位を落として留年す るのが当たり前だったとしても、試験をほったらかして単位を落とすわけにはいかな い(受けた上で単位を落とすのも当然まずい)。  同時に、今日デートの約束をしている杏子も、僕にとってはかけがえのない存在だ った。彼女と初めての(そうなのだ!)デートの約束を取り付けるために、僕は一体何 日分の夕食の予算を費やしたのだろうか。でも、そんなことは彼女の笑顔を見れば吹 っ飛んでしまうくらい、僕は彼女にぞっこんだった。  小汚い寮の六畳間に座り込んで悩んでいるだけでは何も解決しない。かといって、 こんな状況を上手く解決する方法なんてそうやすやすと見つかる筈もない。僕は古今 東西、同じ悩みを抱えたことのある人間が必ず一度は口にすることを叫んだ。 「あぁっ! 身体が二つ欲しい!」  するとそれに答える声があった。 「ほぅ、君は身体が二つ欲しいのか」 2.  いつのまにやら、僕の部屋のドアを開けて入り口に薄汚れた白衣を纏った年齢不肖 の男が立っていた。この学園じゃ5年や10年、高校生をやっているやつがごろごろし ている。この年齢不肖の男もそういった古参生徒の一人だろう。 「誰です? あなたは?」  十中八九先輩だと思われたので、無断で他人の部屋に入ってくるような無礼な男に も一応敬語を使っておく。 「私の名前なんかより、君が現在抱えている問題を解決できるかどうかが重要なんじ ゃないかね?」  男はそう言いつつも、"そのすみ"と名乗った。どういう字を書くのかと聞くと、" 園角"と書くと教えてくれた。 「さて、私個人に関する情報はそれだけあれば十分だ。さっきも言ったように、私が 君の問題を解決することが出来る、というのが今重要な事実なのだから」  園角は、幾分早口にまくしたてた。逼迫した心理状態にあった僕はすっかり混乱し てしまい、とりあえずはこの男の話を聞いてみることした。後になって、この判断を 何度後悔したことか。でも済んだことをいつまで言っていても仕方のないことだ。 「君は今、『身体が二つ欲しい』と言ったね。私は、現代社会において殺人的過密ス ケジュールを過ごしている人間のために、身体を二つにする手段を開発した」 「僕の身体を二つにぶった切っちまうとか、そんなんじゃないでしょうね?」  僕はいかにもまだ自分が理性を残しているかのように園角にたずねた。考えてみれ ば、こんな男の話を聞いているだけでも十分理性的じゃない。 「いやいや、そんな野蛮な方法じゃない。もっとスマートだ。君、人間の脳の80%は 使われてないという事実は知っているかね?」 3.  要するに園角の発明品は、外見をその人に似せたロボットをもう一つの身体として 脳とリンクすることにより、身体が二つあるように行動できる、というものだった。 「コピーだって君自身が動かしているわけだから、安っぽいSFにあるように、コピー と本体が入れ替わってしまったり、コピーが反乱を起こす、なんて心配もないわけだ。 どうだ、画期的だろう」  園角が自慢げに説明した。僕もちょっと考えてみたが、同時に身体を二つ動かすな んてことが本当に可能かどうかを除けば、なかなか悪くない提案だと思った(なんて こと!)。  僕がなかなか悪くないと思っていることを告げると、園角は「善は急げだ」と言い 残して部屋から出ていった。どうやら彼の発明品をここまで運んでくるつもりらしい。  やがて、眼と口だけあるマネキン人形のようなものをひきずって園角が戻ってきた。 「これが私の発明品の"リモボデ"だ。さぁ、この口に君の左の人指し指を入れたまえ」  なんでも、左の人指し指にこのロボットと通信を行う端末を埋め込み、同時に僕の DNAサンプルを採取して、僕の外見を再現するんだそうだ。 「指先の端末は、使われなくなれば自然に分解して吸収されてしまうから問題ない」  園角は僕の不安を見透かしたように付け加えた。 「さぁ、君が抱えている問題を解決するにはこれしかないんだ。大丈夫、たいして痛 くない」  僕は園角の言葉に幻惑されたようになって、気付くとそのロボットに左手の人指し 指を差し出してたのだった。 4.  二つの身体からの情報を取捨選択し、同時に二つの身体を操るという仕事は、思っ たよりも簡単だった。僕がピアノを演奏することに少しは関係するかもしれない、と 園角は言った。 「上等、上等。初めてとは思えないな。ところで、時間は大丈夫なのかね?」  園角に言われて、僕は約束の時間と試験の開始時間が間近に迫っていることに気付 いた。 「「じゃあ、行ってくる」」  僕とコピーは同時に言って、僕の部屋を後にした。当然、コピーが試験会場だ。園 角の話では、コピーと端末間の通信は、別に基地局があって中継を行うので5〜6kmは 離れても大丈夫だということだった。それなら学園敷地内にいる限りは大丈夫だろう。  