ジョン・ディクスン・カーを愛しすぎた男


【問題篇・上


序章:密室島の密室館
密室島……という珍妙な名前の島の話を、聞いたことがあるだろうか。M県N市の沖合15キロほどのところに浮かぶ、周囲8キロほどの小島である。といってもこの島、地図上には観静島(みしずとう)という名前で記されており、密室島というのはそれをもじった渾名のようなものであるらしい。ずいぶんと奇妙な渾名が付いたものだが、これにはむろん理由がある。島の所有者がここに建てた、広壮にして奇妙きてれつな館の名前がその由来となったのだ。
島の所有者、大膳幸一郎は、さる大手企業グループを創業し一代で巨富を築いた辣腕家だが、一方で「狂」の字のつくたいへんな本格ミステリマニアとしても知られている。ことに彼はジョン・ディクスン・カーを好み、その財力・情報収集力のありったけを注ぎ込んで、世界中からカーとカーにまつわる訳書原書関連書の数々を買い集めることに狂奔した。この収集物は大膳コレクションと呼ばれ、いまや世界のカーマニアの垂涎の的となっている。
そんな彼も10年ほど前に会長職を退き、同時に実業界から一切手を引いた。そして、この島を買い取って隠居所がわりの住まいを建て、親族とごく少数の使用人を連れて引き篭って、ミステリ三昧の日々を送っているのだという。この館、建てられた当初はとくだん名前が付いているわけでもなかったらしい。……が、そこを訪れた人々は一様に、その凝った作りと、主のカーへの傾倒ぶりに驚嘆し、誰いうとなくこう呼びならわしはじめたのである。
いわく、密室島の密室館、と。
 
1.予感
「だからさー、今回はあくまでTV番組のロケの方がメインで、あたしらの取材はオマケみたいなもんなの。ちゃちゃっと話を聞いて撮影して、あとはひたすらのーんびり! 骨休めしてればいいわけよぉ」
そういって明日香は、ポットから湯気の立つブラックコーヒーをカップに注いでよこした。それにしても寒い。今回の取材先・密室島に渡るためTV局が仕立ててくれたのはずいぶんと年期の入った小さな漁船で、むろん客室などという洒落たものはない。仕方なくぼくらは2月の海の寒風に身をさらして、到着までの1時間あまりをじっと耐えるしかなかった。外海の波に大揺れに揺れる甲板には、TV用の機材がところせましと並べられ、足の踏み場もない。ともかく、こうして目的地の目と鼻の先まで来て、いまさら何をいっても仕方がないのだが、脳天気な明日香を見ているとイヤミの一つもいいたくなる。ぼく……カメラマンの安室礼二は、受け取ったコーヒーをひとくち啜り、無駄とは知りつつ文句をつけた。
「だけどこの大膳って人、ミステリマニアなんでしょ? でもって孤島で、館で……なんかイヤな予感がするんですよ。だいたい明日香と取材にでるとロクなことがないんだ。いつもいつも」
数週間前、ぼくは明日香と取材に出かけた先で、宝石泥棒を“助けるため”に真冬の川へ飛び込むはめになったし、その前の取材では殺人事件に遭遇したあげく、天才コン・マン鬼瓦権二にさんざん手玉に取られたのだ。「それ」に味をしめたのか、あれ以来、明日香はことあるごとにぼくに仕事の声をかけてくる。おおかた、ぼくと組むと、珍妙な、あるいは奇怪な事件に遭遇する確率が高くなるとでも思っているのだろう。当然、ぼくは可能なかぎりそれを断っていたのだが、背に腹は代えられない。TVがらみのせいか、今回の仕事は今どき珍しいほど「おいしい」ギャランティが提示され、それを断ってしまえるほど、ぼくの懐に余裕はなかった。
「アムロちゃん、心配し過ぎー。なんか起こったら、それはそれで面白いからいいじゃん〜」
横合いから江崎グリコが口を突っ込んできた。ノーメイク、ベリーショートの彼女は明日香の古い友人で、小さなTV番組制作会社のディレクター。むろんディレクターとしては駆け出しもいいところだが、今回は初めてお笑いバラエティ番組のロケを任され、“密室館”を幽霊屋敷に見立てて大掛かりなコントを撮るのだという。
「だよね〜グリちゃん。なんたって密室館だもん! 殺人の一つや二つ起こったほうが面白いもんね〜」
と、これまた軽薄さ丸出しの口調で声をかけてきたのは照明の山田だ。薄くなった頭が、二月の儚げな陽光を受けて輝いている。そこにカメラの権堂やADの白川まで口を挟んできた。
「そうそう、ぼくもさあ、一発派手な密室殺人でもおこんないかなーって思ってたっすよー」
「でもさあ、やっぱ一応収録終わってから起こってほしいよねー。こぉんなド田舎まで来て撮影延期じゃ、社長、また血圧上がっちゃうよぉ」髭だらけの顔をしかめて情けない声を出す権堂に、グリコは一つ肩をすくめて言い放つ。
「なにいってんの。そしたらそのミッシツサツジン現場を独占中継できるでしょ! そういうトコ柔軟に対応すんのが、デキるディレクターってもんよー」
「そっかそっかー。そしたら事件はでっきるだけデーハーな方がいっすよねー。こう、首なし死体の五〜六個も転がっちゃうようなさぁ」どうやら未だに学生気分が抜けてないらしい白川が、寒さで唇を紫色にしたまま無茶なことをいう。
TV屋の軽薄な会話を聞いてるうちに、だんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。そもそもこんな連中が押しかけたのでは、事件など起こるはずもない。ぼくは立ち上がると、凍りつくような風に髪を乱しながら船首の方に向った。水平線のかなた、暗鬱に垂れこめた灰色の空に滲むようにして黒っぽい島が浮かび上がっている。
「なんだかな。雲行きがおかしいな……」
振り返ると、キャビンの中で舵を握っていた男がにやりと笑った。
「天候が、崩れるんですか?」
「なに、あんたらは大丈夫さ。島の桟橋にはあと10分もあれば着くからな。……だが、明日はどうかな。おれも今日は、あんたらと荷を島に降ろしたらさっさと帰るさ」
そういって男はもう一度笑みを浮かべた。
冗談じゃない。冗談じゃないぞ。いったんは消えたはずのイヤな予感が、再び黒々と沸き上がってくるのを、ぼくはどうしようもない気持ちで見つめていた。
 
