MDS自殺遺伝子からPMDSへ(ノーカット無修正版)
〜ゲーデル問題を巡る一妄説〜


【いいわけめいた前口上】
 
3週間弱にわたり『今日の漫文』で連載した『ゲーデル問題』のノーカット全文です。これは毎日毎日、その場の思いつきとイキオイで書いていたものなので、途方もなく冗長かつ論旨も乱れまくり。読み返す勇気もわきません。今回は読者様のご要望にお応えし原型のままでアップしますが、いずれあらためてきちんと手を入れ直すつもりです。したがいまして、お急ぎでない方はそのDirekutors cutをお待ちいただければ幸いです。またDirekutors cut完成次第、この原型ヴァージョンは破棄されます。
 
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ふ〜っかぁつ!というわけで久しぶりに本格ミステリ咄とまいりましょうか。そうですね、せっかくですから、とくべつゴッツいやつでいきましょう。……というわけで選んだのが、一般にクイーン後期的問題、ことにゲーデル問題と呼ばれる“名探偵の悩み”についてです。ご存知の通り、これは本格ミステリ界においては“禁断のテーマ”というべきもの。この問題にかかずらったばっかりに、スランプに陥ったり作風が変わってしまったり。早い話がドツボに嵌まってしまった作家さんが後をたちません(<嘘です。そんな真面目な方はクイーンさんと法月さんくらいでありましょう)。ともかく。どうあれこれが、マジメに考え詰めるとおよそロクデモナイコトになるのは確かだ、といわれている困ったちゃんな問題であり、むろんJunk Landの如きすちゃらかサイトにはテンから似合わぬ重たぁいテーマであるわけですが……そこはそれ。なんたってスチャラカサでは人後に落ちぬ当方が書くわけですから、高度なテツガクテキ議論なんてもんにはなるはずがない。なるかた具体的実践的な、さらに本格ミステリの技術的側面に絞ったアプローチになるでしょう。まー有り体に申せば、当方、先般読ませていただいた氷川さんの『最後から二番目の真実』と殊能さんの『黒い仏』でにわかにこのテエマに関する興味が再燃しただけの話。この際だからとことんひねくり回してやろうか、と、不埒にも思ってしまった次第です。
むろん当方につきましてはスランプその他のご心配は不要です。例によって当方は徹頭徹皮一から十まで、この問題をモテ遊ぶ以外なーんの目的もない、不真面目きわまるコンセプトなのですから、むろん答えが出なくたって少しも困りません。読者のみなさまもそこんとこをよおく心得て、くれぐれもシンケンに読んだりしないようにしてください。というわけで、前置きが長くなりました。まずは当該問題そのものを、ご紹介せねばなりますまい。そうですね、綾辻さんの対談集『セッション』から綾辻さんの言葉を引用しましょう。「探偵が観察者として事件に関わることによって、否応なく事件そのものが影響を受けて変容する。その時に探偵は、その世界の命題を証明する神たりうるのか否か」
ちょっと小難しい言い回しになっていますが、なに、大して難解なモンではありません。たとえば……1つの手がかりがあったとして。その手がかりは“本当に”手がかりと判断していいのか。モシカシテ名探偵の登場を予見した犯人が用意した“ニセの手がかり”なのではないか。……むろんンなことは“作品世界の外部にいる”作者が決めてしまえばよいのですが、その時点で作者がどう決めたかは“作品内部にいる”名探偵には判断できませんよね。ということは、名探偵と同じ条件下にある読者にも判断できない。“コレは本物・コレは偽物”とわかるように“手がかりの手がかり”を用意すればいいようなものの、じゃあ、その“手がかりの手がかり”はホンモノか、ということになったら、これはもう無限に循環する決定不能状態に陥ってしまう。すなわち、名探偵の存在を前提としたフーダニットパズラーが、読者に対してフェアであろうとすればするほど、それ自体大きな矛盾を抱えこんでしまうことになるわけです。これがいわゆる、“本格ミステリにおけるゲーデル問題”というやつです。
 
