ジョン・ディクスン・カーを愛しすぎた男

【問題篇・下
 
 
13.証言
現場からはいち早く追いだされてしまったもののさすが明日香というべきか、その後の活躍ぶりは目を見張るものがあった。大広間に続くドアのそばに立ち、刑事達に呼ばれては出てくる人々を次々と捕まえては質問の矢を飛ばす。執事の稲田、京子、柴崎医師。屋敷の主人の壮絶な死に誰もがショックを受けていたのだろう、言葉巧みな明日香の質問に誰もが不思議なくらいすらすらと答えていった。ここにはそのうち重要な証言と思われるものを、いくつか記しておこう。 
まず最初に出てきたのは執事の稲田だった。 
「はい。大広間は通常はカギなどかけませんが、昨日はああいう騒ぎがあって床が汚れておりましたし、ガラス片なども落ちて危険なので、騒ぎの直後にドアを閉じてカギを降ろしました」 
明日香はいまにも噛みつきそうな顔で質問を重ねる。 
「そのカギは? どこへしまってあったの?」 
「はあ、いつも食堂脇の準備室のデスクにしまってあります。むろん昨夜もそこに置きました。そのことは皆さんご存知なのではないでしょうか。ところが今朝、大広間を片づけようとカギを取りに行ったら無くなってて。ええ、慌てましたよ」 
「じゃあ、稲田さんはどうやって大膳翁の遺体を見つけたのかしら?」 
「はあ、カギ穴からのぞいたんですが、何も見えませんで。最近のカギは向こう側が見えるようにはなってないようですね。で、仕方がないので、館の外に出て、外壁にはしごを掛けて窓からのぞいてみたのです」 
「窓? あの大広間に窓なんか、あったかしら。まさか天窓のことじゃないわよね」 
不審げな明日香の問いに、少しだけ余裕を取り戻した様子の稲田が答える。 
「ええ、室内からでは分かりにくいのですが、あの大広間は天窓の他にもう一つだけ窓がございまして。2階の高さにあたる場所に、お義理のように小さなものが1つだけあるのです。ああ、むろんその窓にも内カギがかかっておりましたよ。私もカーテンの隙間からようやくのぞくことができた次第で」 
そこまで話を聞いたとき、大広間の方から京子夫人出てきた。起き抜けとはいいながら、さすがに着替えは済ませていたが、義父を失ったショックは隠しきれない。化粧もろくにしないまま、蒼白な顔を俯けた彼女は10あまりも老けて見えた。ふとそこに稲田がいることに気づくと、ようやく京子の瞳の焦点が戻ってきた。 
「ああ稲田、こんなところにいたの」 
その声を聞いて、いきなり稲田の背筋がピンとのびた、これも条件反射というやつなのだろうか。 
「奥様、何かご用ですか」 
「ええ、そう……山田山さんに言いつけられたことは済ませたの?」 
「は、ただ警部さんにもご報告したのですが、電話がどうしても通じなくて。どうやら昨夜の雪で架線が切れたようです。ですんで警察への連絡はできてないのですが……それ以外は済ませました」 
「電話の件は困ったわね。ここは場所がら携帯電話の類いは使えないし……じゃあ稲田、申し訳ないけど、あとで船を出してひと走り本土の駐在まで伝えに行ってきて」 
「わかりました。ご用はそれだけで?」 
「ええ、とりあえずは。あ、そうそう。大広間はなんであんなに暗いのかしら? 明かりがつかないのはわかるけど、天窓まで真っ暗じゃない」 
「おっしゃるとおりで。どうも、天窓の上に風で飛ばされてきた大きな木の枝でもかぶさってひっかかっているのか。天窓全体がすっかりふさがれてしまっているようで。それこそ私がのぞいた小窓以外、いっさい光が差さないようです。天窓の方は業者と連絡が付くまでは手が出せませんので、しばらくは使わないようにするしか」 
「そうなるわねぇ。それにしても、まったく」 
  
14.密室
そそくさと立ち去ろうとする京子夫人を強引に捕まえ、明日香はいくつか質問を試みたが、さほど得るところはなかったようだ。 
続いて出てきた柴崎医師に対する質問は、もっぱら大膳翁の死因に関するものが中心になった。 
「そうですな、失血死です。首筋の頚動脈を鋭利な刃物で切り裂いておりましたな」 
「凶器はどんなものだと思われますか」 
「いや、私は法医学者ではありませんし。ただまぁ非常に鋭利な刃物……たとえばカミソリであるとか、医療用のメスであるとか、そういったものではないかという気がします」 
明日香は大きく頷いて身を乗り出した。 
「で、その凶器は、現場から見つかりましたか?」 
「あ、いや。警部たちがかなり綿密に探してらっしゃいましたが、床からも大膳翁の御遺体からも、そうしたものは一切発見されてませんな。たしかに自殺にしてはたいへん奇妙な状況ではあるのですが」 
ぎらり、と明日香の目が光った。 
「自殺? 先生はいま自殺とおっしゃいましたね。なにかそれを裏付ける証拠でも出てきたのでしょうか」 
詰問するような明日香の口調に畏れをなしたのか、柴崎医師はにわかに落ち着きを失い、視線を八方に飛ばし始めた。 
「いや……その……証拠といわれても……しかし、カギは翁のポケットにあったわけですし、翁はああいう健康状態ですから。自殺と考える方が自然かと思っただけで、むろんこれはあくまで非公式な所見ですが」 
明日香はびくりと身体を震わせて、いきなり柴崎医師に激しく詰め寄った。 
「ちょっと待って! いまカギが翁のポケットから見つかったといいましたよね」 
「は、はあ」明日香の剣幕に医師は目を白黒させている。 
「それは、間違いないんですね! あああああ、エクセレント〜ッ! まさか、こんなところでナマの密室殺人に出会えるなんて、思ってもみなかったわ!」 
「いや、だからあれは自殺では……」 
 医師が言葉を継ぐのを、明日香は煩わしそうに手を振りながら遮った。 
「先生に聞きたいのはあと一つだけです。死亡推定時刻はおわかりになります?」 
「それは専門家に解剖してもらわなければわかりませんが、まあ、おそらくは午前2時から4時頃にかけてというところでしょう。もういいですか。私も急ぎますので」 
明日香が軽く頭を下げて礼をいうと、医師は白衣を翻して去っていった。明日香はその後ろ姿を見送ると、いつも仕事で使っている小型のノートブックに何事かを書き込み始めた。 
「なんだか声がすると思ったら……やっぱりお前か!」 
見ると壊れたドアから、不機嫌そのものという表情を貼り付けた馬場刑事の顔がのぞいていた。 
「性懲りもなく探偵ごっこか? ああ?」 
  
