GooBooスペシャル『魔神の遊戯』
 
 
島田荘司のダンス
 
〜往復書簡:『魔神の遊戯』効果における世代間格差について〜
 
課題図書:『魔神の遊戯』(島田荘司 文藝春秋社刊)
 
ヘルパー:NOBODYさん
島田荘司ファン・本格ミステリファンとして結ばれた血盟の同志(笑)であり、ぼくにとってもっとも古くからのWeb友達。氏が運営されている『SALOON』は、当Junk Land開設の直接のきっかけとなったミステリ&映画サイトです。肩の力の抜けた、それでいて鋭い視点が光る書評・映画評は必見!
今回は待ちに待った島田さんの御手洗もの長編を(ウルサい外野抜きで)とことん論じ合うべく、初の往復書簡形式でお送りします。
 
CAUTION!
以下の文中では、『魔神の遊戯』(島田荘司 文藝春秋社刊)、そしてE・クイーン『Yの悲劇』のネタバレに多数言及しております。未読の方は同作品を一読の上、あらためてお運びいただけますよう、くれぐれもお願い申し上げます。

 
 
●第1便 『逆しま・Yの悲劇』の構図
【NOBODY→MAQ】(2002.09.02)
 
こんばんは、MAQさん。
NOBODYです。
 
真にぶしつけなんですが、『魔神の遊戯』ネタでおしゃべりしたくなったので、メールさせてもらいまいした。というのも、読後すぐに抱いた感想に反し、日が経つに連れ、これがエライお気に入りの作品になってきまして。オレの感じ方はどっかおかしいのかと、仕事で汗を流しながら考えてたりするんですよ。いや、笑わんといてください。けっこうマジです。
で、私は本格系サイトの方たちと交流がないですし、発売直後やから(他の人の感想を読もうにも)検索しても無駄ですし、意見交換する相手がいないんですよ……MAQさんを除いては(笑)。ただ察するに、どうもMAQさんの評価は辛目のような気がしておるところで、とすると、以下の私の意見は少々ピントがズレているかもしれません。その辺は我慢して付き合ったってください。
 
ではイキナリですが、先に結論を。『魔神の遊戯』は、島田さんにしては珍しい、古典の名作群を肴にした一種のメタミステリの快作なのではないでしょうか。メタの定義がいまだによくわかってない自分ですが、ここでは作中の解決の外側に、読者向けの解釈が別にあるというような意味で使っています。その観点からいうと、本作の肝は「オレ(=島田さん)、今回『Yの悲劇』やっててんけど、おまえら気づいた?」という部分にあると愚考。『Yの悲劇』と較べると、抱える構図は正反対ですけどね。で、そう考えていくと、作中で数々の古典名作のネタがパクリといっていいレベルで剥き出しのまま提出されるのにも意味があったのかな、と思えてくる。つまり「今回はメタをやってます」という意思表示というわけですね。最後の被害者の額に“Y”と刻まれていたのは、だからダブルミーニングというヤツ。……穿ちすぎかもしれませんが。他のネタに関しては剥き出しのまま提出しているのにもかかわらず、『Yの悲劇』については気づかれないよう演出(島田氏が信じる21世紀本格的手法を駆使)しているように読めるのも、本作の肝がここにあるからなのではないでしょうか。だとすれば……ここで1つの疑問が生まれました。
 
客観的に見て、このカラクリってそんなに簡単に見破れるもんなのでしょうか?
 
こんな疑問が生まれたこともあって、普段あまり足を運ばない某所へ行き、作品に関する感想を読んでみたんです。すると意外と評判は上々のようで、絶賛するような書き込みはないもののクソミソにけなしてるような書き込みも見当たらない。でもまあ、それはべつにどうでもいいんです。気になったのは、本書が上記のような構成になっていると言及してる人が1人もいないことで。みな、フツーに面白かった的な感想ばっかりなんですよ。ここで私は悩みました。これってつまり、オレの読み方がまちがってるのか、それともあえて言及する必要のないレベルのカラクリなのか、と。
 
人の感じ方は人それぞれ、「アンタがそう思ったんやったら、そう思っときゃええやん」という至言があることは知ってますし、私もそれをモットーにはしています。が、さすがに1人というのは不安(笑)。そこで、MAQさんの把握も聞いてみたいな、と思いメールさせていただきました。せっかくなので、雑感なども聞かせていただければ幸いです。
 
ついでながら、私が『魔神の遊戯』を気に入ってる理由は上記の話とも間接的につながりがあって……なんか今回の島田さん、一探偵小説マニアに戻って嬉々として書いてるような気がしません? 社会派ネタはまったくといっていいほど顔を出さないし、バレバレの趣向をなんの照れもなく堂々と書いてる。それはそれで問題という気もしますが……ま、“いつものこと”ですし(笑)。新本格15周年の節目の年に(私自身はそんなに感慨めいたものは湧かないんですが)、こういう一読者に戻ったような遊戯的作品を読めたのが、1ファンとしては嬉しかったっす。
 
長々と失礼しました。ご迷惑でなかったらいいのですが。
 
NOBODY/now reading book is 『凍るタナトス』by 柄刀 一
 
 
 
●第2便 ポスト新本格読者へのメッセージ
【MAQ→NOBODY】(2002.09.03)
 
NOBODYさま
 
こんにちは、MAQです。嬉しいメールをどうもありがとうございます! 迷惑なんてとんでもない。ぼく自身もこの作品については話す相手があまりいなくて、実は往生していたところです。不思議な話ですが、本格ミステリ系のWebサイトでもまだあまり感想は出てないし、出ていても“普通に面白い”みたいな感じのところが多いのは同感です。
 
さて。本題ですが。NOBODYさんの解釈、そして評価には概ねぼくも同意です。当方の感想が辛そうに見えたとすれば、それは他ならぬ島田さんの作品だから、というのがまず1つ。そしてもう1つは、これが明らかに“古典を知らない世代/ポスト新本格世代”に向けて書かれた作品だったから、なのです。
 
私見ですが、『魔神の遊戯』の本格ミステリとしてのネタは以下の3点にあると思っています。すなわち……
(1)バラバラ殺人〜記述トリックのバリエーション
→『占星術』、『眩暈』(新占星術)と続く(約10年おきの)占星術三部作的位置づけ。
(2)“名探偵犯人”という意外な犯人トリック
→御手洗さんに対する『萌え』含みの異様な人気を逆手にとった、新本格的な技法の実践。
(3)『Yの悲劇』の構造の21世紀的応用
→“古典へのリスペクト”を新本格的な技法で表現
 
……というわけで、これは氏自身の作家的節目と、新本格15周年と、『マスターズ』ということを強く意識して書かれた、“プレ新本格世代の作家ならではの、ポスト新本格読者へのメッセージ”なのではないでしょうか。つまり、島田さんが本作で主たる読者対象としているのは、“古典を知らず”“新本格以降の作品に馴染んだ”若い読者であり、“新本格的な技法にもこれこうして古典というのは脈々と生きているし、活かせるんだぞ”“嘗めるなよ、青年!”ということなのでは?
 
