Illusionary Rain 深井龍一郎 1.  雨が降っていた。  一面の葦に覆われた湿地帯のすきま、ほんの少しだけ開けた水たまりの水面 に、雨粒の作り出す無数の波紋が踊っていた。  水面に浮かんだ、平たく丸い葉の上から、葉と同じく真紅の鱗を持つ、魚類 から両性類への進化の階段をのろのろと昇り始めた小動物が、ぽちゃりと大き な波紋を立てつつ水中へと消える。  水面がゆっくりと平静を取り戻すのを、彼は視界の隅で無感動に捉えていた。  感情というものをほとんどなくしかけていた彼も、ここに降下してからとい うもの、やむ気配さえまったく見せないこの雨にうんざりしていた。  防水はほぼ完璧だし、昼間にこれくらいの光量が確保できていれば、待機モー ドで充分機能を維持していけるだけの発電量はあるはずだが、それでも彼は漠 然とした不安を感じていた。  降り続く雨に不安を感じているわけではない。降下前に、この惑星の1年の 半分を占める雨季についての情報はきちんと得ていた。この降下予定地点が、 作戦開始時に、丁度その始まりの時期であったことも。  敵はいつ、どこから、どんな形で襲ってくるか判らない。しかし、彼を不安 に陥れているのはそんなことではなかった。どんな状況であれ、彼には敵を倒 すだけの能力を自分が持っているという自負があったし、また、敵の力のほう が勝っていた時のことを心配しても無意味であることも解っていた。  実のところ、自分が何について不安を感じているのか、彼にもよく判ってい なかった。その、判らないということそれ自体が、彼をますます不安な気持ち にさせていた。  彼の目的はただ一つ。敵を待ちつづけ、発見次第致命的なダメージを速やか に与え―でなければ彼が致命的なダメージを被ることになるだろう―、そして またひたすら敵を待ちつづける。迎えが来るまでそのくり返し。背景こそ様々 だったが、これまでの彼の記憶の大部分を占めている思い出でもある。  光学センサが、周囲がだんだんと暗くなっていることを彼に知らせた。  また夜がくる。  夜がくれば"あれ"がまた現れるだろう。彼は"あれ"をまったく脅威には感じ ていなかった。むしろ、心のどこか深いところで待ち望んでさえいたかもしれ ない。  それがなんであれ、敵の出現以外のなにかを待ち望んでいる、ということが、 自分にはあってはならないことだと知っているから、そんな自分の気持ちに不 安を感じているのかもしれない、と彼は自分を納得させようとした。それがう まくいったとは到底いえなかったのだが。 2.  どんどん暗くなっていく周囲に合わせるために光学系センサの動作モードを 切り替えながら、彼は"あれ"に初めて遭遇したときのことを思い出していた。  まるで幻のように、"あれ"は彼の目の前に忽然と現れた。周囲は闇のはずな のに、"あれ"はまるでなにかの光源に照らされているかのごとく、はっきりと 確認できた。  彼は、そんな風に出現する敵を見るのは始めてだった。だが、彼の意識の深 いところに植えつけられた戦闘のための条件反射が、彼が"あれ"の姿を認識す る前に彼の身体を動かしていた。  待機モードから高機動戦闘モードへの移行。体内の反応炉は一瞬で小さな山 を吹き飛ばすほどの推力をたたき出す。泥に半ば埋もれていた彼の身体が爆発 したかのように泥の混じった水を周囲に派手に巻き散らしながら、彼は"あれ" を中心にして右周りに旋回しつつ、熱線と実体弾を同時にたたき込む。  彼が"あれ"の姿をきちんと把握したときには、すでに"あれ"は消え去ってい た。  "あれ"は、この惑星で確認されているどんな敵とも異なった姿をしていた。  細く、すらりとした身体をしっかりと立て、真ん中がドーム状に膨らんだ頭 部の周りを円形のひれがとり巻き、その下から身体の1/3くらいの長さの細く 黒い触手が伸びている。頭部の少し下から、黒い触手よりかなり太い2本の触 手が伸びている。身体を、下がふわりと広がった白い膜がゆったりととりまき、 とても重力に逆らえそうにない細い足が支えている。  彼は、なぜ自分が"あれ"を攻撃したのか、論理の帰結によって答を導き出す ことができなかった。この惑星の原始的な生物たちとは明らかに異質な存在だっ たが、貴重な実体弾を費やしてでも攻撃すべき対象だったかどうか、と改めて 自らに問うても、否定的な答しか導きだせなかった。  彼は混乱していた。なぜ自分が攻撃しなければならないと判断したのかが解 らないのもさることながら、"あれ"は彼の攻撃によって粉砕されたわけではな かったのだ。  "あれ"は彼の攻撃を受ける直前に現れたときと同様に忽然と消え去った。い くらセンサで走査しても、あとに"あれ"が存在していたことを示す証拠は何も 残っていなかった。  ただ、消え去る直前に確認できた、"あれ"の頭部の模様の本当に微妙な変化 が彼には気になってしかたがなかった。  理由は判らないが、彼は自分がとてつもなく悪いことをしてしまったかのよ うな感覚に囚われていた。攻撃してはいけないもの―回収艇以外に彼はそんな ものを知らなかったが―を攻撃してしまったのではなかったのか。  彼は、3台の補助コンピュータによる自己診断を何度も繰り返した。 (診断結果: α−異常なし β−異常なし γ−異常なし)  何度実行しても3台とも「異常なし」という答しか返さなかったが、彼は執拗 に実行しつづけた。 3.  やがて夜が訪れ、彼と同様に外の世界から侵入してきた敵と彼と彼の仲間以 外には、文明などその萌芽も存在しないこの地域は、完全な闇に包まれた。  彼は"あれ"の出現を待ちつづけた。彼は"あれ"の出現を、いつしか自分が楽 しみにしていることに気付いていた。  …タノシミ? "タノシミ"とは一体なんだ? すかさず、3台の補助コン ピュータが戦闘支援データベースを検索し、その耳慣れぬ語彙を明らかにしよ うとする。 (検索エラー。圧縮された外部記憶装置の記憶も検索対象にしますか?)  一瞬の間を置いての補助コンピュータからの問いかけに、彼は驚きつつ承諾 の意志を伝える。外部記憶装置を必要としたことなど、記憶の範囲内では初め てのことだったのだ。しかし、先程よりは長い間を置いて補助コンピュータが 返してきた答は、さらに彼を驚かせた。 (検索エラー。"タノシミ"に該当する語彙は存在しません。続けて自己診断モー ドに移行します)  どういうことだろう。今まで、記憶野にない語彙が意識にあがったことなど 一度もない。放射線による電子デバイスの誤作動だろうか? それとも、生体 部品の耐用期限が切れてノイズ混じりの出力がされるようになったのか? い ずれにせよ、自己診断が終わるまでは何を考えてもしかたのないことだ、と彼 は思い直し、ようやく落ち着くことができた。 (診断結果: α−異常なし β−異常なし γ−異常なし)  やはり補助コンピュータたちは異常を発見できないようだ。自己診断では、 診断を行う補助コンピュータ同士の相互チェックも同時に行っているので、機 構のすべてが同時に異常を起こさない限りは、何らかの異常が起こっている場 合にそれがまったく発見できない、ということはないはずだ。  彼は、自分が機能に重大な故障を抱えている可能性を含んだまま、作戦を遂 行していかなければならないことに気付き、わけの判らない不安の理由はこれ だったのか、と納得した。  それと同時に、一種の開き直りとでもいえる気分が彼を支配していた。どう せ予定された回収の時までに迎えが来ることはありえない。ここは敵地なのだ。 それに、もし、機能に問題がなかったとしても、敵を撃破するか、それとも彼 が撃破されるかのはうまく行って半々なのだ。これ以上、検出できない機能不 全について悩んでいても仕方がない。  そう結論づけた彼は自己診断の中止命令を発行し、周囲に注意を戻した。  彼の気付かないうちに、"あれ"が現れていた。いつもの通り、なんの前兆も なく、唐突に現れたようだ。  これもいつもの通り、光源もないのにまるで昼のうららかな日ざし―この惑 星ではたとえ昼であってもそんなものはありえようがないのだが―を浴びてい るように輝いて見えた。  いつものように白い、庇の大きな帽子をかぶり、緩やかな木綿のワンピース をふわりと纏い、重さを感じさせないバランスで危うく立って、彼の方を悲し げな表情で見つめている。  "ボウシ"? "モメン"? "わんぴーす"? "カナシゲ"? 彼は次々と現れ た耳慣れぬ単語に混乱した。自分のどこにそんな語彙が存在していたのだろう か。補助コンピュータが次々とエラーメッセージを返してくる。  何故? 彼の心は疑問符で溢れかえっていた。  どうして聞き覚えのない単語が突然浮かんでくるのか?  一体"あれ"―いや、"彼女"だ―はなん―いや"誰"だ―なのか?  "カノジョ"?  "ダレ"?  ここは一体どこだ?  そもそも自分は何故こんな場所にいるのだろう?  敵とは一体なんなんだ?  なぜ自分はこんな格好をしているのだろう?  僕は誰だ?  その時、彼女の表情がぱあっと輝いたかと思うと、こう叫んだ。 「ユウ! 目を覚まして!」  "ユウ"? そう、僕の名前は"ユウ"だ。  それを思い出した途端、すべての風景がどこからともなく湧き出した強烈な 光に溶けていった。しかし、それは心地よい光だった。  目を開けると、白い天井と柔らかな照明、薄いピンクの壁と自分の腕に繋がっ ているらしい点滴の薬袋とその支柱が視界に入ってきた。  どうやらここは病院で、自分はベッドに寝ているらしい、と彼は無感動に思っ た。  つい、と視線を足元の方向に移すと、目に涙を浮かべた"彼女"が自分の顔を 見つめているのに気付いた。帽子こそかぶっていなかったが、彼が夜の雨の中 で見た白い木綿のワンピース姿だ。 「やぁ、ユカ。すごく久しぶりだね」  彼は弱々しく微笑みながら、弱々しい声で言った。どうやら自分の体は思っ たより衰弱してるみたいだ、などと改めて感じながら。  泣き顔のまま、彼女は立ち上がって、廊下へと出ていった。どうやら担当医 を呼びに行ったようだ。  そんな彼女を見て彼は、相変わらずしっかりしてるんだな、と思い、少し笑っ た。  そして彼は、自分が戦場から帰ってきたのだ、と強く実感した。  戦闘に関係ない記憶をブロックし、頭脳のみを移植した戦闘サイボーグとなっ た兵士であっても、生還率が30%を下回っていたような苛烈な戦場から。