2.旧友
撮影機材や小道具大道具のほとんどは、すでに数日前に島に届いているはずだったが、それでもスタッフ達が持ち込んだ荷物は大変な量だった。番組の出演者たちは3日後の到着予定で、グリコたちはいわば先発隊として先に現地入りしロケハンや段取りを確認しておこうという計画だったから、スタッフはぼくらを含めても前述の6人だけ。その大荷物を船の甲板から桟橋に降ろし、2台のクルマに積み込むだけで1時間あまりもかかってしまい、作業を終えた頃には陽は早くも西に傾きはじめていた。それとともに急激に気温が下がりはじめる。ぼくらはTV屋たちをうながしてクルマに乗り込むと、目的地をめざし出発した。
10分ほど走ったところで森が切れ、クルマはちょっとした高台の、円形にひらけた空間に飛び出した。
「うっひょ〜、雰囲気バツグン! こりゃ「絵」になりまくりッ」いつの間にか取り出したハンディサイズのビデオカメラを振り回し、軽薄なTV屋が頓狂な声を張り上げる。思わず眉をひそめたぼくだったが……たしかに思わず声を張り上げたくなるような、それは一種異様な光景だった。
暮れかけた冬の陽の薄紅色の光の中、黒々と不吉な翼を広げて佇む巨大なシルエット。……密室館は、いっそのこと城館と呼びたくなるような古色蒼然とした、おそろしく広壮な建造物だった。膨大な、苔むした石の堆積。いったい何階建てになるのか、中央部には巨大な楼閣が幾つもの塔を従えて天を圧するばかり聳え立ち、無数のガーゴイルや張出し、ファサードが無秩序に絡み合いながら、この巨大な構造物を構成している。現代日本には余りにも不似合いな不可解としかいいようのない情熱の産物だ。ぼくらのクルマはそれ自体かなりの広さを持つ内庭を抜け、入口正面の車寄せの前で停止した。
左右に大きく開かれた見上げるように大きな玄関ドアの前には、おしきせの黒服を着た中肉中背の白髪の男が立っている。明日香がクルマのドアを開けて下り立つと、彼は深く腰を折って一礼した。
「みなさま、密室館へようこそ……私、皆さまのご用を務めさせていただきます稲田と申します。必要なものがございましたら、何なりとお申し付けください」
絵に書いたような「執事」を見ていささか気圧されている一同を尻目に、ぼくはそそくさとクルマから撮影機材を下ろし、稲田が用意しておいてくれた台車に積み込み始める。こっちだって仕事なのだ。のんびり挨拶している時間はない。……と、その時、家の中から巨大な黒い塊が飛びだしてきて、ぼくの身体をかすめるようにしてグリコに飛びついた。小柄なグリコはあっという間もなく押し倒されて地面に倒れた。
みると、大柄な大人ほどもある巨大な犬である。ぼくはあわててグリコのもとに駆け寄ろうとした……が、どうやらそれは杞憂だったらしい。なんという種類なのかは分からない、ともかくやたら毛足が長く巨大な体躯を持ったその犬は、嬉しくて溜まらぬという様子で息を弾ませてグリコの顔を長い舌で舐め回し、グリコもまた満面の笑顔でかれを抱きしめている。
「Akkey! 元気だったぁ?」
どうやら彼女の毛深い旧友はAkkeyという名前だったようだ。
おそらく密室館も今回のようにたくさんの客を迎えることは少なくなっていたのだろう、興奮しきったAkkeyは異様なテンションの高さではしゃぎまくっている。飛び跳ねるようにしてグリコの手を飛びだすと、ぼくや権堂ら男たちには目もくれず今度は明日香に飛びついた。どうやらはしゃいでいても、飛びつく相手は「若い女性だけ」と決めているらしい。
ここだけの話だが、「怖いもの知らず」の明日香の唯一の弱点が犬なのだ。幼少時、餌をやろうとして手に食い付かれて以来、大小を問わず犬を見ると身体が硬直する癖があるのを、ぼくは知っている。
……夕暮れの密室館の広い前庭に、明日香の絶叫が響き渡った。
 
