焼き捨てられた書類の問題


【問題篇
 
1
 
下沙蔦山町(しもさつたやまちょう)はC市の外れに位置する、どこといって特徴のない小さな町である。棟割り長屋と文化住宅、低層アパートを中心とする煤けたような住宅地に、半ば以上の店がシャッターを降ろしたきりの商店街。中心地にも4〜5階建ての古びたビルが並ぶ程度でコンビニすら1軒もない。表通りだというのに、夜8時過ぎには開いている店どころか人通りさえほとんど無くなってしまうというのだから、なんとも念の入った寂れぶりだ。
間の悪いことに、事件発生の第一報を受けたとき私は現場からはかなり離れた山奥で、しかもすぐには抜けられない仕事の真っ最中だった。押っ取り刀で駆けつけた交替要員にその場を引き継ぎ、私はサイレンを鳴らしてパトカーを走らせたが、現場近くの空き地に車を停めた時、時計の針は既に午後1時を回っていた。
憮然として車を降りたところへ、現場と思われる住宅から2人の人物が歩いてきた。ガスボンベを積んだ台車を黙って押す作業衣姿の若い男と、その男にくどくどと何事か話しかけているエプロン姿の中年女だ。
「人殺しがあったからって関係ないからね。私はちゃんと昨日のうちに持ってきてくれって電話したんだから。連絡ミスったって、そりゃあ通らないわよ。ともかくあんたんとこが遅れたせいで、昨晩はお風呂も立てられなかったし料理もできなかったんだから……お客さんがいらっしゃったのに、大恥かいたわ」
女の説教にむっつりした顔で頭を下げながら男は台車からガスボンベを降ろし、横腹に“沙蔦山ガス”と書いてあるトラックの荷台に放り込む。続いて台車を載せてしまうと帽子を取って頭を下げると、男はトラックに乗り込んでエンジンをかけた。女の方はまだ腹立ちが収まらない様子で、ぶつぶつと何事か呟いている。
「失礼、持山家の方ですか?」
私が身分証を見せて名乗ると、女は露骨にうんざりした顔をこちらに向けた。
「やれまあ、あんたもお巡りさんだったんかい。他の人たちはもうとっくに仕事を始めてるよ」
「……で、あなたは」
「わたし? 私は通いで家政婦やってる棚田祐子、48歳。昨日はこの家にいたけれども、何にも聞いてないし見てませんよ。忙しいからね、話はあとにしとくれ」
ぶっきらぼうな口調で投げ捨てるようにそれだけいうと、棚田祐子はあとも見ずに帰っていった。腹を立てているとはいえ、警官に向かってたいした態度ではある。私は肩をすくめ、彼女の後を追った。
現場は住宅街のはずれの一画に立つ事務所兼用の住宅。古びてはいるがかなり大きな、邸宅といってもいいような家だった。家政婦の棚田はそのまま建物の横手を通って裏手の方に回った。おそらく勝手口から入るのだろう。
「ご苦労様です」
玄関先に立っていた馬場刑事がこちらに気付き、小走りに駆けよってきた。ポケットから取りだした携帯灰皿であわてて煙草を消している。
「すまん。遅くなった……現場は?」
「こちらです」馬場は先頭に立って歩きながら、ポケットから手帳を取りだしてメモを読み上げる。
「被害者は株式会社持山商会の社長・持山茂人38歳。今朝9時頃、仕事部屋に使っている書斎で、頭から血を流して倒れているところを秘書の山下氏に発見されました。すぐに救急車が呼ばれましたが、すでにこときれていたようです」
馬場の言葉に無言で頷き、私はポケットから出した手袋をはめて現場のドアを開いた。
 