そう考えていけば、もちろん例の“額にY”はダブルミーニングということになりますよね。コイツはいわば“古手の読者へのウィンク”みたいなもので、“君にはすぐ分かっちゃうよね”“でも今回はちょっと若い連中を相手に遊ばせてよ”ということだったと考えることができそうです。……島田さん、たしかにとても嬉しそうですものね。さらにいえば、氏が強く“ポスト新本格読者を意識”したからこそ、そういった底に潜めたメッセージや仕掛けは別として、語り口やノリみたいな部分では、それらの読者にとってはなじみ深い“必要以上に駆け足な書き方”をされたんではないでしょうか。そして、それが故にオールドマニアな当方は違和感を感じた……いまはそんな風に思っています。
 
PS.それにしても。話は違いますが、どうも“島田さんを正面から取り上げて論じてくれるサイト”が、少なすぎるように思えてなりません。いくらか多めに論じてるところは絶賛オンリィの萌えサイトくらいで……。敬して遠ざけられている? それとも“公式ファン”への嫌悪感が、まともな本格読みの方たちのためらいを誘っているのでしょうか。……まずいことだ、とは思いませんか? そういう意味でも、やっぱり頼りになるのは盟友NOBODYさんだけだよな、と(笑)。
 
まとまりませんが、取り急ぎこんなところで。例によって例のごとき憶測だらけの怪説ですが、ご意見お聞かせいただければ幸いです。
 
MAQ/now reading book is 「凍るタナトス」by柄刀一
おもしろいんだけど……忙しくて読む暇が無いっす。
  
 
 
●第3便 アンバランスな読者
【NOBODY→MAQ】(2002.09.04)
 
おはようございます、MAQさん。NOBODYです。
早速のお返事、ありがとうございます!
 
うーむ、なるほど。いや、ナットクできる意見です。ポスト新本格読者は、古典は読んでなくてもその原理は知ってるという人、多いですもんね。かくいう私も、ちょっとだけその領域に身を置いてる人間ですし。“嘗めるなよ、青年!”っつうのもいいですねぇ。一部ファンにもこれくらいの姿勢で接してくれ……。
 
しかしそうすると、島田さんには“メタをやっている”という意識はなかった、もしくは希薄だったということになるのでしょうか? 『Yの悲劇』も、わかる人にはとうにわかってるだろう=べつだんその趣向を隠してるつもりはない、という感じで。だとしたら、見事に引っかかったオレの立場は……。例の“額にY”の解釈についてもそうですが、なんか自分がものごっつ間抜けな人間に思えてきました。いや、ちがう。これは私が“若い(ここ強調)連中”だからなんだ。そうだ、そうに決まってる!(泣) ところで、“古手の読者へのウィンク”ってのはうまい言い回しですな。しかし、今回そのウィンクは私には向けられていなかったか。残念。
 
ちなみに、“書き急いでいる”ように見える点に関してですが。島田さんのインタビューによると、今回(も)島田さんはもっと長くしたかったけど、編集サイドでこれくらいに抑えてください、という要望があったらしいです。意外と真相はこれなのかも(笑)。っていうか、そんな談話を取ってるんやったら、本に載せてくれたらいいのに。他の2冊はちゃんと載ってますよねぇ。
 
……と、ここまでが前振り。次に本題に入りたいと思いますが、さてどこからお話すればいいものか。こうなったら、私が本書の構成(『逆しま・Yの悲劇』の構図)に気づけなかった理由を、自己分析してみましょうか。これはーー
 
(1)ほかならぬ島田さんの作品だったから
(2)綾辻さんの「私の本格」発言等に見られる本叢書が掲げる目論み
(3)黄金期本格についての、私自身の知識の中途半端さ
 
これらのうち、1と2は密接な関係を持ちます。つまり、綾辻さんの「これが“私の本格”であるというものを、ぜひ一発」という要請に島田さんが応えて書いたものなら、これは当然『本格ミステリー宣言』を踏まえた純度120%島田印の本格ものに違いない! という思い込みがあったんですね。事実、冒頭で提示される謎は『21世紀本格論』も踏まえた島田さんらしいものでした。また、島田さんは“見え方が違えば既存のトリックを使ってもオッケ〜”という考えをお持ちで、加えて“創作はのびのび行いたい”との考えからか、これまでにも既存のトリックをパクったようにも読める作品を、実際にいくつか書いておられます。ところが……これはいまさらいうまでもないことなんですが、島田さんは個性が強すぎるんですよ。あまりに個性が強すぎて、この本にしてもそうですが、できあがったものはどこからどう見ても“島田ミステリ!”なんですよね。熱心なファンであるからこそ、いくら名作古典のネタを使ってても、“いつもの島田本格”としてしか読めてない自分がいました。裏返せば、もう少し個性の薄い作家がこれをやっていれば、もっと早くに作者の意図に気づけたかもしれません。
 
ともあれ。そういう経緯があったので、本書を読みながら“これはアレじゃねえの?”と思う個所に出会っても、さして深い意味にはとらなかったんですね。まあ、いつものことかと(笑)。同時に、島田さんがメタミステリなんて小洒落た趣向を使うとは夢にも思ってない自分がいましたね。正直島田さんには“ネタが枯渇してもメタミステリだけは書いてくれるな”と思っていて、また何の根拠もなくそれを信じてもいましたから。……そんなわけで。読了後すぐの感想は、“たしかに島田さんらしい作品ではあったけど、なんかすっげーフツー”やったんですよ。とりあえず賛否は別にするにしても、これは新しいと思えるようなことはなんもしてへんやんという。
 
ただ、それにしては、不思議なことに読後の充足感は上々やった……ということは前にも書きました。で、なんでかなと考えた時に、これはやっぱ事件そのものが醸し出す不気味な雰囲気がよかったんやと。これがあったからユーモアを含んだ語り口の妙が引き立ったし、バラバラ死体が変てこな場所で次々見つかるという、スラップスティックな読み物としての楽しさが増した。じゃあさらに考えを進めて、この不気味さはどこから生まれたのかと考えると、“子供が立案した計画を大人が実行したから”なんだ、と。……事ここに至って、私もようやく“逆しま『Yの悲劇』の構図”に気づきました(笑)。そしてここではじめて、古典ネタをほぼ剥き出しのまま使ってるのには明確な意図があったのかと、膝を打ったわけでして。
 
