GooBoo Special
 
本格“で”書くということ
 
〜本格ミステリとしての「オイディプス症候群」について〜
 
「オイディプス症候群」 笠井 潔  光文社 2002.3刊
  
以下のテキストは、2002年の5月にトップページの【今日の漫文】で約10日間にわたり掲載した、漫文『本格で書くということ』をベースに全面的な改稿を施したものです。GooBoo化というのも考えましたが、あらためて立場を替えるというのもなんだか不合理ですので、今回はMAQの独りGooBoo、というかBooBooです。まーたまには1人もよいでしょう。なお、ミステリ的な意味でのネタバレはありません。

『オイディプス症候群』は、ごぞんじ矢吹駆シリーズの第5作にあたる作品です。カケルシリーズといえば、やはり難解かつ長大な哲学論議の印象が強いのですが、一方では古典的といいたくなるくらいオーソドックスな本格ミステリとしての結構と、高いクオリティを備えた作品群。とりあえず哲学談義が苦手な当方のような情けない読み手にとっても、なんとか苦痛に堪えて読み通せる程度には“本格ミステリとしての魅力”を備えています。まあそれでもぼくにとっては、かなり苦手な部類であることに変わりはないのですが、ともあれ。そんな最新作は、10年余も待たされた作者にとってのマスターピース的大作。作者の斯界における活躍ぶりからの連想もあって、ぼくの期待は刊行前からひじょうに大きなものがありました。で……その期待が大きすぎたのだといわれれば、たしかにその通り。勝手に期待して勝手に自爆しただけともいえるわけですが、それはむしろ“大きすぎた”というより、“まるきり見当違いの”期待だった。そんな思いがいまはあります。すなわちこの作品は本格“で”書かれたものであっても、ぼくの期待した“そうあってほしかった本格ミステリ”では、けっしてなかったのです。
本格ミステリとしての『オイディプス症候群』の意匠は、クリスティの『そして誰もいなくなった』をモチーフとした“嵐の孤島”での連続殺人を中心にギリシア神話の“見立て”を絡め、そこへ牛頭の怪人、密室、死体消失といったガジェットが無数に配置された、本格ミステリの趣向としてはきわめて古典的、かつゴージャスなものとなっています。むろん個人的にもとてもとても好きな世界です。しかもこの作者さんはこうした趣向やガジェットそれ自体に淫するタイプではなく、むしろそれを使うことの意義目的に関してひじょうに自覚的な方。まして前述の通り、作者は近年、斯界における一方の理論的指導者風位置づけにあるのですから、そんな方がそのマスターピース的大作において“あえて使った”以上、そこにはきっと本格としての何かがありそう……いや、きっとある。なければならない。そんな風にぼくは思ったのです。
けれども残念なことに、これらの華々しい本格ミステリ趣向に彩られた仕掛やトリックは、結果としていずれも驚くほど陳腐かつ空虚なものでしかありませんでした。本格としての中核をなす“孤島”や“見立て”の解釈/謎解きにせよ、哲学風に味付けされた回りくどく解りづらい説明を“本格ミステリの論法にしたがって還元”すれば、どこといって特色の無い、きわめて当たり前の、びっくりするくらい凡々たる仕掛けであり謎解きに過ぎなかったのです。つまり分厚く表面を覆いつくした哲学的意匠を剥ぎ取って、これを本格ミステリ的に解体してしまえば、フーダニット的にもハウダニット的にもホワイダニット的にも、本格ミステリとしてさしたる取り柄の無い凡作。それが、ぼくの“本格ミステリとして”の『オイディプス症候群』の評価だったのです。