3.血族
「ちょっと待ってよ。んじゃあグリちゃんって、大膳家のご令嬢サマだったわけぇ〜?」
撮影機材を中心とする大荷物を片づけ、与えられた部屋で着替えをすませると、早速アスカはグリコの部屋に乱入した。いや、まあ、ぼくも興味がないわけではなかったし、むろんグリコの同僚たちにとってもそれは同様だったようで、結局のところいつの間にかグリコの部屋には今回の取材スタッフ全員が集まっていた。
「ごめんね、みんなに隠すつもりはなかったんだけど、なんだか言いにくくて」ベリーショートの頭をごりごり掻きながら、江崎グリコが照れ臭そうに言った。彼女の足下には先ほどの犬、Akkeyが、忠犬よろしく座り込んでいる。どこをどう見てもおよそ「お嬢様」には見えない姿なのだが。
「まあ、ね。たかがTVのバラエティ番組の収録に『密室館』でロケなんてヘンだなあとは思ったけどさ。まさかねえ」
あきれ果てたような口調で言い放ち、アスカはグリコのベッドに寝転がった。山田、権堂、白川らもうんうんとうなずく。まるでうなずきトリオだ。
以下、グリコの話をかいつまんで紹介しておこう。
この館の主人・大膳幸一郎はグリコの祖父にあたる。すなわち幸一郎の長男・大膳晋太郎……この人物はすでに病死しているそうだが……がグリコの父親だ。幸一郎が定めた婚約者があったにもかかわらず、晋太郎は江崎久美子という洋画家と恋に落ち、駆け落ち同然に家を出た。やがて久里子(グリコ)が生まれたが、ちょうどその頃、父親の晋太郎が病死。他に身よりのない母子は大膳家に身を寄せ、久里子は高校卒業までを大膳家で過ごしたのだという。
「だったらいい暮らししてたわけでしょ? なんでまた飛び出しちゃったのさ。お嬢様が」遠慮のないアスカの質問に、グリコは苦笑いを浮かべて答えた。
「私はともかく大膳家の跡取りと駆け落ちした母は、大膳家では日陰者っちゅうか、厄介者扱いだったからね。居心地は決してよくなかったんだよ。ま、いろいろあってね。私も高校卒業と同時に家を出て、名字も母親の旧姓を使うようにしてたんだ」
「お母さんは?」
「数年前に病死したよ。ここで、この館でね」
「そっかぁ。グリちゃんもいろいろ大変だったんだねー」
腕を組んだアスカはうんうんと一人で納得している。
「するとグリちゃんは、この大膳家の血を引く唯一の跡取りということになるのぉ?」
白川がそう問いかけると、グリコは肩をすくめて首を振った。
「そんなことないよ。お父さんの弟の息子たち、つまり従兄弟が何人かいるもの。だから、家はそのうちの誰かが継ぐんじゃないかな。私には関係のない話だし、知りたくもないけどね」
それを聞いて「もったいね〜」と恥知らずなセリフを呟いたアスカに苦笑いしながら、グリコは思いきりよく立ち上がった。
「さ、そろそろ夕食だから、みんな部屋に戻ってシャワーでも浴びたら? ちょっとカタクルシイかもしれないけど、料理の方は期待してくれていいと思うよ」
グリコのその言葉をきっかけに、ぼくらはそれぞれの部屋に戻ることにした。
 