つまりはじめは、作中の人物でいうとジョージ・ハイアンズのレベルでしか、この作品を読めてなかったんですね。読者レベルでいうと、“ああ、やっぱりこれは『眩暈』の焼き直しか”程度。解決編で御手洗が「それは解っている。問題はそれがいつの時点で、何故かということだ」という部分にも、だからぴんとこなかった。たしかにジョージにしてみれば、それに気づけなかったから犯罪の証拠をみすみす残してしまうことになったわけですが、読んでるこっちとしては、アンタそんな結論どっから導いてきたんや、という印象のほうが強い。推理の材料は揃ってたけど、唯一無二のロジックとは到底思えないぜ、と。
しかしカラクリがわかってから読み返すと、ここもまた一種のダブルミーニングやったことに気づかされます。エピローグ冒頭の御手洗のセリフは、だからそのまま自分にいわれてる感じがして、とても他人事とは思えなかったですね。そのせいか、ジョージのことがちょっとだけ好きになったりして(どうでもいいけど、ジョージとレオナはウマが合いそうですな……)。
 
ここまで書いてきて、今回の作品で自分が“気付かずに”、そしてそれ故に驚けたのは、初心者でもない、かといってマニアでもないという中途半端な読者やったから、という気がしてきました。中途半端なのに、島田作品に関しては一言持ってるというアンバランスさ。これかなと。加えて、普段からメタ的な匂いのする作品を避けてきたって点も大きい。……だから、やっぱり気づいてる人は気づいてる人で、あえて言及せずに“フツーにおもしろい”という感想をおっしゃってるんでしょう。
 
話変わって、ここでの問題の一方である“黄金期本格についての、私自身の知識の中途半端さ”についてですが……これはけっこう私同様の人が多いんじゃないでしょうか。私が黄金期本格と触れ合いがあったのは、ほぼ子供の頃に限定されまして、トリックの原理を残して、細かい部分はあんまり覚えてないんですよね。もしかしたら『Yの悲劇』についても、マニアならそうと気づけるツボがあったのかもしれません。そのへんのところはどうでしょうか?
 
こんな中途半端な黄金期本格読者ではありますが、作中で使われてる名作ネタのセレクトに島田さんの趣味が如実に反映していたのも、一ファンとしては興味深い部分でしたね。『Yの悲劇』は当然として(まあ、これは誰でも好きか)、高木彬光氏のあの名短編、これに派生して絡められるのがトーマス・バークの短編。ほとんど雰囲気作りの役しか果たしてなかった“魔神の咆哮”はホームズものの長編でしょうか。ミッシングリンクについてはクリスティの名作なのかな……氏が気に入ってるという発言を目にした記憶はありませんが。ダイイング・メッセージについては、類似作が多すぎてこれと指摘できるような作品はわかりませんでした。あと、開かれた密室テーマもやってましたね。加えて、島田さん自身の『占星術』をはじめとするバラバラネタ、巨人幻想、もちろん『眩暈』も入ってる。……こうして眺めてみると、なんとも豪華な作品ですなぁ。
 
PS.“島田さんを正面から取り上げて論じてくれるサイトが少ない”とお嘆きの件ですが……まったく同感です、同志! 本当に少ないですよね。ごくたまに作品のリストがあって、それぞれにずらっとコメントされてるかと思うと、萌えサイトやったり。で、よくよくリストを見ると全部御手洗もの。そういうことか! って(笑)。もう島田で萌えの時代じゃないだろうと思う反面、そんな時代なのに目立つのはそんなとこばかりという現状は、やっぱりヤバイですよねぇ。だいたい公式サイトやそれに類似するサイトが多数あるのに、いわゆる作品論・作家論的なことをどこもやってないというのが凄い。そしていわゆる“良心的な”本格ファンには、そもそもあまりリスペクトされてない印象も(笑)。とくに評論系はそういう印象が強いですね。これも上と同じく、もう本格で島田という時代じゃないだろうという思いがあるんでしょうな。多大な抵抗感はありますが、仕方ないのかなとも思います。せめて外野での言動があんなんじゃなかったら、彼らももう少し好意的になってくれるんでしょうが……。しかし、批判でもいいから、もう少し深い論を読みたい気分ではあります。
 
本当に長くなってしまいました。気を長く待ちますので、返事はお暇な時に。
では、失礼します。
 
NOBODY/now reading book is 「凍るタナトス」by柄刀一
……まだ半分もいってません。
 
 
 
●第4便 島田荘司のダンス
【MAQ→NOBODY】(2002.09.05)
 
NOBODY様
 
こんばんは。やはり島田さんの作品となると、気合いの入りようが違いますね。さて……。
 
前便のNOBODYさんの“当然『本格ミステリー宣言』を踏まえた純度120%の島田印の本格ものにちがいない! という思い込み”についてはまことにおっしゃる通りで、ぼくも叢書刊行前はそのように予想/期待していました。が、第1期の3冊を見て……ことにこの島田作品と山田作品を見て、じつは少々考えが変わったんです。すなわち『本格ミステリ・マスターズ』という叢書の企画のミソは、あくまで書き手をベテランと中堅に限った“マスターズ”にしているという点にあるんではないか、と。つまり、この叢書にあっては“本格書きとして/本格読みとしてのジェネレーション”が、大きな意味を持っているのではないでしょうか。
 
というのは、マスターズ世代の作家さんたちと、それ以降の世代の書き手の違いは何かというと、1つには“黄金期の古典本格を踏まえているか否か”という点にあると思うのです。今回の企画ではいちばん若い世代に相当する森博嗣さんも、幼少のころから古典本格に親しみ、それが氏のミステリィ作家としてのバックボーンになっていることはよく知られた事実です。つまり本叢書の狙いとは、書き手をベテランと中堅に限ることで“黄金期の古典本格を踏まえた本格ミステリ”を提示すること、にあったと。……島田さんの本作におけるコンセプトは、ですからそういった叢書の隠された狙いを的確にとらえたものだったのかな、と思うのです。そういう戦略的な書き方が意図的にできるのも島田さんの特徴ですし。
 
