ドン・キホーテのように
 
走る、跳ぶ、落ちる、転がる、殴る、蹴る。
ジャッキー・チェンという俳優は、世界1運動量が多いスターではないでしょうか。
柔軟で、敏捷で、繊細で、そしてまたダイナミックで。
その動きの鮮やかさには、観ているだけで溜め息が出てくるほどです。
その一方で、たいていの場合、ソフィスティケーションという点で彼の映画はほとんどお粗末といってもいい。
俳優の顔を観ただけで善玉悪玉がわかってしまうような明快きわまりない設定といい、
幼稚といってもいいストーリィといい。つねに信じられないくらい単純なお話です。
彼の映画に字幕は必要ありません。
小学生の子供でも見ていれば理解できるし、十二分に楽しむこともできるはず。
事実、ジャッキーの映画で手を叩いて大喜びしているのは、誰よりもまず子供たちなのです。
 
ジャッキーの映画はジャッキーのアクションそのものを楽しむための映画なのです。
脚本も、演出も、セリフも、美術も、
彼の奇跡的としか言いようがないアクションに観客のエモーションを結びつけ、際立たせるために奉仕している。
まさにジャッキー映画では、「アクションこそ全て」なのです。
ここには、映画というメディアが本来持っていたはずの、ある種の原初的な歓びが存在しています。
試みに和英辞典で「映画」という言葉を引いてみてください。
movieと並んでmotion pictureと記されてはいませんか?
motion picture、すなわち「動く絵」。
つまり動くこと、アクションが映画そのものだったのです。
 
たとえばその昔、無声映画の時代。バスター・キートンやチャップリンといった天才たちが、
セリフもなくストーリィもあってなきがごときスクリーン上で自ら軽業めいたスタントを演じ、
肉体とそのアクションでだけで無数の観客たちの喝采を浴びていたように。
アクションこそが映画の歓びそのものなのです。
その意味でジャッキーは、キートンやチャップリンの血を受け継ぎ、
それを愚直に守り続ける「映画の申し子」であり、
そんな彼が作る映画が映画としての原初的な歓びにあふれているからこそ、
まず誰よりも子供たちがこれを楽しんでいるのです。
 
とは、いえ。
時代は確かに変わりました。
映画の持つ表現力はいまや信じられないくらい高度化し複雑化し多様化し……
ジャッキーのように「こだわり続ける」ことに、いまやさほど意味があるようには思えません。
早い話、SFXを使えば無名のスタントの肉体にスター俳優の顔をすげ替えることなど簡単
(ご存知ですか?「タイタニック」のレオ君)なのですから。
ジャッキーに1度もスタントをさせずに、ジャッキー映画を作り上げることも可能です。
だとしたら、それをやらない彼は、やはり時代錯誤のアナログ野郎なのでしょうか。
いつまでたっても泥臭く、汗臭く、垢抜けない、昔ながらアクション映画を作り続ける彼は、
幾度となく重傷を負いながら、なおも危険きわまりないスタントに挑みつづける彼は、
意味のない勝負を挑み続けるドン・キホーテなのでしょうか。
 
「ナイスガイ」を上映していた劇場は、哀しくなるくらいガラガラでした。
授業をさぼってきたとおぼしき高校生が数人、大騒ぎしているくらいで。
その貸し切り状態の客席で、けれど僕はたしかに目撃した、と思うのです。
顔を真っ赤にしたジャッキーのアクションが、ハリウッドの超大作以上の感動を呼び起こした瞬間を。
たしかに観たのです。
肉体とそのアクションは、どんな名優の名セリフよりも、どれほど最新のSFXよりも、
時にはるかに雄弁になりうる。
その時、ジャッキーは証明してくれたのです。
 
もちろん、彼は救いようがない馬鹿です。
そしてまた、彼の映画も信じられないくらい時代遅れです。
そのことに間違いはありません。
でも、だからこそ僕は、
この不世出の映画バカを心の底から尊敬し、愛しているのです。
 
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