15.孤立
「ああらウマさん、探偵ごっことはまた、ずいぶんなお言葉ねぇ」 
だからそーゆー小馬鹿にした口調はヤメっちゅうに! ……ぼくのココロの叫びも虚しく、明日香はノートを振り回しながら機関銃のように罵り始めた。聞いたものにしかわからないと思うが、明日香の罵詈雑言に関するボキャブラリィは半端じゃない。しかもそのスピードといい声の大きさといい、相手の弱点をピンポイントで突いてくる仮借の無さといい、もはや人間業を超えているといっていい。はっきりいって、ナミの人間なら1分と堪えられずに、その場にひれ伏したくなること必定である。 
「だあああああッ、やめんかーい!」 
馬場刑事がほとんどナミダ眼になりながら、とてつもない大声を張り上げて明日香の言葉の奔流を遮った。 
「やめろやめろやめろやめてくれえ」 
早くもほとんど懇願せんばかりに、泣き声になりかけている顔つきが情けないといったらない。察するに馬場刑事はむかし明日香にさぞかし酷い目にあわされたのだろう。同病相哀れむ、とは思いたくないけれど、もしかしてぼくはいつも明日香にやり込められている時ああいう顔つきになっているのだろうか……かなりイヤかも。 
と、そこへひょいと顔を出したのは山田山警部だった。見ると警部の腕の中に、黒猫の葉月がちゃっかり潜り込んでいる。警部に顎を撫でられて心地よさげに喉を鳴らしている。 
「馬場君、何事だい。大声を張り上げて。勝手な行動は謹むようにあれほど言ったじゃないか」 
丁寧に葉月を床に下ろし、馬場をたしなめる警部の口調はどこかからかうようで、それがまた馬場刑事の怒りに油を注ぐことになったようだ。ほとんど蒼白になった“ウマちゃん”こと馬場刑事は、心底恨めしそうな目付きになって山田山警部を見上げた。 
「しッしかしッ、警部どの、こいつは民間人のくせに関係者に尋問まがいのことを」 
 山田山警部は、しかし余裕たっぷりに笑みを浮かべ、肩をすくめた。 
「まぁ、いいじゃないか。密室殺人なんておとぎ話めいた事件を、警察が不得意にしているのは、事実なんだから」 
「おッおッお言葉ですが警部!コトはそういう問題ではありません。それとも何ですか?警部はこの名探偵気取りの女に、捜査協力させろとでも」 
「だってさ、馬場君。本署に連絡も取れない今の状況じゃ、当面ぼくらだけで現場を仕切るしかないわけだろ? どうしたって手が足りないじゃないか。だったら、とりあえず君の友達で信頼のおける人物……たとえば蒼龍明日香さんに、いっとき協力を依頼するのは当然じゃないかな」 
その言葉を聞いて、明日香はその場で30センチばかりジャンプした。瞳が通常の3倍ほどに拡大し、きらきらした光がこぼれ落ちる。 
「さあっすがー、警視庁にその人ありといわれた山田山警部! ぺーぺーの馬鹿刑事とはハラの座り方が違うわァ!」 
明日香は飛びつくようにして警部の両手を握りしめ、ものすごいいきおいで振り回した。その勢いにはさすがの警部も呆気にとられたようだ。 
「い、いい気になるなよ、蒼龍明日香! なあにいま執事が船で呼びに行ってるんだからなあ、ここにもじきに警官隊がやってくるんだ、そうなったら……」といいながら、山田山警部の方にちらりと視線を送る。どうやらやはり上司が気になるようだ。そこへまたしても激しくドアが叩きつけられる音がして、執事の稲田が部屋に飛び込んできた。 
「ダメです! 船のエンジンと通信機が全部壊されています! 」 
がくりと音を立てて、馬場刑事の口が開いた。落ち着いた声で山田山警部が稲田に問いかけた。 
「他に何か、本土と連絡を取る手段は?」 
稲田は汗を拭きながらきっぱりといった。 
「ありません! 三日後くらいに食用を積んだ船が来る予定になっていますが、それまでは……」 
「孤立したまま、ということですか」相変らず憎らしいくらい冷静な口調で山田山警部が言った。 
馬場刑事は山田山警部の顔を恨めしげに一瞥し、がっくり肩を落した。稲田の後を追うようにして部屋に入ってきたAkkey(こちらは毛むくじゃらの大型犬である)が、どうやら慰めているつもりなのだろう、そんな彼の顔を長い舌で嘗め始めた。それを見て葉月は軽蔑したような視線を送り、尾をピンと立てて部屋を出ていく。なんだかよくわからないが、この二匹、互いをライバル視しているんだろうか。 
まあ、そんなことはどうでもいいわけで……ぼくら全員がまたしても最悪の事態に放り込まれたことだけは、どうやら確かなようだった。 
  
16.現場
稲田の報告を受け、山田山警部は壊された船の様子を調べるといって、馬場刑事を促し屋敷を出ようとした。明日香はあわてて警部にいくつかの質問を行い、満足すべき答えを得たようだ。“現場”の保存を命ずる山田山警部の言葉にも、機嫌よく答え、敬礼の真似までしている。しかし、まあ当然のことだが、そんな山田山警部の言葉が、完全に“名探偵モード”になった明日香への抑止力になるはずがない。二人の姿が視界から消えるやいなや、明日香はごく当然という顔をして錠前部分が壊れたドアを開き、大広間に侵入した。 
どうやら暖房も切られているようで、大広間の空気は冷えきっていたが、床に積もっていた雪はすでに少しずつ溶け始めている。足跡の類いは微かに残っているが、幾人もの人間が出入りしたせいか、もうほとんどわからない。しかし、今朝自分が見たあの光景……薄い雪のベールにくっきりと印された一人分の足跡と車椅子のタイヤの跡……は鮮明な映像として記憶に残っている。間違いない。たしかに“行き”だけで“戻り”の痕跡はどこにもなかった、と断言できる。 
明日香はまずドアの鍵の部分を調べ、傷跡や細工の後が無いか確認したが、むろんそんなものは一切ない。 
「やはり、このドアは内側から施錠されていたと考えるしかありませんね……で、1本きりのカギは翁のポケットにあった、と」 
これでは、やはり密室と考えるほかないのだろうか。ふと思いついたことがあったので、黙ったままドアを調べている明日香にいってみた。 
「たしか二階の回廊……あのバルコニーみたいなところにも、ドアがありましたよね? ほら、昨晩故人が猟銃を乱射したときにいた場所。あそこの鍵が開いてたんじゃあ?」 
馬鹿にしたような溜め息をついて、明日香は立ち上がった。 
「あのさー、そんなアッタリマエのこと、私が確認してないと思う? 昨日の晩の大立ち回りの後で執事が鍵をかけ、今朝もそのままだったそうよ。もちろんこれもカギは1つしかないしね。だいたいさあ……」といって、明日香は大広間の高い壁面を巡る回廊の方に手を振った。何から何まで大造りに作られているこの屋敷では2階の床面と同じ高さにある回廊もかなりの高さがある。 
「あの高さでしょ、はしごも無しに上り下りするのは至難の業だし、警部たちはその下の床面もきちんと調べたんだって。もちろん人が歩いた跡なんて何もなかったそうよ」 
ま、そんなことだろうとは、思ったんだけどね。 
ぼくは肩をすくめ、明日香の小馬鹿にしたような視線を受け流した。それから小一時間。明日香とぼくは“現場”である大広間を可能なかぎり綿密に調べて回った。床は前述のとおり、昨夜、雪が降ってから以降は車椅子とそれを押していた人物以外の痕跡はない。稲田執事がのぞいたという小窓も仕掛けやそれに類するものはなく、厳重に内鍵が降ろされたままだ。そして翁の死体だが……申し訳ないがぼくはそんなものをしげしげ見たくはないので、背中を向けたまま明日香の声を聞くことにした。 
「傷口は左側の首筋、頚動脈。後ろから顔の前に手を回して切った、とすれば犯人は右利きということになるわね。凶器を持った手はともかく、その体勢なら返り血をあびることもなかったでしょう。この傷口はやはり鋭利な刃物ね。首には他に傷に類するものはないし、ワイヤー類で引ききったって感じはないわね」 
「遺体の表情は、と。ふうん、わりと穏やかじゃない。意識を失わされたまま切られたのか、犯人のことを最後まで疑いもしなかったのか……まあ、昨夜あの騒ぎの後で睡眠薬を処方されたようだったから、眠り込んだまま車椅子でここまで運び込まれた可能性が強いわよね。まあ、これは解剖の結果を聞かなきゃ確かなところは分からないけど……あ」 
ふいに明日香の長ぜりふが途切れた。振り向くと、彼女は死体の左手を持ち上げてしげしげとそれを見つめている。 
「どうしたんですか? いったい」 
明日香は翁の左手を、ぼくの目の前に突きだした。むっとするような濃密な血臭が襲いかかる。ぼくはうんざりしながら目を凝らした。翁の血に染まった左手の人さし指に太い糸のようなものが巻き付けられている。昔の人は忘れ物をせぬよう心覚えのために指に糸を結んだものだが、ちょうどそんな感じだ。幾重かに巻き付けられたうえ堅結びに結ばれた太めの黒糸は、きれいに切られた一端まで翁自身の血で赤く染まっている。 
「これは、いったいなんなんですか?」 
明日香は黙って肩をすくめ、“現場”を後にした。 
  