2
 
数人の鑑識課員が忙しげに立ち働いているのを横目に、私はゆっくりと部屋の全景を見渡した。現場は12畳ほどの長方形の洋室である。正面には低いガラステーブルとソファ3脚を並べた安直な応接セット。その向こう側、入口と正対する位置の壁に大きめの窓があり、その前に大きなデスクと椅子がこちら向きになるように置かれている。デスクの脇には小振りなシュレッダー。左の壁にはスチール製の書類キャビネット。さらに右にはガラスの扉がついた飾り棚があり、その前にゴルフバッグが1つ転がっている。書類キャビネットの前には引きだされたファイルや書類が散乱しているし、飾り棚のガラス扉も打ち割られ、荒らされた後が歴然としている。振り返ると、ドアの脇に黒っぽい大きな木製のキャビネットがあり、その一部が観音開きに開かれて小さな仏像や位牌が安置してあるのが見えた。どうやら家具調の仏壇らしい
部屋の主、持山茂人の死体は、椅子にかけたまま背広姿の上体を前に倒し、デスクに俯せるような格好で倒れていた。遺体の頭部から流れ出た血液がデスクの上一面に広がり、ボールペンや鉛筆、ペーパーナイフ、ステープラー等の文具類がぽつりぽつりと離れ小島のように顔をのぞかせている。ノートやメモ類はその血を吸っていずれも赤く染まっていた。
「とりあえずの所見では死因は撲殺。ほぼ即死に近い強烈な一撃だったようです。凶器はデスクに置いてあったトロフィで、被害者が最近ゴルフのコンペで準優勝してもらったものだと確認されました。死体に動かされた跡はないようですし、出血の量から見ても、犯行現場はこの場所と見て間違いないでしょう。家人の話では昨夜は家の戸締まりもきちんとしたそうで、実際侵入された形跡も一切ありません」
すでに凶器のトロフィは鑑識の手で回収されていたが、落ちていた場所は死体の脇の床のマーキングでそれとわかった。
「おそらくは被害者がデスクに向かって事務を執っているところを、正面もしくは後ろから殴りつけたものと思われます」
デスクが大きいので、その左右からだと凶器を持っていても届かないというわけだ。
「前後どちらから殴りつけたのか、それはわかっていないのか?」
「はっきりとしたところは今のところ不明です。傷口の形状からすると、真後に立って真上から打ち降ろしたような感じですが、あるいは被害者が書き物をするなどデスクにややうつむいた状態だったら、デスクの前から殴りつけても同様の傷になる可能性がありそうです。解剖待ちですね」
「ふむ。犯行時刻は?」
「やはり正確な死亡推定時刻はまだ出ていませんが、およそ昨夜0時過ぎから今朝2時頃にかけてだそうです」
「そうか。現場の荒らされようからすると物取りか」
「いえ実は警視、たしかに部屋は荒らされているのですが、金目のものは手付かずらしいんですよ。先ほどいったように戸締まりはしっかりしてあったそうですし。ピッキングなどが行われた形跡もありません……被害者がよほど用心深い性格だったのか、この家の戸締まりは相当に厳重で、警備会社直通の警報装置まで付いていたんですが、いずれも異常は一切報告されていません」
「凶器もこの家のものだったな」
「ええ。一応周辺の聞き込みを開始していますが、内部犯の可能性が高いですね。実はほかにも不審な点がありまして、あの灰皿なんですが」
そういって、馬場は応接セットのガラステーブルの上の、ゴツゴツした大振りのクリスタルの灰皿を指さした。
「この家の主人である被害者は頑固な嫌煙主義者で、灰皿も来客用のこれ1個しかなかったそうなんです。ふだんはデスクの中にしまい込んであったらしいんですが……実はそこで何かを焼いた跡が残っていたんですよ」
 
