島田荘司さんへのラブレター

   
 て、そう遠くない昔。
島田荘司は本格ミステリの唯一無二の輝ける希望の星であり、最強のカリスマでした。
本格ミステリというジャンルがどれほど不振をきわめていても、
ただ一人、彼さえいれば希望を失わずにいられる。そんな時代がたしかにありました。
ところが、近年。
皆さんもご存知の通り、島田作品、および島田さん個人は激しいパッシングにさらされています。
ことに一連の本格ミステリ論争での言動とそれ以降の作品群については、
叩かれっぱなし、揶揄されっぱなしという印象です。
僕自身、ここ数年の新作については不満ばかり言ったり書いたりしてましたが、
今になって振り返ってみると、さて、どうだろうか。
本当にそんなにできの悪い作品群だったのだろうか。
 
は、今になって思うのです。
言われるほど悪くなかったんじゃないかなって。
これは以前からぼんやり考えていたことですが、
近年の島田作品群(水晶、眩暈、アトポス、龍臥亭あたりでしょうか)は、
いわばその時々の島田理論を実作で示した、実験作的な側面があったように思えます。
むろんあくまで基本は本格ミステリではあるのですが、
その本格としての骨格の上を幻想小説的な要素や純文学的要素、社会派的要素、
あるいは近年氏がこだわり続ける日本人論等々の要素が分厚くおおっている。
茶木さんの「ミステリ・トンカツ理論」に照らせば、
コロモの厚いトンカツになっていたわけです。
 
に初期の島田作品はといえば、こちらはとびきり上等なお肉を使い、
小説/エンタテイメントとして最低限必要なモノ以外、一切余計な手を加えない、
きわめてバランスのいい、ピュアな「本格トンカツ」群でした。
実際、どれをとっても文字通り日本ミステリ史に残る傑作揃いでしたから、
これらを読んでファンになった人たちにとっては、
後期作の厚いコロモは邪魔なものでしかなかったわけで。
つまり、彼ら(僕も含めて)は、肉/コロモのバランスが気に入らなかった。
結局、初期作品への思い入れが強い人ほど、これらを鬱陶しく感じたのではないでしょうか。
 
あ、実際、後期作品における「コロモ」への氏の力の入れようは尋常じゃありませんから、
その分、「肉」/本格ミステリの骨格がいささか貧相になったのも否定できません。
できませんが、しかし。
……それはあくまで初期作品群の、驚異的なレベルに比べて、だと思うのです。
たとえばこれら後期の作品群を、
同時期に発表された新本格作家の「コロモの薄い」本格ミステリに比べてみても、
ごく公平にいって、それほど見劣りがするとは思えません。
いってみれば、これは贔屓の引き倒し。
期待値が大きすぎるがゆえの不満だったんですね。
他人はどうあれ、僕はそうだったのだなと思っています。
 
本的に、ミステリファン、ことに本格マニアというのは保守的ですから、
お気に入りの作家には「いつも通り」の作品を安定供給してほしい、と思ってしまう。
創作上の冒険なぞ望まないし、実験作は求めないわけです。
けれど、たぶん島田荘司という人は、
そのニーズに従順に応えて純・本格ミステリのみを書き続けるには、
あまりにも理想家でありすぎ、視界が広すぎ、使命感が強すぎ、才能がありすぎるのでしょう。
最近は、さすがにその方向性/スタイルに迷いが感じられますが、
結局のところ、どれほど叩かれても揶揄されても、彼は自分の信じた道を行くだろうし、
自身が書くべきだと思うモノしか書かないだろう、と思います。
  
ちろんそこから生まれる作品をどう評価するかは、読者の自由ですが、
僕自身は今でも、島田さんほど心の底からミステリ/本格ミステリを愛し、
その未来を真剣に案じている人はいない、と思っています。
だからこそ、その「論」の正しい正しくないは別として、
そんな彼の「姿勢」を叩いたり揶揄したりするべきではないと思うのです。
そんな資格は誰にもないんじゃないかなって。
そしてもちろん、あれほどまでに「本格」を愛する島田さんなら、
かならず帰ってきてくれるとも思うのです。
 
つの日か、またここへ。
僕たちが息を呑むような傑作を引っ提げて。
名探偵・御手洗潔と共に。
 

 
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