どしゃぶりの雨のなか、舗装さえされていない山道を走ること数時間。幾重にも折り重なるようにして生い茂った木の間越しに、ようやくその館の姿が視界に入ってきたとき、時計の針はすでに午後5時を指していた。 激しい風に吹き飛ばされた枝葉や大粒の雨滴がひっきりなしに窓をたたく。助手席の明日香は眠そうに目をこすり、あくびをかみ殺しながら答えた。 「どこ。なんにも見えないよ」 「ほら、あそこです」 その瞬間、ぼくらの真上で激しく雷が閃き、世界を蒼白い光で照らし出した。 「ああ……あれね」 夜空を真っ二つに引き裂く雷光に驚きもせず、彼女は言った。青ざめた光に照らし出された異様な光景はすぐにまた闇の底に沈み、追いかけるようにして雷の遠い轟が耳朶を打った。が、その一瞬視界に映った映像は、ぼくの脳髄にくっきりと刻み込まれていた。 前面に大きな円柱を配した2階建ての洋館。そして、その広大な前庭に置かれたいくつかの奇妙なモニュメントたち。……ガラス製のように見える半透明のピラミッド。建物全体が斜めに傾斜した、見ていると頭がおかしくなりそうな山荘風の家。何やら黒い塊がぶら下げられた大きな樹木。自由の女神像。それに、あれは寝台列車だろうか。本物? まさか。そこにはなんら関連性らしきものが見当たらない。まるきり狂気じみた夢の島、粗大ゴミの処理場だ。 「マニアもここまでいくと、ほとんど狂人ね。……あれは島田荘司の作品にまつわるモニュメントよ」 ぼくは言葉を失い、ウィンド越しにもはや何も見えるはずもない闇を見つめた。 「さ、いいかげん遅刻してるんだから。早いとこ行きましょ」 明日香の言葉に気を取り直したぼくは、黙ってアクセルを踏み込んだ。屋敷の前にクルマを横付けすると、彼女はショルダーバッグを肩にかけ、屋敷の玄関に向かって走り出した。しかしカメラマンのぼくはそうはいかない。後部のトランクを開け、重い機材を取りださなければならなかった。ようやく彼女の後を追って玄関にたどり着いた時には、とっくに全身がずぶ濡れになっていた。 「遅かったですね、雨がひどいので心配していました。さあ、早くお入りください」気がつくと玄関はすでに開いていて、ジーンズ姿の背の高い女性が立っていた。 「私は碇玲於奈。この屋の主人である碇源道の妻です」 この嵐の中、駆け出しカメラマンのぼく・安室礼二がまともな道ひとつないこんな山奥を訪れるはめになったのは、今日の相棒であるライターの明日香のせいだった。彼女が担当している雑誌の連載……『オタクの殿堂』とかいうしょうもない2ページもの……に、ミステリ作家・島田荘司の熱狂的ファンでありミステリ評論家でもある碇源道を出したいと言い出したのは彼女だったし、東京ではなくこの山荘での取材を強引にセッティングしたのも彼女。ついでに言えば、嫌がるぼくを無理やりこの仕事に引きずり込んだのも彼女だ。だいたいぼくは雲の写真が専門なのだ。それだけではもちろん食えないのだけれども。 しかし、2時間も遅刻したにも関わらず、碇夫人のもてなしはごく心のこもったものだった。挨拶もそこそこに奥へ案内され、ぼくの部屋が丸ごと入ってしまいそうなバカバカしく大きな浴室で熱い湯につかり、出てみると着替えとして新品の衣服まで用意されていたのには恐れ入った。おまけに食堂には豪勢な料理が並んで美味そうな匂いを立てている。 しかし、アンドレ・ザ・ジャイアントクラスの巨漢がゆったり1ダースは座れそうな巨大な食卓に着いているのは、ぼくと明日香。そして出迎えてくれた碇夫人の3人だけだった。ぼくらが席に着くと、夫人は申し訳なさそうな口調で話しはじめた。 「ごめんなさい。