3
 
どこにでもあるちょっと薄汚れた大振りのクリスタルの灰皿である。こうした応接に付き物の大仰な作り付けのライターや煙草入れなどのセットはなく、それはガラステーブルの上に1つだけぽつんと置かれていた。私が馬場の顔を見ると、彼は例によって忙しく手帳をめくりながら話し始めた
「鑑識が分析のために持ち去ってしまったんですが、その灰皿の中には当初、何かの燃えカスの灰が残っていました。一見して煙草の灰とは違う、書類のような紙片を焼いて突き崩した跡、そしてマッチの燃えカスのようでした」
私は手袋をはめた手でくだんの灰皿を手に取ってみた。ずっしりと持ち重りのするそれは、確かに内側に細かい黒い灰の破片がこびりついて残っている。
「犯人が、ここで何かを焼いたということか」
「少なくとも昨夜家にいた者の中には、そんなことをしたと証言している人間はいません」
「犯人がやったということか。いや、被害者自身が焼いた可能性もあるな」
「可能性は五分五分ですが……被害者ならそのシュレッダーにかけるでしょう」
書類を焼いて焼けかすを細かく突き崩すという行為は、証拠隠滅や脅迫のタネを焼いた、という印象が強い。シュレッダーにかけただけでは安心できなかったのだろう。その気持は理解できる。だとすれば、書類キャビネットの荒らされようからしても、被害者でなく犯人のやったことと考えた方が自然なのは確かだ。しかし、だからといって絶対そうだともいいきれないが。
「もし犯人がやったのだとすれば、被害者を殺し自分に不都合な書類なりを取り戻し、さらに現場から持ち去る危険を怖れてここで焼き捨てた、というストーリィが考えられるな。外部から侵入した者ならともかく、この家にいた人間ならその方が自然だろう」
「たしかに。しかし、ひと目を怖れるならむしろ自分の部屋に持ち帰って焼く気もします」
「客室にそれぞれ洗面所、もしくは流しのような設備が付いているのか?」
「いいえ、どの部屋もベッドと小さなタンスがあるだけの小部屋です」
「だとしたら、自分の部屋に持ち帰っても焼く場所がない。灰皿はこれ以外無いということなんだから、部屋で焼くならこれを部屋まで持っていくしかないし、焼き終えたらまたここに戻しておかなければならない。目撃される確率は高くなるな。……だが、待てよ。細かくちぎってトイレに流す方法もあったはずだ」
「そうですね。ただ、ここいらはまだ下水が整備されていませんから、水洗といっても流した汚物を地下に埋めたタンクに集め、それを何カ月かごとに業者に回収してもらう方式なんです。つまり、ぞっとしませんが……われわれ警察がそのタンクを渫ったら、見つかってしまうわけですね。むろん犯人がそこまで考えて行動したのかどうかは、わかりません。実際にはそんなこと思いつきもしなかなかった、とりあえず早く焼いてしまいたかっただけなのかもしれませんけどね」
「その心理は想像できないではないが……遺体が発見された時、発見者は煙の匂いがしたとでもいってたのか?」
馬場はあわてて手帳をめくり始めたが、どうやら今度ばかりはどこにも答は書いてなかったようだ。馬場が情けない顔をあげてこちらを見た時、ドアの方から別の声がかかった。
「そういえば、煙の匂いが残っていたような気も、しますね」
 
4
 
「ノックもせずに失礼しました。故人の秘書だった山下です」
軽く頭を下げたその男、山下秘書は、素早く胸元から取りだした名刺をさしだしてきた。細身のダークスーツをきちんと着こなし、オールバックになで付け銀縁メガネの奥で細っこい瞳を光らせている。その風貌同様に一歩間違えれば嫌みになりかねないほどの如才なさを感じさせる男だ。
「いま申し上げた通り、私が社長の遺体を発見した時、かすかに煙の匂いがしたような気もします。……ただ、なにぶん動転していたので、はっきりそうとはいいきれないのですが」どっちつかずの慎重な言い回しをする山下に、馬場が突っかかるようにしていう。
「申し訳ありませんが、検分が済むまでもうしばらく向こうの部屋に行っていていただけますか」切り口上でそういう馬場を制し、私は抑えた口調で山下にいった。
「まあいいでしょう。現場について少々うかがいたいこともありますしね。被害者の秘書をされていたなら、この部屋についても被害者を除けばあなたがいちばん詳しいはずだ」
「そういうことになりますか。お役に立てるかどうかわかりませんが、質問があればなんなりとどうぞ」慇懃な口調でいう山下に軽く頷いて、私はもう一度ゆっくりと現場を見わたした。
目に付いたのはドアの脇の家具調仏壇キャビネットだ。仕事部屋に仏壇が置いてあるというのは、やはり珍しい部類だろう。被害者はよほど信心深い人物だったのか。--そんなことを考えていると、察しのいい山下がすぐに口を開いた。
「社長は特に信心深いというほどでもありませんでしたよ。位牌は社長のご両親と奥様のものですが、灯明をつけるのはせいぜいお盆と命日の時くらいで、普段は扉も締め切りでしたし。じつはこの仏壇は以前商品見本として取寄せたもので……動かすのも面倒なので、せっかくだから奥様とご両親の位牌を入れたというだけなのです」
なるほど。たしかに特に大事にされている様子もないが、とりあえず仏像は立派なものだし、灯明も電気式ではなくちゃんとロウソクをつける本式のものだ。ロウソクの横にマッチ箱もちゃんとある。仏像や位牌、ロウソクは倒されたり歪んだりしているが、書類キャビネットのように激しく荒らされた様子はない。
「遺体発見時、仏壇の扉は開いていましたか?」
「開いていました。と、思います」自分のことになるとにわかに証言が曖昧になる山下の慎重居士ぶりに思わず苦笑いを浮かべると、馬場が手帳を見ながら絶妙のフォローをしてくれた。
「山下さんと一緒に現場に入った忍田氏……被害者の知人です……は、仏壇の扉も開いていたと証言しています」
「ああ、そうでしたそうでした。いや、さっきいった通り動転していたので、記憶が曖昧で。申し訳ありません」
「いやいや、殺人死体などご覧になるのは初めてでしょうから、無理ないですよ。ちなみに、昨日はお盆でなかったはずですが、仏壇の扉を開ける日、つまり持田さんのご両親か奥様の命日だったのですか」
「いいえ、違いますよ。たしか……一昨日が奥様の命日でしたね」
「ほう、では法事があったんですか」
「いえ、実は社長と私は、昨日の午後に海外出張から戻ったばかりで。いずれにせよここ数年は命日といっても、社長は灯明をつけて手を合わせる程度でしたね」
「ということは、つまり昨日はここは閉じられていたんですね」
「そのはずです。一昨日はお手伝いの方が灯明を挙げてくれてたはずですが……用もないのに開け放しにしておくと、社長がいやがるんです」
「となると、ここも犯人が開けた可能性が高い、と」勢い込んだ口調で馬場が言う。犯人の探し物はデスク、キャビネット類からこの仏壇にまで及んだということになるわけだ。しかし、仏壇で何を探すというのか?
この疑問をこれ以上追及するには材料が足りない。私は金色に輝く仏像を一瞥すると、振り向いて飾り棚のキャビネットに向かった。
 