17.目撃
部屋を出たところで、タイミングよくもどってきた山田山警部と馬場刑事に明日香が船着き場の様子を尋ねると、やはりエンジンも通信機もとても直せそうもないほど破壊されているという。山田山警部は平静な表情だが馬場刑事は見る影もなく落ち込んでいる。だが、こればかりはどうしようもない。ぼくらはやはり、3日後までこの島に完全に孤立状態に置かれてしまったのだ。 
「そうなると、ここに死体を置いておくわけにはいかないな。馬場君」どこからか現れた葉月が足下にまとわりつくのを、愛おしげに抱き上げながら警部がいった。 
「あ、はあ」と馬場刑事の方はあくまで気の抜けた返事である。 
「いくら気温が低いと言っても、ここに死体を置きっぱなしにしていたら臭うだろう。隣は食堂だしね。地下室か、寝室か、あるいは冷蔵室なんてものがあれば、そこにでも置かせてもらおうよ」 
「しかし、警部、鑑識もすんでないのに、みだりに死体を動かすわけにも行きません」 
「だからって、3日もここにおいて置くのもね。そうだ!」 
そういって山田山警部はぼくの方を見た。 
「安室さん、あなたたしかカメラマンでしたよね?」 
警部の屈託の無い笑みを向けられると、どうも断ることができない。ぼくは山田山警部の指示にもとづき、数十枚に及ぶ“現場写真”を撮影させられるはめになった。一通り撮影が済むと、警部は稲田執事と相談の上、翁の死体を地下のワインセラーに置くことを決め、その運搬を馬場に命じた。馬場は例によって不満たらたらだったが、遺体はもともと車椅子にのったままだから、運びやすいといえば運びやすいはずだ。 
稲田執事がもってきた古毛布ですっぽりくるんだ大膳翁の死体を載せたまま、馬場が押す車椅子は、耳触りな金属音を響かせながら稲田の先導でゆっくりと進んでいく。その姿を見ているうちに、ぼくはふと昨日の晩『赤後家の部屋』で横になっている時に聞いた不審な足音の件を思い出した。 
「あの、山田山警部、つまんないことなんですが」 
「なんですか?」 
ぼくは昨夜の出来事を警部に話した。むろん警部の横では目を爛々と光らせた明日香が食いつきそうな顔で聞いている。ひと通り話し終えると、警部は腕組みをして考え込んだ。 
「まあ、ぼくは犯人の顔を見たわけじゃないし、音を聞いていただけですからね。たいして役に立たないデータだとは思いますが、いちおう」 
ぼくがこういうと、警部は腕組みを解き、笑顔を浮かべた。 
「いえいえ、あなたは非常に重要な“目撃者”ですよ。“犯人”を特定するうえできわめて重要なデータを、提供して下さいました。どうも、ありがとう」 
そういってぼくの肩を軽く叩くと、警部は車椅子を押す馬場の後を追いかけていった。わけがわからなくなったぼくは、明日香を振り向いた。 
「どういうことでしょうか」 
明日香はにやりと例の底意地の悪そうな笑みを浮かべた。 
「警部がいう通りさ。キミはね……そう、犯人を目撃したんだよ。その二つの目で、間違いなくね」 
「え? でも、だってぼくはなんにも見てないですよう!」 
もちろんぼくは明日香を必死で問いただしたが、彼女は意地悪く笑うばかりで答えようとはしない。まだ問題が残っているとか、確認しなければならないことがあるとかいいながら、ぼくの問いかけをはぐらかすばかりだ。明日香は涼しい顔でいった。 
「んじゃあ、さっきは中途半端になっちゃったから、グリちゃんたちの話をもう一度聞きましょ」 
まあ、毎度のことなのだが、解答を目前にして意味もなくもったいぶる“名探偵モード”の明日香の態度には腹がたって仕方がない。ぼくはぶつぶつ口の中で文句をいいながら、明日香と共にグリコたちのもとへ向かった。 
  