4.晩餐
グリコの言葉に嘘はなかった。一階の広い食堂に設えた長いテーブルで供された晩餐は、濃厚なソースをふんだんに使ったオールドタイプのフランス料理。特に新鮮な魚介類と野鳥肉をメインにしたメニューは、何種類ものワインと共に、充分にぼくらの眼と舌と胃袋を満足させてくれた。
ひと通りコースが終わり皿が下げられると、執事の案内で一同は隣室の、これまた馬鹿馬鹿しいほど広い大広間に移り、それぞれ由緒あり気なソファや椅子に落ち着いた。カップにコーヒーが注がれ、男たちは(もちろん明日香も)タバコに火をつけて、座には少しだけくつろいだ空気が流れた。
それにしても、なんて馬鹿でかい部屋だろう。ちょっとしたスタジオくらいの広さはじゅうぶんありそうだ。しかもここはあの天を突くような塔屋が、そのまま頂上部分まで巨大な吹き抜けになっている部屋なのだ。数十メートル頭上の天井中央には精巧なステンドグラスをはめ込まれた天窓まで設えられ、そこから青白い月光が降り注いでいる。その様は、まるでヨーロッパの教会の巨大な礼拝堂を思わせる雰囲気である。こういう場所でくつろごうという人間の神経が、ぼくにはよくわからない。
「ねえねえグリちゃん、あの……あそこにかかってる絵って、もしかしてご両親?」ひそめた声で権堂がグリコに問いかけた。
「ああ、あれね。そうよ、父と母の若い頃。描いたのは母よ」そういってグリコはくすりと小さく笑いを漏らし、例によって足下に寝そべるAkkeyの喉元をそっと撫でた。Akkeyは満足そうに、目を閉じたまましっぽを一つ振る。
「祖父が見たくもないっていって、ずっと物置に放り込みっぱなしだったはずなのに。わざわざ引っぱり出してきて飾ったんだね。サービスの、つもりかしら」
大広間の一方の壁のかなり高い位置に、婚礼衣装を着た若く美しい男女を描いた100号ほどの絵が掛けられている。深いブルーを基調とする沈んだ色合いの油絵である。いわれてみれば、男性の方の面差しはどこかグリコに似ているようにも思える。
「そりゃあ、もちろん。久しぶりに会う久里子ちゃんのために、ぼくが用意させたのさ」グレイスーツの胸に赤い薔薇を指した、なんだか妙になま白い小男がねちっこい口調で言った。食事の前に家族が一通り紹介されたのだが、たしか久里子の従兄弟にあたる人物の一人だ。
「嬉しいわ、慎二朗さん。相変わらず気の回ることね」
「それがぼくの取り柄だからね」満足そうにうなずく慎二朗は、どうやらグリコの皮肉な口調には気づきもしなかったようだ。
「ところで、新一郎さん、お祖父様はだいぶお悪いの? とうとう夕食にもいらっしゃらなかったけど……」
久里子が声をかけたのは、慎二朗の隣に座る陰気な長身の男だった。年齢は三十過ぎというところか。黒いセーターに黒いパンツをまとった2メートルを超える細身の長身を、折り曲げるようにしてソファに腰をおろしている。長く伸ばした前髪を、時折うるさそうにかき上げながらコーヒーを啜っている。慎二朗の兄・新一郎は面倒げに顔を上げるとぼそりとつぶやくように言った。
「じいさんはここんとこほとんど部屋に閉じこもりきりだ。食事も三度三度部屋に運ばせているよ」
「じゃ、あとでご挨拶に伺わなくちゃ」グリコがそういうと、新一郎は軽く肩をすくめてそっぽを向いた。逆にその隣に座っていた毒々しいほど派手な化粧の女性……新一郎、慎二朗兄弟の母親、つまりグリコにとって叔母にあたる大膳京子が、太った身体を乗りだした。
「久里子さん、お父様への挨拶は取りあえずいいんじゃないかしら。たぶん、あなたのこと、おわかりにならないかもしれないし」
「わからない……って、じゃあ、お祖父様は惚け始めてらっしゃるのですか」
「調子のいい時は、そうでもないのだけどねえ。どうかしら、柴崎先生?」
京子が呼びかけたのは、鼻下に髭を蓄えたセーター姿の中年男。週に一度老人の診察に船に乗って通ってくるという医師の柴崎だ。今日は診察に時間がかかったので泊まりになったようだ。偉そうにヒゲなど蓄えているわりにきょときょとと落ち着きのない様子で、およそ医師らしくない。京子に呼びかけられた柴崎医師は、かぼそい口調で答えた。
「そうですね、お会いになるのはですね、控えた方がですね、よろしいかも。病状の方は変わりありませんが、どうも神経のバランスを崩してらっしゃるようで」
柴崎医師の曖昧な返事に、そうそうそうなのよ、と。まるきり主婦の口調になった京子が堰を切ったように喋り始めた。身体はどこも悪くないはずなのに、車椅子を使っていること。今まで以上に大金を投じてミステリ関連書を買いあさっていること。夜中に1人で館の仕掛けを使って「密室」を作って回っていること。時々姿を消すこと……。いわゆる惚け老人の徘徊とはちょっと違うような気もするが、家族にとってやっかいな「症状」ばかりであることは確かだろう。老人の世話はもっぱら執事の稲田とメイドが行っているらしいが、京子叔母にとっては、それを監督するだけでもたいそう神経をすり減らす大変なストレスのもとであるらしい。ついでにいえば彼女の夫である大膳満、つまりグリコの亡父の弟は、大膳グループの実質上の経営者として東京にいるため、こちらにはほとんど戻ってこないようで、それも彼女の憤懣のタネの1つらしい。同じことを繰り返し語って一向に倦むことのない彼女の冗舌に、一同がうんざりし始めた時だった。
突然、ドアを叩きつけるような大きな音が響きわたった。見上げると、二階のポーチ……大広間の2階に当たる高さの壁面に、広間をぐるりと囲むように張出す形で取り付けられた手摺り付きの通路……に、車椅子に腰を下ろした1人の老人の姿があった。
「お父様!」京子が悲鳴混じりの声をあげた。
 
5.狂気
叩きつけるような音は、老人の背後のドアが勢いよく開かれて壁にぶつかった音だったらしい。葡萄茶色のガウンを纏った幽鬼のように痩せ細った老人は、真っ白な蓬髪を振り乱し、ひと声何事か訳の分からない叫び声をあげると、手にしていた長い黒い棒状のものを勢いよく振り上げた。
「あれは……猟銃だわ!」グリコの悲鳴に近い声に、一同はたちまちパニック状態に陥った。ソファの裏に潜り込む者、闇雲に走りだす者、凍りついたように座り込んだままの者……次の瞬間、轟音が響いた。
天井まで吹き抜けの、しかもビルにすれば数十階ぶんというとてつもなく巨大な円筒状の空間の大広間、という音響効果もあってか、その銃声は非常な大音響を広間の隅々にまでこだまさせた。冷静なつもりのぼくだったが、気がつくと両手で頭を覆ったまま、ドアの方に走りだしていた。追いかけるようにして次々と銃声が起こり、硝煙と火薬の匂いが充満する。シャンデリアの照明が撃ち飛ばされたのだろう明かりは消え、天井から大きなガラスの破片が雨のように降り注いでくるのは、天窓の巨大なステンドグラスが割られたからに違いない。
床を這いずるようにしてようやくドアの所にたどりつくと、いきなり明日香が現れてぼくの腕をつかんだ。
「こっちよ!」そのまますごい勢いで走りだす彼女に引きずられるようにして、ぼくも走りだす。
「いったい、どう、しよう、ってんですか!」ほとんど呼吸困難になりながらぼくがいうと、明日香は“馬鹿かお前は”という顔で怒鳴り返した。
「あの銃を取り上げなきゃ、どうにもならないでしょ!」
冗談じゃない! ぼくはジャッキー・チェンでもシュワルツェネッガーでもないのだ。必死で明日香の腕を振りほどくと、彼女はふんとものすごい鼻息を残して、そのまま大きな階段を駆け登っていく。どうやら本気であの猟銃爺さんを取り押さえるつもりらしい。
ああ、もう、なんでこーなるのかな!
いつもの習慣で心の中で激しくののしりながら、それでもぼくは明日香の後を追って走りだした。
 