5
 
忠犬よろしくついてくる山下と馬場を従えて、私はデスク左手の飾り棚の前に立った。観音開きの扉は閉じたままガラスの部分がみじんに砕かれ、大きな穴が開いている。しかし、よく見ると荒らされた様子はそのガラス部分の破壊だけで、内部に収められたものは特に乱雑に扱われた様子はない。苛立って勢いに任せて荒らした、というのとはどこか微妙に違うのだ。枠だけになった扉を引いてみると、開かない。どうやらカギがかかったままのようだ。
「カギが開かなくて、仕方なくガラスを破ったという感じだな……ここのキーは?」
「デスクの下に落ちていました。この扉が割られていることからすると、たまたま被害者がここに落としていたことを犯人は気づかず、見つけられなかったようですね」
割れたガラスの奥をのぞいてみると、棚には特に価値があるとは思われない、大小様々なものが雑多に並べられている。小振りなゴルフのトロフィー、用途不明な金色の卵形の置物、何かの記念の楯、デフォルメされすぎて誰のサインか分からない野球のサインボール、小さな仏像、こけし、どこかの民芸品らしい怪異な面、木彫りの熊、これまた用途不明なクリスタルの立方体……。
私は手を伸ばし、クリスタル様の立方体を取った。透明な立方体を手に取ってよく見ると、表面に縦横に刻み目が走っているのがわかる。軽く指の腹で表面を押すと、その部分の立方体が音もなく横にスライドした。どうやら一種の立体パズルのようだ。順番を間違えずに動かしていくと、幾つかの透明な柱状のブロックに分解できるのだろう。
立体パズルを棚に戻し、今度は金色の卵形の置物を手に取る。これもパズルかと思ったが、20cmほどの高さの表面は滑らかで傷ひとつない。卵形の底の部分に短い足がついており、どうやらそのまま立てて使用するものらしい。
「これはこうするんですよ、警視」
横合いから手を伸ばしてきた山下は、それを立てた状態のまま両手で握り軽くねじった。すると小さく金属音が響いて、卵は上下2つに割れた。
「そんなふうには見えませんが、これ、香炉なんですよ。携帯式の」
携帯式にしては大きすぎると思うが。だいたいなんで香炉を携帯しなくちゃならんのだ。2つに割れた卵の下の部分のパーツを見ると、そこには香を載せる火皿がセットされ、その下にロウソクの芯が見えている。さらに上部パーツの横腹をスライドさせると小さな引き出しとなっており、マッチが入っていた。
「先ほども申しました通り、社長と私は一昨日まで商用で台湾に行ってまして。これはあちらで会った商談相手が売り込んできた新製品なんです。社長は流行りのヒーリンググッズとして売りだすおつもりのようでした」
輸入会社の社長として、被害者は雑貨を中心とする様々な商品を海外から買い付けていたらしいが、この調子ではビジネスセンスは怪しいものだ。どう見てもこんな馬鹿げたしろものが売れるはずがない。
「なにしろ昨日持ち帰ったばかりの新製品なので、社長も皆に内緒にしてましたし、私もしゃべらぬよういわれていました」
私は金卵香炉を元に戻した。ガラス扉の中の飾り棚はまだ他にも何段かあり、それぞれ雑多な品物や本などが並んでいる。私はさらに穴から奥へと手を伸ばしたが、ガラスの穴がさほど大きくないので他の棚にはどうしても届かない。無理に指を伸ばすと割れたガラスの端で手首を切ってしまいそうだ。こんなところでケガをしてもつまらない。私はゆっくりと手を抜きだして、馬場が差し出したキーを受取った。そいつをカギ穴に差し込んで扉を開くと、音を立てて細かいガラス片が落ちた。見ると他の棚に置いてあるものも、似たり寄ったりのしょうもない品物ばかりで、特に書類のようなものは見当たらない。私は振り返って山下秘書に尋ねた。
「この棚に飾られているモノで、触られたり動かされたりした形跡があるものはありますか?」
秘書は微かに困惑した表情を浮かべた。
「いえ、どこといって変わった様子はないですね。むろん全ての配置を覚えているわけではありませんが」
「そうですか、わかりました……後は書類キャビネットか」
 