18.始末
「長いこと会ってなかったとはいえ、やっぱおじいさんが亡くなってショックだったんだろうねー。グリちゃんは部屋で休んでるよ」 
玄関ホールのもう一つの現場では、例の山田、権堂、白川のTV屋三人組が、何者かに荒らされた機材を整理し直している作業の真っ最中だった。 
「まあ、そうでしょうね。当然だわ。……だけど仕事の方はどうするの? 今日はたしかロケハンする予定だったわよね」 
醒めた目つきで顔を見合わせた三人を代表するように、カメラの権堂が肩をすくめながら言った。 
「うーん。まあ、決めるのはディレクターのグリちゃんだけどさ、この状況じゃ局に判断をあおがないと、動きようがないんじゃないかなー。冗談抜きで死人が出ちゃったとなると……番組の企画そのものがぽしゃっちゃう可能性もあるしさあ」 
「そっすよねー、死人が出た現場でお笑いのロケなんて、洒落になんないっすよー」 
ADの白川が相変らず軽薄な口調で言葉を添えると、明日香の目がぎろ、と光った。 
「なぁに無責任なことばっか言ってんのよ! この番組にグリちゃんがどんだけイレコんでるか、アンタらだって知ってんでしょーがッ!」 
烈火のごとき明日香の怒りも、しかし腑抜けモードの三人組には通じなかったようだ。そうはいってもなあ、という感じで手を止め、三人は気の抜けた顔を見合わせて溜息をついている。 
「ったくもう!」 
明日香の気持ちはわかるが、これは致し方のないところだろう。三人が気の毒になったぼくは、彼らの作業を手伝うことにした。それを見てさすがに良心が痛んだのか、明日香もシブシブ手を出した。 
何者かに荒らされていたのは、どうやら撮影用の小道具が中心だったようだ。ひっくり返されそこらじゅうに散らばったそれら雑多な小道具類を、1つ1つ拾い箱やトランクに収めていく。なにしろお笑いバラエティの番組だから、小道具といってもドラマのそれとは違う。大小様々な金だらいに小麦粉の大袋、墨汁、絵の具、マーカー、巨大な黄金色のハリセン、ピコピコハンマーに、赤青黄緑黒白と色とりどりのゴム風船がどっさり。むろんそいつを膨らませるエアコンプレッサーやヘリウムのボンベも用意されているし、工具類も山ほどある。ついでにいえば、なんと冷蔵ケースに入ったパイまである……こいつは屋敷の冷蔵庫に仕舞わせてもらったほうがいいんじゃないか? むろん食べるわけではないにしろ、腐ったパイをぶつけられるなんてゾッとしない。 
「ああ、もう! こんなことやってらんないわ!」 
五分もしないうちに根をあげたのはやっぱり明日香だった。 
「私には“仕事”があるのよ。んなことに付きあってるヒマはないッ!」 
「だけど、明日香さん。ぼくらだっていちおう撮影隊の関係者なんだから……」 
ぼくが言うと、たちまち骨の髄まで凍りつくような明日香の視線が飛んできた。思わず震え上がるぼくを見て、苦笑いを浮かべながら権堂が言った。 
「ここはもうだいたい片づいたから……明日香ちゃんたちはもういいよ」 
「合点承知!」待ってましたとばかりに明日香が答えた。 
  
19.名犬
「で、どうします。グリコさんとこにでも行きますか?」 
「そう……ね」 
ぼくの問いかけに答えかけた明日香は、そこで突然立ち止まり、身体を硬直させた。 
見ると明日香の目の前にグリコのあのやたらと巨大な愛犬・Akkeyが座り込み、長い舌を伸ばし白い息を吐きながら、こちらをじっとみつめているのだ。 
先ほどもいったとおり極端に犬が苦手な明日香は、にわかに石になったようで、指一本動かせなくなってしまったようだ。 
「……ちょっと、安室、こいつをどうにかしてよ……」 
「え? なんですか。聞こえませんよォ」 
「……だからこいつをどうにかしてってば……」 
「はい〜?」 
「わざとらしく聞こえないふりするんじゃない!」 
こんな滅多にない機会を逃す手はない。ぼくは肩をすくめて溜息を1つついてやった。 
「なあんだあコワいんですかあ、こぉんなにカワイイのにい」 
「だからぁ!」信じられないことに明日香はナミダ目になりかけている。さすがに気の毒になったぼくは、Akkeyの喉元をなでてやり、機嫌を取りながらその体を動かそうとした。ところがその巨体に似合わぬ素早さで、Akkeyはぼくの腕をかいくぐり、一飛びに明日香の足下に駆け寄った。そして大きな口を開けて彼女の上着の裾に噛みつき、そのままぐいぐいと彼女の身体を引っ張り始める。 
むろん明日香はタマギるような悲鳴を上げて抵抗するが、Akkeyの馬鹿力は容赦なく彼女を引きずる。しまいにはまたしても明日香は懇願し始めた。 
「すいませ〜ん、許してくださぁ〜い」 
こんな滅多に見られない光景、しみじみ鑑賞しておきたいのは山々だが、さすがに気の毒になってきた。 
「なんだかAkkeyは、明日香さんをどこかへ案内したいみたいですよ」 
「案内〜? だったら着いてきますから、とりあえず離してくださ〜い。お願いしま〜す」 
明日香がほとんど泣き声になりながらそう言うと、Akkeyはひと声吠えて明日香の服の裾を離した。大きく溜息をついてその場にがっくり座り込んだ明日香をじっと見つめながら、巨大なしっぽをパタパタ振り、お預けの姿勢で行儀良く座り込んでいる。 
「ったくもう、このバカイヌ!」 
ぼくが差し出した手にすがって明日香がよろよろ立ち上がると、Akkeyはまた一声吠えて玄関の方に向かって歩き始めた。 
「外?」 
「みたいですね」 
驚いたことにAkkeyはその巨体と口を使って巧みにスティック状のノブを回し、玄関ドアさえも自分で開けてしまった……どうにもとんだ名犬ぶりだ。ともあれ名犬Akkeyに続いて明日香とぼくはほぼ一日ぶりに館の外へ出た。 
  