それにしても、2箇所に分散した眼から入ってくる景色を同時に見るというのはな かなか幻想的な体験だ。しかし、身体のコントロールを失うほどではない。僕らは別 々の路面電車に乗り、それぞれの目的地へと向かった。  やがて、本体の僕は、杏子との待ち合わせ場所へとたどり着いた。腕の時計を見る と、約束の時間にはまだ10分ほどの余裕があった。  常に二つの身体に注意を向けて操り続けるのは疲れるので、しばらくの間コピーの 方に集中することにした。 5.  路面電車が中央校舎前駅に着いた。ここで降りなければならない。車掌に定期を見 せ、路面電車を降りる。  中央校舎の昇降口を抜け、試験会場である教室へと急ぐ。既に夏期休暇で授業はな いので、校舎内は閑散としている。  階段を上り、廊下を抜け、目的の教室にたどり着く。コピーは腕時計をしていない (僕は腕時計を一つしか持っていなかったのだ)ので、本体側の時計を見る。よかった 、試験にはまだ時間がある。  ドアを開け中に入ると、既に先生が来ていた。先生は僕の姿を見て少し微笑み、こ う言った。 「少し早いが、試験を始めてしまいましょうか」 「もっりもっとくん!」  突然、本体の僕の背中が叩かれた。僕は心臓が止まるんじゃないかと思うくらい驚 いた。すっかりコピーの方に集中していたのだ。 「い、いや、都合が悪いならそう言ってくれたまえ。いきなり大声を出して驚くこと はない」  どうやら、コピーの方で驚きの叫び声を上げてしまったようだ。先生が眼を見開い てコピーを見つめている。 「いや、ちょっと試験に臨んで気合いを入れてみただけです。すいません。試験を早 く始めても構いませんよ」  僕はコピーの方にそう喋らせて取り繕った。ここからが正念場だというのに、こん なことじゃ先が思いやられる。 「ちょっとぉ、なにぼーっとしてるのよ」  杏子がけげんそうな顔をして僕の顔をのぞき込んでいる。やばい。 「いや、君の顔にみとれちゃって」  我ながら歯の浮く台詞ではある。 「またまたぁ。さ、早くしないと、映画、始まっちゃうよ」 「そうだね」  僕は、まんざらでもなさそうな杏子と連れ立って、新町の方に歩き始めた。 「さて、今回のテーマは『パドバン数列』だ。正三角形を利用したパドバン数列の生 成法はよく知られているが、これを3次元に拡張した場合について、その幾何学的特 性の変化について考察してみたまえ」  あちゃ〜。見事にヤマが外れてしまった。数列までは合っていたが、僕はフィボナッ チ数列のことばかり考えていたのだ。これは難しい試験になりそうだ。 6. 「映画、おもしろかったね」  僕と杏子は、映画を見終わり、"ふらっぱぁ"で遅めの昼食をとっていた。はっきり 言って、いまやってた映画なんか観ちゃいなかった。ほとんどの時間、問題を上手く 説明するのに僕の頭脳はかかりっきりだったのだ。映画館の暗やみの中でなければ、 また杏子に「ぼ〜っとしている」と言われてしまっただろう。もしかすると機嫌を損 ねて帰ってしまっていたかもしれない。  杏子は、映画のシーンでよかった所の話を延々と続けた。僕は話半分に聞きながら も、時折、自分の意見を喋った。下見のときにストーリーを把握しておくために映画 をあらかじめ観ておいたのが、こんな風に役立つとは思わなかった。杏子は、僕が話 半分なのには気付いていないようだ。 「…となり、3次元空間内に螺旋状に展開される曲線として表現できます」  僕は、汗をかきかき、ようやく先生が出した問題についての考察を終えた。先生は 目をつぶって僕の発言をいろいろと検討しているようだが、表情を伺う限りでは、致 命的な失敗はしなかったみたいだ。  と、二箇所でほっとしている僕のに、突然誰かが話しかけてきた。 「あ、もしもしぃ? ちょとぉ、なにやってるのよ。今どこにいるの?」  僕はびっくりして、自分の前にいる人物をそれぞれ見つめた。杏子はけげんそうな 顔をしている。先生はまだ沈思黙考の最中のようだ。 「ねぇ? どうしたの?」 「ん? 何か言ったかね?」  やはり僕は何か言ってしまったらしい。ただびっくりして声を上げただけかもしれ ない。その場は取り繕って、なんとかごまかした。しかし、今のは何だったのだろう か。 7. 「あっ! こんな所にいたのか」  突然、園角が慌てふためいてデート中の僕の前に現れた。彼は杏子のことなんかま るで無視して僕に向かって話しかけてきた。 「で、君はコピーの方かね?それともオリジナル?」  僕は慌てて杏子にここで少し待っていて欲しい、と頼み、園角を伴って店のすみの 方へと移動した。 「なんだよ? 僕はオリジナルだけど、なんだってまた他人のデートを邪魔するような ことをするんだ」 「君、突然変な音声が聞こえてきたりしなかったか?」  園角は僕の話なんかまるで聞いちゃいない様子で、さらに質問してきた。