ヒチコックの公式
 
昔、ある人の質問に答えて、
アルフレッド・ヒチコックが恐怖映画についてこんなことを語ったそうです。
(うろ覚えなので細部の表現は違うかもしれませんが、だいたいこんな感じでした)
 
「恐怖映画で大切なものは、サスペンス、スリル、ショックだ。
それがどういうものかというと、たとえば・・・
君はある理由で、ある列車にどうしても乗らなければならない。
車を飛ばして駅に急ぐが、発車時間は刻々と迫り、焦燥がつのる。
間に合うのか、間に合わないのか。……これがサスペンス。
発車のベルが鳴り響く中、駅に飛び込んだ君は走りに走る。
プラットフォームに出ると、今しも列車は走り始めたところ。
君はフォームを走る。
そして、フォームの端からジャンプいちばん!列車の最後尾の把手に飛びつく。
伸ばした指先が把手をかすめ……これがスリル。
無事に列車に乗り込んだ君は客室に入り、やれやれとばかりに腰を下ろす。
その瞬間、君はそれが自分の乗るべき列車ではなかったことに気づく……これがショック」
 
なるほどなあ、さすがに巧いことをいう。
なんだかヒッチ作品の一場面として、瞼に映像が浮かんできそうな挿話ですよね。
ともあれ、この3つをバランスよく配置することによって彼の恐怖映画は作られていたわけで、
いうなれば「ヒッチの公式」というところでしょうか。
では、この「ヒッチの公式」をもう少し突っ込んで考えます。
 
まず、ここでいう「サスペンス」を高めるには何が重要か。
最初に思いつくのは、観客に主人公のおかれた状態/感情を共有させ、
感情移入させる必要があるということです。
大慌てでクルマを走らせるシーンはだれでも撮れます。
大切なのはそのシーンを見た観客に、「急げ急げ」という気持ちを起こさせること。
つまりシチュエーションへの観客の理解と共有が大切なのですね。
ヒッチの挿話を例にとれば、なぜ彼はその列車に乗らねばならないのか、
という部分を観客に納得させ、共有させることができれば、
おのずと主人公へ観客の感情移入も強くなる。
結果、サスペンスも高まるわけで。
だとすれば、ここでいちばん大切なのは脚本ということになりましょうか。
 
……なんだか当たり前のことをクドクド書いてる気もしますが……
 
これに比べればスリル作りは演出次第という気がします。
ジャンプして取っ手に飛びつくという一連のアクションを、どう見せるか。
キャメラワーク、カット割り、アクションそのもののアイディア……職人技の見せ所というところでしょう。
そして、ショックですが……さて、これが難しい。
いえいえ。視覚的にショッキングなシーンを作るだけなら、
たぶんそれほど難しくないんですよ。たぶんね。
実際この頃では、不気味なもの・恐ろしいもの・気色悪いものを
いきなり観客の目の前に突きだす、というまことに幼稚なやり方で
これを作り出しているケースも多いですし、
それどころかその繰り返しだけで一丁上がり!という安直なホラー映画も少なくありません。
けれど、ヒッチが言うショックとはそういうものとは違うはずです。
 
たとえば「サイコ」。
ノーマンの母親が座る揺り椅子が、きしみながら振り返った瞬間のショック。
あのシーンがショッキングなのは、振り向いた母親の顔が怖いからではありません。
その瞬間にそれまで観客が築いていた犯人像が崩れ落ち、
より恐ろしい「真相」が見えてくるからです。
それも、観客の目の前にでなく、心の中に。
つまりそれは映像そのもののショックではなく、
映像の積み重ねが引き起こす心理的なショックなのですね。
僕が巧いなあと思うのは、この崩壊ー逆転ー真相という一連の流れを、
その1カットで一瞬にして実現してしまう手際の鮮やかさです。
 
つまり、それまで観客がひたすら信じ込んでいた「真犯人」の絵柄は、
その決め手であるはずだった「母親の正体」という最後のピースの出現によって、
逆に「全く異なる絵」を完成させてしまうわけです。
大胆な着想に基づく巧みなミスディレクションと、無数の伏線の使い分け。
それでいて全体の構図のシンプルなことといったら!
まさに優れた脚本と卓越した演出力が、この比類ない「ショック」を作り上げているのですね。
 
映像的ギミックに頼りきった、こけおどしの積み重ねみたいなサスペンス映画にあきたりなくなったら、
どうぞ一度お試しください。
サスペンスも、スリルも、そしてもちろんショックも。
とびきり上等なそれが、たっぷり用意されていますよ。
 
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