碇はどうしても今晩中に仕上げなければならない原稿があるので、今日は失礼させていただきます。取材と撮影は明日お付き合いするそうなので、今晩はどうかごゆっくりお休みください」 予定では今日のうちに取材を終え明日朝イチで帰京するつもりだったが、いずれにせよこの嵐では帰れそうにない。ぼく自身、暴風雨の中での長時間の運転でさすがに疲れていたたし、取材延期はむしろ歓迎だ。明日香は不満そうだったが、ぼくはさっさとグラスを手に取りワインを飲み干した。すかさず後ろに立っていたメイドの娘が注いでくれる。礼をいうと、お仕着せのメイド服……今どきこんなユニフォームをどこで買ってくるたのだろう……に身を包んだ小柄な少女はひっそりと微笑を浮かべた。ふむ、後で名前を聞いておこう。 やがて、卓を埋め尽くさんばかりだった料理もあらかた片づき、コーヒーが配られた頃、突然、食堂のドアがノックされた。夫人が入るようにいうと、作業衣姿の中年男がドアの間から顔を出した。 「あの、奥様」 「どうしたの、五郎次。いいからこちらにおいでなさい。……ああ、皆さん、これは裏むきの力仕事などをお願いしている蜷川です。で? 何かあったの」 男はぼくらの前では話しづらいようだったが、レオナに強く促されしぶしぶ口を開いた。 「先ほど屋敷の回りを見回っておりましたら、庭の“斜め屋敷”に人がいるのに気がつきまして。……中に入ったところ、警官がおりまして」 「まあ、それはいったい」 「なんでも夕方見回りにきて、たまたま指名手配犯が斜め屋敷に潜んでいるの気付いて、捕物になったんだそうで」 「じゃあ、指名手配犯は?」 「ご安心くだせい。悪人めは気を失って手錠をかけられておりました。それで……救援を呼ぶので電話を貸してほしいそうで。ここからだと携帯電話は使えないとかで」 「まあ、そうならそうと早くおっしゃい。いいわ、ホールの電話を使っていただきなさい」 レオナの返事を聞くと、男は腰の曲がった身体をよたよたと揺らしながら部屋を出ていった。 「指名手配犯だなんて、物騒ですわね」 眉根を寄せてレオナがいうのを遮るようにして、明日香がいきなり立ち上がり大声を出した。 「奥様、あの、私、その指名手配犯とやらに興味があるんですが!」 明日香の目が爛々と輝いている。嫌な予感がした。 「いったいなんなんです。まだコーヒー飲み終わってませんよ〜」 「あほか、君は! 仕事だよ仕事。重大事件の犯人なら、なんかいいネタになるかもしれないじゃない。ほら、あの鬼瓦ブラザースの鬼瓦権二もこのあたりに潜んでいるって噂だし」 「ああ、あの天才コン・マン(詐欺師)とかいう……でも、ぼかぁジャーナリズム系の仕事は興味ないんだけどなあ」 彼女がこういう状態になったら、しかし文句などいうだけ無駄である。猪突猛進を絵に描いたような明日香に引きずられて、ぼくはホールに転がり込んだ。 先ほどは気付かなかったが、ホールはとてつもなく大きく天井が高い。電話があったのは部屋のいちばん奥に置かれた小卓で、蜷川の姿はすでになかったが、その前にたって受話器を握っているのが話にでた警官だろう。警官の左手には手錠がかかり、すぐ脇のソファに横たわる男の右手と繋がっている。つまりこれが問題の指名手配犯のようだ。全身ずぶぬれの警官は、ぼくたちに気付くと帽子のつばから滴を滴らせながらこちらに背を向けて声を落とした。が、聞こえないほどではない。 「は、稲田山派出所の牛腰であります。は。森は……ええ、指名手配犯の森です……逮捕しました。はあ、現在は鬼道山山麓の碇邸に。はあ?」 出し抜けに、警官の声が裏返った。それまでののんびりした口調が妙に慌てたものにかわり、ぼくらも思わず耳をそばだてる。