スクリーンいっぱいに光にみちた海が広がり、繰り返し波が砕けています。
そしてあとは、ただ潮騒の響きが。
痛切きわまりない、ラストシーンです。
客席は寂として、物音一つしません。
その時。
どこからか「わっかんないよー」という声が聞こえました。
押さえた、小さな声でしたが、その声は確かに「わからない」と言ったのです。
僕は少しばかり愕然としました。
上映されていた作品は「HANA-BI」。
もちろん、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した話題の作品です。
むろん北野作品といえば、説明ショットをとことん切り捨てていくのが基本的なスタイル。
今回はさらにクロス・カッティングの技法を使ったりして重層的な構造を作り上げてはいますが、
それによってメッセージはよりクリアになり、ストーリィにもいっそうメリハリがつきました。
エンタテイメントとしても完成度が高く、バランスがとれた作品だと思うのです。
ところが、ここに「わからない」という方がいらっしゃる。
「つまらない」ならまだしも、彼女は「わからない」というのです。
ブニュエルでもあるまいに。
ひょっとして貴方は……
わからないのではなく、わかろうとしていないのではないか。
ただ漫然と、誰かが何かを与えてくれるのを待っていたのではないか。
鎖につながれたイヌのように。
(こんなこといまさら書くのも馬鹿みたいですが)
世の中にはただ漫然と映像に身を委ねているだけでは、
楽しめない/理解できない映画(いえ、小説でも音楽でも同じでしょうが)があります。
観客側にもある種の努力を要求する映画といいましょうか。
要求されているものとは、集中力とイマジネーション。
製作者があえてスクリーンに“描かなかったこと”を、察するためのちからです。
そうした作品にあっては、
その“理解しよう”という観客自身の努力まで含めて、面白さの一部なのです。
いわば観客がそれぞれの視点でその映画に“参加”していくわけですね。
僕はなにも、それが上等だとか芸術だとか、そういうことをいうつもりはありません。
(単に製作者の怠慢や能力不足で、観客が物語を補完しなければならない
お粗末な作品も無数にあることですしね。)
ただ、いってみれば全てをスクリーンで説明し尽くしてしまう作品には、
それ以上に観客側がイマジネーションを広げる余地がありません。
フルコースのセットメニューみたいなもので、
観客は与えられるモノを黙って受け取り味わうだけ。
映像は一方的に消費されるばかりです。
もちろん、それが悪いとはいいません。
僕自身そういう映画が大好きですし、
1時間半なら1時間半、観客をたっぷり楽しませるのは、
それだけでとても尊いことであるはずです。
しかし、北野作品の多くがそうであるように、
“観客に楽しむ努力を求める映画”(その出来のいいもの、といっておきましょうか)は、
劇場から出た後も、観客の心に何がしかの爪痕を残してくれる気がします。
大げさにいえば、そこから観客はより広い世界へと
イマジネーションを広げていくことさえできる。
もちろん、いつもそう巧くいくとは限りませんが、
幸運にもそんな作品に出会えた時の喜びは、たとえようもない。
何も畏まる必要はありません。
ただいつもよりほんの少しだけスクリーンに集中し、イマジネーションを羽ばたかせる。
それはたぶん、努力というほどのものではありませんね。
ほんの一歩だけ、一方的な受け身という姿勢から踏み出せばいいのです。
しかし、それすら面倒、とおっしゃるなら……
たいへん残念ですが、僕はあなたに劇場に来てほしくない。
誤解しないでくださいね。
僕は「わからない」貴方が嫌いなのではなく、
わかろうとしない貴方の「怠惰と甘え」が許せないのです。
……なぁんていっても、どうやら意味がなさそうですね。
ああもうなんだか面倒になってきました。
いいから、おウチでトレンディドラマでも見てらっしゃい。
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