その意味で。この『魔神の遊戯』におけるなんともいえぬ見通しの良さ……明快な構図の、しかもあからさまなまでの提示の仕方というのは、その“意図”に基づく戦術の1つだったといえそうです。新本格的なスピード感・分かりやすさ・遊戯性みたいなものをスタイルとして採り入れ、その底に古典的な本格を応用した構図を潜ませる。つまり、最終的にその構図自体の存在に“気付いてもらうため”にも、新本格的な口当たりの良さを用意してあるわけで。NOBODYさんの読了された直後の“すっげーフツー”というご感想は、ですから作者的には狙い通りだったのかもしれませんね。もっとも、島田さんが書くと“新本格的な構成・演出”も、そのへんに転がってる“いわゆる新本格”とはまるきり次元の違う、高度に洗練されたエンタテイメントになってしまうあたりがなんともはや、という感じですが……。まったくね、これは例の“詩美性”でも“21世紀本格”でも同じなんですが、言い出しっぺがつねに完成された作品を提示してしまうから、他の作家が追随できないんですよ。いうなれば慢性的“1人の芭蕉”状態(笑)。今回の趣向に関しても、島田さんはほぼ完全に消化して、まぎれもない自分の作品として昇華させてらっしゃいます。
 
そうしたことを考え合わせると、NOBODYさんの読了直後のレベルで感想が停止している読者さんって、実はけっこういらっしゃるような気もしないではありません。むろん島田さんの意図としては、その先に気付いてもらわないと意味がないということになるのですが、困ったことにそこまでの理解でも十分面白いといえば面白いんですね。小説家・島田荘司の腕の冴えが、“必要以上に作品の完成度を高め”てしまった(笑)。付け加えれば、NOBODYさんご指摘のブラックなユーモアを含む語り口やスラップスティックな展開の巧みさ、変幻自在ぶりは、まさに“小説家・島田荘司”の真骨頂で。『ハリウッド・サーティフィケイト』でもそうでしたが、ワトソン役を捨てた(というと語弊がありそうですが)ことで、『御手洗シリーズ』は語り口の自由さを得た感じがします。そして、同時にそのことが作風の幅を広げ、本格としての技巧の幅も広げたのと機を一にしている。まあ、その広げ方が万人の支持を得たとは、必ずしもいえませんが。
 
繰り返しになりますが、こうした“若者向けの戦略”から生まれたテンポの良さが、オールドファンのぼくには逆に物足りなかったということになります。なんちゅうか、特に御手洗さんが“爆発する”までの“タメ”がね、物足りなかったなと。まあ、このトリックを使うからには真・御手洗登場のタイミングはあれしかなかったわけですが。その価値は十分に認めつつも、個人的にはやはり『御手洗シリーズ』としてはイレギュラーな異色作という位置づけにしたい気持が残ります。もっとも、ぼくが憶測したような“若者向けの戦略”が本当にあったかどうかなんて、わかりませんよ(笑)。だいたい“『逆しま・Yの悲劇』の構図”にいち早く気付いたことだって、じつはそんな大層なものではないのです。この点に関しては読み手の環境要因が非常に大きく影響すると思うわけで。……第一、この場合“見え”ちゃうことが幸せとは到底思えない(笑)
 
そもそも古典本格に関する記憶のあやふやさなんて、ぼくもNOBODYさんとはさほど事情は変わりません。ぼくがいわゆる古典を読みふけったのは小中高ですし、それからの歳月を数えると、むしろどう考えてもぼくの方がはるかに“遠い記憶”です(笑)。ただまあ、ぼくらの世代は他に読むもの(本格)が無くて、半ば飢餓状況で読んだわけですから、当然、思い入れの深さはかなり違うはずで。……問題はここですね。前述の読み手の環境要因が非常に大きく影響する、という件です。
 
ここで、前便でいただいた“オールドマニアの気づきのツボ”に関するご質問にお答えしましょう。といっても、むろんぼく自身のケースですが……ぼくがこの作品の『Yの悲劇』との関連に気付いたのは、“未来の殺人計画を書いた手記”とその“書き手が精神障害者”であるという2点が確認された時なのです。……そのまんまなんですが(笑)。やはり殺人計画というアイテム、そしてそれに子供や精神障害者のような判断力に欠けた(というのも語弊がありますが)人物が組み合わされる構図というのは、とりあえず“ものすごくあからさま”でさえあるなものなんですね。本格における1つの原型、みたいなもんで。だからこれは“あの『Y』の構図”を新本格的な/21世紀的な技法で料し直したはずだ、と。ある意味たちどころに確信してしまったのです。たぶんこれってぼくの世代ではそう珍しくない反応だと思いますよ。少なくともぼくと同世代の本格馬鹿は、気付いてみんな苦笑いしてる気がします。
 
まことに僭越ですが、そんなへっぽこオールドファンの立場で島田さんの意図を想像してみるならば……まず“Yを俺ならこう料理する/こう料理すれば、新本格テイストの21世紀本格になるだろう!”という狙いが基本にあって。そのミソはあくまで“古典の現代への活かし方”だったと思うんですわ。だとすれば、それを“隠す”という意識はさほどなかったのではないでしょうか。NOBODYさんがおっしゃった、非常にあからさまかつ楽しげな古典からの引用/応用の膨大なギミックも、気付いてもらうことに意味があるわけで。前述の狙い/趣向を楽しむべき作品だったのではないかな、と。さらにいえば、それを直感的に気づくか、後になって思い当たるか、それとも最後まで気づかなくて“このぐぶらん”を読んで驚くか(笑)……ということに関しては、ですから、本格ミステリや謎解きに関する練度や推理力、あるいは観察力、はたまた島田さんへの思い入れといったことは関係なく、単純に“古典に対する経験値と思い入れ”だけで差が出てくるような気がしています。実際、作品を純粋に楽しむという点では、おそらくNOBODYさんのケースがいちばん理想的だと思うし、作者はNOBODYさんおよびNOBODYさんより若い世代を想定読者としているのではなかろうか(笑)。
 
それにしても。おっしゃる通り、古典からの引用ということに関しては、まさに盛りだくさんの作品でしたね。ちなみに名探偵犯人でもあのタイプの趣向(クイーンのあれやクリスティのあれとは異なる手口)はご指摘のとおり高木作品なんですが、ぼくは同時に新本格の作品も連想しました。ドンズバのものとしては森博嗣さんのあれとかね。……こういった、シリーズものを逆手にとった半メタ趣向(いわゆるメタミステリとは違うと思いますが)というのは、ドンズバでなくてもやはり新本格以降に猖獗をきわめた手口であり、その点からも『魔神の遊戯』は、島田さんが若手読者に対し新本格的な技法を応用して“軽いステップで踊って見せた”という解釈をしたいところ……少なくともがぼくはそれが気に入っています(笑)。ちなみにミッシングリンクものに見せかけた非ミッシングリンクとしての見立て、という某長編におけるクリスティのアイディアは、“オールドマニア的には”これまた定番的な、前述の言い方を使えば“原型”の1つですから、これも当然意識してらっしゃると思います。
 