ぼくらの後ろにはいつの間にか、レオナ夫人が立っていた。心配になって後をついてきたのだろう。 「道が、ですか……ということは今晩はこちらこれない、と。しかし、容疑者はどうすれば……。はい、それはまあ一晩くらいなら。はい」 警官は電話を切ると、帽子をとってこちらを向いた。意外と若い、美青年といってもいいほどの整った顔立ちである。 「えっと、この家の方たちですね。ご主人はご在宅でしょうか」 レオナがぼくらをかき分けるようにして前に出た。 「主人はいま仕事で手が放せませんので、お話は私がうかがいます。私が妻の碇レオナです」 警官は彼女に丁寧に頭を下げ、困り切った口調で話しはじめた。牛腰巡査と名乗るその警官の話によれば、この屋敷と外界を結ぶたった1本の通路である山道が、この嵐で土砂崩れを起こして崩落したのだという。そのため碇邸に至る道路は全面通行止となっており、むろん復旧工事は進めているものの開通は早くて明朝。身動きが取れないので、今晩は逮捕した手配犯人共々、この屋敷に泊めてほしいというのである。 夫人は弱りきった様子だった。碇源道を呼んでくればいいのに、と、今宵一度も姿を見せないこの家の主人と夫人の様子に、その時はじめてぼくは不審の念を抱いた。 「お泊めするのは構いませんが……」 「いえ、ベッドなどなくとも構いません。明日道路が開通次第、本署から人が来ます。ご迷惑とは思いますが、一晩だけのことですから」 夫人はどうにも気が進まない様子だったが、断るわけにもいかないだろう。こうしていても外の嵐はいよいよ激しさを増しているようで、窓を打つ雨風の音が恐ろしいほどである。さっそく夫人はメイドを呼び、部屋の用意をするよう命じた。 「そちらの方は、おけがは大丈夫でしょうか。手当てが必要でしたら……」 長イスに横たわったきりの犯人を恐ろしそうに見ながら、レオナ夫人が問いかけると、牛腰巡査は笑いながら手を振った。 「いえ、ただ気を失っているだけですよ。心配いりません」 「そうですか。もし薬や包帯などが必要でしたら、ホール脇の洗面室にも置いてありますので、ご自由にお使いください」 「ありがとうございます。ご協力に感謝いたします」 「……それと……あの、牛腰さんでしたわよね。稲田山派出所の。たしか主人が以前、事故を起こしたとき、大変お世話になったとうかがっております」 「あ、ああ。……あの碇さんでしたか」 「あなたがいらしたことは私から主人に伝えておきます。手が空き次第、あらためて主人もご挨拶にうかがいますわ」 「は……あ、まあ、お気遣いなく」 やがて部屋の準備ができたとのことで、警官は蜷川の手を借りて手配犯の森を抱え上げ2階の部屋へ去った。 その後は中途半端に終わった食事を続ける気にもなれず、ぼくも早々に与えられた部屋に引き上げた。明日香はそれでも警官達の部屋に「突撃取材」したようだったが、得るものは何もなかったようだ。 「だめだめ。あの牛腰って巡査のガードが固くて。だいたいあの手配犯は鬼瓦じゃないわ。森とかいうヤクザ崩れの殺人犯だってさ。んもーやんなっちゃう」 言いたいだけいって彼女も部屋に引っこんだ。外はあいかわらず激しい風雨が荒れ狂っている。時折稲妻が走り、窓の外の真っ暗な森を蒼白く浮かび上がらせる。しきりに襲う嫌な予感を振り切るようにして、ぼくはカーテンを閉じ、ベッドに横になった。たちまち強烈な眠気が襲ってきた。 「安室、起きて! 起きなさいッ!」 けたたましい声と共に激しく肩を揺さぶられ、ぼくは心地よい眠りの国から無理やり引きずり出された。 「なんなんですか、いったい。