6.闖入
映画に出てくる豪邸にあるような巨大な円形を描いた階段を回り込むようにして上りきると、そのままの勢いで正面の部屋に飛び込む。位置関係からして、この部屋を抜けたところが二階のバルコニーになるはずだ。
開きっぱなしのドアにそのまま駆け寄ろうとする明日香に、ぼくはジャンプ一番飛びついて引き倒した。
「なにすんのよ、バカ!」
「それはこっちのセリフです。銃を持った相手に素手でどうしようっていうんですか!」
明日香の言葉に釣られて思わず大声で叫び返してしまったぼくは、あわてて両手で口を押さえた。猟銃爺さんに見つかったら、それこそ蜂の巣にされかねない。……が、気付くと銃声はもう聞こえなくなっている。弾が切れた? おそるおそる見上げたぼくの目に飛び込んできたのは、しかしどうにも意外な光景だった。
「この家の、方ですか?」
ドアのところに立って、心配そうにこちらを見下ろしているのは、鼻下に髭を蓄えた長身の中年男だった。地味なグレイのスーツをまとい、黒縁のメガネの奥の目が穏やかな光を放っている。
「あんたは誰!」驚きで声も出ないぼくをよそに、いち早く気を取り直した明日香は、いきなり喧嘩腰の態度でかれに突っ掛かった。男は少しだけ面食らったように目を開き、まじまじと明日香の顔を見つめると面白がっているような口調でいう。
「これはまた……ずいぶんと威勢のいいお嬢さんだ」
あーあ。ぼくは思わず溜息をついた。こういう言い方は、明日香という「歩く火薬庫」に燃え盛る松明を放り込むようなものなのだ。案の定、明日香はぼくの手を荒々しく振り払い立ち上がった。
「だーれーがーおじょーさんだってぇ!」
ますます興味津々という表情になって見つめる男に、足を踏みならして詰め寄った明日香だったが、その時、男の肩越しに別の人物がひょっこり顔を出した。どことなく全体に間延びした顔の若い男だ。
「で、この爺さんはどうす……どうしますか? ……山田山警部……あ? え? ……あーッ!」間延びした顔の男は間延びした叫び声をあげた。目を丸くして、明日香をみつめている。
「きッきッキサマは、そーりゅーあすかッ! ななななななんでこんなトコにいるッ!」
「うっひょー! ウマさんじゃないのォ。どーしてこんなトコいるわけェ?!」
「うッうッうッウマと呼ぶなーッ」明日香に馬と呼ばれた男は、両腕を振り回しながらわめきちらした。
 
7.知遇
「知り合いなのかね、馬場くん。紹介してもらおうかな」
最前の中年男がそう声をかけると、馬場は真っ赤な顔をしていまいましげに大きく舌打ちをした。
「そーそー、あたしたちは、とーっても仲のいいお友達ですもんねー!」いまにも舌なめずりしそうな底意地の悪い笑顔を浮かべて明日香がいうと、馬場の顔はますます引きつって、こめかみに太い血管がもりもりと浮かび上がる。
面倒なので馬場の話をまとめよう。といっても、明日香との関わりの詳しいところは、馬場も言葉を濁してしまったのでよくわからないのだが、どうやら何かの事件で例によって明日香が捜査に首を突っ込み、さんざん掻き回したあげく担当捜査官だった馬場に大恥をかかせたらしい。当時のことを思い出したのか、妙に重たい口調で紹介の言葉を口にする馬場を意に介さず、山田山警部はぼくらに丁寧に頭を下げ名刺を出した。
「どうぞよろしく。惣流さん、安室さん。……特に明日香さん、あなたの名探偵ぶりは、あちこちで耳にしていますよ」
むろん社交辞令に違いないが、山田山警部のその言葉は、当然のように明日香を有頂天にさせた。
「よろしくぅ、警部さん。名探偵だなんて、ホントのことでも現職の警部さんから言われるとさすがに照れますわぁ。ともかくウマさんの上司さんならお友達みたいなもんですもん。ほんっと昔ッからの知り合いってぇ感じがするし、んもう明日香って呼んじゃって下さいねェ。……で、こちらへはなんの捜査で?」しっかり取材してやがる。しかし山田山警部は鷹揚な微笑を浮かべて答えた。
「ずっと追跡していたある人物が、こちらの方に立ち回ったという情報がありましてね。お話をうかがおうとお屋敷の前まで来たところが、いきなり銃声が聞こえまして。取るものもとりあえず二人で飛び込んで、こうして賊を取り押さえた次第です」
「ははぁ……で、その容疑者というのは?」
明日香のしつこい質問に答えたのは、不貞腐れたような馬場刑事の声だった。
「鬼瓦権二だよ。ここんとこお前さんがご執心の、あの野郎さ」
「うっそ〜!」
明日香とぼくは思わず合唱してしまい、馬場刑事はもう一度、いまいましげに舌打ちをくれた。
 