最後に。島田さんの“見え方がちがえば既存のトリックを使ってもオッケー”というお考えについて、思いで話を1つご披露しましょう。ぼくがむかし島田さんに何度かお会いしたことがある、ということは以前お話ししましたが、その何度目かの時……それはちょうど例の『夜は千の鈴を鳴らす』(1988)が出た直後だったんですが……そのせいもあって、ぼくは失礼にもこのトリック流用の件を難詰させていただいたことがあるんです(その頃はぼくも若かった!)。で、その時に、まさにその通りのご発言があったんですよ。ある種の原型的なトリックは捻ったり裏返したり新しい演出を施したりすることで、まだまだいかようにも活用できる。それこそ現代的な視点・発想でとらえ直すことによって、全く別の、現代にフィットした作品にも生まれ変わらせられる、って。……例によってあの視線・あの口調でいわれると、もう思いきり納得させられちゃいました(笑)。“古典を今に繋がるものとして活かす”ということには、ですから当時からかなり意識してらっしゃったのではないかという気がしますよ。
 
PS.あまたある島田さんの関連サイトが、いわゆる作品論、作家論的なことをどこもやってない……という問題に関してですが。作家論や作品論をやろうと思ったら、ある程度作家本人とは距離を取らないと個人的には不可能だと思います。まあ、それも人によるのでしょうが、少なくともぼくにはできません。メールをやり取りしたり直接会ったりする人の悪口はやっぱり書きにくいし。いや、書ければそれはそれでスゴイと思いますけど……。もちろんなにも必ず悪口を言わなければならない、というわけではありませんが、とりあえず必要があれば批判できるというスタンスが必要だと思うのです。その意味で、やっぱり島田さんのファンに対する“踏み込みすぎた姿勢”が、結果として公正な作家論作品論が書かれることを阻害しているのは、残念ながら否定できない気がします。ああいう姿勢とその結果自体が、“公式ファン”ではない、作家と距離をとっている普通の読者の目から見ると、作品自体の評価とは別の次元で揶揄や嘲笑の対象になってしまうのは、ある意味仕方がない気がしますし、それが一種の色眼鏡になって先入観を生みだしている……。“本格で島田という時代じゃない”というのは、たしかに現在の本格シーンの一面の真実かもしれませんが、同時にあくまで一面であるとも思うわけで。色眼鏡のせいで、正当な評価位置づけがされていないのは間違いないでしょう。その意味では、あくまで作品ベースの正しく公正な“本格で島田という時代じゃない”という評論を読みたいと思いますね。そうでなければ、ファンとしても反論のしようがありません。ただ“壊れてる”といわれてもね。壊れてるといったら、最初っから壊れてるのが島田さんなんだし(笑)。
 
さて、今回も異様に長くなりました。お返事は気が向いた時にでも。ゆるゆるじっくり参りましょう。
 
では!
 
MAQ/now reading book is 「『瑠璃城』殺人事件」by北山猛邦
タナトスは一時お休み……いや、遠出が多いので持ち歩くには重くて。
  
 
 
●第5便 勉強感覚で読んだ古典
【NOBODY→MAQ】(2002.09.07)
 
こんばんは、MAQさん。
NOBODYです。
 
前便の『本格ミステリ・マスターズ』に関するMAQさんの把握、明確でわかりやすいですね。森さんに関しては不勉強なもので知りませんでしたが、なるほど古典を抑えているという意味での“マスターズ”というわけですか。未読ですが(※当時)『僧正の積木唄』と『魔神』がよく似た性質を持っているのも、あながち偶然ではないということですね。クイーン、クリスティ、ヴァン・ダインに横溝。もし芦部さんが『グラン・ギニョール城』でこの企画に参加してはったら、本叢書の“隠れた目論み”は半分以上達成できていたのかも? ちなみに柄刀さんの『凍るタナトス』はまだ読んでいる途中なんですが、現時点では山口雅也+西澤保彦という印象です(あえて両者を分ける必要はないかもしれませんが)。世代の違いを考えると、そういう本叢書の隠された狙いが、期せずして現れたという見方もできそうですね。すべての作家がそんなこと示し合わせているわけはない、というもっともな意見は重々承知した上で、MAQさんの考えをお聞きしたいところです。
 
ともあれ、お説のような叢書の隠された狙いがあったのだとすれば、島田さんがそれをいち早く・的確に作品化した、というご指摘には納得が行きます。島田さんは天才肌な印象が強い作家ですが、意外とこういう戦略的な計算といいましょうか、勘定のうまい人ですよね。しかし、それが『パロサイ』などの作品を生み出す一因にもなってるわけで。両刃の剣とはこのことなのかもしれません。いずれにせよ、そうした島田魔術にうかうかと乗せられて、裏の構図に気づかずに読み終えると、“すっげーフツー”という感想を持つのはむしろ自然で。作者の意図が成功を収めたという証明にもなってるわけですな。……いやはや不覚でした。そうはいっても、おっしゃる通り“新本格流の書き方”をしても島田さんが書くと“次元が違う”わけですから、べつだん裏の構図に気づかなくても、それで充分面白いんですよね。だから、まあこれで満足しといてもいいかな、って思ってしまう。御手洗も見られたしって(笑)。ちなみに、このあたりの島田さんの“完璧な処理”に関しては、『本格ミステリー宣言2』で氏が書いてらっしゃった、“物語という母親に親不孝をしてはいけない”という主張に繋がっていくのではないかと思います。で、いま読み返してみたら“メタと本物の分かれ目は、まさにこの母親に不孝をするか、孝行をするかにかかっています”なんて書いてはったりして。うーむ。
 
繰り返しになりますが、『魔神の遊戯』がスゴイなと思うのは、名作ネタの数々をまったく無理なく、また無駄なく完全に消化しきっているところですね。ここは浮いているという部分がほとんど見当たらない。結果、全島田作品中屈指のバランスのよさを保っているんです。ものすごく意味のない仮定ですが、もし自分が作家やったとして、これこれの名作ネタを使って1本の長編を仕上げろといわれたら……そら考えるのは楽しいと思います。めちゃめちゃ嬉しいでしょう。でも、最後にはゼッタイ挫折しますよ。プロ作家となれば、自分の持ち味とそれら豪華トリックとの距離感を計るだけでもひと仕事でしょう。なのに今回の島田さんは、ただ消化するだけじゃなく、演出家に徹してしっかり自分のカラーも押し出している。なんというか、揺るがないですよね、核が。もうちょっと苦労しろよなぁってな、的外れな文句のひとつもいいたくなるような。それくらい楽しそうに書いてはる様子が伝わってきます。
 
