GooBooスペシャル『鏡の中は日曜日』
 
 
超絶技巧の迷宮
 
〜『鏡の中は日曜日』を巡る本格への批評と愛について〜
 
課題図書:『鏡の中は日曜日』(殊能将之 講談社刊)
 
ヘルパー:TANISHIさん
またの名を谷 英樹さん……あなたがミステリファンであれば、このお名前に聞き覚えがあるのではないでしょうか? そう、かつて『競作五十円玉二十枚の謎』(東京創元社)と『本格推理4』(光文社)に短編をお書きになった、あの谷さんなのです(その最新作は、このJunk Landで読むことができます!→ココ)。しかも同氏はマジシャンでもありまして……うーん、なんだか MAQの憧れをぜーんぶ実現してらっしゃいますね!……というとても素敵な、そして羨ましいヘルパーさんの登場です!
 
CAUTION!
以下の鼎談では、『鏡の中は日曜日』(殊能将之 講談社刊)のネタバレに多数言及しております。また『黒い仏』(特能将之 講談社刊)についても、一部の趣向に言及しています。未読の方は当該2冊を一読の上、あらためてお運びいただけますよう、くれぐれもお願い申し上げます。

G=Goo/MAQ B=Boo/aya T=TANISHIさん
 
1.《形式への批評》か、《愛の物語》か
 
G「さて、メフィスト賞受賞作『ハサミ男』以来、新作を発表するごとに斯界に大きな議論を巻き起こす、いまもっとも先鋭な本格の書き手・殊能将之さん。今回は彼の新作長篇『鏡の中は日曜日』を取り上げます。そして今回ヘルパーさんをお願いしたのは、『本格推理4』その他で作家としても活躍してらっしゃるTANISHIさんです! はじめまして!」
T「はじめまして、どうぞよろしくお願いします。あのー、作家というのには恐縮してしまいます。過去に3本の短編を書いたことがあるだけですから……。そのうちの1本は、別企画でMAQさんにお世話になったものです。その節は大変お世話になりました。ayaさんはホントにはじめまして。お会い出来て光栄です。実は私、隠れayaファンなんですよ」
B「んまー、光栄ですわん(はあと)。どうぞよろしくう〜(だぶるはあと)」
G「なんか最近そればっかですねー。ま、どっちにしても無駄ですよ、TANISHIさんは奥様がいらっしゃるんですから!」
B「ちッ! ……なあんでいいオトコは、みんなケッコンしてるかね〜」
T「はあ(苦笑)……。ちなみに子供もおりますよ、双子の」
G「おっ、双子でしたら瞬間移動のマジックやアリバイトリックなんかに利用できそうですね」
T「いえ、双子といっても二卵性で男女なんです。双子のオトコオンナって言っても『おすぎとピーコ』のような意味じゃないですよ、念のため」
G「そっかー、残念! って何が残念なんだか。……では、とりあえず始めましょう!」
B「おっけーおっけー。つーわけで殊能さんだけど、この作家さんってば、たしかに新作の発表のたびに議論を呼び起こしているわよねー。デビュー作の『ハサミ男』はともかく、その後の『美濃牛』も『黒い仏』も、大げさでなく本格ミステリ界を二分する議論になった。それも“フェア-アンフェア”とか“トリックの先例”とかそういうありがちなレベルでなく、“認める認めない”みたいな本質的なレベルの議論で」
T「私としては、なぜ『ハサミ男』は評判良くって他のは評価が分かれるのか、理解に苦しみます。私は今回の『鏡の中は日曜日』を最も高く評価しているんですよ。先の3作は何か斜に構えたような作者の姿勢が見え隠れしていたんですけど、本作は一見そう見えてさにあらず。本格ミステリへの《愛》に満ち満ちた作品に感じられました」
B「愛! いきなりブチカマしてくれますわね〜」
G「まぁまぁ。いずれにせよこの作家さんって、本格ミステリとしての形式やルールの限界にあたる地点で創作してるみたいなトコロがあって。作品を論ずることがそのまま“本格とはなにか”を論ずることにつながっていくような、そんな感じがぼくはしています」
B「一見古典的に思えるくらいの本格ミステリ形式を用いながら、実はその形式自体を批評し破壊する方向で物語を語る。というか、むしろ“形式そのものへの批評が、タマタマ物語のカタチをとっている”ような、そんな気配を感じるね。私は」
T「いや、逆じゃないでしょうか。毎回タイプの違う作品を書いている器用な作者のことですから、恐らく物語への一捻りを自分に課しているんだと思います。ただその表れとして、批評性という側面が目立っているだけだと思うのですが。批評や破壊を主眼にして書いてるんじゃありませんよ、きっと」
G「あくまで、本格ミステリを愛するがゆえに、大胆なひねりを加えてくるという解釈ですね。批評性が目立つのは、あくまで結果であると。ただ『美濃牛』、『黒い仏』、そして今回の『鏡の中は日曜日』と、石動戯作シリーズが3作続いたわけですが、本格ミステリの形式に対する批評は、ぼくなんかもやはり強く感じますね。本格ミステリマニアにとっては、まあ新本格以降そうしたスタイルつーのも“見慣れた景色”になってきましたが、それでもここまで徹底して、そして軽やかにヌケヌケとやってみせる作家は、やはり殊能さんが嚆矢というべきでしょう」
B「しかもさあ、シリーズを追うごとに、物語性/お話を語るためのストーリィはどんどん希薄になって……っていうかどんどん削ぎ落とされているように私は感じるなあ。ストーリィ自体“形式への批評”というテーマを象徴するためのものとして、そのために物語としての多くの要素が平然と犠牲にされているような。だいたいさぁ、シリーズ探偵の石動戯作の“戯作”という名前からして象徴的だよな。“作”品そのもの/小説そのものを書きたいんじゃなくて、あくまでミステリという形式/カタチでもって“戯”れたいわけよ、この人は。『鏡の中は日曜日』では、韻律の重視から生まれる定型の美を尊んだマラルメの詩がネタにされてたりもするし、まさしくその方向の総決算みたいな作品のようだね」
T「いやぁ、本作のストーリィ性が希薄だとはとても思えないなぁ。これはいろんな意味での《愛》の物語ですよ。それに、マラルメの詩がネタにされているのは作中作の『梵貝荘事件』であって『鏡の中は日曜日』ではありませんから、そこはハッキリと分けて考えた方がいいと思います。あと、“戯れ”を否定的に仰っていますが、趣向や遊び心というものは本格ミステリにはあって然るべきファクターだと思いますね。本カバーの帯や著者の言葉にまで仕掛けがあって、いかにも新本格的なサービス精神が満載で、嬉しくなっちゃいます」
B「《愛》の物語ねぇ。殊能作品くらいその言葉が似合わないケースも珍しいと思うけどね。マラルメの解釈についても、殊能さんくらい“自覚的”な作家にあっては、作中作だから別物、と分けて考えるべきじゃない気がするんだけどな……むしろ、額縁であれ作中作であれ全てが暗喩であり象徴であり、それこそ互いに、縦横にリンクが張られてる。そんな印象があるのよね」
G「まぁ、そうあわてずに、とりあえずアラスジを確認しておきましょうよ」
B「うーん……この作品の場合は、単純にアラスジを説明する必要はないんじゃないの? むしろ章割りを含めた全体構造を確認しておきたいんだよね」
G「全体構造ですか?」
B「うん、先に結論をいっちゃうとさ、私的にはこれはやっぱり本格ミステリ的にはいかがなものかと思うわけよ。で、それを論証していくためにも、作品構造とトリックその他のテクニックを具体的に分析しつつ、考察し議論していきたい。せっかくネタバレOKのぐぶらんなんだからさ、今回はちょいと突っ込んでやってみようじゃないか」
T「ふふ、望むところです。作品構造やテクニックを分析することで、本格ミステリ的に如何に優れているかが明らかになりますからね」
G「おお、これは頼もしい。では、ちょっと細かくなりますが、章ごとにやってみましょう」
 