変な音声? さっきのあれのことだろうか。 「あぁ、確かにさっきそんなことがあったよ」  すると園角は明らかに落胆した様子で、「そうか」とだけ答えた。そしてしばらく 黙っていた。 「君、左手の人指し指を見せてくれないか」  園角がそう言ったので、僕は始めて自分の左手の人指し指の異変に気付いた。 「わっ、なんじゃこりゃ」  色はふだんと変わらないが、表面に血管を浮かせて、ピンポン玉大に腫れ上がって いたのだ。  園角はため息をついて、「やはり手遅れだったか」と言った。なに? 手遅れだって? どういうことなんだ? 「いいかね、ちょっと耳を澄ませてみたまえ。何か聞こえないか?」  頭に血を上らせかけていた僕は、しぶしぶ園角の言葉にしたがって耳を澄ました。 「じゃぁ明日の5時が締め切りだから、それまでには絶対よろしく」 「ねぇねぇ、悪徳大路の新しいカジノに今夜、行ってみない?」 「はい、その件につきましては、早急に対策を施しますので」 「ええとですね、今、画面にはなんて表示されてますか?」 「カップヌードルのカレーね」 「南南西の風、風力3。天気晴朗なれど波高し」 「ぴーがらがらがらがらがらがら」 「3号車、委員会センター前に急行」 「いや、本当に悪かったと思ってるんだ、謝るから勘弁してよ」 「ほんとだって、嘘じゃないよ。そんなに言うんなら賭けたっていいよ」 「小麦は300売り、小豆を500買いだ」 「明日の授業、代返頼めないかな? B定食おごるからさぁ」 「来週の日曜日、空いてるかな?」 「金、金、金」 「よろしい」 「キティちゃんはただいまるすでーす。ご用の方は発信音の後にメッセージを入れて ね」 「味噌ラーメンと湯麺とギョウザ2人前、大至急ね」  なんてことだ。ちょっと耳を澄ました瞬間、誰のものとも判らない莫大な数のお喋 りが僕の耳に飛び込んできた。今店内にいる人間が全員大声で喋ったって、これに追 いつくはずがない。ありていに言って、先生がまだ来ていない大教室よりもうるさい。 「こ、これは…」  僕が呆然としていると、園角が説明を始めた。 「リモボデをコントロールするための端末を君の左手の人指し指に埋め込んだのは覚 えているね。実はリモボデと端末の間は当然電波で結ばれているのだが、その周波数 と近ごろ急に普及した携帯電話の周波数が同じなのだ」 「と、いうことは…」 「そう、君が聞いているのは、学園内で使われている携帯電話の会話だ。要するに 『混信』しているというわけだ」  園角はさらさらと答えた。むらむらと怒りが込み上げて来て、猛然と抗議しようと したが、園角がそれを制して言った。 「いや、たいへん申し訳なく思っている。しかし、このシステムを開発した当時は携 帯電話なんてものは少なくともこの宇津帆島では影も形もなかったんだ」  園角が台詞を全部言い終わる前に、僕は耳を押さえてうずくまった。指先から流れ 込んでくる電波に乗った会話は、すでに僕の聴覚を奪うほどに大きくなっていた。既 に会話の内容はうわーんというノイズの中に埋もれていた。あまりの声の大きさに、 頭ががんがんした。声はどんどん大きくなっていき、僕を押しつぶそうとした。僕は はかない抵抗を試みたが、彼我の圧倒的な物量の差の前にはなす術もなかった。つい には音声だけではなく映像まで僕の視界の中に割り込んできた。能天気なマンガ映画 の映像を眺めながら、僕は気を失った。 8.  気がつくと、僕は今いるこの小部屋の中にいた。机の上に置かれていた園角の置き 手紙によると、ここは電磁暗室といって、外界からの電磁波の影響を限りなく0にし てある部屋なのだそうだ。  僕は、子供の頭ほどの大きさになってしまった左手の人指し指の先が委縮するまで、 この部屋を出られない、ということだった。リモボデの端末は、過大な入力に対し て自分の能力を増大させていき、ついには携帯電話の電波だけでなく、この世の通信 に使用されているほとんど全ての電波を受信する能力を得たのだという。  僕が気を失う前に見たマンガ映画は、放送メディア委員会が流していたTV番組だっ たんだそうだ。  指先がいつになったら委縮するのか、園角もはっきりとは判らないという。前例が ないのだそうだ。指先を切除しようにも、端末に脳との強いリンクが作られているの で、どんな影響が出るか判らないということだった。  いかなる政治力を行使したのかは判らないが、園角の手配により、生活はもとより、 授業もこの部屋を一歩も出ずに受けることが出来た。  僕は、この指先がある限り、この部屋から外に出た途端に過大な入力を受けて気絶 してしまうだろう。しかし、外に居続ければ、いつかは感覚が麻痺して問題なく暮ら せるようになるかもしれないのだ。でも、僕にはそんな賭けをするだけの勇気と無謀 さは残されていない。  それに、僕はこの生活もそう悪くはないと思っているのだ。