8.仇敵
おっかなびっくり駆けつけてきた執事や大膳家の人々、そしてグリコたちは、主人である老人がすでに見知らぬ二人に捕らえられていることを知って目を丸くした。が、その2人の恩人が警官だと知ると、大膳京子は今度はいきなり青くなって懇願し始めた。コトを表ざたにしないでほしい、ということらしいが、自宅の中とはいえ実弾の発砲事件を隠すなんて無茶な話だ。そうぼくは思ったのだが、馬場刑事も山田山警部も思いのほかあっさり譲歩したようだ。銃砲類の管理を厳重にすること、そして老人から監視の目を離さないことを条件に、今回は目こぼしということらしい。これも財閥の力というやつか。
虚ろな目つきでブツブツと訳のわからないことを呟いている老人は、医師と家族の手で自室に運ばれ、猟銃は鍵のかかる頑丈なロッカーにしまいこまれて、鍵は執事が肌身離さず管理することになった。ようやく皆が落ち着きを取り戻したころ、大広間の時計が重々しい音で時を告げるのが聞こえた。部屋の隅で丸くなっていた黒猫が、その音にふと顔を上げ、一声鳴いてしなやかな動きで京子夫人の腕の中に飛び込んだ。時計の針はちょうど午後9時を指している。そういえばAkkeyの方は姿が見当たらないが……どうやら銃声に怯えていち早くどこかに逃げ込んだようだ。
「そういえば、警部さんは聞き込みにいらしたのですよね?」
愛おしげに黒猫を抱き、その喉元を撫でていた京子夫人が、ふと気付いたというように山田山警部に声をかけた。腕の中の黒猫が緑色の瞳で山田山警部をじっと見つめる。警部は軽く肩をすくめながら答えた。
「ええ、じつは大膳幸一郎さんにちょっとうかがいたいことがあったのですが、あの様子ではちょっと無理なようですね」
「たしかに父はあの通りですから、今日は無理だと思いますが、いったいどのようなご質問でしょう。私でお答えできることでしたら」無理を言って発砲事件を大目に見てもらった引け目があるのか、“らしくもない”親切さで京子がいうと、山田山警部はにわかに鋭い目つきになった。すると、黒猫……そういえば夕食の席では、京子夫人から「葉月」という名で呼ばれていた……の緑色の瞳もまた妖しく光った。
「奥さまはこちらの屋敷の大膳コレクションの蒐集や管理にも、タッチしてらっしゃるのですか?」
「いえ、私はあんな黴臭い古本なぞには興味はございません。コレクションに関しては、一切合切父が自分の手で取り仕切っています。もちろん蒐集や管理には外部の業者さんをお願いすることもあるようですが、私は一切関知していません」
「ま、そうでしょうな」
山田山警部は苦笑いを浮かべて手帳をしまった。
「実は鬼瓦権二という凄腕のコン・マンが、こちらのコレクションを狙っているらしいのですよ」
警部の言葉に明日香の身体がぴくりと反応した。だが、いつものようにいきりたって声をかけるようなことをせず、黙って耳を澄ませている。彼女もいちおう“成長した”ということか。
「コン・マン?」京子夫人が聞き返すと、仏頂面を浮かべていた馬場が不機嫌丸出しの口調で答えた。
「要するに詐欺師ですよ。まあ、あいつの場合は怪盗を気取って美術品なんかの盗みもやりますけどね。ケチな詐欺師であることに変わりはありません」不貞腐れたような口調で語る馬場を、山田山警部がさりげなく視線でたしなめた。
「まあ、そういうことですので、警告をかねて、少々お話をうかがいたかったのです。幸いこの馬場君が別の事件の関連でお父上と面識があるそうなので、ついてきてもらったのですが、お父上があの状態ではね。さて、どうしたものか」
「それは申し訳ありません。でしたら、今夜は当家にお泊まりになったらいかがでしょう。明日になれば……むろんあの状態ですから御約束はできませんが、父もいくらかは落ち着いているかも知れませんし」
 全く興味のない古本の山であるにせよ、その金銭的価値には薄々見当がついていたのだろう。「怪盗」と聞いてにわかに不安になったらしく、京子夫人は妙に積極的に警官たちを招待しはじめた。結局、幾度か社交辞令めいた言葉が交わされたあげく、警部達は一夜をここで過ごすことになった。早速、はりきった京子夫人が執事を呼びつける。
「二階の、そうねベッドの2つある部屋、『ユダの窓の部屋』へご案内してね。シーツは新しいものを。警部さんたちは本当にお二人にひと部屋でよろしいんですね?」
「ええ、横になれさえすれば、いいんですよ」笑顔で山田山警部が答える。
「わかりましたわ。じゃ稲田、そのようにね。ああ、そうそう、大広間の掃除は明日でいいから。割れた天窓も明かりの修理も、今日はもう仕方がないわね。この時間では業者に来てもらうわけにも行かないし」
「しかし奥さま、天気予報によりますと今日は夜半から風が強まり、雪も降り始めるとか」
「床に積もってしまうかしら……でも、まさか夜だというのに、お前に天窓へ上らせるわけにも行かないわ。どうせ絨毯にはさんざコーヒーやらお酒やらをぶちまけてしまったし、全部取り換えるしかないでしょうから」
「さようで。では、ガラスの欠片なぞも落ちていて危険ですし、大広間のドアには全て鍵をかけておきましょう」
「そうね、そうしてちょうだい」
京子の腕の中で黒猫の葉月が退屈そうに大あくびをした。それを見ていたら、ぼくもなんだか急に疲労と眠気を感じはじめた。当然といえば当然だろう。長旅を終えて到着した初日に、この椿事の連続だったのだから。他の皆もさすがに疲れた様子で、京子夫人の言葉を潮に三々五々自分たちの部屋に引き上げていった。
 