2. 超絶技巧はなんのために
 
B「んじゃまずは第1章。これは“ぼく”という不明の人物による独白のみで構成されているパートだな。章後半の記述でアルツハイマーを患っていることがわかる“ぼく”は、いずこともしれぬ屋敷で優しい“ユキ”に介護されながら暮らしている」
G「で、そこに1人の男が訪れ、“14年前の梵貝荘の事件について”話そうとして、ユキをいじめていると勘違いした“ぼく”に殺されます。さらに章の末尾では“ぼく”自身の言葉によって、この被害者がシリーズ探偵の石動であることが示される……。“名探偵殺し”というわけで、まさに衝撃的なオープニングなんですが、はっきり誰とも説明されない人物の1人称視点による記述という“見るからに記述トリック”な体裁である点からも、この時点で読者が“名探偵死す”を丸のみすることはまず無いでしょうね。どー考えても“怪しい”と、“そんなにストレートじゃないはず”と、そう思うはずで」
T「そうですね。しかし1人称視点とはいえ地の文で“石動を殺した”と明記されているし、白衣を着た男のセリフにもあるので、疑いながらも信じ込まされた読者は多いと思いますよ。殊能さんのことだからシリーズ探偵をあっさり殺してもおかしくはない、とうとうヤッたか……ってな感じで」
B「そうね。……ま、ともかく殊能さんには“掟破りを平気でやる”作家というイメージもあるから、“名探偵殺し”だって平気でやるだろうって気分は、読者には当然あるわよね」
T「あと、地の文での虚偽の記述はアンフェアだと感じた人もいるかもしれませんが、本作では“ぼく”のセリフや心情を括弧でくくらない表記をしていますので、その辺りは問題ないですよね」
B「さてね、“ここだけ”ならそういえるかもしれないけど、後の記述との関連からいったら果たしてそういいきれるかなあ……。ま、これは後で論じるとして。ともかく読者は“名探偵殺し”というショッキングな事象に意識を宙吊りにされ、半信半疑のまま読み進めることになるのよね」
T「第1章で宙ぶらりんにされるのは“名探偵殺し”だけじゃないですよ。そもそも“ぼく”やユキとは何者なのか、一体どんなシーンを描写しているのか、それさえ釈然としない。こちらの方が大きな謎として提示されています。謎というより、“不透明感”とか“不安定感”と言ったほうが分かりやすいでしょうか」
G「なるほど、たしかにその通りですね」
T「普通、このような謎めいた文章は、プロローグ的な短い記述である場合が多いですよね。プロローグ程度なら、読み進んでいくうちに忘れていって、そういえばこんなことが書いてあったなって後で思い出す読者も多いでしょう。しかし本作では、まるまる1章というかなり長い間、読者は“不安定感”を強いられます。あのシーンは一体何?という疑問が、ずーっと頭から離れないわけです。第2章の後半に至ってようやく、“ぼく”とユキが龍司郎と有紀子だと明白にミスリードされるわけですが、それまで読者の頭の中は“?”で一杯になります。“ぼく”とはひょっとして鮎井郁介だろうか?、それとも水城優臣だろうか?って。鮎井については“ついに壊れちゃったそうだよ”という友人のセリフ(89P)もミスリードになっていましたし。とにもかくにも、第1章の記述は読者にとって非常に読み辛いのは明らかです。それなのに、作者は敢えてそういう書き方をしている。もちろん、効果的に物語を描くためにです」
B「その“効果的に物語を書くため”というのがわからないなあ。ひょっとしてTANISHIさんのおっしゃる“物語を効果的に”ってのは、性別誤認etcの記述トリックによるどんでん返しとかのことをいってらっしゃるの? つまり“物語”を、強烈などんでん返しなどによっていっそう興趣に富んだものにするという……」
T「そのとおりです! 本格ミステリとは知的遊戯を主眼とした物語ですから。はたと膝を打つロジカルなパズラーであれ、ラストであっと驚く一発ネタであれ、読者に知的興奮を与えることこそが本格ミステリの使命じゃあないですか。もちろん、その効果ためなら物語はどうでもいいなんて言ってませんよ。推理“小説”なのですから、“物語”があってこそ“効果”が生きてくるわけです。しかも本作は、その“効果”によって“物語”が変容してストーリィが際立ってくるという逸品で……」