6
 
5段ほどの、どこといって特徴のない書類キャビネットである。扉は全て閉まっているが、前に中から取りだされたらしき書類やファイルが乱雑に散らばっている。
「派手に荒されてるってことはわかるが、他に何か不審な点があったのか」
馬場は勢いよく頷いて、手帳のページをめくり始めた。
「あ……申し訳ありませんが、山下さんは先に居間に戻っていてもらえますか? すみません」
秘書は特に不満そうな表情を浮かべることもなく、無言のまま一礼して部屋を出ていった。ドアが閉じられるのを見届けて、ふたたび馬場が口を開く。
「このキャビネットに収められていた資料は社長専用で、山下さんもまったくノータッチらしいんです。実際、収められているのがどんな書類なのか、社長以外誰も知らなかったようで……」
「で?」
「調べてみると、ここには人別・会社別のファイルが並んでいました。で、です。まだ全てのファイルのチェックが終わったわけではありませんが、多くのファイルに、借金の証文が入っていたんですよ。ええ、被害者が貸主になっている契約書です。しかもですよ、その中に昨夜家にいた4人の人物と家政婦の棚田のファイルケースが発見されたんです」
なるほど。人払いの理由はそれか。
「盗まれてはいなかったんだな。その5つのファイルにも証文が入っていたのか?」
「いえ。残っていたのは、どれもプラスチック製のファイルケースと当たり障りのない調査書類だけです」
「5人分のファイルがあるといったな?」
「はい。うち3つは秘書の山下、家政婦の棚田、そして被害者の長男のものですから、前二者のそれは採用したときの調査書類だった可能性はあります。長男のファイルがあるのは不審といえば不審ですが、聞くと数年前から義絶状態だったそうですから、気になって調べさせていたのかもしれませんね。それ以外の2つは他のファイルの例からいって、被害者から金を借りていたーーしかし証文だけ抜き取って処分した。そう考えても不自然ではなさそうです」
私はあらためてぐるりと部屋を見回し、ため息をついた。仏壇の3つの位牌が、どこか寂しげに感じられるのは気のせいか。
「息子のファイルはともかく、秘書や家政婦にだって金を貸していなかったとはいいきれないな。被害者はかなり剣呑な人物だったようだ」
「そうですね、動機を持つものは無数にいそうです。が……内部犯行という点を考えれば、この家にいる5人以上の容疑者はいないでしょうね」
馬場は言葉を切って意味あり気に私の顔を見つめる。
「では、早速会ってみようじゃないか。容疑者候補さんたちに」
 
