カテゴライズ・ジャンキー
 
lesson1大分類
 
本格ミステリと呼ばれるジャンルは、それ自体かなり特異なものだと思いますが、実際に「本格ミステリ」を名のる小説を見ていきますと、実は「本格」とひと括りにされている作品群も、大きく2つに分けられるんじゃないかな、という気がします。
1つはいわゆるパズラー。フェアプレイを重んじ、謎解きに必要な手がかりを読者に提供し、謎解きにおける、読者VS名探偵/作者の知恵比べを主眼としたタイプ。小説というよりパズルに近いゲーム性・遊戯性をもっているのが、このタイプですね。この手の作品では手がかりのフェアな提出と、謎解きのロジックのスキのなさがイノチ。精緻なロジックそのものの美しさ/精密さが読みどころですから、必ずしも大掛かりなトリックは必要ありません。
一方、手がかりのフェアな提出という点ではやや怪しいけれど、ともかく「派手な謎」と大仕掛けなトリック、そしてそれを「とにもかくにも」説明する「時に強引」だが「華麗」なロジックが売りというものもあります。というより、いわゆる「古典的本格ミステリ」として、いちばんにイメージされるのはこのタイプでしょうね。このタイプの作品は「謎」とそれを可能たらしめるための「トリック」がメインで。謎解きのロジックについては、論理的という点からいえば「納得できればOK」ていどでしょうか。
というわけで、この2つを太い幹として、それぞれから四方八方へ無数の小枝が伸びている……「本格ミステリの世界」に関してそんなイメージが思い浮かぶわけです。むろん、この2本の幹は対立しているわけではありませんから、時にはこの2本の幹が合わさったような、すなわちロジックとトリックを合せ持った「傑作」も生まれないわけではありません。が、それはやはり、きわめて希有な例というべきでしょう。
ともあれ、この2つの幹の根幹をなしているのは「ロジック」と「謎/トリック」です。そのどちらに重きを置くかによって、当該作品の「本格内ジャンル/位置づけ」が決まる。むろん「本格として」はどちらかがあればいいというものではなく、両方必要なのですが、どちらに重きを置くかでその作品の性質はがらりと変わってしまいます。さて、ここで少々、パズラーというものについてもう少し考えます。
 
lesson2 パズラー問答
 
都築道夫さんは昔、新奇な「トリック創出」の困難さを打開するための方策として、本格ミステリは「パズラー」的方向へ進まねばならない、と説かれました(「黄色い部屋はいかに改装されたか?」晶文社 1975年初版)。当時、これはきわめて合理的で当を得た提言/予言であるように思えたものでしたが、現実にはその後「パズラー」がたくさん書かれたという形跡はありません。たとえば、島田荘司さんや新本格派の登場による本格の復活についても、この「都築理論」とは性格を異にしたものだったように思えます。
都筑道夫さんのまことに当を得た(ように思える)予言/提言にも関らず、本格ミステリは「パズラー」方面へ発展していかなかったのです。……いや。そちら方向へ発展しなかった、と言い切るのは語弊がありますね。正確には「都筑氏の期待した方向とは微妙にズレていた」というべきでしょうか。パズラーは、いまや都筑氏の考えていたそれとは少々異なった方向にドリフトしながら、再生しつつあるのです。
たとえば、ロジックそのものを限りなく純化・抽象化させ、思弁的・形而上学的な世界に限りなく接近していく。そんな方向を選んだのが麻耶雄嵩さんでした。近年の山口雅也さんもこの方向でしょうね。本格ミステリの極北とでもいいましょうか……。そこにあるのは物理学や数学の数式の美しさにも似た、「机上の空論」に徹した、「可能性のロジック」の美しさです。その純粋さに敬意を表しつつも、パズラーとしてはやはり「異形」の存在といわざるをえません。まあ、麻耶さんについては、トリック等の扱いについて異論が出そうではありますが、とりあえずロジックに対する「姿勢」「スタンス」を見るかぎり、ぼくはそんな風に感じるのです。
そんな麻耶雄嵩さんとはまた違ったアプローチの仕方をしてらっしゃるのが西澤保彦さんです。この作家のアプローチの仕方はまた非常に極端というか。ロジックの寄って立つ「ルール」や「世界観」そのものに改変を加え、ロジックの展開の仕方に無数の新たなバリエーションを産みだしていく方向です。つまり小説としてのリアリティをあるていど犠牲にすることで、ロジックの遊戯性・ゲーム性を極端なまでに拡大し、増幅している。……結果としてある意味、非常にピュアなパズラーとなっています。これまたおよそ正統的とはいえませんが、このイノベーターの恐るべき馬力と大胆さには大きな可能性を感じないではいられません。
ともあれ、麻耶さんと西澤さんと、この2人の行き方は現代のパズラーに新しい可能性を開いたといえます。むろん「都筑理論」を受け継ぐ正統的なパズラーの書き手がまったくいないわけではありませんが(前にも述べた通り、有栖川さんは当代きっての正統派パズラーの書き手です。が、江神シリーズの新作の登場にはまだまだ時間がかかりそうな気配です)、元気が良いのはあきらかにこれら「非正統的な」書き手の方なのです。
……そう考えていくと、正統-異端などというカテゴライズは、早晩その意味を失ってしまうのかもしれませんね。
 