B「あー、はいはい、その辺りは後ほど伺うことにしましょ。ともあれ、第2章からは石動がこの記述をなぞるような形で行動していくわけで。結果として読者はどんどん“名探偵死す”を受け入れざるを得ない方向に導かれていくのよね」
G「そうそう。第2章は、1章を受けて“14年前の梵貝荘での殺人事件”と“現在の石動の再捜査”が交互に描かれていく形ですが、ayaさんのおっしゃる通り、後者のパートがあたかも第1章での金沢での惨劇をなぞるような形で進むので、読者は徐々に“名探偵石動の殺害”を受け入れさせられていきます。その意味では“石動の再捜査”は“名探偵石動の殺害”のためのミスリードの機能を果たしているんですが、実はその一方では、この第2章から始まる“名探偵石動の誤った推理”〜“名探偵水城の性別誤認”トリックを補強する布石にもなっている」
B「つまり、第2章は“名探偵石動の殺害”のサプライズのミスリードであると同時に、その時点では発生してもいない“名探偵水城の性別誤認”のためのミスリードになっているわけだね」
G「そうそう、いうなれば二重底のミスリードとでもいいましょうか。このあたりの錯綜し、しかも計算し尽くされた演出とその効果は、まさに超絶技巧という感じ。そもそもここから導き出される“名探偵石動の推理”は、決定的に誤っているにも関わらず、その“カタチ自体があまりにも美しい”ので、“読者は問答無用で受け入れざるを得ない”。なんちゅうか、作者は本格ファンの嗜好ってやつを知り尽くしているなーって感じがしちゃいます」
T「ミスリードとフェアプレイの伏線とを兼ねた、神業的な記述もありますね。場所や人物をミスリードすると同時に、第1章は“ぼく”にとっての真実ではあっても事実ではない、つまり“ぼく”の思い込みかもしれないですよ――という手掛かりを読者に提示している記述が。具体的に言うと、見知らぬ若い男が『浄明寺』と言ったり『浄妙寺』と言ったりするところ(35P)は、場所を誤認させる効果だけでなく、他人のセリフの中身でさえ“ぼく”は勝手に解釈していることを読者に示しています。普通このような場面では、先の『浄明寺』は『じょうみょうじ』と表記するところなんでしょうね。あと、“どうやら本当にわたしのことを父親だと思い込んでいるようだ”という“父さん”のセリフ(52P)は、読者に“じゃあ、本当は一体誰なの?”という謎を投げかけると同時に、“ぼく”は人物を正しく認識できる状態にはないことを明示しています」
G「たしかにこのあたりはおそろしく手の込んだ・大掛かりな技巧が駆使されていますよね。実は第1章で描かれる“名探偵死す”の事件は金沢で発生するのですが、第2章で描かれる石動の行動は、実は金沢でなく鎌倉のできごと。つまりこれは、クイーンの某中篇で有名ないわゆる“双子の館トリックを叙述トリック的に応用”し、最終的に“名探偵の死?→名探偵の死!→名探偵の復活!”という、ゴージャスな三段重ねのサプライズを演出することに成功しているわけです」
B「ふむ。まあそのサプライズ自体が、本筋の謎である“名探偵水城の正体”へのミスリードにもなっているわけで。たしかに手は込んでいるけど……でも、これってさぁ、ありえないような偶然の数々と、ほとんどフェアプレイを無視した強引さをありったけつぎ込んで、ようやく実現されてるものなんじゃないかな」
T「うーん、『ハサミ男』の時よりは今回の方がフェアプレイだと思うんだけどなぁ……」
G「そのあたりの受け取り方は、読み手側の本格ミステリ観によって違ってくるでしょうね」
B「そう……殊能作品ってーのは、フェア-アンフェアという視点なんてものを、度外視した地点から始まる、そんな面白さを追及しているんじゃないかって気がしないではないのよ。フェアなパズラーなんてものは、最初から意識にないのでないか。ってね」
 