もう、朝なんですか」 「なあに呑気なこと言ってる。聞こえなかったの、なんかすっごい声がしたじゃない」 明日香の話では、ひと通り明日の取材の準備を終えて寝ようとしたとき、2階の奥の方から男の叫び声が聞こえたのだという。時計を見るとまだ午前零時にも間がある。横になって1時間も経っていないが、ぼくはよほど深く眠り込んでいたのだろう。2階の奥といえば、レオナ夫人の話ではたしか碇源道の書斎があったはずだ。正直いって寝惚けた彼女が、外の嵐の音を聞き違えたのだろうと思ったが、例によって明日香の辞書に“聞き分け”という言葉はない。 不承不承起き上がったぼくは彼女とともに部屋を出、廊下の奥をめざした。長い廊下は半ば灯を落とし薄暗い闇に沈んでいる。時折ひらめく稲妻が窓を蒼白く染めた。 やがて廊下の突きあたりまで行き着くと、そこにはすでに人が集まっていた。レオナ夫人に蜷川、そして牛腰巡査。彼らの向こうには大きな両開きの扉がある。どうやら“声”はその部屋……碇の書斎から聞こえたものだったらしい。 夫人はしきりにドアをノックし声をかけているが、応えるものはない。 「あなた、開けますよ。いいですね」 なんだ、鍵はかかってなかったのか。じゃあ、さっさと開ければいいのに。……寝起きのぼくはいたって不機嫌である。 レオナ夫人を遮って牛腰巡査が前に出た。彼は腰に吊るしていた警棒を抜き出し、ぼくたちに下がるようにいうと、ドアを一気に押し開いた。 ここもまた大きな部屋だった。壁ぎわにはすき間なく書棚がならび、床には厚手の絨毯が敷きつめられている。入口を入ってすぐのところにコンパクトな応接セットが並べられ、さらにその向こう側、入口と正対する位置の壁際に巨大なデスクが置いてあった。カーディガン姿の男が一人、そのデスクの上に上体を伏せている。デスクに向かって仕事をしていて、つい眠り込んでしまったような、そんな姿勢だ。だが、男の頭部からはおびただしい血液が流れ出し、デスクの上に真っ赤な池を作っていた。 レオナ夫人が小さく悲鳴を上げ、崩れるようにその場に倒れこんだ。 「あ、こら。何をする」 硬直したようになっていた牛腰巡査を押しのけるようにして、明日香が死体に近づいた。 「ほら、牛腰さん。この死体、なんか持ってるよ」 「勝手に触るんじゃない」 「触っちゃいないわよ、観てるだけ。う〜ん、なんかの文庫本みたいだなあ。……漱石と倫敦ミイラ……ああ、わかった。『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』だね」 明日の取材はキャンセルだな、ぼくはぼんやりとそう思った。 「殺人、ですよね」 牛腰巡査に殺人現場を追いだされた僕たちは、とりあえず1階の食堂に集まっていた。といってもここにいるのは、僕ら2人と蜷川の3人だけだ。気を失ったレオナ夫人は彼の部屋で横になっており、メイドの狩野が介抱を任されていた。 「どこから見ても文句のつけようのない殺人ね。凶器らしきものは見当たらなかったけど、何かで殴られて頭を割られたって感じだったわ」 「被害者は碇さん、ですよね」 「間違いないわ。横顔しか見えなかったけど、著者近影で見た顔と同じだった」 「死体が持っていた漱石なんとかって本は?」 「被害者が信奉していた島田荘司の作品の一つよ」 「そういうことじゃなくて……なんで死体は本なんか持ってたのかな、ということですよ」 よくぞ聞いてくれました、といわんばかりに明日香は身を乗り出した。 「それよね、問題は。まず考えられるのはダイイングメッセージ。瀕死の碇が犯人を示す何かを伝えようとして、その本を手に取った、という可能性ね」 「メッセージ?」 