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ぼくもテツガクなんちゅう小難しいガクモンには縁のないスットコドッコイですので、ちゃんと理解しているかどうかアヤシイところなのですが……。本来“ゲーデル問題”というのは『1つの体系はその体系の中だけで自分自身の無矛盾性を立証できない』という定理であるそうで。ぼくなりにかみ砕いていうと、“その世界に論理的な矛盾がないということを証明することは、その世界の中の存在および論理では絶対に証明できない”ということ。……まだ小難しいですね。前回取り上げた例でいえば、作品中の手がかりが“本物か偽物か”を判断することは、作中人物には絶対にできない……それが可能なのは“その作品世界の1つ上のメタレヴェルにいる作者だけ”である、と。つまり、作者自身がメタな形で作中に介入してこないかぎり、真にフェアなフーダニットパズラーは成立しないということになるわけです。
この“メタレヴェルの作者の介入”の1つの象徴的なカタチが、クイーンにおける“読者への挑戦”だったのではないかというのが、かの『法月論文』における解釈でした。つまり“読者への挑戦”を配置することにより、作者クイーンは、このミステリはフェアな“見た目通りのレベルの”謎解きパズルですよ、安心して解いてください、と保証しているというわけなんですね。ところがそうなると、これはこれでまたしても問題が起こるというのが、法月論文の恐ろしいところで。メタレヴェルにある作者が保証したことを、下位の、つまり作品内にいる名探偵は知ることができない。ひらたくいえば名探偵は読者への挑戦を読むことができず、これ……自分の属する世界、が作家によって構築された小説であること、を意識することができないわけです。したがって、読者は“読者への挑戦”の存在によって作者と同じレベルに立てるけれども、作中人物たる名探偵にはそれができないということになる。故にその名探偵が優れて論理的な存在であればあるほど、論理的に唯一絶対の真犯人などという存在を見つけ出すことはできない、ということになるわけです。(えー、あくまでぼく流の解釈です。理解できないところも多数。コンジョーのある人はゼヒ原典に当たって下さい)
ゆえに……名探偵は名探偵であるがゆえに悩む。悩むべきである。この場合、悩むこと自体が論理的には正しいということになる、わけですが。……思わず、ため息が出てしまいますね。たしかに、それはまあ重要な、深刻な、悩ましい問題であるとは思うものの、んなこと全然考えなくたってパズラーは書けるべよ、と思ってしまうワタシもいる。本格ミステリの、ことにパズラーの書き手というのは、そこまで真摯であろうとするモノなのか。だいたいそーんな面倒くさ気なことを考えてるのは、世界中でエラリー・クイーンと法月さんくらいだよー、という気もしないではないわけですが。
 
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そういうわけで。オノレのスチャラカさをタナにあげて、つい“ゲーデル問題”なんてたいていの作家にとっては無縁の世界の話でしょ、と思ってしまうわけですが……実のところ必ずしもそうではないようで。たとえば綾辻さんによれば「本格ミステリというものについてある程度深く考えていった時に、必ずみんなが突き当たる問題かも」だそうですし、竹本さんも「作家によってそれぞれ抱えているゲーデル問題というのがあって」とおっしゃったりしてる。つまり、本格ミステリを自覚的に書いているような創作者であれば、多かれ少なかれ必ず直面するある種宿命的な問題であるらしい。ふむ。いわれてみればたしかに。プレ新本格以降の本格ミステリ作家は、多かれ少なかれこの問題に対するその作家なりのけじめの付け方を図ろうとした(と思われる)作品がありますよね。
たとえば一時期えらく流行したメタフィクショナルな構造をもった本格系の作品等というのは、上位レベル-下位レベルの世界構造を作品内に作り上げることで、このゲーデル問題を回避しようとした試みと考えることも(まあ、かなり苦しいけど)できないではない。いや、回避というと少々強すぎますね。むしろ上位レベルからの批評という形で、ゲーデル問題に関わる本格ミステリの矛盾をクローズアップしようとした、つまりゲーデル問題を論じようとしたものというコトになるでしょうか。竹本さんの『ウロボロス』シリーズなんてのは、上位レベルに作家たちが実名で登場していることからして、そのあたりのコンセプトがわりと明確に出ている感じがします。また、同作品中の入れ子作品『トリック芸者』シリーズはこの問題に対する“解”として、作中探偵の“美しい推理”に対するゲーデル問題的な反証を「そこはそれ……」という決めゼリフで一挙に無効化してしまうという荒技で、大方の支持を得ていたのは記憶に新しいところ。
また、新本格以降の特徴の1つである叙述トリックの隆盛というのも、やはりゲーデル問題と関係があると見るべきでしょうね。つまりこの場合は逆に、作品内世界が作家側=語り手/書き手側まで侵食してきているわけで、ある意味、ゲーデル問題を逆手にとった“作者の恣意性”それ自体を、ミステリとしてのコンセプトに取り込もうという試みと考えることもできる。ただし、この叙述トリックの場合は“作者の恣意性をミステリ的構造の中に取り込む”というコンセプトからしてパズラーとしての枠組みからは逸脱していますから、その部分を強調していけば最終的には謎解きモノの本格としてはきわめて不完全なものにならざるを得ないかもしれません。
 