lesson3 ロジックの欺瞞
 
パズラーのようなタイプの小説は、それが純粋であれば純粋であるほど、パズルや数学の問題に近くなるように思えます。
事前に謎解きのために必要な手がかりが全て提出され、読者がそれをすべて抽出し論理を積み重ねることによって、唯一無二の真相に至ることができる。まあ、これが究極のフェアなパズラーってやつで、たしかにそう定義するとパズルや数学問題と変わるところはありません。ただし、実作でこのフェアプレイを実現できているケースは、実のところめったにありません。かなり精密に作られたパズラーであっても、一切矛盾のない・徹底的に論理的な謎解きを展開しているとはいえない場合がほとんどです。
たとえば当代もっとも緻密なパズラーの書き手である有栖川さんにしてからが、作中の謎解きロジックは必ずしも一から十まで厳密な論理の積み重ねとはいえません。そこには必ず飛躍があり、三段跳び論法が含まれています。裏返せばそれを「論理的」であるように思わせるのが、作者のテクニックで。ま、レトリックってやつですね。これがパズラーならぬ「謎/トリック派」となると、ホームズの推理を引くまでもなく、名探偵のロジックは一から十まで「天馬空を行く」が如き飛躍の積み重ねという場合も珍しくありません。しかし、だからといってこれらが全てアンフェアだとは感じないし、むしろその「論理の飛躍」そのものを、おおいに楽しめてしまう場合がほとんどです。
つまり。いうところの「本格ミステリ」の「名探偵の謎解き」というのは、「もっとも合理的な解決」などではなく、「もっとも合理的と(読者に思わせてくれる)解決」の仕方なのです。したがってこの場合の「フェア」というのは、「その」解決のための手がかりおよび「設定」が事前に読者に与えられていること、であるわけで。つまり、謎&解決だけ取り出してみれば、およそ合理的とは思えないものであっても、ひとたび当該作品の中に組み込んでみれば至極合理的に思える、そんなある種「不思議な」ロジックなのです。そういう意味では、ロジックだけを取り出してゲンミツなコトをいってみても仕方がない。というか、そもそもそれを言い出したら、作品を楽しめなくなってしまう場合が多いのです。
いってみればぼくらは「作者の掌の上で踊る孫悟空」なのです。それがこの世界を楽しむための「お約束」といいますか。したがって、お釈迦様/作者の掌を飛び出して、たとえば数学的物理学的(すなわち現実世界の)論理でもってそれをどうこうするのは、「野暮」な態度にほかなりません。
で、たぶんこの「お釈迦様の掌」に相当するもの……その作者固有の作品世界とでもいいましょうか……の有無が、数学の問題やパズルといったものと、本格ミステリとの違いなのではないでしょうか。
 