「さっき見たとき、デスクの上には島田荘司の作品が他に3冊も転がってたのよ。つまりもともと4冊の文庫がそこにあったと考えられる。被害者はその中からあえてこの1冊を選んだ。……そこに何か理由があってもおかしくはないでしょ。まあ、そのメッセージがどんなものかは、まだわからないけどね」 「なあんだ。じゃ、他の3冊というのは?」 「カバーがはがされてたんでタイトルが読みにくかったんだけどさ。『火刑都市』に『斜め屋敷の犯罪』そして『占星術殺人事件』」 「……1冊も読んだことないや」 「君はマンガ専門でしょ。で、次の可能性だけど『見立て殺人』という考え方。この場合は、本を持たせたのは犯人の工作ということになるわ」 「見立て殺人? なんですか、それは」 「犯人が何かのメッセージを残すために、死体に工作することよ。有名なところでは死体にマザーグースのシチュエーション通りの見立てを施すってのがあるわね」 「わかんないなあ。被害者が悶え苦しんでて、たまたまあの本を握ったって考えた方が自然じゃないですか?」 「違うわね。あの姿勢は妙に不自然だったし……被害者のか、加害者のかはわからないけど、何者かの意志が働いたとしか思えない」 明日香は思い入れたっぷりに言いきり、火を付けたばかりの煙草を灰皿で揉み消した。 「その分類で行けば、今回の事件は見立て殺人のようですね」 ひととおり周辺の見回りを終え、食堂に戻ってきた牛腰巡査に明日香としていた話の内容を伝えると、彼は躊躇なくそう言いきった。さすがに彼も疲れたようで、胸元から煙草を出して火を付けた。 「なぜ、ですか」 「あなたは害者の横顔しか見ていないからわからなかったでしょうが、実は……いいのかな、こんなこといっちゃって……被害者のね、鼻の下に黒いマジックかなにかでヒゲが描きこんであったんですよ。そう、まるで夏目漱石みたいにね」 「なんですって!」 明日香は大声をあげた。 「もちろん、被害者が自分で描いたわけじゃないわよねッ」 「ええ。周辺に黒マジックなんて落ちてませんでしたからね、犯人がやったことでしょう」 「う〜ん、見たいなあ。見せてもらえないかにゃあ〜。もう一度死体を」 明日香得意のおねだり攻撃だったが、真面目な牛腰巡査には通じなかったようだ。現場は捜査官が来るまで封鎖。なんぴとたりとも立入禁止、ときっぱり言われ、彼女は頬を膨らませて黙り込んだ。そういう仕草が板につく歳は疾うに過ぎていると思うのだが。仕方ないので、かわりにぼくが質問する。 「犯人はいったいどういうつもりなんでしょう。なぜ見立てなんかを」 牛腰巡査は肩をすくめた。 「わかりません。第一それを考えるのは本官の仕事ではありません。明日になれば本署から捜査のプロたちがやってきますからね。私は現場を保存し、彼らの到着を待つだけです」 「ちぇ〜っ。つまんないの!もう部屋に戻って寝よ!」 煙草を消して立ち上がった明日香は大声で宣言して歩きだした。慌ててその後を追おうと立ち上がったぼくに、笑顔を消した牛腰巡査がいった。 「カギはきちんとかけて下さいよ」 明日香は相当腹を立てていたようで、ものも言わずに部屋へ引っ込んでしまった。ぼくもいくつか用事をすませてから部屋に戻ったが、横になっても今度は妙に目が冴えてしまった。窓の外の嵐も、やはり一向におさまる様子はない。仕方ないので、ぼくはカバンから文庫本をとりだしてページを開いた。明日香はああいったが、これでもぼくはけっこう本好きなのである。 こんな状況でのんびり読書というのも妙な話だったが、ジョン・カーターの荒唐無稽な冒険譚を、それでも四、五十ページは読み進んだだろう。