20.気球
肌を突き刺すような寒風。どんよりと灰色の雲が重苦しく垂れこめ、時折雪の切片がちらつく。前庭は一面うっすらと雪のベールに覆われ、幾筋か足跡が残っているのは山田山警部たちや稲田執事が歩いた跡なのだろう。むろん、これといって不審なところは何もない。 
Akkeyは時折振り返りながら小走りに前庭を横切っていく。 
「いったいなんだってのよ、まったく」 
ぶつぶつ小声でののしりながら明日香はAkkeyの後を追い、そのまた後をぼくが進む。やがてぼくらは広い前庭を横切って、広壮な花壇のそばにたどりついた。季節外れの花壇は、さすがに丁寧に手入れされてはいるが、花は咲いていない。うっすらとだが一面雪に覆われ、ここもまた寒々とした景色であることに変わりはないようだ。花壇の端にどっかりと腰をおろしたAkkeyはこちらを向いて、またも一声吠えた。 
「で……なんなのよぉ。ったくもう!」 
明日香が毒づくと、Akkeyは激しく尾を打ち振りながら首をあげ、宙に視線を送っている。 
「見ろ、っていうの?」 
明日香とぼくはその場で振り返ってみた。目の前にあるのは、いうまでもなく巨大な密室館の建物だ。これだけ離れてみても、その建物は天に向かって高々と屹立し、圧倒的なボリュームでもってぼくらの方にのしかかってくる。ことにあの現場となった大広間の棟屋はあまりにも高く巨大なので、これくらい離れないとその天辺部分は観ることすらかなわない。Akkeyの視線を辿るようにして、ぼくと明日香は視線をその塔屋状の天辺部分に運んだ。 
ごぞんじの通り巨大なステンドグラスがしつらえられていた天辺部分は、そのため尖塔ではなく、なだらかに丸いドーム状の形となっている。しかしそれが描きだすはずの優雅な弧は、何か奇妙な“異物”でもって無粋に壊されていた。 
「あれは……いったいなんなのよ!」 
その異物とは、黒っぽい巨大な布と幾筋ものロープ、そしてちっぽけなカゴのようなものがごちゃごちゃに入り交じったような、まさに異物としかいいようのない物体だった。それが塔屋の天辺部分にべったり被さっているのである。……隣で明日香がかすかに息を飲むのが聞こえた。 
まさか。まさか、あれは。 
「なんてこと……あれは“気球”よ!」 
そう、間違いない。あれは“気球”だ。だらしなく潰れて伸び広がった気球の残骸だ。 
ぼくは昨夜の稲田執事の話を思い出した。大膳翁が猟銃で撃ち壊した、ステンドグラスの大穴を塞いだもの。塔屋の天辺に激突し、そこにべったり被さって穴をぴったり閉ざしたもの。……稲田は折れた木の枝なんていいかげんな憶測をしていたけれど、考えてみればそんなものであの大きな天窓がすっぽり塞がれるはずがない。それにいくら風が強いといっても、あんな高い建物の天辺にまで木の枝が吹き上げられたというのも考えにくい話だ。じつは天窓の穴は、木の枝でなくあの気球によって塞がれていたのだ。 
いったい誰が、なぜ?……だがそんなことは考えるまでもない、ように思えた。いや、もちろんそんな決めつけは禁物だが、このタイミングで、この密室島に登場した気球は、否応なくぼくらに一つの名前を思い出させる。そう……鬼瓦権二。 
あの伝説の天才コンマンにして、明日香の恨み重なる仇敵は、すでにここ密室島にやってきていたのだ。 
  
21.驚愕
「安室、山田山警部を呼んできて!」 
射貫くような鋭い視線を気球に向けたまま、明日香が言った。今度ばかりは無駄口をたたかず、ぼくは無言で明日香の指示通り館に走った。鬼瓦権二が、この島にいる。それが事実なら、大膳翁の事件もまた大きくその様相を変えることになる。むろん、権二はいままで人を殺したことはないが、だからといって事件とまったく無関係とも考えにくい気がするのだ。 
走りながらぼくは、昨夜のあの不審な物音のことを思い出した。ぼくの部屋の前を通った足音ではなく、その数分前に聞いた何かが激突して壊れるような音。あれがくだんの気球が塔の天辺にぶつかった音だったに違いない。……しかし。あんな高いところに、それも見通しの悪い夜間に激突して、乗員が無事であるはずがないのではないか。権二はすでに壊れ歪んだ気球のゴンドラの中で、死なないまでも身動き取れなくなっているのではないか? 
玄関の二枚扉を押し開くと、幸運なことにちょうどそこに、権堂らTVクルーたちから話を聞いている山田山警部たちの姿があった。ぼくは警部の元に駆け寄ると手早く事情を説明した。 
それまでつねに平静な表情を崩さなかった警部の目が、はじめて大きく見開かれ口元から小さな嘆声が漏れた。横で聞いていたウマ……馬場刑事の目も真ん丸に見開かれる。思わず咳き込むような口調になりながら彼は言った。 
「気球ですって気球。気球といったら鬼瓦権二! ですよ、警部。早くいきましょういってアヤツメを取っ捉まえましょう!」 
「そ、そうだね。馬場君」 
二人を引き連れたぼくは取って返して扉を押し開き、前庭の端をめざした。さきほどの場所では、あいかわらず明日香が足下にAkkeyを従えて塔屋頂部の気球の残骸を見上げている。その隣に立ったぼくらは肩を並べて、彼女と同じように宙を見上げた。警官コンビの口からそろって嘆声が漏れる。自分が追っていた鬼瓦権二がすでにこの島にやって来ていたという事実は、さすがにとてつもないショックだったのだろう。沈着冷静がトレードマークの山田山警部も凍りついたように表情を強ばらせている。驚いたことにいち早く気を取り直したのは馬場刑事の方だった。 
「警部! さあ、早く行きましょう!」 
「え……馬場君、行くって、どこへ?」 
「決まっているじゃないですか!」ウマちゃんは別人のようにきっぱりした口調で言い、振り返って右手を突き出した。その指先はむろん塔の天辺を一直線に指している。 
「天窓、ですよ!」 
  
22.天窓
ぼくらが密室館の人々にもたらした情報……天窓に引っ掛かった気球の話……は、屋敷の人々に恐惶に近い驚愕を呼び起こした。そして誰もが“それ”を我と我が目で確かめたがっては前庭に出、呆けたような顔で塔を見上げては、あらためて凶賊の出現をその目で確認したのである。一時の凍りついたような驚愕が去ると、屋敷の人々は憑かれたような口調で、口々に“意見”を喚きちらし始めた。彼らの狂態にわけもなく興奮したAkkeyが、人々の足下を尻尾を千切れんばかりに振りながら走り回っている。 
「じゃあ、もしかしてお爺様も、その権二とかいう悪人の手にかかったのでしょうか」 
「そうですよ、きっとそうに違いない」 
「稀覯本を持ちだそうとしてお爺様に見つかって……殺したのね!」 
屋敷の人々の議論を聞いていた山田山警部は、呆れたという顔で彼らをなだめにかかった。 
「皆さん、待って下さい。どうか落ち着いて……気球が見つかったからといって、それが鬼瓦権二のものとは限りません。観測気球が風に流されてきたのかもしれないし、太平洋横断を企てたどこかの冒険野郎の愛機かもしれない。だいいち」といって、警部は再び気球を見上げた。情けなく凋んで天窓に張り付いた気球は、2月の冷たい風にその布片の一部をかすかにはためかせている。 
「だいいち、塔屋に激突してあんな状態になった気球の乗員が無事であるはずがないでしょう。仮にあれに権二が乗っていたとしても、死ぬか大怪我をしているに違いありません」 
「しかし警部」と気球発見以来、妙に強気になったようにみえる馬場刑事がいった。 
「それは確認してみなければわからないじゃないですか! なにしろ相手は希代の怪人・鬼瓦権二なんです。天窓から屋敷に侵入し、翁を手にかけたという可能性はけっして否定できないのでは」 
「そうよ、早くどうにかしてほしいわ!」と馬場刑事のしり馬に乗った京子夫人が大声で喚き散らす。 
「その権二とやらが死んでいるならよし、そうでなければ私達だっていつお爺様と同じ目に合わされるか……警察は早くそれを確認する義務があると思うわ!」 
京子夫人に詰め寄られ、山田山警部は困惑した顔つきのまま、人々の後に無言で控えていた稲田執事に声をかけた。 
「どうも“あれ”を調べなければ皆さんにご安心していただけないようだ。稲田さん、申し訳ないが、天窓へ上がる通路を教えて下さい」 
一瞬、仮面をかぶったような無表情を貼り付けていた稲田執事の顔に、はじめて困惑の色がよぎった。 
「稲田さん? どうしました?」 
「いえ、あの、京子奥さまはご存知だったと思うのですが」 
「なにがよ!」夫人はもうほとんど喧嘩腰である。 
「そ、その。あの天窓はもちろんはめ殺しの窓ですし、これといった部屋や屋上があるわけでもない。むろん外階段も内階段もなにもございません。つまりあそこに上る方法はないので」 
「あ……」初めてそのことに思い至ったのだろう、京子夫人は口元に手を当てて稲田を凝視した。 
「そう……よ、あそこは誰も上れないし降りられない。人間はもちろん猫にだって登れやしない。修理する時も業者がクレーンを持ち込んで、足場を組んで作業したのだったわ」 
  