9.足音
その夜、ぼくが与えられたのは“赤後家の部屋”と名付けられた部屋だった。触れ込み通りなら、この部屋にもいずれ何かカー作品にまつわる仕掛が施されているのだろう。が、観たところはどこといって変哲もない小部屋だ。ドアの正面に小さめの窓が一つあり、その下に古風な大型ベッドがおかれている。窓は厚いカーテンに覆われ、外は見えない。右手にはトイレと洗面所の小部屋へ続くドア。入り口の上には曇りガラスの明かり取りの小窓が付いている。が、それもいまはきっちり三日月錠が下ろされている……まさかいきなり殺されることもないだろう。ぼくは手早くバスを使い、1時間ほど部屋に備え付けのTVを眺めるともなく眺めていたが、プロ野球ニュースを観終えたところで明かりを消し、ベッドに入ることにした。
さすがに疲れていたのだろう。五分もしないうちにぼくは眠り込んでいた。そうしていくつか夢をみた気がするのだが……その夢が完結しないうちに、ぼくは眠りの世界から無理矢理引きずり出された。悪夢に脅えて目覚めたわけではない。館のどこかで、何か、とても大きな音がしたのだ。何かが激しくぶつかったような、そしてガラスが割れるような。
灯を落とした部屋の中で、ぼくはじっと耳を澄ませた。明かりを落とし厚いカーテンを締めてあっても、部屋は真っ暗というわけではなかった。廊下の明かりが一晩中つけっぱなしになっているのだろう、ドアの上の小窓から薄ぼんやりとした光がさしているのだ。しかし、それきりなんの音もしない。館は風の音さえ聞こえない真の静寂に包まれている。気のせい、だったのだろうか。枕元に置いておいた腕時計を見ると、闇に浮かび上がる青白い光のデジタル数字が、午前2時過ぎであることを告げている。しばらくそのままじっとしていたが、館は相変らず息を潜めて黙り込んでいる。ぼくは暗闇の中で肩をすくめ再びベッドに潜り込んだ。が、腹立たしいことに、たったそれだけのことで妙に眼が冴えてしまったようで、少しも眠気が訪れないのだ。5分余りベッドの中で展転反側したあげく、あきらめて起きようとした、その時のことだ。
部屋のそと。廊下のかなたから、なにか金属製のものが軋むような音が響いてきた。油を差していない、古ぼけた自転車のたてる音によく似たその響きは、廊下を少しずつ近づいてくる。そして潜めた足音が続く。……だれかが車椅子を押しながら歩いてくるのだ。
あのいかれた老人をどこかへ連れていこうとしているのか。こんな真夜中に、だれが。なぜ。猛烈に好奇心が疼いたが、しかし、身体はベッドの上で凍りついたようになって動かない。そうしているうちにも、“音”はどんどんぼくの部屋に近づいてくる。
ぼくは顔だけ動かしてドアの方に視線を向けた。闇に沈んだ部屋の中、明かり取りの小窓から、そこだけ薄ぼんやりとした光がさしている。“音”はやがてぼくの部屋の前を通過した。そのとき、明り取りから射していた光が、何かに遮られたように一瞬途切れた。
 
10.事件
それきり、いつの間にかぼくは眠り込んでしまったらしい。気付くと弱々しい光がカーテンの隙間から差し込んでいた。細くカーテンを開くと、重苦しい灰色に垂れこめた空のもと、外は一面の雪景色である。予報通り夜の間にかなりの降雪があったらしい。やれやれ、ロケハンはどうなるのだろう。のろのろと顔を洗い着替えをしていると、ドアがノックされた。
「安室〜、生きてるか〜?」
寝起きにはけっして聞きたくない声--明日香の胴間声だ。
「ったくもう……起きてますよ」
「んじゃ、さっさとここ開けろよ。事件だ事件!」
手早く着替えを済ましてドアの鍵を開ける……と、例によって小型の台風のような勢いで明日香が飛び込んできた。
「太平楽にいつまでも寝てんじゃないよ。事件だっつったろーが!」
答える間もなく、ぼくは明日香に引きずられるようにして、部屋を出、“現場”に向かっていた。
そこは、昨日ぼくらが撮影機材や小道具を山と運び込んだ玄関ホールだった。玄関のドアのすぐ脇に山と積み上げたそれらの機材が荒らされたのだ。ケースは片端から開かれ、ひっくり返され、雑多な品物があたりに散らばっている。山田山警部と馬場刑事の2人がしゃがみこんでそれを調べているのを遠巻きにするようにして、グリコ以下、スタッフたちが憮然とした様子で立っていた。
「嫌がらせ、かしら」さすがに青ざめた顔のグリコがいった。
「いまさら帰ってきて撮影に使おうなんて、やっぱり虫が良すぎたのかな」
「そんなことはないわよ。ここはグリちゃんちなんだから!」明日香がいいきるのに続けるようにして、山田山警部がいった。
「しかし、そう思っている人間がいるのかもしれませんね。グリコさんを嫌っている方が……この屋敷に」
その時、通路に通じるドアが、またしても叩きつけるような勢いで開かれ、狼狽しきった執事の稲田が転がり込んできた。呆気にとられて見守る一同に向かって、彼は搾り出すような声で叫んだ。
「旦那様が、旦那様が!」
 