ぼくはふと部屋に妙な匂いが漂っているのに気付いた。 なにか……動物の脂が焦げる香りに似た、とても嫌な匂いだ。動物? ぼくは慌てて立ち上がり、ドアを開いた。廊下に出ると匂いはいちだんと強くなる。いったいどこから漂ってくるのだろう。何が起こっているのか。あるいは起ころうとしているのか。皆目見当がつかなかったが、こういう時はとりあえず警官を起こした方がいい。 ぼくは早速、牛腰巡査の部屋をノックしようとしたが、次の瞬間、あることに気付いて息を呑んだ。匂いは、その部屋から漂ってきていたのである。 ノックする間もあらばこそ、ぼくは大声で牛腰巡査の名を呼びながらドアを押し開けた。カギはかかってなかったようでドアはあっけなく開き、そこから白い煙が一団となって押し寄せてきた。火事だ! ぼくは大声でそう叫びながら、部屋の中に飛び込んだ。渦巻くように吹きだしてくる煙の向こうに火元が見える。窓際に置かれたベッドだ。ベッドに人影が横たわり、その頭部のあたりから炎が上がっているのだ。とっさにぼくはベッドの足元に落ちていた毛布を拾い上げ、両手で広げてその火元を包み込むようにして叩きつけた。髪の毛や脂が焦げる匂いに混じって、オイルの匂いが強く鼻を撃ち、たちまち隅の方から毛布が燃えはじめる。煙がいっそう激しく吹きだし、ぼくはたまらず咳き込んだ。 「大丈夫?! 安室!」入口の方から明日香の声が聞こえた。 「そこをどきなせえ」 誰かの手がぼくの肩をつかみ、強い力でドアの方に押しやった。ひと呼吸おいて、消火器が消火剤を吹きだす音が聞こえ、炎は見る見る小さくなった。 「やれやれ、どうやら消えました……そちらさんは、大丈夫で?」 使い切った消火器を傍らにそっと置くと、蜷川は額の汗をぬぐいながらぼくらの方を振り返った。 「ぼくはなんともありません。それより蜷川さん、その毛布の下の人は」 「もう、亡くなってらっしゃるようで」 蜷川のその言葉を聞くなり、明日香はぼくを突き飛ばすようにして部屋に飛び込み、ぼくがベッドの上にかけた毛布をはぎ取った。 「これは……」 だが服装にも体格にも見覚えがある。これは牛腰巡査が逮捕した指名手配犯の森という男だ。事実、死体の右手には手錠がかけられ、その反対の端がベッドのヘッドボードの鉄枠につながれている。これでは逃げようがない。身体に火を付けられた時、彼の意識が無くなっていたことを祈るばかりだ。 しかし、森を見張っていたはずの牛腰巡査はいったいどこに行ったのだろう。クロゼットの中まで覗いてみたが、その姿はどこにもない。 「見て、安室君。ここに何かあるわよ」 その時明日香がぼくを呼んだ。見ると、彼女は死体の下に手を突っ込んで手探りしている。やがて彼女は死体とベッドの間から何かを引きずり出した。……それは一冊の、カバーのかかっていない文庫本だった。表紙に小さく『火刑都市』とタイトルが書いてある。 「『見立て殺人』に決まりね」冷えきった声で明日香が言った。 その頃になってようやくレオナ夫人とメイドの通子が起きてきたが、2人とも青ざめた顔をしてベッドの上の遺体を見つめるばかりだ。ことに夫人は怯えきった様子で細かく身体を震わせている。だが、牛腰巡査はあいかわらず姿を見せない。 「嫌な予感がするわ。早く彼を探しましょう」 めったにないことだったが、今回ばかりは彼女の予感にぼくも賛成だった。早速、蜷川とレオナ夫人、そしてメイドの3人が一階を、ぼくと明日香が2階の残りの部屋を、と二手に分かれて見て回ることになった。レオナ夫人はおよそこうした場合の役に立つとも思えなかったが、彼女を1人にしておくのも不安だったのである。