作中で使われてる古典ネタといえば、『モルグ街』もちゃっかり絡ませて(というか直接言及して)はりましたなぁ。ダイイング・メッセージは、もしかしたら『スウェーデン館の謎』かも。有栖川さんもエラくなったなと<ゼッタイちがう。“軽いステップで踊って見せた”か。……気に入りました。
 
さて、問題の『逆しま・Yの悲劇』の構図へのMAQさんの気付きのタイミングですが……めちゃめちゃ序盤ですやん! オールドマニアだからこそとはいえ、いや、私にはやっぱりそこでそうとは気づけないですよ。うーん、でもこれは理屈じゃないんですよね。あえていうなら本質直感? なんかちがう気がしますが(笑)。やはりこれはMAQさんがおっしゃる古典に対する思い入れの違いが出たってことなんでしょうなあ。これに加えて、古典はお勉強という意識がね、少なからず関係してくるのかなとは思います。私も多少そういうところがありますが、私より5つくらい歳が下になってくると、もう古典はお勉強感覚で読むという感じになってるんやと思います。もちろん、そこから古典にハマっちゃうという人もたくさんいるでしょう。さらに、これは私見ですが『ABC』や『エジプト十字架』ほど使用される頻度が多くない原理、ってのもあるのかもしれません。そうでもないですか? そして、これは個人的な興味なんですが、序盤で『逆しま・Yの悲劇』に気づかれたとき、以降の展開で、“(トリック面で)何か島田オリジナルはないか”という期待はされなかったですか? それとも、そこでもうスッパリと“新本格的な/21世紀的な技法”を楽しむモードに入られたのか?
 
それにしても島田さんに面と向かって“トリック応用”を難詰するとは……MAQさんも思い切ったことをされますなあ! いや、正直うらやましいんですが。ああ、私も説得さてみたい……という冗談はさておき(じつはけっこう本気)、トリック応用に関する島田さんのような考え方って、本格読みの人にはやはり抵抗はあるかもしれませんね。と同時に、それ自体けっして小さくない盲点にもなっている気がします。穿った見方をすると、現在の“拡散”の理由はそこにある、という言い方もできるんじゃないでしょうか。新しいトリックの案出ばかりに気をとられてしまって……という感じで。もちろん拡散の理由は1つではないのでしょうけど。
 
PS.作家本人とある程度距離を取らないと公正な批評がしにくい、というMAQさんの感覚についてですが……まあ、それは当然でしょうね。一社会人として、そういう社交性は必要、というか常識でしょう。ましてや本人の後押しがあってファンサイトを設立するとなると、話を受ける時点で、犠牲にしなければならない部分も出てくるわけで。やっぱ問題は島田さんの方が踏み込みすぎってことなんかな。本格系サイトの管理人さんの中にも、少なくとも過去のある時点で島田荘司のファンやったって人、多そうですもんね。だから余計に拒否反応を起こしてしまうってのは、わかるような気がします。幻滅したっていう感じなのかな……。でもそこは、それこそ「それはそれ! これはこれ!」の精神でお願いしたい(笑)。実際、現状では「壊れてる」云々もそうですが、「島田はとうに終わってる」とかね。これが枕詞にくると、あとにどんなことが書いてあるか全部想像できてしまう。あと、「昔に戻ってくれ」という意見も多いですね。じつはまったく共感できないでもない意見なんですが、しかし島田さんってその創作人生の中で一歩も後退したことのない(ように見える)人で、そこがすごいと思っている自分にとっては、やっぱいまさら昔に戻ってほしいとは思わないんです。もちろんそういう意見もあっていいんですが、“前進する島田荘司”を批評する場が少ないのは、ちょっと寂しいですよね。
 
ではでは。
 
NOBODY/now reading book is 「凍るタナトス」by柄刀一
 
 
 
●第6便 マスター・オブ・ミステリ
【MAQ→NOBODY】(2002.09.11)
 
NOBODYさま
 
なるほど、『グラン・ギニョール城』はまさしく、“ポスト新本格を意識した古典的本格”的な性格をもった作品だったと思います。そういえば先日『ダヴィンチ』を立ち読みしたのですが、ちょうど『本格ミステリ・マスターズ』が小特集されていて、山田正紀さんのインタビューが載ってたんですよ。それによると、やっぱり山田さんも“楽しんで書いた”らしい。“原点”を問われて“古典”に帰り、それを“楽しいものとして書く”。……そういうことかなと。『凍るタナトス』はぼくもなかなか進まなくて、まだ半分くらいですが。ともかくこの『本格ミステリ・マスターズ』の“隠された意図”について、お尋ねの件について少しだけ触れておくと……編纂委員の“これが私の本格だという作品を”という、まあ考えようによってはどうとでも取れる依頼のされ方がされているわけですから、おっしゃるとおり揃いもそろって“古典を踏まえた”作品ばかりになるということはないでしょう。
 
従って、つまりは個々の作家さんのスタンス次第になるわけですが……あえて大胆に憶測してみると、ベテラン度の高い人ほど、そして本格ミステリ界の現状に問題意識/危機感の強い人ほど、現在の、ポスト新本格的な傾向に対置されるような、イコール“原点に帰る”的な方向の作品を書かれるんじゃないでしょうか。もちろん、今回の『魔神』や『僧正』のような、ダイレクトに古典との関係が見える作品になるとは限りませんが……少なくとも、ミステリが“本格たろう”とすれば、それはおのずと“古典に接近する”とぼくは思います。むろんそれは外装的な部分というより、スピリットにおいて、でしょうが。ちなみに具体的な執筆予定作家のリストでいえば、まあ新本格第一世代は当然として、泡坂さん、竹本さんあたりのベテランとかは、特にそういう方向の作品をお書きになるんじゃないでしょうか。……ま、泡坂さんなんかは、もういささか仙人っぽくなっちゃってますけど(笑)。あと、個人的に期待しているのは、森さん、北村さん、そして山口さん。特に森、北村のお2人は、本格らしい本格に真正面から応えた作品というのは、これまであまり書いたことがないと思うので、注目したいですね。ま、“私の本格”を書いてくれれば、ですが。
 
