乱暴なのは承知の上で、映画作家を大きく3つに分類してみます。
もちろん、これはあくまでぼくの私見というか、思いつきに過ぎませんから、
それほど真剣に受け取る必要はありません。
3つというのは、「物語る人」、「描く人」、そして「見せる人」の3種類。
というわけで、この3つがどんなものかというと……。
たとえば、「物語る」人。
彼らにとっては、なによりまず語られるべき物語がそこにあります。
そして、彼らはそれを洗練されたテクニックで流麗に物語ることに心血を注ぎます。
そう、ストーリィテラーとしての映像作家とでもいいましょうか。
ビリー・ワイルダーやジョン・フォードなど、
古き良きハリウッドの名匠たちのほとんどは、この「物語る人」だったと思います。
一方、たとえばタランティーノ。彼などは典型的な「描く」作家だと思います。
彼らは人間を、キャラクターを描きます。それこそそれがすべてというくらい丹念に。
仮にそこに物語が生まれるとしても、それは、
そのキャラクターがぶつかり合い、響きあう中から生まれてくるものだと考えるわけです。
だから、念入りにキャラクターを造形してしまった後は、
シナリオなんていらない!と考えてしまうほどに……。
フランスの映画作家にはこの手の人が多いような気がします。
そう、ベッソンなんかもここに入りそう。
ついでにいえば、この「描く」対象が人間でなく「事件」や「真実」ということになると、
オリバー・ストーンもここでしょう。
そしてまた、見せる人。
このタイプの映像作家は、なによりまず「派手な・新鮮な・大掛かりな・凝りに凝った」映像を
見せることこそ、映画だと考えているフシがある。
だから、物語を物語ることにも人間を描くことにも、興味というほどのものはありません。
ちょっと異論が出そうですが、「タイタニック」のキャメロンなぞはこのタイプではないかと思います。
また、まったく作風は違いますが、グリーナウェイなんかもここに入るでしょう。
そういえば、一見「語る人」のような気もするデ・パルマも、実はこちらでは?
あの映像テクニックへの執拗なこだわりぶりは、かなりアヤシイと思います。
じゃあ、マクティアナンは?「見せる人」のようで実は「物語る人」。
スピルバーグは「描きたい」けど、結局「見せてしまう」人というところでしょうか。
もちろん、きっぱり分けられるものではないのは、当然なのですけれども。
ところで、では、侯孝賢と北野武はどこに分類すべきなのでしょうか。
2人ともぼくが大好きな映画監督なのですが、どこに当てはめてもなんとなくしっくりしないのです。
そもそも、彼らはけっして作り物の物語を物語ることはしません。
かといって、こと細かに人間を描くわけでもないし、
斬新な映像とやらを見せることに情熱を傾けているわけでもない。
しかも、一方ではこの二人の資質は、どこか共通するものであるような気もするのです。
無造作に拳銃が火を吹き、そこら中に死体が転がるような、濃厚な死の匂いをまとった北野武の映画と。
歴史と人間、国家と人間の対峙という構図の中、人間とその家族へのいとおしさを歌う候孝賢の映画と。
一見、正反対の指向を持つこの2人の監督に共通点なんてありそうもないのですけれども、
なぜか似たような肌触りを感じるのです。
ぼくがこの2人の映画に共通して感じるのは、ある種の“静けさ-静謐”のようなものです。
その静謐さの奥には、なにか非常に強烈な感情のうねりのようなものを感じるのですが、
それが銀幕の上に明確なメッセージとして現れることはほとんどありません。
では、この静謐さはどこから来るのか。
それは対象への距離感なのではないか、という気がします。
この場合、距離感とは、アップとかロングなどといった撮影技法のことではありません。
いうなれば、作り手の対象に対する心理的な距離のようなもの。
つまり、彼らはつねに対象から一歩身を引き、
そこに微妙な距離感を保ったまま、無表情にその対象を「見つめ」続けているように思えるのです。
だからこそ、北野武がどれほどハードなバイオレンスシーンを撮ろうとも、
どこかひぃやりするような冷たさと静けさが漂う。
侯孝賢が歴史の激しいうねりの中で行き場を失った家族の悲劇を撮ろうとも、
これ見よがしの声高な糾弾の声などは聞こえてこない。
そこにはいつも、重い静謐さだけがあるのです。
物語るでなく、描くでなく、見せるでもなく……
そう、この2人は「見つめる」人なのです。
人を見つめる、事件を見つめる、世界を見つめる、歴史を見つめる。
生を見つめる。死を見つめる。
それがどれほど悲惨なモノであっても、彼らはけっして目をそらさず、ただひたすらに見つめます。
いうなれば、そこにあるその対象を見つめる「視線」が、そのまま彼らの映画なのです。
ともあれ。
映画監督にとって、ただ見つめつづけるということは、たいへん辛いことのように思えます。
それは自分を限りなく透明な存在に近づけていこうとする試み。
クリエイターにとっては、これ以上ないくらいストイックな在り方です。
……そうまでして見つめることで、彼らはそこに何を見いだそうとしているのでしょうか。
それが知りたくて、ぼくたちもまたひたすら見つめ続けるのです。
静謐さに満ちたスクリーンの奥の、叫びと囁きを。
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