lesson4 メタ・ミステリの誘惑
 
「お釈迦様の掌で遊ぶ孫悟空」たるぼくたちには、じつはつねに一つの危険がつきまとっています。それは自分が「お釈迦様の掌で遊ぶ孫悟空」であることを「自覚」してしまうこと。つまり、作者の作品世界の一部となって「遊ぶ」のではなく、その外側に立って「お釈迦様の掌そのもの/世界そのもの」をパターン化し、読み解いてしまう、という危険です。
かみ砕いていえば、万巻のミステリを読みつくしたマニアが、その膨大な蓄積から、当該作家の方向性やトリックのパターンを読み取って、その作品の謎を解いてしまうこと。ま、なにも万巻の書物を読破せずとも、ある程度読んでいけば誰でもそうなるものではありますが、ミステリが本来「お釈迦様の掌で遊ぶ」ことを意図して作られたものであるとするならば、こうした読み方もやはり「野暮」というべきでしょう。少なくとも作者にとってはあまりウレシクナイ事態なのではないか、と思います。が、読む側にしてみれば、困ったことにこれがけっこう面白いわけで。
メタな視点で隠された「作者の意図」や作品世界の構図を読み解くというのは、「お釈迦様の掌で遊ぶ」のとは違った種類の喜びといがあるわけです。いうなれば「世界(そのもの)を解読」するヨロコビ。「研究者」や「批評家」の喜びですね。で、さらにややこしいコトに、この本格ミステリの世界ではそうした「年期のいったこすからい読者」に向けて書かれる場合もあるという点で。普通一般の小説では、あまりこういうことは行われないと思うのですが、ミステリの世界ではままあるんですね。……というより昨今はやや一つの流行になり、ジャンルとなりかけているような兆しさえ感じられる。すなわち昨今流行(?)のメタ・ミステリというやつです。
メタ・ミステリ。この言葉、最近よく耳にすることが多くなりましたね。意味、わかります? きちんと定義せよといわれたら、ぼくもあまり自信はないですが、……まあ、要するに「ミステリについて書かれたミステリ」ってことなんじゃないかなあ。
平たくいえば、作中で登場人物がミステリ(たいていは本格)にかんしてああじゃこうじゃ議論したり分析したりするというしろもの。
場合によっては作者自身を思わせるキャラクタまで登場したりします。もちろん事件も起こるのですが、その「事件」はいわば批評における「具体例/例題/引用」的な役割を与えられており、作中作等の入れ子構造もよく使われています。
ともあれ、メタミステリというのは、そんな様々なテクニックを使って、作品全体として「ミステリに対する批評」を行うことをめざしているわけです。具体例を上げれば、やはり「虚無への供物」がいちばんに思い浮かびますね。やはりこれは傑作というしかありません。
事程左様に、メタ・ミステリは人工性・遊戯性・ゲーム性を強く意識した「構造」をもっています。というかそもそもメタミステリを書こうなんて思う作家は、てんからリアルな作品世界を構築しようなどとは考えないんですね。しかし、だからといってこれは安直に書けるものではありません。
そもそもメタミステリの根幹には、一つの「論」として提供するにたる「批評」が存在しなければなりません。つまり、そこにはミステリ作家としてのきちんとした見識と分析力、批評眼等々が必要なわけです。その上でそれを小説作品、なかんずく本格ミステリとして読むにたる作品に構築し直さなければならない。核になる「見識」がいくら立派なものであっても、その「具体例」たるミステリ部分がお粗末なものであったら、てんで話になりませんからね。そうなれば肝心の「見識・批評」そのものにも、説得力がなくなってしまいます。
若いマニア出身の作家が、カタチや趣向だけマネしたようなメタミステリ的作品を喜々としてお書きになる気持ちはよくわかるのですが、それが往々にして箸にも棒にもかからぬ御粗末なシロモノになってしまうのは、したがって当然の結果なのだといえるでしょう。
 
lesson5 パロディは危険
 
メタミステリで「批評」を行うための有効な戦術の1つとして「パロディ」という手法があります。ジャンル、もしくは対象作品の「外側」にたって、「笑い」「おちょくり」を起点にしたアプローチによってこれを解体し、もって分析・批評していくという。小難しくいえばそんな手法です。裏返せば「パロディ」というのは、多かれ少なかれ、その対象作品もしくは対象ジャンルに対する「批評」が出発点になっているともいえるでしょう。
事実、メタ・ミステリの秀作の多くは、優れたパロディ・ミステリでもあります。たとえば「虚無」にせよ「ウロボロス」にせよ、大変優れた、本格ミステリのパロディという側面を持っていますね。すなわち、一見何やら軽薄なイメージがあるパロディという手法には、実はしっかりしたミステリ観と鋭い批評眼、そして高度な小説テクニックが必要不可欠なのです。
したがってこれらを欠いたパロディ(と称する作品)が、たいていの場合読むに堪えないものになってしまうのは、むしろ当然なんですね。ところがその語感の軽さからでしょうか、ややもすれば向こう見ずな作家によってこれが安直に使用されてしまう嫌いがないではないわけで。……まことにもって、おそるべきことだといわざるをえません。
単なる換骨奪胎や節操のない悪ふざけとパロディとは「別物」。いい悪いでなくまったく違うものなのです。メタミステリ同様に、チンピラ作家が気軽に手を出してどうにかできるジャンルではないのです。
 
