味覚の意味 深井龍一郎 「たとえそれがどんなものでも、美味い食い物が良い食い物だ」 ─ある美食家が料理人に食材を明かされてから言った言葉 1.  彼は、大きな憂鬱を抱えて歩いていた。自分よりも憂鬱な人間は、この宇津帆 島には、いや、この蓬莱学園には、いや、少なくともこの悪徳大路にはいないん だろう、とも思っていた。結構自棄になっていたのかも知れない。この後に起き た事件を考えるに酒精も少し入っていたように思うが、今から本当にそうだった のか、と改めて訊かれると断言はできない。  ここは生徒総数10万人を誇る蓬莱学園。そして、その中にある日忽然と湧き出 した歓楽街であるところの悪徳大路である。彼はどういう経緯でこの街が出来上 がったのかは知らなかったが、あらゆる種類の娯楽に関して、ここがある程度以 上に融通の利く街であることは知っていた。もちろんそれにはそれなりの代償─ 金銭である場合が大部分だったが─を必要とすることも。要するに彼は憂さを晴ら す為にこの街をほっつき歩いていたのである。  ふと、一つの屋台がまるで魔法のように彼の視界に浮かび上がって来た。背景の 雑然とした悪徳大路の建物群と別段代わり映えがするわけでもないのに。『よし、 この屋台で飯を食ってやろう』などと無謀なことを思いついたのは、憂鬱を抱えて いたせいでも、自棄になっていたせいでも、当然、空腹感を感じていたせいでもあ るだろう。もっとも、彼は一日のほとんどを空腹感と共に過ごしていたのだが。  その屋台は、灯が点いていることを除けば、贔屓目に見ても営業しているように は見えなかった。屋台にたった一つだけ備え付けられたコンロの上で湯気を立てて いるズンドウの他、一応洗ってあるようだが古ぼけて薄汚れて見えるシチュー皿と、 やはりこれも薄汚れて見える安っぽいスプーンの他には何もない。品書きが下がっ ている訳でもなく、BGM代わりのAMラジオが軋んだ流行歌をがなりたてるなか、不 機嫌そうな表情の細面で白衣を着た男が立っている。あまり料理人風には見えない が、こうして屋台の向こうに立っているからにはこの男が主人なのだろう。  雰囲気に飲まれ、おずおずと声をかけると、主人らしき男は商売っ気のまるで感 じられない声で言った。 「一日一品、同じものしか出さない。出されたものを食って、美味かったら金を払っ てもらう。不味かったら金は要らない。どうだい? シンプルだろう?」  ははぁん、だいたいの仕組みが飲み込めた。要するに、いま流行の客に媚びを売 らない店のつもりなのだろう。彼の意識の中の味覚に反応する部分がヒクリと触手 をもたげた。  面白半分に彼が注文の意図を伝えると、主人は屋台にたった一つだけ備え付けら れたコンロの上に乗ったズンドウから、おたまでなにやらシチュー皿に盛り付け始 めた。  一見してそれは、とてもじゃないが人間の食べるものには見えなかった。白っぽ くドロっとした粘液の中に、それがなんであるかは判別不可能な細かな端切れが浮 いている。一応煮込んであるらしく、暖かそうに湯気をたててはいたが、温めすぎ たのか、ところどころ茶色く変色している。とてもそれをスプーンですくって口ま で持って来る気にはなれない代物だ。主人は、最後の仕上げとばかりに特大の胡椒 入れをその上で2、3度振り、皿を彼の目の前に置いた。  彼は主人が皿に盛り付けている間、どうやったらそれを食べないでここを立ち去 ることができるか、について熱心に考えていた。もちろん、金を払わずに立ち去る ことが出来れば上出来だ。しかし、それから上がっている湯気を一息吸い込んだ瞬 間、彼は我を忘れてそれを口へと運んでいた。  美味い。こんな美味いものは初めて食べた、そんな感想を抱いたのは、実は後か らこの時のことを思い出してからなのかも知れない。食べている間は、とにかく我 を忘れ、なるべく間を置かずにそれを口へと運ぶことだけを繰り返した。  我に帰ると、目の前の皿は綺麗に空になり、涙を流している自分に気が付いた。 主人は、それまでの不機嫌さがまるで嘘のようにニヤニヤしている。まるでそれは、 先週の土曜日の深夜にやっていたB級ホラー映画に登場した狂った科学者が、イカ れた実験が成功して心から喜んでいるシーンで見せたような表情だ、とそんなこと をふと思ったが、そんな下らないことはこの味覚の感動の前にどこかへ紛れてしまっ た。 「どうだい? 俺の料理は気に入ったかい?」  主人が最初とはうって変わっての笑顔で尋ねた。彼は自分の感激をそのまま答え る。 「そうかい、気に入ってくれたかい」  主人はますますにんまりといった表情で続ける。 