3. 絶対矛盾とフェアプレイと
 
G「ところで、ayaさんのおっしゃる“ありえないような偶然の数々”って“浄明寺/静明寺”という地名の一致の件と、石動と被害者の行動の類似の件ですか? だとしたら、それくらいは十分許容範囲でしょ」
T「そうそう。実際に鎌倉には金沢通りもあることですし、問題ないでしょう」
B「それだけじゃないでしょうが。金沢と鎌倉双方に症状の良く似た痴呆症を患う人物がいて、しかもこの2人の身近に同じく“ユキ”という女性がいる。さらに許しがたいのは第1章の、つまり金沢の“ぼく”の独白で描写されるやりとり(44P)が、鎌倉での別人によるやりとり(180P)と全く同じものになっている。しかもこれは、作中人物の作為や仕掛けはいっさい無い、純粋な偶然という設定なんだぞ! さらにいえば、このとてつもない偶然が叙述トリックのために使われている点が、さらに腹立たしいね」
T「金沢と鎌倉での会話の一致は、他のシーン(24Pと128P)にもありますよね」
G「そうですね。この一致が偶然にしては行き過ぎだ、とayaさんは思うわけだ」
B「だってそうでしょー。ありえないとはいいきれないけど、だからって偶然のひとことで済まされたらフェアプレイもくそもない。たとえばさ、仮にこれが叙述トリックでない、つまり作品レベルで使われたとしたら、どうしたって“作中人物による謎解きが必要”になるわよね。そうしたら、作中の名探偵はこんなありえない偶然を“みずから現実として説明”しなくちゃならない。でも……そんなことできるはずがないわよね。こんな奇蹟をタダの偶然で説明したら、どんな読者だってちゃぶ台引っ繰り返すわよ。だから作者はこれを叙述で使うことで、論理的に説明する義務を回避してるんだよね。つまり……ゴマカシだ」
G「それは結果的にそうなっただけで、意図的にそれを狙ったわけではないと思うけどなあ」
B「こんな偶然、現実には絶対ありえない……のは、まあともかくとして。謎解きのための手がかりとして捉えたら、読者はまず“絶対にありえない偶然”として捨てるセンであるはずで。だってそうだろ? これだけ一語一句符合してたら、逆に“これは同じ情景を視点を変えて描写してる。つまりこれは同じ場所だ”と判断するための手がかりとして扱うのが当たり前だ。ところが逆に、作者はこれを“2つの館トリック”を隠すためのミスリードとして使っている……程度の低いご都合主義だよね。メタレベルならなんでもやっていいってもんじゃない」
T「ayaさんが仰っている許しがたい偶然っていうのは、セリフ回しが完全に一致している点ですよね。状況の一致だけならまだしも、一言一句同じなのはオカシイと。それは私も感じましたよ。でも、なぜ作者は似て非なる言い回しを使わなかったんだろう、っていう疑問も感じましたね。そうしても良かったはずなんですよ。少しぐらい違うセリフだったとしても、2つが違う場面であることに気付く読者は少なかったと予想されますから。それに、もし鋭い読者がセリフの差異に気付いたとしても、“ぼく”の認識は正しいとは限らないという設定なんですから、本当は同じ場面なのに“ぼく”には違うように聞こえたんだな、と勝手に誤認してくれることも考えられます。このように、微妙に変えたセリフ回しを使っても問題なかったのに、作者はそうはしなかった。ayaさんが仰るような不満の声が出ることが、充分に予想できたにもかかわらずです。以上のことから、作者は敢えて2つの場面のセリフを一致させたと言えます。ここに、作者の“仕掛け”に対する“こだわり”のようなものが感じられます。さる著名な方の言葉に“優れたミステリは解かれる運命にある。それは読者に充分な手掛かりを提供しているからだ”というのがあります。私の勝手な解釈で言い換えれば、真相を見破れずに驚きの結末を迎えた読者が9割、作者の“仕掛け”に気付いた読者が1割というくらいの比率が、“優れたミステリ”であるということです。しかし殊能さんは、10割の読者に驚きの結末を迎えて欲しかったんですよ。カバーの裏表紙に“隙なく完璧な本格ミステリ”って書かれてあるのは象徴的ですよね」
B「冗談でしょ! “10割の読者に驚きの結末”ってことは、イコール“100%解けない/解けないように作られている”ということでしょ。それって“隙なく完璧な本格ミステリ”では絶対なくて、むしろ“完璧な非本格ミステリ”ということよ。読者が論理的な推理ではゼッタイ・100%解くことができなくて、“それゆえに驚きの結末を味わえ”るってのは、つまり“謎解きとその論理性”よりも“サプライズ”を重視しているということでしょ。通常、私はそういうのをサスペンスやスリラーって呼んでいるんだけどね」