lesson6 現代本格概論
 
島田氏と、それに続く新本格派は、「ぼくの分類」に従うならば、一部の希有な例外(有栖川さんなど)を除いて、パズラーというよりも「謎/トリック」重視派が中心だったように思えます。
すなわち、黄金時代の古典的本格、すなわち「謎/トリック」重視派の手法を踏まえ、現代的な感覚で作り直したもの。それが第一期の新本格というものだった。これは新本格作家の多くがマニア出身のファンライターであったという要因が大きいでしょう。
そのことは結果として、彼らの作品に「メタ」な視点を与えることになりました。作品そのものにはっきり現れているとは限りませんが、基本的に彼らの作品は「メタ」な視点、スタンスであったという気がするのです。というのは彼らは職業作家/プロというより(精神的に)アマチュアであり、「時代の趨勢」や「出版界のニーズ」といった商業的な視点を欠いたまま、「彼ら自身がいちばん読みたかったもの」をそのまま作品化し、それがたまたま成功を収めたのです。島田氏という強力無比なカリスマの存在は、むろん大きな影響がありましたが、結果として新本格派の成功は「狙ったもの」ではなかった。そこに「戦略」のようなものはなかったわけです。
純粋と言えば純粋。きわめて素直にナチュラルに「書き」、たまたま成功したわけです。
さて。ところが「謎/トリック」重視派的な作風を志向した彼らは、
かつて古典本格が辿った道をそのままなぞるようにして行き詰まってしまいます。これはまあ、歴史的必然というべきで、「戦略」が欠如したまま無自覚に進めば以前と同じ結果になるのは当然のこと。
まして、本格黄金時代に比して作家の層はきわめて薄いわけですから、黄金時代の本格派の作家達が数十年かかって衰えていった道を、わずか数年で走り抜けてしまったわけです。
仮に彼らが予め「戦略」を持っていたとしたら、この「行き詰り」は予見できたかもしれません。で、「予見」できたとしたら、前出の「都筑理論」に基づいてパズラー方向へシフトを移すという道もあったかもしれません。が、しかし、そのパズラーシフトが「商業的」にあるいは「戦略的」に正しいものであったかどうかは、これまた別の問題です。そもそも「都筑理論」には「商業的」なスタンスはないわけで。あれは本格が本格として進化していくための道筋を示すこと、を目的としているわけですから、仮にそれを実行したからといって、本格派が「商業的」に成功したかどうかはわからない。というよりおおいに疑問だ、というべきでしょう。
さて、面白いのはここからで。
かつての欧米の旧本格派はこの時点でほぼ完全に息の根を止められ、ハードボイルドなり冒険小説なり犯罪小説なりといった、ジャンル内別ジャンルのミステリへとシフトしていったのに対し、旧本格がたどった道をなぞるようにして、いったんは行き詰ったかに見えた日本の新本格は、しかし奇妙な変異を遂げながら生き残り、さらに勢いをましつつその裾野を拡大していきました。
このいわゆるポスト新本格と呼ばれるヒト達による変異の過程というのは、いうなれば「すでに行き詰ったはず」の本格をメタ的に解体し、そこに現代的な「異質な要素/スタンス」を注入することによって「本格」そのものの性質を変え、突然変異的に「新しい」本格ミステリを創出しようという試みであったように思えます。
それは「ファンライター」出身の作家ならではの、メタ的視点によってはじめて可能な、ジャンルとしての本格の「遺伝子レベル」での「変異」であり、旧本格がめざした「洗練」や「進化」「高度化」とは全く異なるアプローチでした。
何やらコムズカシゲないい方をしておりますが、要するに本格を本格として磨き上げていくのではなく、そこに従来ならありえなかったような別の要素・別の視点を注ぎ込むことによって、本格そのものを変えてしまおうという試みだったというコトですね。
この流れは、そこに「商業的な要請」という要因が加わることによって、いっそう加速しました。そらもーほとんど無秩序といいたくなるほど多様化し……お馴染みの「トンカツ理論」でいうならば、コロモの部分の工夫のみならずニクを、たとえばギューニクやトリニクにしてみたり、甚だしくはニク抜きのコロモのみだったり。
それでもコロモがついてればとりあえず「カツである!」と「彼ら」はいいたいようですが、う〜ん、それってたしかに見た目はカツですが、トンカツとはいえないでしょ?