「実は、最初に『気に入ったら金を払え』と言ったがね、見ても判る通り、これは 道楽みたいなもんでね。金は別に要らないんだ」  先程までの感動はどこへやら、頭の中は"やばいぞ"という警報がガンガン鳴り響 く。なにせここは"悪徳大路"なのだから。 「いやね、こんなに俺の料理を気に入ってくれた人も珍しいんでね。普段は作らな いスペシャルメニューをご馳走しようと思うんだ。そこであんた、また明日も来て くれないかな?」  なんだ、そんなことか。彼の頭の中の警報は一気にトーンダウンした。そして、 ほとんど躊躇することなく諾、と答えた。  それがどんな罠の入り口になっているのかも気付かずに。 2.  彼は、悪徳大路を歩いていた。一週間前と同じ時間、一週間前と同じ道である。 が、周囲の光景は若干変わっているように思えた。常に人間ばかりか建物や道路ま でもが新陳代謝を繰り返している悪徳大路では、それは珍しいことではなかったが。  光景が一週間前と違って見えるのは、光景が変化したことばかりではないようだ。 それを見る彼の心境も大きく変化していた。一週間悪徳大路に通う間に、それまで 彼の心の大部分を占めていた憂鬱はなりを潜め、うきうきした気分が頭脳の大部分 を占めている。別に一週間前に抱えていた憂鬱を忘れてしまった訳ではなく、その 原因を取り除くチャンスまでも掴みかけたことが大きく影響していた。  また、彼は昨日までに体験してきた素晴らしい味をありありと脳裏に思い出すこ とができた。思い出すうちに感動で涙ぐむくらいに。授業中に涙ぐんでしまって隣 の席の奴に変な目で見られてしまったくらいだ。今でもありありとその味は思い出 せるが、さすがに歩きながらは危険だという分別が働いたから止めておく。  奇跡的に屋台は一週間前と同じ場所に一週間前と同じようにあった。まるで、こ の一週間もの間、そこだけが時間の流れから切り離されたように彼には思えた。 「やぁ、いらっしゃい」  最初に会ったときとはうって変わって、愛想良く主人が挨拶する。彼は席に着く と早速今日のメニューを所望する。 「はいよ」  これは一週間前と同様に、いや、色の濁り具合からいって一週間の間、ずっと煮 込み続けているような、とても人間が食べられる代物とは思えない、なにかの煮込 みを皿に盛り、これまた昨日までと同様、でっかい胡椒入れからなにやら振りかけ、 彼の前に差し出す。  彼は昨日までと同様に、脇目も振らず、何も考えずにそれをあっという間に平ら げ、忘我の領域をさ迷い、やがて満足する。もう7度目ともなれば感動も薄れそう なものだが、そんなことも全然ない。  感動のうちに皿の中身はなくなった。彼はまたもや涙を流してさえいた。本当に この味は素晴らしい。一生の間にこのような味覚体験ができる人間など、そうはい ないだろう、とさえ思えた。  食べ終わって一息着いて、彼は昨晩寝床の中で思いつき、それ以来頭の中でずっ と転がし続けているある考えをどうやって切り出そうかと考える。昨日立てた仮説 は今日の観察で立証されている。後はどうやってこの変人らしき主人をその気にさ せるか、だ。 「さて、俺に話したいことがある、って顔をしてるね」  いきなり向こうから水を向けられ、彼は少し狼狽した。しかし、却って好都合で あると思い直し、自分の身分を明らかにし、彼が現在抱えている問題と彼が思い付 いたその解決策について話した。このような場所で話すのはいささか不用心だった か、彼は問題解決に心を奪われ、用心のことは忘れていた。  主人は少し考え込み、そして慎重に口を開いた。 「あんたの言う通り、俺の料理の味はこの調味料が全てを決めている。これを加え ないうちは食えたもんじゃないってのも当たりだ。あんたの洞察力には感心するよ」  彼がそこで口を挟もうとするのを主人は身振りで抑えて続ける。 「まぁ、聞けよ。あんたが何者だろうと、俺はこの調味料の実力が試せればそれで いいんだ。データさえ揃えば、後はどうにでもなる。だから、あんたの申し出がデー タを揃えるのに適当なら協力するさ。そうでないと俺が判断したなら協力はできな い」  彼は主人の反応を聞き、その説得に自信を持った。なぜなら、この蓬莱学園に於 いてこの主人の調味料の実力を試すのに、彼の抱えている問題以上にうってつけの ものはない、と確信していたからだ。彼の説明を聞くにつれ、主人の目の輝きが変 わってきたのを、彼は見逃さなかった。しかし、その時主人が口にした次の言葉は 彼には理解できず、記憶の表面を滑り落ちて消えてしまった。 