『オイディプス症候群』における本格ミステリとしての読み所は、ボリューム的にも構造的にもほぼそのすべてが謎解きロジックのパートに集約されています。実際、“孤島”や“見立”の解釈、仮説、検証、取捨選択、および犯行における細かな矛盾から導き出される犯人特定のロジックは、クイーン作品以上に詳細を極め、質量ともに圧倒的ともいえるボリュームといえるでしょう。けれど、にもかかわらず個々のロジックの力点/着眼ポイントや解釈の仕方は、いずれも甚だ凡庸でしばしばこじつけ臭く、無駄に緻密で、息を飲むような閃き・精緻なロジックの美しさなどはほとんど感じられません。結果、ここから導かれる真犯人像からも、はたまた真相からも、サプライズのごときものはついに最後まで生み出されません。……つまり、“非常な力を注いで書かれている”ことがありありと伝わってくるにもかかわらず、これは本格ミステリの謎解きとしては“どこまでいっても陳腐で凡庸”でしかないのです。不可解なことです。本格ミステリ書きとして、もはや大家というべき作者が“非常な力を注いでいる”にもかかわらず、なぜここまで陳腐かつ凡庸なのか。いや、もしかしてそれは、作者の確信犯的犯行だったのではないか。
たとえばこの“謎解きパート”における特徴は、作者お得意の哲学談義とダイレクトに重ね合わされている点にあります。すなわち名探偵の謎解きトークには哲学用語が多用され、解説引用がその都度長々と続き、あげく全ての謎や手がかりはいわば“哲学的問題として読み解かれ、分析され、解明されていく”のです。むろん、笠井作品に限らず、本格ミステリにおいては“演出として”、つまり名探偵の“らしさ”を強調しその推論にある種の説得力を与えるための特殊効果として、哲学風の用語や論法を用いることはありえます。しかしその場合もそれはあくまで演出にすぎず、使用される範囲もせいぜい彩り程度に留まっていることがほとんどです。そしてこうした例外を除けば、本格における謎解きはあくまで哲学ならぬ本格ミステリ専用のタームや論法を用いて行われるのが一般的です。これは単に伝統云々というよりも、“その方が合理的”だから。“本格を読む”という前提においては、本格ミステリならではの用語や論法が“この世界の共通原語”としての役割を果たしており、“そこ”にいる読者にとってはそれがもっとも伝わりやすく、作者にとっても明快に語れる“効果的な用語”であり用法なのです。たぶん哲学の議論なら哲学用語を使うのが(想像ですが)早道なのと同じことですね。ところが本作では本格ミステリ用語が哲学用語に置き換えられるばかりでなく、前述の通り“本格ミステリとしての事件の謎解き自体”が哲学的課題とすり替えられ、哲学のスタンスと手法でもって論議されていきます。結果、この哲学的謎解きは、ほとんどの場合、単に無駄に緻密なだけの退屈きわまりない長広舌と読めてしまうのです。
そもそも本格ミステリの謎解きにおける仮説・検証の作業は、単に精密にやればよいというものではありません。なぜなら謎解きロジックが読者にとって面白く感じられるのは、作者がその展開に“本格ミステリとして入念なレトリックを駆使した演出”を行っているから、すなわち“(本格として)面白く読めるように、本格ミステリ的センスに基づいて誇張したり省略したり飛躍したり”しているからです。ところが作者は、まさに哲学論議的(<憶測)な執拗さと厳密さでいたずらに言説を重ねていくだけで、そこには本格ミステリならではの演出・加工への意志というものが決定的に欠けています。何故、作者はこんな迂遠かつ不合理な手法を採用したのか。しなければならなかったのか。