7
 
馬場に示された居間のドアを開けると、とたんに部屋に充満していた煙草の煙が私の鼻腔と喉を激しく刺激した。思わずくしゃみが飛びだしそうになるのをハンカチで押さえる。
「たしかこの家は全館禁煙だと聞きましたが……」
「冗談じゃない。こんなに長々待たされて、煙草くらい好きに喫わせてもらわにゃやっとれん」
ソファの中央にふんぞりかえっている四十男が、卓上に置いた小皿に煙草の灰を叩き落としながらながらいった。悪趣味な太いストライプの三つ揃いにでっぷり肥えた身体をつつんだその男は、出された茶の受け皿を灰皿がわりに使っている。こういっちゃなんだが、最悪に癇に障るタイプである。しかしどうにもこの煙がたまらない。山下秘書も煙草が苦手らしく、いつの間にか窓のそばに行って深呼吸している。窓のところにはすでに先客が2人おり、山下と二言三言交わしてからこちらを見て無表情のまま黙礼した。20歳そこそこの怜悧な印象の青年だ。そして先ほど玄関口で会った家政婦の棚田も、迷惑そうな顔でソファに座る喫煙者の顔を睨んでいる。私はまずソファに座っている不愉快な人物をターゲットに選んだ。
「ともかく--その悪臭を放つ有害物質の火を消していただけませんか。これでは話をうかがうこともできない」
私がいうと、男は嫌みたらしく紫煙を吹き上げながらようやく煙草をもみ消した。あらためて身分証を取りだした私が肩書き付きで名乗ると、男は大げさに目を剥く。
「なんとね、刑事さんだったのかぃ、こいつぁおそれいった。しかも煙草が苦手とはね。日本の警察も軟弱になったものだ」
「身体が資本の商売ですから。そうとわかっていて身体を痛めつけるほど、悪趣味でも頓馬でもありません」
私が答えると男は肩をすくめて黙り込んだ。早速馬場に命じ部屋の窓を全て全開にする。しばらくすると嫌ったらしい煙の匂いもようやく薄れてきたので、私は椅子に腰を落とした。
「では……あらためてお話をうかがわせていただきます。とりあえず略式で済ませますので、皆さんまとめてで結構です。質問が重複する部分もあるかと思いますが、その点はご勘弁を」
私はまず、そこにいた3人の名前と“ここにいる理由”を確認した。
態度の大きい四十男の喫煙者は、被害者と同業の忍田龍太郎。ビジネスの打合せで昨夕訪問し、歓待を受けるうちに遅くなったので泊めてもらうことにしたのだという。
「ビジネスの打合せというと、故人が台湾で仕入れてきた金卵香炉の件ですか?」
「んん。キンタマゴコウロたぁなんだね? そんなもんわしゃ知らんな。わしの扱っとるのは大人のオモチャだよ、大人の。どうかね、キミも1つ。安くしとくぞ。んん?」
「ンもう、いやぁねぇ社長さんたら。ダメよぉ、お巡りさんにそんなこといっちゃ。あれはね、いま流行りのヒーリンググッズなのよ」唐突に割り込んできたのは、忍田に寄り添うようにして座る化粧の濃い女……新宿でスナックを営む森村恭子だ。被害者は恭子の店の客だったというが、馬場の耳打ちによると実際には愛人関係にあったらしい。被害者の今回の台湾出張にも同行し、終始べったりくっついていたのだという。ところがさすがというべきか。いまや悲しむ間もなく、次の獲物をゲットしようという計算が見え見えだ。いましも、忍田が無意識のうちに煙草とライターを取りだすと、電光石火の早さで胸元から取りだした自分の銀のライターで火を点けた。
水でもぶっかけてやろうかと思ったが、私が手を出す間もなく2人の隣に座っていた若い男が、忍田の手から荒々しく煙草をもぎ取った。呆気にとられた2人を冷ややかな目で見つめながらもみ消す。被害者の長男である持山秀一郎である。
 