「それが実際に存在していないものだろうがなんだろうが、あんたの脳が感じたこ とがあんたにとっての現実なんだ。あんたの脳に直接味覚を送り込む俺のこの料理 はいわば究極の美食ってわけだ」 3.  彼は昨夜の主人との交渉が上手くいったことで、問題の95%は解決したと思って いた。しかし、朝が来て、職場に意気揚々と現われた彼は、その考えがいかに甘い ものだったかを実感させられた。  問題解決までに立ちはだかる唯一にして最大の難関は彼の上司だった。この難問 を彼に振ってきたのは上司自身だというのに、彼の立案した解決策が気に食わない らしいのだ。 「とにかく安全性の保証がなければ君の計画は到底承認できない」  上司は彼が自分のアイデアを話し始めてから何度目かの台詞を口にした。彼は、 彼自身が安全性の生き証人だと主張したが、彼の胃袋の頑健さはつとに有名だった ので、あっさりと上司に却下されてしまった。  彼は突然にして窮地に立たされた。彼が自分を窮地に立っていると認識していた かどうかは疑わしいが。彼が抱えていた仕事の期限はとくに設定されていなかった が、これを解決できなければこれから先の生活に悪影響が出ることは間違いない。 彼は憤然と席を立った。「安全性の証拠を持って来る」という捨て台詞を残して。 「やれやれ。彼はそんなに仕事熱心なタイプだったかな?」  困惑と部下の管理に失敗したという思いと共に、上司はため息を吐いた。実は彼 に振られた仕事の解決を上司は求めてはいなかったのだ。彼のタイプを上司は完全 に見誤っていた。彼は一見物事に執着しないタイプに見えたが、実は思い込んだら 一直線に突き進むという人間だったのだ。往々にして悲劇の種はこの手の思い違い に潜んでいるものだ。  オフィスのドアを手荒に閉め、廊下を足音も荒く歩きつつ、彼は一心に考え込ん だ。すれ違う同僚から声をかけられても気付かない程集中して考え込み、やがて一 計を案じた。上司にどうしてもこの案を認めさせたい。その一心だった。やがて彼 は一つのアイデアにたどり着いた。まだ午前中なので、まだ実行のチャンスはある。 彼は急ぎ足で計画を実行すべく、目的地へと急ぎ足で向かった。  目的地に着いた後、彼は自分に与えられた権限と自分の持つ技能を最大限に活用 し、アイデアをものにした。昨晩主人と交渉しておいた甲斐があったというものだ。  彼はアイデアの結晶を目の前に手際良く並べた。上司の云うような危険などある 筈もないのだ。上司には身をもって証明してもらうことになるだろう。  昼休みが終わり、彼はまた上司の前に立った。まず彼は上司に今日の昼食の感想 を求めた。上司は感激した面持ちで答えた。 「素晴らしかった。こんな美味が世の中に存在していたなんて、今までの私の食生 活は一体なんだったのだろう?」  彼は、ひょっとすると上司は怒り狂っているかも知れないと予想していたので一 応ほっとした。彼は、昼食の味は彼が実施しようとしている計画に使われる調味料 を用いたものであることを上司に打ち明けた。  いくら彼が楽天的とはいえ、1割くらいは上司の叱責を覚悟した上での行為だっ たが、意外な展開が待ち受けていた。上司は非常に好意的な態度で彼を迎えたのだ。 「いやぁ、午前中は悪かった。君のアイデアは実行するだけの価値が十分あること がわかったよ」  上司はそう言うと、『念の為』委員会内で実際のメニューを用いた安全性確認実 験を行うことを彼に告げた。もちろん、そのセッティングは彼に一任された。午前 中とはそれに込められた意味こそ違ったが、やはり彼はこの部屋か足音高く立ち去っ た。 4.  それからの数日間は、巨大な官僚組織との戦いだった。彼は説得し、調整し、時 には規則を破った。そうしてようやく全てのスケジュールを万全に整え、実験にこ ぎ着けることが出来た。多少の無理はあったが、それはいつものことだし、計画自 体の実行に比べればささいなことだと彼は考えていた。  いよいよ実験当日である。学食のメニューが一揃い、実験台の生活委員達の前に 置かれる。委員たちには実験の趣旨が詳しく説明されていなかった―なぜなら、そ の方が実験の効果がより詳しく確かめられる、と屋台の主人が主張し、彼も彼の上 司ももっともだ、と考えたからである―ので、彼らは一様に自分以上の悲劇にあっ ている人間はいない、という表情をしている。そこへ屋台の主人が件の調味料をふ りかけて回る。その途端、その皿を前にして座っている委員の表情が一変するのが 端から観察していておかしかった。早くもよだれを垂らして慌てて拭く委員もいる。  やがて、主人が全ての委員の目の前の皿に調味料を振りかけ終わったのを確認し、 今日の実験の一応の責任者である彼の上司が口を開いた。 