G「それによって大きなサプライズももたらされるなら、ご都合主義が悪いとは思いませんけど……っていうか、そもそも本格ミステリのほとんどの仕掛けってのはそういうものなんじゃ?」
B「もちろんご都合主義が悪いとはいわないさ。いい悪いじゃなくて、それは本格じゃない……根本的に本格ミステリのもっとも根本的な規範から外れてるってことよ。私だってそういうミステリが嫌いなわけじゃないよ。ただ、卑しくも本格ミステリを名乗るなら 、最低限の“フェアプレイ”という精神はゼッタイ必要なんだ。何を見せて何を見せないか、作品世界の全てを握る作者は、どっちにしたって圧倒的に有利なんだからね。だからこそ、フェアプレイという紳士協定でもって一定の歯止めというか“枠組み”を前提にしないと、謎解きゲームとしての本格ミステリは成立しない。まあ100%フェアにしろなんてことはいわないが、せめて1%でも“論理的に解ける可能性”を残しておかなければ、ストレートに本格とは呼びたくない。本格ミステリ“のようなもの”がせいぜいだね」
T「いや、この作品はフェアプレイ精神に則って、多くの手掛かりというか伏線を散りばめていると思いますけど」
B「TANISHIさんの先ほどの言によれば、作者は“仕掛け”に対する“こだわり”ゆえに、あえて“論理的には絶対ありえない偶然の一致”を取り入れてるわけでしょ。いくらたくさんの手がかりや伏線があっても、この1点がすべてを無効化しちゃうんだよ」
G「でも、謎解きゲームとしての純粋性を追求する本格が全てというわけではないでしょう。逆に、昨今は純粋に謎解きゲームとして書かれる本格の方が少ないんじゃないかな」
B「それは分かる。分かるがしかし本格ってものには、“すべての読者に解ける”からではないにしろ、少なくとも結末では、解けなかった読者にも“解けてもおかしくなかった”って思わせる必要があるんじゃないのかね。“謎が論理的に解かれていく過程の面白さを主眼とする文学”なんだから。特にこういった叙述トリックというのは、読者にとって唯一のより所であるテキストレベルで行われる詐術だから、読者はさらに圧倒的に不利なもの。純粋に作者から読者に対して直接仕掛けられるタイプの詐術だから、その叙述トリックの構造自体に、絶対ありえないとしか思えない偶然を多用するのはアンフェアだね。だいたいカッコ悪すぎるよ、こんな強引なやり方なんて」
G「うーん、しかし第1章の、その(鎌倉のふりをした)金沢パートでも、そこが梵貝荘でないことを示す手がかりは、各所に描かれていると思いますけど」
B「たしかにね。浄明寺の場所を聞いた観光客の表情の描写(35P)とか、廊下の窓の外の山並みの描写(49P)とか……。だけど、だからといって、別の人物・別の場所・別の日時に、まったく同じやりとりが行われたなんて偶然を認められると思うかい? つまり読者の視点からいえば、これらは絶対的に矛盾した手がかりたちであるわけ。解こうとすればするほど混乱するばかりで……つまりね、最初っから作者は解かせる気なんざさらさらないのよ」
T「梵貝荘でないことを示す手掛かりはもっとありますよ。噴水はない(41P)とか、暗い廊下がまっすぐ続いて玄関だけがほのかに明るい(48P)とか。天井には出っぱりが縦横に走り(46P)っていうのは、日本家屋の伝統的な天井を表していますし」
G「そうそう、けっこうたくさんあるじゃないですか」
B「だからさ、そういう手がかりの多さと前述のセリフの一致という偶然が決定的に矛盾しているのよ。それぞれの証拠が全く逆の方向をさしている。論理的に破綻してるわけね。つまりこれって読者が真剣に謎解きしようとすればするほど混乱する仕組みになっているわけよ。まあ、そもそも名探偵の謎解きロジックを提示しようという姿勢さえ、この作品には根本的にありゃしないんじゃないかな」
G「いや、それはどうかな。たしかに叙述トリックはメタレベルのトリックですから、作中人物による謎解きはありえませんが……たとえば作中作にあたる“梵貝荘事件における水城優臣の謎解き”や“名探偵水城の性別誤認の謎解き”など謎解きロジックの楽しみが無いわけではないでしょ」
B「はん! “梵貝荘事件における水城優臣の謎解き”がロジックといえると思う? ……あれはホワイダニットの謎がメインだけど、答えは所詮途方もない専門知識で読者を煙に巻いているだけだと私は思う。謎としても奇矯なクイズレベルに過ぎないね」