コロモがついているというただ一点で「我は本格なり!」と主張するポスト新本格は、それでもたしかに本格の流れから生まれてきたものではあります。しかし、本格本来の遺伝子やスピリットは大抵の場合、原形をとどめないほど希釈化されているか、甚だしくは全く別のものと置き換えられてしまっているように思えるのです。もちろん一方では、トンカツ本来の遺伝子とその信奉者が失われてしまったわけではありません。たとえば近年の古典本格復活ブームやそのジーンを受け継ぐ、旧本格直系の作家というのも少数だけれども活躍してらっしゃいます。
……すなわち全体像として捉えてみれば、これはまさしく「カンブリア期の大爆発」でありまして。もはや正統とか直系とか異端とか、そういう議論がほとんど意味を持たないほどに、このジャンルは多様化を極めてしまったわけです。つまりジャンルとしての核になる部分が喪失したわけではなく、それもまた全体の一部として取り込まれて「核としての役割」を喪失し、全体としておそろしく多彩でありながら奇妙に均一、という奇妙な状態にあるわけです。これは同時に受け手である読者側の価値観の多様化ということも意味しており、結果としていわゆる「本格のマーケットたる読者層全体」から見ると、もはや「歴史的あるいは生物学的」な「本格の中心、中核、正統」といった議論はほとんど意味がなくなっています。極論すれば、読者一人一人にとっての「本格」だけが存在しているとさえいえる。そして、それらがキメラ状に混ぜあわされて無秩序に広がっている……。それが「現代本格ミステリ」の地勢図なのです。
いい悪いではありません。そういうものだ、と。
とはいえ、問題は「これから」です。この、どう考えても異常な状態はどのような形で収束していくのか。見当もつかない。と素直に本音を吐いてしまえば議論は終わりなのですが……。
一つ確実なのは、基本的に「読者」もしくは「世間」もしくは「市場」というものは、きわめて移り気で、飽きっぽく、アテにならないものであるということです。まずはそれが大前提。つまり諸行無常栄枯盛衰盛者必衰は世の習いというか。いまや我が世の春を謳う「本格」も、必ずや飽きられ捨てられる時がくる。これだけは間違いありません。が、同時に、だからといって本格が息の根を止められてしまうことはないだろうとも思うわけで。ジャンルとしてのマーケットが縮小されても、生き残るジャンル内ジャンルは必ずある。
で、それが何かといえば、それは今現在本格マーケットを支えている読者のうち、もっとも「移り気でなく」「頑固で」「けっして飽きない」ヒト達に支えられた部分。すなわち、幾多の風雪に耐えて今日まで生き抜いてきた、「ぼくがいうところのコア本格」である、と。ほかがどうあれこれだけは間違いない、ととりあえず断言したいわけです。まあ、これはあくまで願望を込めた予言、であるわけですが……。それとて、一定数の読者に支えられ続けることで生き残る、という消極的・結果論的な「勝ち方」しかありません。いわばまわりが勝手にコケていくなかで、結果として命脈を保つという、極めて心細い生き残り方です。まあ、「カンブリア」によって裾野が広がり、結果的に「コア本格の支持者」も増えているはずですから、以前のような「風前の灯」状態よりはマシなはずだと思うのですが。
もちろんもう一つ、別の可能性もあります。それは多様化を極めた本格世界の中に、新たな核が生まれるというものです。あらゆる可能性と遺伝子を取り込んだ、ハイブリッドな「新・新本格」とでもいいましょうか。
ともかく所詮、この世界も市場原理に基づいて動いているわけですから、多数の読者の「普遍的な支持」を獲得した作品・作家、ひいてはジャンルが「勝つ」のは当たり前で。この「もう一つの可能性」たる「新・新本格」とは、ではいかなるものであるか。あるべきか。さて、これは難しい。ぼくなんぞの想像を絶した世界のお話であります。ですがまあ、おそらくそれはコア本格のジーンを色濃く残しているものであるはずだ、と。これはまあ期待も込めてそういっておきましょう。そうでなければ、売り手にとっていちばん頼りになる読者である「コア本格支持者」の支持が得られませんから。
むろん逆に「それ」抜きで、まあったく別の、まあったく新しいジャンルとして誕生するちゅう可能性もあるのでしょうが、現時点ではちょっと想像しにくい。というか見当もつかないし、そんな議論をしたところでさほど意味があるとも思えません。そういうわけで、今回はこれにて打ち止め。あー疲れたッ。
 

 
HOME TOP MAIL BOARD