「さて、諸君の目の前に並んでいるのは我々、生活委員会が運営している学生食堂 のメニューです」  ここで列席の委員たちから驚きの声があがる。上司はその声が収まるのを待ち、 続けた。 「いままで、我々は学食のメニューの味の向上に血のにじむような努力を重ねてき ましたが、そのことごとくが徒労に終わっていました。しかし、ここに居る」ここ で彼と主人の方に手をかざす。「優秀な一委員と善良な協力者である彼の努力の 結果、目覚ましい成果を上げることが出来ました。本日はその結果のお披露目です。 さぁ、料理が冷めてしまいますね。どうぞ御賞味になってください」  上司の挨拶が終わると同時に、その部屋に居た全ての人間が、我慢の限界とばか りに皿にかぶりつく。彼や上司の目の前にも皿は用意されていたので、彼らも例外 ではない。 「…?」  それは、とても奇妙な感覚だった。匂いはする。とても美味そうな匂いだ。が、 舌触りがない。当然味もしない。どこからともなく妙なる音楽が聞こえてくる。口 の中にあるはずのものを噛みしめる。多少の抵抗を伴って何かが歯の間でつぶれる 感覚がする。それに伴って、妙なる音楽のフレーズが変化する。舌の上に乗ってい るはずのものを転がしてみる。妙なる音楽のコードが変化する。そしてやがて音楽 は溶けるように消えていく。  その代わりに現れたのは、目の前で目まぐるしく変化する全ての色を含んだスペ クトルだった。口の中のものを噛みしめたり舌で転がしたりすれば、スペクトルは 変化する。不思議なことに、そのスペクトルは決して不快感を巻き起こすものでは なかった。  目の前からスペクトルが去り、視界がこれまで見えていたものに置き変わると、 また妙なる音楽が聞こえてきた。彼は混乱していたが、目の前の皿から口へと食物 を運ぶ手を止めなかった、いや、止められなかった。  その場にいて、食事をしている人間の全員が、その奇妙な感覚を味わっているこ とは一目瞭然だった。皆一様にとても奇妙な表情をしている。もっとも、目の前に スペクトルが広がっている人間にはわからなかっただろうが。  それは確かにめくるめく体験ではあった。しかし、味覚とは全くの無関係でもあっ た。味覚以外の感覚しか伴わない食事が人間にどういう影響を与え得るか、彼は身 をもって証明した。がしかし、それは言葉で他人に伝えられる性質のものではなかっ た。もし、彼が何かの宗教の信者であったならば、これこそが神の光臨であると信 じたかもしれない。実際、宗教を持った委員はそう思い込んでしまった人間がいた らしい。  主人が横でなにやらつぶやいているのに彼は気付いた。 「まったく、製造を急がせるからこういう失敗が起きるんだ。マイクロマシンの製 造はデリケートだっていくら説明したって、理解できない頭しか持ってないんだ。 俺のアイデア自体は間違っていないんだ。しかし、なんでまた味覚と聴覚、視覚を 間違えるなんて失敗をしたんだ!」 5.  出席していた数十人の委員が、半日以上も前後不覚になってしまった彼の実験─ 事件と呼ぶ者さえいた─の結果、自称『天才料理人』の狂的科学部生徒が開発した 『味覚変換マイクロマシン』を使って、学生食堂のメニューの味を少しでも向上さ せる、という彼の提案は闇に葬られることになった。公安委員を兼務する委員の中 には、実験台となった生徒に現れた効果があまりにLSDに酷似していたため、その 狂科部員の生徒を麻薬関連取り締まり学則に則って処分すべきだ、という意見を言 う者さえいた。この意見をなんとかうやむやにしてくれた、自分の上司の政治力に 彼は感謝した。  その狂科部員、すなわち屋台の主人は、実験の後、食事をした全ての人間が正気 を取り戻した時には姿を消していて、それ以来彼は一度も主人を見かけていない。 悪徳大路の屋台があった場所に行ったりしてもみたが、それらしい場所には既にい かがわしい賭博場が出来ていて、主人の行方の手掛かりになるようなものは何も手 に入らなかった。  あれ以来、彼は食事をする度に考え込む癖が出来てしまった。『味覚変換マイク ロマシン』の原理は、食べた物によってもたらされる味覚をブロックし、食べた物 の代わりにマイクロマシンが味覚を脳に伝える、というものらしかった。彼にはそ の意味はよく解らなかったのだが。  つまり、彼は幻の味に魅了されていたのだ。しかし、彼は思う。幻の方がよりよ く感じられて、しかもなにも害がないのだとしたら、それでも良いではないか。わ ざわざ大金を払って本物を求めることにどれだけの意味があるのだろうか、と。