T「確かに作中作の『梵貝荘事件』は、物理トリックについては物足らないし、動機においては奇妙奇天烈な話です。しかし、作者としては『梵貝荘事件』をメインに扱われたくなかったんじゃないでしょうか。そのため、ここに真っ当な本格ミステリを持ってくることを敢えて避けたんだと思います。ページ数も限られていることもありますから、奇怪な動機を前面に押し出した話を作中作に持ってきたのは、作者の正しい選択と言えませんか? あくまで『梵貝荘事件』にまつわる謎解きロジックのメインは、第3章での石動による推理とそのまた逆転にあるわけですから」
B「それはどうかな。『梵貝荘事件』の謎解きのキモはホワイダニット、つまりあの異様な動機だね。で、この異様な動機のミソは、犯人のマラルメの詩に象徴される“形式への異様なこだわり”であって、すなわち“本格ミステリという形式への批評”を暗示している。TANISHIさんのおっしゃる“第3章での石動による推理とそのまた逆転”はお得意の“名探偵の敗北”、そしてその敗北の原因としての“アンフェアな記述による性別錯誤”という2点で、これまたいずれも“本格ミステリの形式へのこだわりに対する批評”を象徴している。“本格ミステリという形式に対する批評”というメインテーマにリンクしているわけだ。したがって、この“批評としての視点”を前提にしない限り、『梵貝荘事件』そのものは本格ミステリとして大して面白いものではない。謎解きを読ませてもらっても“ふーん”って感じだよな」
T「“ふーん”で終わったですってぇ?! ayaさん、それは鮎井郁介著の『梵貝荘事件』のことですよね? まさか、『鏡の中は日曜日』の読後感想じゃないでしょう。ひょっとしてayaさん、第3章を読み終わった時点で本を閉じてしまったのでは?」
B「いや、そんなことはしてないわよ……」
T「この作品は『梵貝荘事件』が主題じゃないですよ。主題はあくまで第1章にあります。このことは、章題が本のタイトルになっていることからも分かるでしょう。そしてこの本の正しい読み方は、第3章を読み終わった後にもう一度第1章を読むところにあります。といっても、伏線はどこにあったんだろうって探すような読み方ではないですよ」
B「いや、もろにそういう再読の仕方をしたんだけど……っていうか、本格ミステリの再読って、そういうもんだと思うんだけど」
T「ダメダメ! この作品の場合、再読時には、はじめに読んだときには見えなかった人の顔や状況が分かっているので、色々と気付くことが出てくるんですからね。例えば、本作は第3章において石動が水城にサインをもらうシーンで終わりますが、第1章ではその後もまだ優姫と誠伸の物語は続いていることに気付かされます。第2章にある“名探偵が推理を披露し、犯人がみごと逮捕された時点で、小説は終わる。だが、現実には、その後も人生は続くのだ”(159P)という石動の思いをみごとに表現した作品構成ですね。また、再読時には感情移入もできるようになります。第1章は“ぼく”の死で終わりますが、初読時には“あー、誰かが死んだんだな”くらいにしか感じません。殺人を扱っている本格ミステリを読み慣れて、人の“死”に鈍感になっている読者にとっては尚更です。しかし再読時には生きた人の顔が見えますので、誠伸の死に様にはジーンと胸にくるものが生じるのです」
B「……どうも、本格ミステリに対して求めるものが、TANISHIさんと私じゃ全然違うみたいね……。人生とか死に様なんてもんにジーンとくるより、私はあくまで鮮やかな謎解きロジックにジーンときたい。だってそれこそが“本格だからこそ味わえる感動”なんだから。生き様死に様に感動したいなら、それは何も本格である必要はないわけで。都筑さんいわく“本格ミステリは専門店”なんだからさ。人生なんてもんをあれこれする以前に、ともかくもうちっときっちり謎解きをしてほしいのよ。もし作者に本格ミステリを書こうという意思があるなら、ね」
T「おやおや、おかしなことを仰いますねー。ayaさんが本作のことを“ストーリィ性が希薄だ”なんて言うもんだから、そうじゃないことを説明したまでですよ。ayaさんの今の発言からは、あまり物語を重視されていないように伺えますが、どうなんでしょう。また先ほどは“クイズレベルに過ぎない”なんてことも仰っていましたけど、ayaさんの方こそ本格ミステリに“出来の良いクイズ”を求めているんじゃありませんか?」
B「ワタシ的にはね、本格ミステリちゅーのは、まず“クオリティの高いクイズ”としての謎とロジックがあり、“それを最も活かす器として”のプロットがありストーリィがあるもんだと、そー思うわけ。ニンゲンの生き様や死に様にジーンとくるとかその手のもんは、あって悪いもんじゃないど本格としてはあくまで“付加価値”ね。で、この作品の場合は謎やロジックを生かすものというよりも、本格としてのフレームを批評し破壊し、サプライズを発生させるための装置としてのプロットになってると、そう感じたわけよ」