まあ、あの屈強な蜷川がついていれば大丈夫だろう。一見腰が曲がり足も不自由そうに見える蜷川だったが、先ほどの火事場では、むしろぼくなどより強そうな大男に思えたほどなのだから。 牛腰巡査は、結局2階の廊下の端にあるトイレに倒れているのをぼくらが発見した。背中を浅く鋭利な刃物で刺されていたが、出血はさほどではない。明日香が呼びかけると、すぐにうなり声をあげて目を覚ました。彼の話では夜半トイレに行きたくなったので、手錠をベッドにつないで部屋を出、トイレで用を足しているところを後ろから殴られたのだという。むろん、そのあとのことは記憶にないし、犯人の顔も見ていないようだった。 だが、呻きながら立ち上がった彼の体の下からは、またしても1冊の文庫本が発見された。本のタイトルは『斜め屋敷の犯罪』。明日香の話では、この小説の中で被害者は背中を刺されて死ぬのだという。幸い牛腰巡査は命に別条なかったが、おそらく予想以上に早くぼくらが火事に気付いて騒ぎはじめたため、犯人はとどめがさせなかったのだろう。 森が死んだことを伝えると、牛腰は激しく動揺し蒼ざめた。まあ、当然といえば当然だろう。せっかく逮捕した犯人を自分の不注意で殺されてしまったのだ。なんにせよ、もはや自分の部屋に帰って眠ろうという呑気な人間は1人もいなかった。 ……後の2つの犯行現場から見つかった2冊の本は、やはり碇源道の死体があったデスクの上に散らばっていた3冊の文庫本のうちの2冊だった。碇の死体が持つ『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』はそのままだったが、デスクの上の3冊はいつの間にか書斎から消えていたのだ。ということはつまり、犯人の手元にはまだ1冊、本が残っている。 たしか『占星術殺人事件』とかいう本だ……。 「その本の趣向はね、バラバラ殺人なのよ」 食堂に集まったぼくたちを前に、明日香は悪趣味なことを口にした。時計はすでに4時をまわっているが、牛腰の提案でこうして全員1ヶ所に集まったまま朝まで過ごそうということになったのだ。なにしろ、おそらくこの6人の中に、2人を殺害し1人を傷つけて奇妙な見立てを施した犯人がいるのである。いや、外部から侵入した可能性もないわけではないが、状況からいうと、やはりそれは考え難い。誰もが押し黙ったまま、目を合わせようともしない。重苦しい時間がのろのろと流れていった。 明日香は、あいかわらず事件のことを考え続けているらしい。時折、他の人たちに質問を発しては、何事かを熱心にノートに書き込んでいる。死体とともに発見された3冊の文庫本もテーブルの上に並べてある。もちろんそれらは殺人事件の証拠品だったが、どうやら牛腰巡査にはもはやそれを咎める気力もないようだ。明日香はふいと顔をあげてそんな牛腰に声をかけた。 「牛腰さん、本署へ連絡は? 道路の状況はどうなっているの」 牛腰は首を弱々しく左右に振った。 「夜半から電話が通じなくなってるんです。この風で電話線が切れたか、あるいは犯人が切ったのか。……ともかく夜が明けたら、私がクルマで道の状況を確かめてきますから」 「八方ふさがりね」 ぼくはあらためて一連の事件……たった一晩の出来事なのだ!……について、考え直してみようと思った。まず、容疑者リストでも作ってみようか。こういう場合、ぼくや明日香も含めなくてはならないことくらいは承知している。 できあがったリストはこんなものになった。 |
名前 | ヨミガナ | 年齢 | 職業など | 備考 |
碇源道 | イカリゲンドウ | 50歳くらい | 評論家 | 死亡・撲殺?