『オイディプス症候群』において、登場人物たちが交す議論は概ね以下のようなパターンに分類することができます。すなわち−−
(1)“孤島”に関わる解釈論議
(2)“見立て”に関わる解釈論議
(3)その他の個々の“事件の現象的な矛盾”に関わる仮説検証を中心とした論議
(4)事件の背景にかかわる各種の事項に関わる議論
(5)前記1〜4から派生的に導かれる哲学論議
(6)前記1〜5から導かれる百科全書的蘊蓄の開陳
このうち本格ミステリ的な謎解きに直接関わってくるのは(1)〜(4)といっていいでしょう。謎解きロジックとしての構造は、ホワイダニット的な謎解きにあたる(1)(2)で事件全体の構図を把握するための視点を導き出し、それに基づいて(3)を行うことで中核となる謎が解かれ、真犯人が決定される、というものです。この謎解きロジックの基本的な流れは本格ミステリ的にはごく一般的なパターンであり、内容的にも哲学風の回りくどい・解りづらい説明を本格ミステリの論法に還元してしまえば、前述の通りどこといって特色の無い凡々たるロジックです。あからさまないいかたをすれば、“なんら新味の無い謎解きを大層な哲学的言辞でことさら回りくどく述べているだけ”とさえいえる。もちろん前述の通り、名探偵が比喩や哲学的な言い回しを使って読者を煙に巻くのはミステリ的にも常套手段の演出法ですが、作者の手つきはまるでその“哲学的な考察・蘊蓄の方が、事件の謎解きよりも大切”であるかのようで、もはや明らかに演出の域を超えています。
謎解きに対する作者のこのような姿勢/スタンスは、他の部分にも共通しています。たとえば(1)(2)は実はそのまま一種の本格ミステリ論を形成しているのですが、これもまた“現代本格ミステリの総括”(樋口さん/undergroundの指摘:必読)といえるほど統合的なミステリ論とは到底いえず、むしろ“孤島”という本格ミステリガジェットの方法論を哲学的に読み直し、哲学的に位置づけなおす、“本格要素→哲学要素”の一種のコンバート作業というべきものであるように感じられます。
このように検討していくと、作者が本作の“本格ミステリとしての最大の読み所として”いるこの謎解きロジックパートは、本格ミステリ要素を本格ミステリとして活かすことよりも、これを哲学的視点で強引に哲学方面へと読み替え、変換する、その手法自体こそが最大の狙いであるように思えてきます。採用されている本格ミステリ的要素/ガジェットについても同様です。それらがいずれもオリジナリティを欠いた凡庸なものばかりであるのは、本格ミステリとしての必要から選ばれたり創られたりしたものではなく、実はそれらが凡庸であり汎用性に富んでいて使い勝手がいい、つまり“哲学的に読み替える上で都合がいい”からこそ選ばれたものだった。そんなふうにさえ思えるのです。
だとすれば。すなわち、作者が“本作において目指したもの”は
1.(入口/アイキャッチとしての)本格ミステリ的意匠
2.(コンバータとしての)本格ミステリ要素の哲学的読み替え
3.(本当はこれが主題の)哲学論議/主張
だったということになります。だからこそその謎解きロジックが、本格としてのセンスのかけらも感じさせない凡庸な解釈を数珠繋ぎにつなげただけの、退屈きわまりない長話になり果てているのも当然だったといえるでしょう。だって作者はハナから本格ミステリのロジックなど書くつもりはなかったのですから。
無論、すべては憶測ですが、そう考えることによって、はじめてこの作品の本格ミステリとしての骨格の貧しさに納得がいくのも、また事実なのです。

本格ミステリが哲学に奉仕させられている。つまりぼくには、そんなふうに見えるのです。作者が語りたいのは、何よりもまず自身の哲学であり、本格ミステリなどというものはあくまでそれを盛るための器でしかないのだと、作品全体がそう断言しているように思えてならない。いうまでもなくこれは作者がミステリ作家として創作を開始した時からのコンセプトでしたが、それでも以前はその“器”への敬意と共に、本格ミステリとしての様々な工夫が盛込まれ、一編の本格ミステリとしても読むに足る高度な達成を実現していたはずです。
けれどこの『オイディプス症候群』において、作者はそれまでのその姿勢をさらに先鋭化し、器たる本格に対して主たる哲学への徹底した奉仕と隷属を強いています。そのため本格ミステリ的な要素のほとんどは決定的に矮小化され、陳腐化され、もともとたいしてありもしなかった面白みや、生まれるべきであったサプライズも“あらかじめ残らず奪い尽くされて”しまっているのです。いうなればこれは“哲学に蹂躙された”本格ミステリ。その無残な残骸にほかなりません。
本格“を”書くのでなく、本格“で”書く。一部で流行しているこの手の方法論を、ぼくは一概に否定するつもりはありません。しかし、それは“本格のようだけど何か違うもの”を書くことであって、“本格そのもの”を書くのとはまったく別のことです。どちらが偉いとか偉くないとかそういうことではなく、ともかくその2つは根本的に違うのです。なぜなら本格ミステリという“器”はじつはひどく小さくて、何をするにも融通の利きにくい・使い勝手の悪い容れ物だから。それはたぶんSFよりもホラーよりも純文学よりも小さく……あまりにも小さいので、本格以外のものは容れられないほどなのです。無理に他のものを容れようとすると、たちまちあふれて全体が“まるきり別のもの”になってしまう。そんな器なのです。
むろん“まるきり別のもの”なりに美しかったり楽しかったりする場合もあります。しかし今回、作者はそこにあまりにも異質なものを、しかもあまりにも強引に、そして大量に注ぎ込みすぎました。しかも器と似せた色と形に加工するというあざとい手法を使ってまでして。……だからこそ“それ”は器を大きく溢れて周囲を水浸しにしたあげく、容れ物自体をまったく別の何かに変えてしまったのです。本格ミステリにとてもよく似た、しかし全く違うなにか。注ぎ込まれた内容の価値とはかかわりなく、似ているからこそひどく醜いとしかいいようのない、なにものかに。
 

(2003.5.14 脱稿。同15日微修正)
 
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