T「なるほど、確かに求めているものが違いますね。私は“クイズ”よりも“サプライズ”重視派ですから、本作は全然オッケーなわけです。でも、本作に謎解きが全くないとは言わせませんよ。ねぇ、MAQさん」
G「そうそう、“名探偵水城の性別誤認の謎解き”はどうです。あれだって、作中作の描写で、読者が十分注意深ければ解けるようになっていると指摘されている(280P)じゃないですか」
B「そのすぐ後で水城自身が“思いっきり『水城優臣』って書いてあるのに、フェアプレイもへったくれもないよ”っていってるじゃん。だいいちそれだって他と同じく“ドンデン返しの結果が提示されるだけ”で、ロジックなんてどこにもありゃしない」
T「いや、フェアプレイの精神に則っていますよ。このことを論じるには、まず巧みな作品構成についてご説明する必要がありますね。私たちは本作を読み終わっているので、先ほどから“作中作”と呼んでいますけど、作者は作中作を感じさせないような工夫を施しています。作中作や手記などは事実を書いているとは限らない――という眉唾の法則がありますよね。もし『梵貝荘事件』が、作中作としてまとめて挿入されていたらどうだったでしょうか。きっと、実際に起こった事件とは違うんだろうな、と読者は勘繰ってしまったでしょう。そうなると、『水城優臣』が実際は『水城優姫』だったとしても、読者はさほど驚きません。『水城優臣』が実在の人物だと思い込んでこそ、この性別誤認トリックは生きてくるわけです。そこで作者は『梵貝荘事件』を分割し、過去のパートとして現在のパートと交互に配置することにより、読者に“過去の事実”であると思い込ませることに成功しています。作中作の一部であるところの梵貝荘の見取り図や登場人物表を、第1章より前に配置したことも効果的で見事な構成です。しかし過去の事実として『水城優臣』と書いたのでは、虚偽の記述ですのでアンフェアになってしまいます。そこで作者は、過去のパートが鮎井郁介著の『梵貝荘事件』であることを示す伏線を、随所に散りばめているんです。登場人物表に石動らの名前が無かったり、“京大(93P他)”ではなく“K**大(81P他)”と書かれていたり、作者注が挿入(112P)されていたり……。これをフェアプレイと呼ばずして、なんと呼びましょうか。綾辻行人氏の『迷路館の殺人』では同名の作中作を前面に押し出していたのに対し、本作では作中作を実体が定かでない幽霊のような存在に仕上げています。だから殊能氏は、本作のタイトルを『梵貝荘事件』にしなかった(できなかった)のです」
B「なあるほどぉ! 今のお話は非常に鋭い指摘だわね。たしかにそう説明されると、作者がフェアプレイということを十二分に意識していることがわかるわね。でも、それは必ずしも出来上がった作品自体がフェアな本格ということを意味しないのよ。特にこの作家の場合はそう。“フェアプレイということを十二分に意識”し、TANISHIさんがおっしゃるような、実に繊細緻密な技巧を張り巡らせて……しかも同時にその成果を『水城優臣』というアンフェアな記述でもって決定的に破綻させる。つまり“形式としての本格ミステリのカタチを極限まで突き詰めた上で、自らの手でそれを破壊してみせる”。繰り返しになるけど、これが作者の狙いなのね。すなわち本格という形式への批評と破壊。これよね」
G「むー」
B「ひらたくいっちゃえば、この作品は作中のどこにも“謎も謎解きロジックも存在しない”わけよ。ただ本格ミステリというフレームに対する批評と、それを使ってサプライズを生みだそうとする実験、そして形式そのもの破壊があるだけ。まあ、そもそも“テキストから謎解きロジックを徹底して排除することによって、辛うじて成立しているサプライズが狙い”であるわけだから、仕方がないっちゃ仕方がない。ただしそのスタンスの在りようからいっても、これは本格にとても良く似ているけれど、似て非なる本格のレプリカントってやつだね」
G「しかしなあ、ロジックは存在しないにせよ、本格ミステリ的な技巧はそれこそ山のようにありますよね、それも飛び切りのやつが。ぼくはこれだけでも十分本格読みとしてお腹いっぱいになれますけどね」
B「……ほーんと、シアワセだね。きみってやつは!」
T「そういうayaさんのように楽しめなかった人は、フコウだとも言えますよ……」
 