ところで、そういう視点からいうと今回の島田さんは、まさに正しく“マスターズ”だったと思います。本格ミステリの全てに通じた、マスターとしての経験とテクニックを縦横に発揮されて。バランスのよさという意味では、おっしゃるとおりトップクラスの仕上がりだと思います。このバランス感覚のすばらしさは、“古典の消化/昇華”という狙いからすれば、妥当な戦略だったと思いますし……文句はないんですが。しかし、基本的にぼくは島田さんに対して“バランスの良さという意味での完成度の高さ”を求めてない面があって……アンバランスなままに、問答無用でこちらの疑問を叩き壊しねじ伏せる圧倒的なパワーと破壊力こそが、ぼくにとってつねに最大の魅力なんですね。その意味で今回は、パワーファイターが技巧派として再デビューしたみたいな……それはそれですごいと思うのですが、一抹のさびしさみたいなモンもありました。ですから。前便でいただいたご質問についても……ええ、『逆しま・Yの悲劇』の構図に気づいて以降、“(トリック面で)何か島田オリジナルはないか”という期待をしなかったのか? という問題ですが……これについても、そりゃもちろん(笑)。もちろん期待しまくりでした。だって、ぼくごときの姑息な予想を軽々と踏みつぶして舞い上がっていくのが、島田作品の最大の魅力なんですから。そうでなきゃ読み終えてあんなに“書き急いだ”だの、“見通しが良すぎる”だの、文句言うわけがありません。何度もいいますが“そういう意味では”十二分に完成された作品なんですから。まあ、この“島田さんだからこそ”の期待は、島田さんが書き続ける限り、ぼくの中からけっしてなくならないと思いますよ。
 
ところでいま、山田さんの新作(『僧正の積木唄』)用準備として『僧正殺人事件』を再読しているんですが……これが辛いんです。訳が古めかしいってのもあるんですが、新本格のスピーディな展開に慣れた目には、正直いって相当に平板で退屈なんです。ぼくの場合、これの初読は中学生だったと思うのですが、よぉもまあ読んだもんだな、と。自分を讃めてやりたくなる(笑)。ところが当時の気分を思いだすと、これをけっこうドキドキワクワクしながら読んでた気もするんです。そのことと考え合わせると、エンタテイメントとしてより洗練された現代の作品にばかり馴染んでしまうと、古典を読むのがいっそう辛くなるということはあるかもしれませんね。もちろん例外はいくらでもあると思いますが、そうだとするとぼくらはいい時期に古典を読んだ“幸せな世代”だったといえるのでしょうか。
ところで そんなぼくらにとっての“原型”としての古典のトリックや仕掛けのパターンとしては、今回の『Yの悲劇』のそれというのは、おっしゃるとおり応用例の少ないケースであるようにも思えます。これってある意味作品総体のプロットを制限するというか、それを決めてしまう類いのものなので、バリエーションといってもなかなか難しいのではないでしょうか。それだけに、トータルな形での引用やバリエーションというのは少なかったと。『Y』はあれだけ有名な作品ですし、あだやおろそかなバリエーションでは恥をかくに決まっていますからね。“疑似見立てリンク”や“バールストンギャンビット”ほど応用しやすくはないですよね。……しかし、NOBODYさん。それじゃ『Y』を初読されたときのNOBODYさんご自身の感想って、どんなものだったのですか?
 
ちょっと話題が飛びますが、前便でご指摘のあった“トリック応用への抵抗感と拡散の関係”の問題についてもちょっと触れておきます。これはもうずいぶん昔からいわれてきたことですが、トリックの原型というか基本的なパターンがほぼ出尽くしているのは、やはり厳然たる事実だと思うのです。新しいそれが生まれるとすれば、それこそ島田さんが提唱する『21世紀本格』的な方向か、さもなければメタフィクショナルな方向(これを新本格第一世代がさんざんやったわけですが)、そしてトンデモな方向しかないような気がするわけで。21世紀本格的な方向は、まあ実際やろうと思ったら準備、というか予習(?)が大変ですし、それをエンタテイメントに昇華させるのはもっと大変。並々ならぬ手腕が必要です。で、メタはメタで、これもやり尽くされていささか食傷気味であるのは否定できない。そうなると、残るはトンデモ方向、という結論になります。
 
ここでいうトンデモというのは、要するに実行性が低い、小説としてもリアリティのない、“それ自体、単独ではバカバカしい”と思われかねないトリックのことで、これを生かすためには作品世界自体をある意味“なんでもアリ”の“異世界”にする必要がありますよね。異世界本格や特殊ルールもの、さらにいえばライトノベル的な本格ミステリ作品が増えているのは、このせいもあるんじゃないかと、個人的には思っているんです。すなわち、本格を書くにはまずトリックだ、と。トリックを思いついたら一丁上がり。あとは“それに合わせて”作品に仕上げればいい。そのために必要ならSFでもホラーでもコミックでも、融合させていけばいいじゃん。そんな感じ。……もちろんそういうのもあっていいし、それはそれで楽しいわけですが、トリックさえ考えればできたも同然というのは、あまりにも安直すぎる気はします。要は使い方であり、見せ方だ、というのは、今回の『魔神』を読めばよくわかりますね。
 
PS.公式ファンに対する島田さんの対応の仕方は、それはまあ島田さんの勝手ですから。ぼくがとやかく言うことではないのでしょうが……。島田さんは作品の評価とか評論とかって、あまり気にならないのかなあ。最近はそうでもないけど、一時はなんだか“公式ファン”以外はみんな島田さんを叩く方に回っているみたいに感じてらっしゃる風に思えて、“ものいわぬ非公式ファン”としては、多いに寂しかったりしたものです。
あの有り様を見ると、普通の本格読みの方々が拒否反応を覚えるのも分からないではないのですが、島田さん自身がどうあれ、作品は作品として評価したいものです。だいたい昔に戻れと言われても戻れるはずが無いのは、島田さんに限ったことではないでしょうし。少なくとも、同じパターンを延々と繰り返すだけの商売人は別として(それが悪いというわけではもちろんありません。単にぼくがそういう作家には興味が持てないというだけです)、とりあえず創作ということに前向きな作家なら変わって行くのが当り前だと思います。ですから読者であるぼくらは、それぞれきちんと読んできちんと評価する、いいものはいいしダメなものはダメで。ただただ頭ごなしに昔に帰れの一辺倒では、島田さんに限らず作家は聞く耳持たないでしょう。
 
では、また。
 
MAQ/now reading book is 「凍るタナトス」by柄刀 一
  
 
 
●第7便 運命の分かれ道
【NOBODY→MAQ】(2002.09.13)
 