「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」 |
碇玲於奈 | イカリレオナ | 30代前半 | 源道の妻 | 生存 |
蜷川五郎次 | ニナガワゴロウジ | 50〜60代 | 下男 | 生存 |
狩野通子 | カノウミチコ | 20代前半 | メイド | 生存 |
森宏 | モリヒロシ | 20代後半 | 指名手配犯 | 死亡・焼死?
「火刑都市」 |
牛腰三郎 | ウシコシサブロウ | 20代後半 | 警官 | 生存・負傷
「斜め屋敷の犯罪」 |
惣流明日香 | ソウリュウアスカ | 35歳 | ライター | 生存 |
安室礼二 | アムロレイジ | 28歳 | カメラマン | 生存 |
が、そのリストをいくら見つめても、答えらしきものはなにも浮かび上がってこない。他の人たちにも見せたが特に誰も思いつくことはなかったようだ。
やがて長い長い夜が明けた。外の嵐もようやく静まったらしい。カーテンを開くと窓から弱々しい日差しが差し込み、テーブルの上に置かれた3冊の本をほのかに浮かび上がらせた。テーブルに付いていた6人の視線が、そろってそこに吸い寄せられる。 『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』 『火刑都市』 『斜め屋敷の犯罪』 犯人はこの本にいったいどんなメッセージを込めたのだろう。いや、それより何より、なぜ見立てなどしたのか。しなければならなかったのか。 ぼくは、明日香に声をかけた。 「残る一冊……犯人が持っているはずの『占星術殺人事件』って、どんな本なんですか」 「ああ、占星術ね。あれは島田荘司のデビュー作でね……」 明日香はテーブルに置かれた中から2冊を抜き出して、ぼくに示した。 「ほら、これと同じ出版社の文庫シリーズよ。こうやってカバー外しちゃうと、厚みとタイトル以外、区別つかないわね」 その時、テーブルについていた1人がゆっくり立ち上がり、冷めた口調で言った。 「なるほど……そういうことだったんですね」 |
さて、親愛なる読者の皆さん。 長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。 古来の作法に則り、ここで作者は皆さまに挑戦いたします。 1.碇邸連続殺人・傷害事件の犯人は誰か? 2.犯人はなぜ現場に「見立て」工作を施したのか? 以上2つの問いにお答え下さい。 もちろんこれらの謎を解くカギは本文中に隠されています。 また、あなたの解答がぼくの用意したそれと違っていても、謎が論理的に解明されていれば、問題なく正解といたしますのでご安心ください。 ※ただし宇宙人・怪物・幽霊・超能力の類いは除きます。 また、作中に登場する4つの島田荘司の小説を未読でも、推理を展開する上で障害にはなりません。 が、機会があれば書店で手に取ってご覧になることをお勧めします。 ちなみに「占星術」「斜め屋敷」「火刑都市」の3冊は講談社文庫、「漱石」は集英社文庫だったと思います。 ではでは。名探偵志願者の皆さまの健闘をお祈りします。 |
●正解を得たと確信された方は、メールにてMAQにお答えをお送りください。 ●例によって、解答に掲示板を使うことはご遠慮下さい。 ●もちろん「ぜんぜんわかんないぞ!」あるいは「わかちゃったも〜ん!宣言」のみの掲示板へのカキコは歓迎いたします。 ●みごと正解された方には……別に賞品は出ませんが、JUNK LAND内「名探偵の殿堂」にその名を刻し、永くその栄誉を讚えたいと思います。 ●解決編は隠しページとしてアップします。「正解者」および「ギブアップ宣言者」にのみ、メールにてそのURLをお伝えします。 ●「ギブアップ宣言」は、掲示板/BOARDもしくはメールにて「ギブアップ宣言」とお書き下さい。MAQがチェック次第、解決篇のURLをお教えします。 ●なお、これでもまだわからないあなたへ……困りましたね。では、これだけはどうしても知りたい!というポイントがあれば、掲示板に質問をどうぞ。差し支えない範囲でお答えします。 ではでは。名探偵「志願」の皆さまの健闘をお祈りします。 |