23.錯乱
「はい、足場を作らぬかぎりは、それこそ気球にでも乗らなければ塔の天辺に行く方法はございません」 
京子夫人の言葉を受け、能面の顔に戻った稲田執事がきっぱりそう答えると、館の人々のパニックは、しかしいっそう激しいものになってしまった。口々に警察を責め、自分たちの不運を嘆き、凶賊の跳梁に脅える言葉を喚き散らす。だが、いくら騒いだところで行けないものは行けないのだ。さすがの山田山警部にも手の打ちようがないだろう。 
「どうか、皆さん落ち着いて下さい。先ほどいったように、凶賊が屋敷に侵入したという証拠はないし、その恐れはごく小さなものです。私達もじゅうぶん警戒しますし、落ち着いて三日後の救援を待って下さい」 
警部の至極真っ当な言葉も、しかし脅えた人々の耳には届かなかったようだ。 
ことに今朝方、翁の遺体が発見された時も錯乱してドアを打ち壊そうとしていた慎二郎は、蒼白な顔に冷や汗をびっしり浮かべてぶつぶつ何事かを呟いていたかと思うとにわかに身を翻し、後に立っていた執事を突き飛ばすようにして屋敷に向かって走り始めた。 
「どうしたんです、待ちなさい」 
とっさに山田山警部と馬場刑事は慎二郎の後を追い、ぼくと明日香もその後に続いた。山田山警部は走りながらしきりに声をかけているが、慎二郎は錯乱しきった様子で、両手を振り回しながら後も見ずに走り去っていく。 
ひと足先に館の玄関に飛び込んだ彼は勢いをつけてドアを閉じた。一瞬遅れて山田山警部が扉に体当たりしたが、すでにドアには鍵が下ろされていたようだ。警部の体は後に続いていた馬場刑事もろとも扉にはじき返され、雪が溶けかけたどろどろの道に転がった。ようやく二人に追いついたぼくが警部を助け起こすと、警部はぼくの手を振り払うようにして玄関扉に飛びついた。 
「いったいどうしたんです。ここを開けなさい!」 
警部が扉を激しく叩きながら大声を出すと、扉越しに慎二郎の声がした。 
「警察が当てにならないなら、オレが始末を付けてやる! そうとも」 
その声と同時に何やら激しく叩きつけたり壊したりしているような音が聞こえる。 
「いかん、馬場、手を貸せ」 
そういって馬場刑事を促し、警部は勢いをつけて右肩を玄関扉に叩きつけた。二度、三度、しかし分厚い扉は激しく軋みながらも開こうとはしない。 
「なあにをぼんやり見ているのよ。あんたも協力すんの!」 
呆然と見つめていたぼくも、Akkeyを従えた明日香にいわれて警部達と息を合わせて扉に体当たりする。それにしても明日香はもうAkkeyに慣れちゃったのか、などと。余計なことを考えながら三回ほど繰り返したところで悲鳴めいた金属音と共に錠前がはじけ飛び、扉は勢いよく左右に開いた。ぼくは警部たちと縺れるようにして玄関広間に転がり込んだ。顔をあげると、昨夜稲田がしまいこんだはずの猟銃を両手に抱え、大広間の方に走り去ろうとする慎二郎の後ろ姿が目に入る。一瞬、血走った慎二郎の目がこちらを向いた、と思う間もなくその姿は扉の向こうに消えた。 
「待ちなさい! 待て!」 
素早く立ち上がった警部がその後を追う。ぼくらの頭を飛び越すようにして部屋に飛び込んできた明日香とAkkeyがそのすぐ後を走りだし、馬場刑事とぼくも後を追った。 
  
24.再現
慎二郎は塔屋へ続く廊下(ちなみにここにぼくや明日香が泊まった部屋のドアが並んでいる)を駆け抜け、昨夜事件が起こった大広間に飛び込む。続いて一団となったぼくらが後を追う。ドアは慎二郎の手で閉じられていたが、もちろんその鍵は今朝ほど警部達が破壊したばかりだ。 
煌々と明りの灯った廊下からいきなり飛び込んだせいか、明りのない大広間はいちだんと暗く、ほとんど真っ暗闇のように思えた。いきなり踏み込んでいくのは躊躇われる。なにしろ相手は猟銃をもっているのだ。明日香が聞きこんできた話では、大膳翁が振り回していたあの猟銃は、どうやら例によって特別誂えの強力な散弾銃であるらしい。そんなシロモノ、きちんと許可を取得しているとも思えない。あっさり見逃した山田山・馬場の両警官の責任は重いといえるが、むろんいまはそれどころではない。 
警部が姿勢を低くしたまま、声を張り上げて呼びかける。 
「いったいどうしようというのです、慎二郎さん。ともかく猟銃をこちらに渡しなさい!」 
闇の何処からか慎二郎の喚き散らす声が聞こえる。 
「け、警察が頼りにならないのなら、おれがこの手で始末を付けてやる!」 
「なにを馬鹿な」 
警部の言葉は中途のまま突然の轟音にかき消され、ぼくらは一斉に頭を抑えて床に伏せた。撃ちやがった! あの猟銃だ。まったくここの家族ときたら……どいつもこいつも。こいつら、家の中で猟銃をぶっ放す習慣でもあるんだろうか。闇の中にまたしても閃光。銃声。硝煙の匂い。これでは身動きが取れない。 
警部たちも、拳銃の類いを携行しているわけではなかったから、事情は同じだろう。 
それにしても、慎二郎はいったい何を狙って撃っているんだ? 
「Akkey!」明日香の叫ぶ声がした。 
「どうしたんです、Akkeyが撃たれたんですか」 
「あのバカ犬、何を血迷ったか慎二郎の方に走ってったのよ!」 
「ダメです! 明日香さん、床に伏せていて下さい!」 
と、ふたたび銃声が炸裂し、その拍子に頭上高くで何かが砕ける音がした。そうか、天窓越しに“権二の気球”を撃っているんだ。もう一度、銃声。 
次の瞬間、殷々たる銃声の谺が消えないうちに、慎二郎の立っている(であろう)辺りから、呻くような悲鳴が聞こえた。そしてAkkeyの、同じく悲鳴。一瞬置いてAkkeyらしき影が闇から飛び出してきた。そのままぼくらの頭上を飛び越え、ドアを抜けて狂気のような早さで走り去っていく。いったいどうしたというんだ? 誰か、いるのか? もしかして……ともあれ、それきり銃声は収まった。 
「どうしました、慎二郎さん!」ぼくのすぐ隣に臥せていた山田山警部が、いつの間にか抜きだした特殊警棒を手に、姿勢を低くしたまま呼びかけた。 
「ぐ、があ」というような、たいそう気色の悪いうめき声が答えた。 
山田山警部が胸元から取り出したペンシルライトを点け、その光の筋を慎二郎の方に向けた。 
その細い光の帯はうろうろと落ち着きなく動き回った揚げ句、ようやく目標物を捉え、停止した。ぼくは思わず息を飲んだ。 
慎二郎は大広間のほぼ中央。大膳翁が遺体で発見されたちょうどその場所に立っていた。呆けたように頭上を見上げ、銃を両手で持ったまま、喉元からおびただしい血液が激しく噴きだしている。やがて、手からぽとりと銃が落ちた。 
「慎二郎さん!」 
山田山警部が呼びかけると、慎二郎はゆっくりとこちらを振り向いた。吹きだした鮮血が、醜く歪んだ顔をまだらに染めている。喉元に当てていた血染めの右手をこちらに伸ばし、慎二郎はその場に頽れるようにして倒れた。 
  