4. それとも、愛
 
G「では、逆にここからは“本格ミステリに対する批評”としての『鏡の中は日曜日』を考えていきましょうか」
B「まーどっちかっていうと、それがメインテーマの作品だしな」
T「うーん、そうかなぁ……。批評性はあくまで一面だと思うんだけどなぁ」
G「ayaさん的にはそうなんでしょうね。ま、とりあえず本作における“本格ミステリに対する批評”ですが……これはやはり『黒い仏』と同じく“名探偵の敗北”ということになりましょうか」
B「というよりね、私はこれは信じられないくらい念の入った“名探偵殺し”だと思うんだよね」
G「え? でも石動は結局生きてたわけじゃないですかぁ?」
B「……あのさー、せっかくゴヨーボーにお応えして“エセ評論家っぽく”やったろうとしてんだからさ、そーゆー次元の低い茶々入れないでくれる?」
G「あ、どどうもすいません……」
B「ったくもう、場の空気ってやつを読んでよね。……で、だな。本作品において、いかにたびたび、名探偵が、それこそあらゆる手を尽くして殺されているか、だが。まずフェイクだけれども“石動が殴殺”されるだろ」
G「ええ、フェイクですけどね」
B「いいんだよ、こーゆー場合本格ミステリ的な真相はどうだって。現象面に現れた部分を拾ってけばいいの」
G「はいはい。で?」
B「うん、次にね、ラスト近くで語られる名探偵水城の終焉だ。まずは名探偵が事件関係者に“恋”をし“誘惑し”、“寿引退”し“平凡な主婦として夫の世話をする”という4連発の“死”がある」
G「なるほど……」
B「さらに」
G「まだあるんですか!」
B「あるよー、決定的なのが。それは大ラスで“名探偵石動は元名探偵水城にサインを求める”ってエピソードだよ」
G「それが何か?」
B「つまりね。あのエピソードで、石動という名探偵を名乗る男は、実は“ただのミーハー本格マニア”であることを露呈しているんだな。しかも、その際石動は水城に対して、現実の事件を解決した現実の名探偵の名前である『水城優姫』でなく、推理作家・鮎井が歪んだ欲望の果てに生みだした虚構の存在たる『水城優臣』の名でサインすることを求める……つまりさ、これは本格マニアってやつは“現実の、活きた人間としての名探偵なんててんから求めちゃいない”ってことを示してるわけね。つまりこのシーンで描かれてるのは、これまでシリーズで名探偵として扱われていた石動が結局“ただのマニア”だったという“死”。そして水城優姫という“現実レベルの名探偵の抹消”。この2つの“名探偵の死”が描かれているわけよ。こうした二重三重四重の虐殺行為によって、もはや名探偵は“虚構レベルでも現実レベルでも、とことんディレート”されてしまうんだよね」
G「うーん、思わず納得してしまいそうですねー」
T「何を言っているんですか! MAQさん、ayaさんの詭弁に騙されないで下さい。あの色紙のシーンこそ名探偵への、ひいては本格ミステリへの《愛》の象徴じゃないですか! 私たちが愛する“名探偵”は、本格ミステリという虚構の世界に存在しているのですよ。誰も現実の探偵に憧れなんか抱いてません。それに、ayaさんは2つの“名探偵の死”と仰いましたが、石動は名刺にあるような名探偵ではなく、どちらかと言えば“迷探偵”であることは明白でしょう? つまり、本作での名探偵は『水城優臣』ただ一人です。ですから、カバー帯の“名探偵、最後の事件!”に嘘偽りは無いのです。先ほどayaさんは、四重の“死”と仰いましたが、私には四重の《愛》の物語だと思えました。まずは第2章で示される、田嶋の古田川に対する《愛》。次に第3章で示される、石動の『水城優臣』に対する《愛》。そしてこれが主題なのですが、第1章で示されている『水城優姫』の誠伸に対する《愛》です。また全ての章を通してみると、作者である殊能将之氏の本格ミステリに対する《愛》が感じられます。これで、四重の《愛》ですね」
B「うーむ。《愛》くらい、この作家に似合わない言葉はないよーな気がするんだけど……ちなみに、私見だけど、この水城優姫(みずきゆうき)という名探偵の名前は、水島新司の野球マンガ『野球狂の詩』に出てくる女性投手『水原勇気』を連想させるねー。ま、どーでもいいことだが」
T「マンガといえば『黒い仏』を読了した時、少年ジャンプに連載されていた『ブラック・エンジェルス』を連想してしまいました。これって、最初は現代版必殺仕置き人のような話のシリーズだったのに、途中でガラリと方向転換したんです。その境目は衝撃的でしたよ、何せ悪徳政治家がいきなり○○に○○するんですから……。しばらく開いた口が塞がらなかったのを、子供心に憶えています」
G「お2人とも古い……」
B「う、うるさい! ともかくだなー、ワタシ的には、これは作者の本格ミステリという形式への愛憎半ばする感情が生み出した作品って感じなんだな。本格ミステリのフレーム/ジャンルとしての特殊な形を使い尽くして、ほかならぬ“本格ミステリの象徴的存在である名探偵”を、徹底して、しかも腹が立つくらい軽やかに消費し尽くしているわけで。まさに贅を尽くした“本格ミステリの墓碑銘”にほかならない。ここには謎やロジックがあるように見えて、実はどこにもその実態はないわけで。ただただ“本格ミステリのフレームから生みだされる空虚なサプライズ”だけがこだましている……。でもまあ、ここまで軽やかで、しかも虚ろな“本格ミステリのようなもの”を創りだす才能というのは、やはり畏怖すべきモノというべきだろうな」
G「“本格ミステリの墓碑銘”ですか……でも、それでもなお、面白いですよね。刺激的じゃないですか。こういう過激なものもあっていい」
T「では私は、“新たな本格ミステリの記念碑的存在”と言い換えましょう」
B「好き嫌いでいっちゃえば、私は嫌いだね。愛だとしても、あまりにも歪んでる気がする」
G「もともと歪んでる気もするんですけどね、本格ミステリっていうのは。それ自体も、それを読む人間も。歪みそのものを愛するってことなんじゃないかなあ」
T「あ、そうそう、先ほど私は四重の《愛》と言いましたが、もう一つ《愛》がありますよ。それは、読者である私が、本作『鏡の中は日曜日』を《愛》している、ということです」
G「うーん、美しい解釈ですね。……しかし、ここまで正反対の結論が出ると、なんだかいっそ爽快ですね。まあ、それぞれの本格ミステリ観も違うわけですし、これを無理にすり合わせる必要もないでしょう。どちらが正しかったかは、いずれ作者自身が結果を出してくれるのではないでしょうか」
B「例によって、ご都合主義全開バリバリなまとめ方よねぇ!」

 

(Talk in 2002/02/23〜3/14)

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