こんばんは、MAQさん。
NOBODYです。
 
長々お話させてもらいましたが、冒頭の“悩み”はおおむね解消されましたし(笑)、最後にちょっとだけ補足的なことを書かせてもらって、終わりにしたいと思います。
 
まずは『本格ミステリ・マスターズ』という叢書に関してですが。前便で教えていただいた、山田正紀さんのインタビューでのご発言、私も読んでみました。読書するという行為がいちばん楽しかった頃に戻って……童心に返るというと少しニュアンスちがうかもしれませんが、でもこういう気持ちって大切やと思いますよ。そういう作者の姿勢って、やっぱ作品にも反映されますし。たとえば法月さんにもう少しそういった意識があれば、もっともっと好きになれるんですけどね(笑)。あの悩める姿勢がいいって人もいるんでしょうけど。プロ作家としての目標/野心が、これとうまく噛み合わさればいうことなしかな。そういう意味では、芦辺さんとか二階堂さんなんかは、そのへんナチュラルにこなしてる気がしないでもないです。あと、今回のマスターズの座談会で、黒田研二さんはクイーンを一冊しか読んでない云々って部分があって、私はかなりビックリしたりしたんですが、そう感じること自体、氏の作品にスピリットを感じていたという証明になるのかなと思いましたね。誰もが古典にまで遡って本格を楽しむわけではないですし(若い人はとくに)、またそんな必要もないんですが、そういうコアな部分/スピリットは継承していってほしいですね。またそれを可能とする作品が多くなればいいなと思います。
ちなみに、個人的にマスターズ第一期で気になる作家さんは、私はやっぱ麻耶さんかな。どんな作品が出てくるのかという不安(ええ、不安ですとも)さえ期待値に変えてしまう、本当に稀有な作家さんです。
 
ところで、対・山田さん対策の準備として『僧正殺人事件』を再読してらっしゃるとの由、しかもそれがお辛いとのこと。これはわかります。恥を忍んでお話しますと、じつは私、高校時代に古典離れ危機を迎えたことがありまして。クイーン『チャイナ橙』、カー『帽子収集狂』、ヴァン・ダイン『グリーン家』の3冊。これらをつづけて読んだんですが、ただひたすら苦痛で。当時は乱歩賞作品を中心に、赤川、内田、西村あたりもまだ読んでる頃やったんで、余計にね。あれは古典どころか、ミステリ離れの危機やったようにも思います。しかし、そこで出会ってしまった。……『占星術』に(笑)。まあ、これも読みにくさという点ではけっこうなもんでしたが、ともかくあれが運命の分かれ道でした(笑)。以来今日まで、島田さんを追い続けてきたわけですが。なんというか、島田さんの場合、歳を重ねるごとにスピードが増していってるという実感があるんです。ま、その代わりにコントロールが犠牲になっているようなところがあって……ツーアウト満塁フルカウントという状況を頻繁に迎えてしまう。作品の長大化はだから、守ってる時間長っ、っていう心境に通じるのかも(笑)。そこでウイニングショットが決まれば、ごっついカタルシスも生まれるわけですが。その点、今作は打たせて取るという技巧派の投球で、ストレスは溜まらないぶん、大きな見せ場を作れなかった嫌いはあるかもしれません。
 
たしかにこの作品、島田ミステリの本流として読むと、いささかのガッカリ感はありますよね。笑われても、揶揄されても、蔑まれても(<いいすぎ)、ときには作品のバランスを崩すような大仕掛けこそがアンタの持ち味やったんちゃうんかい! っていう。そういった方向での達成は、次の御手洗もの(おそらく「エンゼル・フライト」)に期待することにしましょうか。
 
最後に。ご質問いただいた『Yの悲劇』初読時の感想ですが……いま思い返してみると、出会ったのは『占星術』の前でしたが、“読む本すべてがおもしろい”時期はとうに過ぎていたように思えます。で、たしかにようでけた話やなぁとは思ったんですが、トリックの凄さで語られる作品とはちょっとちがう気がしまして。心の中の分類棚でいうと、あまり頻繁に出し入れする棚には収まらなかった。『Yの悲劇』のいちばん特徴的なことを一言でいうと、“子供が犯人”ってことやと思うんですが、肝は大人の立案した犯罪計画を子供が実行することよって生じた齟齬(謎)にあると感じていたのです。繰り返しになりますが、それと同種のおもしろさを『魔神』も抱えてたのにそれと気づかずに読んでしまったという……この流れが『魔神』を気に入った理由ですね。……やっぱイレギュラーやな(笑)。
 
さて島田さん、次はどんな作品で私たちを楽しませ(悩ませ)てくれるのか。多大な期待を胸に待ちたいと思います!
 
NOBODY/now reading book is 「最後の記憶」by綾辻行人
 
 
 
●最終便 腐れ縁
【MAQ→NOBODY】(2002.10.26)
 
NOBODYさん
 
こんにちは、MAQです。今回の往復書簡を“ぐぶらん”に採用することにご賛成いただき、本当にありがとうございました。とはいえ、自分から言い出したくせになかなか編集作業に手が付かず、うかうかするうちにすっかり秋も深まってしまったようです。ようやく時間ができたのであらためて読み返してみると、いやはや。ぼくってばずいぶん偉そうなコトを書いてますね。だいたいその後の本格ミステリ・マスターズの刊行された作品を見てみると、同叢書にまつわる憶測はてんで的外れだったようですし。このぶんでは『魔神の遊戯』に関わる考察も怪しいものかもしれません。ぐぶらん化したら、ぼくなぞ思いきり恥をかくことになりそうです。
 
しかしまあ。ここはやっぱり、それはそれ・これはこれの精神で。妄説怪説もこれはこれで面白いから、ま、いっか。だいたい筋金入りの怠け者である当方をして、ここまでなんじゃかじゃ論じる気にさせるミステリ作家はやはり島田さんしかいませんし、島田さんとその作品が“正面から論じられる”ケースが少ない状況にも変わりはありません。ささやかながらそんな状況に一石を投じるきっかけにでもなれれば、もって瞑すべし。むろん、混迷を極める本格ミステリ界にあって、いまもなお氏の作品を論じること自体が最高に楽しい娯楽であることもわかってほしいし……ということで。“巻き込まれる”NOBODYさんには申し訳ありませんが、ここはひとつ年季の入った島田ファン同士の腐れ縁と、悪しからずご観念いただけますよう(笑)。
 
そうそう。某情報筋から教わった『魔神の遊戯』のもう1人の主人公のモデル(と思しき)“記憶の画家”フランコ・マグナーニのサイトを、ご紹介しておきます。参考になれば幸いです。
 
http://www.exploratorium.edu/memory/magnani/menu.html
 
ではでは。次なる島田作品の登場の時に、また!
 
MAQ/now reading book is 「ふたりのシンデレラ」by鯨統一郎
  
 

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