11.鍵
さすがは警官というべきか。気付いた時には、山田山警部と馬場刑事はすでに玄関ホールを飛びだし、大広間の方に向かっていた。すかさずその後を明日香が追い。そのまた後を、ますます憂鬱な気分になったぼくが追いかける。次の間を抜け、ぼくたちが昨夜泊った寝室が並ぶ長い廊下を駆け抜けると、ようやく大広間のある塔の棟にたどりつく。手前に食堂があり、その向こうのいちばん広い部屋が大広間。昨日老人が猟銃を乱射して騒ぎを起こした現場だ。
食堂にはすでに朝食の準備が整えられ、コーヒーの香ばしい香りがただよっていたが、むろんいまはそれどころではない。みると大広間に続く両開きの大きな扉の前には、慎二郎が立ちはだかっている。扉はまだ閉ざされたままだったが、いましも彼は小振りな斧を振りかざし、巨大な扉にこれを叩きこもうとしているように見えた。
「ちょっとお待ちなさい!」
そちらに向かって走りながら、山田山警部が声をかけたが、それには答えようともせず慎二郎は斧を振り降ろした。ドンと腹の底に響く重い音……が、扉はよほど頑丈な造りなのか、それとも慎二郎が軟弱なのか。斧は扉にわずかに傷を付けただけで手もなく弾き返され、素早く駆け寄った山田山警部の手で素早く取り上げられた。
「落ち着きなさい!」
昨夜の色男然とした様子から一変して荒々しい表情を浮かべた慎二郎が喚き散らすのを、山田山警部の鞭のような一声がぴしりと打ち据えた。警部は斧を馬場刑事に渡すと、両手で閉ざされたドアのスティック状の把手を握って激しく動かした……が、やはり鍵がかかっているのだろう。ドアはいっかな開こうとしない。
「鍵はどこです」
「それが……見当たらないんですよ」
ようやく追いついてきた執事の稲田が、息を切らしながら答える。
「ここの鍵は一本きりで、他にはない特殊なものなのですが、いつもの置き場所から消えてしまったようで……いや、そんなことより、早くここを開けて下さい、中で旦那様がケガをしてらっしゃいます!」
憮然とした表情で頷くと、山田山警部は扉の頑丈さを確かめるように、二三度肩を軽く扉にあてがってみた。が、どうやら身体をぶつけたところで開くはずが無いと判断したらしい。先ほどの斧でドアを破壊するよう馬場刑事に命じた。
顔を真っ赤にした馬場刑事が斧を手に前に出る。そのまま大きく振りかぶって、その分厚い刃をドアの鍵穴のあたり叩き込んだ。大音響とともに木片が弾け飛ぶ。しかし、まだ開かない。3回ほどそれを繰り返したところでようやく錠前が破壊され、ドアは悲鳴のような軋みを響かせながら大きく開かれた。
 
12.死体
相変わらず大広間の灯りは壊れたままのようで、広すぎる部屋はねっとりした闇が濃く淀み、見上げれば吹き抜けの遥か数十メートル頭上にある天井もまた、黒々とした闇の中に沈みこんでいる。驚いたことに、広間の床一面に、ごく薄い白い紗のベールをかけたように浅く雪が降り積もっていた。白い雪の表を通して、床に敷き詰められた絨毯の色がうっすらと透けて見えるほどの薄さで、その上を歩いても雪を踏んでいる感触はほとんどない。そして、いまぼくらが飛び込んだ正面ドアからほぼ一直線に、雪のベールの上をひとすじの足跡と、2つ並んだ細いタイヤの跡……これは後で車椅子のものと確認された……が伸びている。その行き着いた先、部屋のほぼ中央にあたる場所に車椅子が置かれ、そこに1人の人物が腰を降ろしている。ちなみに、この2種類の跡以外には足跡やタイヤ痕に類するものは一切見当たらない。
車椅子に腰を下ろしている人物は、純白の総髪頭を深く俯けているため表情を窺うことはできないが、ぱっくり開いた喉もとの傷からおびただしい血液があふれ、首から下の全身を朱に染めている。
山田山警部を追い越すようにして馬場刑事が駆け寄った。が、すぐにこちらを向いて首を左右に振った。入り口のところで凍りついたようになっていたぼくらが思わず駆け寄ろうとすると、今度は別人のような厳しい顔になった山田山警部に制止された。
「申し訳ありませんが、皆さんは部屋の外へ。稲田さん、すいませんが、京子奥さまと柴崎医師を呼んできて下さい」
たちまちいきりたった明日香が、鼻息も荒く食ってかかったが、山田山警部は取りつく島もない。それでも明日香はしつこく食い下がっていたが、結局のところ、ちょうど稲田に呼ばれてやってきた京子らと入れ替わる形で、ぼくら同様部屋を追いだされてしまった。
まあ、ぼくの方はそんな血腥いもの、眼にしたくもなかったからむしろありがたかったのだけれど、明日香は例によって憤懣やる方ないという様子だ。
「くそくそくそくそッ! こぉーんな美味しいシチュエーションめったにないのにィイイイ!」
頭から湯気を噴きだして怒っている明日香に、ぼくはおそるおそる声をかけた。
「明日香さん、ちょっと不謹慎ですよ。人が亡くなったのに、“美味しいシチュエーション”はないでしょう。だいいち“あれ”は自殺でしょ。謎解きもクソもないんじゃあ」
たちまち明日香のマナジリが、キリキリキリと音を立てて吊り上がり、罵詈雑言がガトリング砲のように打ちだされた。
「くぉのスットコドッコイのコンコンチキ! キミはいったいぜんたいどーこーにー目をつけてるんだッ。いいかぁ、あの爺さんは凶器を持っていなかったし、遺体の回りにもそんなものは落ちていなかったンだヨ! つーまーりー、アレは殺人よッ!」
 
(下)へ続く



 
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