25.奇蹟
倒れ伏した慎二郎は山田山警部らの手によって応急措置を施され、おっとり刀で駆けつけてきた柴崎医師の手に委ねられた。鋭利な刃物で切られた喉元からは大量の出血があったけれど、幸いにもどうにか命はとりとめたらしい。慎二郎が昏倒した直後に山田山警部は馬場刑事に命じていち早く部屋を封鎖したが、いずれにせよ慎二郎はとても証言できる容体ではない。 
警部は眉間に焦燥の色を浮かべながら、権堂らTVスタッフから強力な撮影用ライトを借り上げ、それを大広間に持ち込んで点灯した。部屋の隅々まで照らし出し捜索を行ったのである。むろん、その間ずっと大広間の出入り口は馬場刑事とぼくらの監視下にあった。少なくともだれ一人出入りしていないことは間違いない。 
にも関わらず、大広間からはぼくたち4人と慎二郎以外の人間はもちろん、その痕跡も、凶器も、いっさい発見されなかったのだ。 
ことに例の気球ですっぽり覆われた天窓部分には集中的にライトが当てられ、稲田執事がどこからか探しだしてきた双眼鏡で念入りに調べられたが、これといって異常はなかったようだ。ぼくも双眼鏡を借りて見てみたのだが、強力な散弾銃で吹き飛ばされたステンドグラスは、その絵柄を縁取る金属線の部分も含めてきれいさっぱり吹き飛ばされていた。むろんその穴は気球の巨大な布地で透き間なくすっぽり覆われている。おそらく間近で確かめれば、慎二朗の乱射で無数の小穴が空いているのだろうけれど、ここからではわからない。 
つまり……密室館大広間で、今度はなんと警官を含む衆人環視の状況下、またも犯人は凶器とともに煙のように消失してしまったのである。 
「大広間の入り口にいちばん近いところにいたのは、安室だったよね?」 
警部達と共に大広間を調べていた明日香が、ようやくその“仕事”を終えて隣の食堂にやってきたのは、冬の短い日が暮れかけようとしている夕方のことだった。ポットからコーヒーを注ぎ、煙草に火を付けると、明日香はゆっくりコーヒーを啜り、深々と煙草の煙を吸い込んだ。 
「ええ。ぼくと警部が入り口のほぼ正面にいました。警部の向こうにいたのが馬場さんだったんじゃないかな」 
「ウマちゃんが隣にいたのは私が確認してる。つまり、慎二郎の後を追って飛び込んだ4人は、あの場から一歩も動いていなかったのは、間違いないわけだ」 
「そうですね。もちろんそういうことになります」 
「にも関わらず、犯人も凶器も、あの大広間からは見つかっていない。鍵が下ろされてたわけじゃないけど、これは密室ね。私たち目撃者の視線による密室。そこで犯人は一瞬にして慎二郎を屠り、消失した」 
「屠りって、慎二朗さんは生きてますよ。まあ、ともかく信じられないけど、そういうことになりますね」 
「この密室は、ある意味鍵のかけられた密室より手強いかもしれないね。なにしろ私自身の目の前で行われたんだから。ちゃちな詐術やトリックが介入する時間もスキも、一切存在しなかったんだもの」 
そういう明日香は、しかしどこか嬉しそうで。また満足そうにもみえる。まあ、いつものことだし、さもありなんとは思うが、瀕死の重傷を負った人間がいるというのに不謹慎なことではある。が、そういうぼく自身もついつい明日香の推理談義に口を挟まずにはいられなかった。いや……それくらい、ぼくは眼の前で演じられたこの奇跡的な不可能犯罪の顛末に、強烈なショックを受けていたのだ。 
「思うんですが、もしかして本当に権二がいたんじゃないでしょうか。本当に、天窓の気球の所にいて。撃たれて身の危険を感じたあいつが、慎二郎さんにナイフを投げ付けた」 
「それはありえないわね。キミだってライトを当てられた天窓の様子は見たでしょ? あんな場所のいったいどこに権二がいたってのよ。窓枠の端から覗いてたとでもいうの? それともまさか気球の布からぶら下がってたとでも? ……百歩譲ってそこに彼がいたとしても、頭を引っ込めれば済むことじゃない。ナイフなんか投げる必要がない」 
「そりゃまあそうですけど」 
「だいたいねー、“投げ付けられた”凶器はどこへ消えたっていうのよ。慎二郎さんの身体からも部屋の何処からも発見されてないのはもちろん、私も含めてお互い身体検査をしたでしょ、凶器を持ちだした人間はどこにもいなかったのよ。しかもあんな遠いところから、暗闇のなか、ナイフなりを投げて命中させるなんて神業よ。いくら権二だってそんなこと、できるはずがない」明日香は皮肉っぽい口調で言いきって、肩をすくめた。 
「でも、あんな風に撃ちまくられたら、取りあえず手持ちの武器で反撃したくなるんじゃないですかね? たとえ当たらなくても……で、今回はそれが偶然、慎二朗さんにとっては運悪く当たってしまった」 
「なにをバカなこといってんの。あんな状況で銃弾が飛んできたら、取りあえず逃げるでしょ。ましてあの悪知恵の回る権二がそんなマネをするわけないわよ」 
「そう、かなあ。ま、たしかに狙ってできることじゃないか」 
そーそー、といかにも気のない風の返事を返した明日香は、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。そこへようやく一通りの作業を終えた山田山警部が帰ってきた。 
  