8
 
「あなたたちに親父の冥福を祈れとはいわないが、大人なら最低限の礼儀くらい心得たらどうです」痛烈な一言に、目を白黒させる忍田と森村。医大生と聞いたが、なかなかの度胸だ。油っ気の無い長髪に擦りきれたジーンズ、よれよれのカッターシャツと、まるでひと昔前の苦学生のようなスタイルだ。馬場情報によると、彼は父親との折り合いが極端に悪く勘当状態にあり、学費もアルバイトで賄っているのだという。私はあらためて秀一郎に声をかけた。
「で、秀一郎さん。大学に入ってからこっちほとんど寄りつきもしなかったあなたが、昨日はなぜこの家に来たのですか?」
「……これは尋問ですか」
「いいえ、ただの事情聴取です。お答えにならないのは勝手ですが、余計な手間をかけても、お互いにとって利益になりませんよ」
秀一郎は憮然とした表情で目を逸らす。
「金の、無心ですよ」
「ふむ。お父様とは勘当状態だったと聞きましたが、授業料も出してもらってないのですか」
「ええ。入学した時は入学金だけは出してもらいましたが、1年生の夏に母が急逝してからはあの男とは口も聞いてません。実はこの家へ来るのも初めてです。お袋が生きてる頃は、家は横浜でしたからね」
「なるほど。……久しぶりに会って、お父上はどんな様子でした」
「嬉しそうでしたね」
秀一郎の表情がさらに苦いものに変わる。
「逆らってばかりいた馬鹿息子が頭を下げ、いわば自分の軍門に下ったんだ。満足だったんじゃないですか?」
「お金の相談はどうでした」
「出してもいいと……この家へ戻りあいつの仕事を手伝うという条件で、ね」秀一郎は毒を含んだ声になった。
「で、あなたはどうしたんです」
「断りましたよ。そんなことをするくらいなら死んだほうがましだ」
「ずいぶんと、嫌われたものだ。では、他にお父さんを恨んでいた人に心当たりはありますか?」
「そりゃあいくらでもいるでしょ。さっきいったような事情で、僕が知ってるのは3年前のことですが、当時からいんちきくさい輸入業の裏で個人的に金貸しめいたことをやってましたからね。同業の友人や親しい女友達にけっこうな大金を融通し、あげく容赦なく取り立てて……親父の周りにいるのは1人残らず、親父に金を借りたやつかもっと借りようとしてたやつだけですよ」
横に座っていた2人の顔色が変わる。特に忍田はものいいたげに口を開いたが、私が視線を向けると慌てて目を逸らし、何気ないふりを装った。
さらにアリバイに関しては、3人とも部屋で1人で寝ていたというばかりで確たるものはない。……これは秘書の山下も家政婦の棚田も同様の証言だった。まあ、時間が時間だから当然なのだが。最後に私は外であった時とは打って変わって、むっつり黙り込んでいる棚田に質問の矢を向けた。
 
9
 
「被害者がこちらに帰り着いたのは昨夕だそうですが、故人が出張中の間、あなたは?」
「用もないのにいても仕方がないからね。家政婦の仕事は休ませてもらいましたよ。こっちに出てきたのは一昨日から。掃除くらいはしておかないとね」
ほう、するとこの女はこの家のカギを預かっているわけだ。確かめるとその通り玄関と勝手口のカギはスペアを預かっているという。たしかにピッキングなどで侵入した形跡は認められなかったが、カギをもっているなら話は違う。当然、警備システムに関する知識もあったろう。
「昨夜0時から2時頃はどちらに?」
「家で寝てましたよ。普通そうでしょ、そんな時間。家はここから自転車で15分くらいのところです」
「一昨日、この家を掃除をした時に何か変わったこと、気付いたことはありませんか。たとえば不意の来客があったとか」
私がそう聞くと、とたんに棚田はぐいと身体を乗りだし口を開いた。
「それがさ、大変だったのよ。掃除してたらさ、ちょうど警備会社の検査員が来て、警報装置とか火災報知器とかいろいろ検査していったんだけどね。そいつが間抜けでさ! あの旦那の書斎の火災報知器を検査した拍子に、いきなり水が噴き出しちゃって……すぐ停まったんだけど、んもう部屋中びっしょびしょでね。ざっと水気を拭き取るだけで大わらわだったよ! ……まったく旦那が帰ってくるってのに気が気じゃなかった。スプリンクラーは改めて修理してもらうということで、止めてもらったよ」
「……なるほど。そんなことがあったのですか」
いいながら私は素早く他の4人に視線を走らせた。なるほど……ね。
「では、棚田さん。最後にもう1つだけ……どうかよく考えて答えて下さい。あなたはそのスプリンクラーのトラブルのことを、誰かにいいましたか?」
「だれにも言う訳ないでしょうよ。ちょっと水をかぶっただけだし、ちゃんと拭き取ったし。忙しくてそれ以上のことはしてないけど……」
彼女の証言に私はおおいに満足した。
整理してみよう。昨日この家に宿泊したのが被害者の知人の忍田、愛人の森村、秘書の山下、そして勘当されていた息子の秀一郎。それから泊まり込んではいなかったが、カギをもちいつでも家に入れたのが、家政婦の棚田。なるほど、なるほど。この事件は意外に早く解決しそうだ。
その時、澄んだ音色を響かせてドアベルが鳴った。すぐさま立ち上がろうとする棚田を制し、私は馬場を迎えにやらせた。
“容疑者候補たち”は不意の水入りに一様に落ち着かぬ様子で、温くなった茶をすすったり、手持ち無沙汰そうに小声で会話を交したりしている。
その時、ドアが静かに空き、馬場が顔をのぞかせた。
「あの、警視。ちょっと」
長い顔が奇妙に困惑した表情を浮かべている。私は素早く立ち上がり、部屋の外に出た。相変わらず困ったような表情のまま馬場がいった。
「客なんですが、持田氏が商品撮影を依頼していたカメラマンでした」
「関係ないだろう。ざっと事情だけ聞いて、とりあえず引き取ってもらいたまえ」
「それが、警視もご存知の人物なんですよ」
そういって振り返る馬場の視線に釣られ私が玄関の方に目をやると、1人の小柄な青年が立っているのが見えた。アーミージャケットに擦りきれたジーンズ。半分黒くなった金髪の前髪の影から、気弱げな視線がこちらを見つめている。
「あのお、取込み中なら出直しましょうか?」
私は馬場を押しのけ、彼の前に立つと右手を差し出した。
「まさかこんなところで会えるとは思わなかったよ。安室礼二くん」
青年は唖然とした表情で私の顔を凝視した。
「まさか……何で、なんでこんなところにいるのさ、明日香さん!」
 