26.閃光
「ということは、やはり大広間のどこからも、凶器らしきものは発見されなかったんですね」 
稲田執事が運んできたコーヒーを口に運ぼうとしていた警部に、明日香が性急に問いかけた。 
「ええ、それに類するものは何も」 
さすがの警部もいささか疲れた様子だが、表情はなぜか思いのほか明るい。 
「もしかして……床に散らばっていたガラスのカケラが使われたのでは?」 
「それも調べましたよ。確かにガラス片はいくらでもありましたが、凶器に使えば血が付着するでしょう。拭えば、衣服やハンカチに跡が残りますしね。いずれも確認しましたが、そんなものは落ちてなかったし、血染めのハンカチを持った人間もいなかった。いや、そもそも人間そのものがいなかったわけですが」 
そう。そのことはぼく自身もこの目で確認していた事実だ。 
「慎二朗さん自身がガラス片で首筋を切り、すぐに足下に投げ出した、とか? 自分の流す血でガラスの血をごまかしちゃうってのはどうかしら」 
「なぜ彼がそんなことをしなければならないのかわかりませんが……。とりあえず彼の足下、彼の血が広がった範囲には、凶器としては使えそうもない、小さなガラス片しかありませんでしたね。むろん血をぬぐって遠くへ投げ捨てたという可能性は否定しきれませんが、だとしたら彼は銃を撃った直後に自分の首を切り、血をぬぐって放りだし、そして重傷を負ったまままた猟銃を抱え直すという作業を行ったことになるわけで……不可能とは言いませんが、非常に考えにくい可能性ですね」 
ということは……やはり、誰かが慎二郎に切りつけ、その凶器を持ったまま、いかにしてか大広間を脱出したということなのだろうか。だが、そんな人間が一切存在しなかったことは、ぼく自身が知っている。いや、それは警部だって同じはずだ。 
「ともかく--あの部屋から凶器は消えたのです。ナイフやメスやカミソリは自分で歩いたりはしません。つまり……」唐突に言葉を切って、警部はゆっくりとぼくらの顔を交互に見つめた。 
「……唯一の可能性は、“かれ”が持ちだした、ということですよね」 
明日香の言葉に、警部はなにやら凄みのある笑顔を浮かべた。しかし、“かれ”、だと? かれとはいったい誰のことなんだ。どこにそんな人間がいたというんだ。我慢しきれなくなったぼくは、思わず二人の会話に口を挟んでいた。 
「ちょっと待って下さい。あそこから脱出した人物など存在しないことは、お二人だってよくご存知のはずじゃないですか。“かれ”って、いったい誰のことなんです?!」 
しかし、二人はぼくの言葉を完全に黙殺した。気付くと、しんと静まり返った食堂には奇妙な緊張感が漂いはじめている。まるでお互いが撃ち込む間合いをはかっている剣豪の試合のようだ。 
「でも、警部。凶器の消失はそれで説明がつくとしても、犯行そのものは? 被害者の、慎二郎の負った傷は紛れもなく刃物によるそれだったんでしょ」 
明日香がいうと、警部はふっと笑みを浮かべて明日香を見つめた。 
「そうですよ。あれは刃物の傷です。翁のそれとうりふたつといっていい、鋭利な刃物によるものに間違いありません」 
「だとしたら……“かれ”はそういう訓練を施されていた、ということなのかしら。凶器を拾って、あるいは“受け取って”持ちだす? ……いったい、なんのために」 
かすかに面白がるような表情になった警部は、考え込んでいる明日香の顔をのぞきこんだ。 
「どうも、あたなたはまだお分かりになってないようだ。“かれ”にそんな訓練を施せるとしたら、この屋敷で唯一“かれ”を可愛がっていた栗子さんしかいないし、その栗子さんが島に帰ってきたのは昨日のこと。彼女が“かれ”にそんな訓練を行う時間はなかったはずです」 
警部の言葉に、明日香は大きく目を見開いた。 
「ということは、だれも、そんなことはしなかった。いいえ、それどころか“かれ”自身にも、そんなつもりはなかった」 
「そうです」そういって警部は腕を組んだ。再び、あの妙に凄みのある微笑。 
「何度も言いますが、凶器は消えたりはしません。いいえ、それどころか“消えたことなど一度もなかった”のですよ」 
びくり、と明日香の身体が震え、突然彼女は激しく頭をかきむしりはじめた。 
「そう、そうよ……なんてこと。“答は最初から目の前にあった”のよ!」 
明日香はぐいと顎を突き上げると、ぼくの方をいきおいよく振り返った。 
「行くわよ、安室!」 
「って、どこに行くんですか?」 
「決まってるじゃない、凶器を見つけに……グリちゃんのところに行くのよ!」 
【問題篇・了】
 
【幕間 あるいは読者への挑戦】  
     
さて、親愛なる読者の皆さん。  
長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。  
古来の作法に則り、ここで作者は皆さまに挑戦いたします。
 
1.密室館で連続して発生した「2つの事件」の真相は何か?
2.大広間の密室はいかにして構成されたか?
 
以上2つの問いにお答え下さい。  
もちろんこれらの謎を解く手がかりは本文中に隠されています。  
また、あなたの解答がぼくの用意したそれと違っていても、謎が論理的に解明されていれば、問題なく正解といたしますのでご安心ください。  
※ただし宇宙人・怪物・幽霊・超能力の類いは除きます。  
 
また、作中で言及されるJ・D・Cの小説を未読でも、推理を展開する上で障害にはなりません。  
が、機会があれば御一読をお進めします。……いえ、たんに面白いから、です。
ではでは。名探偵志願者の皆さまの健闘をお祈りします。
 
【解答の仕方】 
 
●正解を得たと確信された方は、メールにてMAQにお答えをお送りください。 
●例によって、解答に掲示板を使うことはご遠慮下さい。 
●もちろん「ぜんぜんわかんないぞ!」あるいは「わかちゃったも〜ん!宣言」のみの掲示板へのカキコは歓迎いたします。 
●みごと正解された方には……別に賞品は出ませんが、JUNK LAND内「名探偵の殿堂」にその名を刻し、永くその栄誉を讚えたいと思います。 
●解決編は隠しページとしてアップします。「正解者」および「ギブアップ宣言者」にのみ、メールにてそのURLをお伝えします。 
●「ギブアップ宣言」は、掲示板/BOARDに「ギブアップ宣言」とお書き下さい。MAQがチェック次第、解決篇のURLをお教えします。 
●なお、これでもまだわからないあなたへ……困りましたね。では、これだけはどうしても知りたい!というポイントがあれば、掲示板に質問をどうぞ。差し支えない範囲でお答えします。 
  
ではでは。名探偵「志願」の皆さまの健闘をお祈りします。
 
 

 
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