(2002.6.24脱稿)

 
【幕間 あるいは読者への挑戦】
 
さて、今回の事件は犯人側の隠蔽工作もごくささやかなもので、トリックめいた仕掛は用いられていません。きわめてあからさまな形で提示された限定条件を発見すれば、誰にでも合理的かつ論理的に犯人を絞り込むことが可能なはずです。まさにひらめきも知識も特異な視点も不要な、ごく初歩的な問題……クイズ作者としては易しくしすぎたと反省したくなるほどに。
あらためて挑戦など気恥ずかしいほどの易しさですが、ここはやはり、古来の礼法に則って厳粛に参りましょう。すなわち、作者はあなたに挑戦いたします。
 
持山氏の死は間違いなく単独犯による他殺であり、その犯人は本編に登場した人物の中にいます。
以上の前提に基づきーー
 
持山氏殺害の真犯人は誰か? その合理的な根拠とともにお答え下さい。
 
“合理的な根拠”に動機に関する考察は不要です。また、問題篇末尾に登場した安室君は、今回“名探偵”ですので容疑者から除いて下さい。当然、安室と“警視”のやりとりも本題/クイズとは一切関わりありません。この件にかんする推理は不要ですし、安室の存在がなんらかの手がかりになっているわけでもありません。つまり、そう、ここは作者のお遊びなのです。
 
もちろん、あなたの解答がぼくの用意したそれと違っていても、謎が論理的に解明されていれば正解といたしますのでご安心ください。
※ただし宇宙人・怪物・幽霊の類いは除きます。
 
 
 
【解答の仕方】
 
●正解を得たと確信された方は、メールにてMAQにお答えをお送りください。
宛先はこちら→yanai@cc.rim.or.jp
●例によって、解答に掲示板を使うことはご遠慮下さい。
●もちろん「ぜんぜんわかんないぞ!」あるいは「わかちゃったも〜ん!宣言」のみの掲示板へのカキコは歓迎いたします。
●みごと正解された方には……別に賞品は出ませんが、JUNK LAND内「名探偵の殿堂」にその名を刻し、永くその栄誉を讚えたいと思います。
●解決編は隠しページとしてアップします。「正解者」および「ギブアップ宣言者」にのみ、メールにてそのURLをお伝えします。
●「ギブアップ宣言」は、掲示板/BOARDもしくはメールにて「ギブアップ宣言」とお書き下さい。MAQがチェック次第、解決篇のURLをお教えします。
 
ではでは。名探偵「志願」の皆さまの健闘をお祈りします。
 
 


 
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