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(今回、綾辻さんの『霧越邸殺人事件』とカーの『火刑法廷』のネタバレ、とはいかぬまでも、作品構造についてネタを割ります。未読の方は読まんといて下さい)
しかし、こうしたいかにも新本格的なアプローチは、フェアなフーダニットパズラーという視点からすればある意味逃げであり、問題回避でしかないような気がしないではありません。むろん作品の面白さや価値とはまったく別のレベルではありますが、パズラーとして正面から勝負することを避けたという風に見えちゃうわけです。まあ、別になんでもかんでもガリガリのパズラーを書かなければいけん、ちゅわけではないのですから、ことさら目くじらを立てる必要もないんですけどね。その意味では新本格派の旗頭である綾辻さんがみずから「そのへんの問題に対する1つのアプローチ」と語る『霧越邸殺人事件』は、さすがに綾辻さんらしい戦略的な、ただし二度とは使えぬ一回こっきりのアプローチを提示しています。
『館シリーズ』の番外編にして総集編的な位置づけを持つこの作品で、作者はこの霧越邸という夢幻めいた雰囲気を持つ西洋館が、それ自身奇妙な予言-暗合-予見の力を持っている“かのように”繰り返し奇妙な現象を描きます。むろん最終的に殺人の謎は解かれ、真犯人は暴れますが、このオカルティックというかファンタジックな館の予言の正体は、結局、ラストに至っても明らかにされません。リドルストーリィというか、ほとんど幻想小説的なエンディングで、最終的な答は“読者に委ねられている”わけです。まさに『1つの体系はその体系の中だけで自分自身の無矛盾性を立証できない』からこそ作品内では答は出されず、“外部に立つ読者に投げ掛け”られたまま終わってしまう。“事件の謎”の上位に“館の不思議”という謎を配置し、下位の事件の謎を解決すると同時に上位の謎を放置することで、パズラーとしての必要性とゲーデル問題に関する配慮を両立。小説総体としての整合性を整えようと試みている……ようにも思えます。ただし、その作品総体としてのクオリティの高さ・幻想性の美しさは認めつつも、これがこの問題に関する根本的な解決などとはほど遠いものであることは、やはり否定できないように思えるのもまた事実です。
この事件の謎-幻想領域の謎という二重構造によって、ゲーデル問題の解もしくは解の無さを求めようとした試みは、しかし、綾辻さんの専売特許というものでもないように思えます。本格ミステリ系に限ってもありがちな手口といえばその通り。例はいくらでもあります。たとえば、新本格第2世代と呼ばれる作家さんたちは特にデビュー当初よりこの問題に自覚的で、麻耶雄嵩さんの諸作なんて、特にその影響を強く感じます。しかし、だからといって、では“それ以前”のミステリ作家たちがまったく無自覚だったかというと、そういうわけでもない。新本格第2世代についてはまた後で触れるつもりですが、そういうわけでまずひとまずははるか昔、古典本格黄金時代に遡ってみます。取り上げるのは巨匠ジョン・ディクスン・カーの手になる名作中の名作、『火刑法廷』です。
 
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(今回、カーの『火刑法廷』の“趣向”についてネタバレします。同作品を未読の方は読まんといて下さい)
ご存知の通り『火刑法廷』は、数々の不可能興味あふれる謎がちりばめられた本格ミステリの傑作です。その作中最大の問題であるところの“ヒロインは大昔の毒殺魔の生まれ変わりか否か”というオカルティックつうかホラーじみた謎について、作者はいったんは合理的な解決を提示しながらも、最後の最後でもう一度引っ繰り返し、“ホラーに転んだ”(と見ようによっては見える)ラストを付け、多いに物議を醸しました。このラストについては、実はあれはヒロインが毒婦と自分を同一視した妄想の虜になっているのだ、というさらにひねくれた“合理的な解釈”を主張する向きもありますが、これは公平に見てもうがちすぎで。やはりカーは“あれは生まれ変わりであった”という解釈でエンディングをつけていると見るべきでしょう(と、ぼくは思います)。
このエンディングは、結果的に作中の名探偵の推理を全て無効化するアンチミステリ的、すなわちゲーデル問題的なオトシ方なのですが、筆者の印象ではこのケースは、作者カーが本格ミステリのパズルとしてゲームとしてのフェアプレイよりも、伝奇小説的というか、物語としての面白さを優先しての結末のつけ方だったように感じます。つまり物語の語り部として、読者のパズル趣味にいちおう応えたうえで、サプライズエンディングの強烈さをさらに高め“物語として、エンタテイメントとしての完成度”をより高めるという職人的な要請に“本能的に”したがったものなのではないか、という印象が残ったのです。
一応の合理的解決の提示によってパズラーとしての“義務を果た”し、同時に“物語として”の理想的なエンディングを採用して……少々イヤないい方ですが……より高度な・完成度の高い物語/エンタテイメントをめざした。というのは、いかにもカーらしくて、ぼくにとってはお気に入りの解釈です。もっとも、だからといって作者自身がこれを“ゲーデル問題の解”として明確に意識していたわけでは無論ないでしょう。けれども、同時にある程度はこれと同様の問題に作者が直面し、それなりに工夫しようとしたのであろうということは想像に難くありません。たとえば、パズラーのゲーム性・人工性・二重構造性についてカーがかなり自覚的な作家であったことは、別の作品中で、名探偵自身に“自分たちが探偵小説の登場人物であることを認める ”発言をさせていることからも明らかですし。ともあれ、そうしたことを特段意識しなくとも、この『火刑法廷』は、カーの意図通り抜群に面白いホラー風エンタテイメントであると同時に、本格ミステリとしてもきわめて満足度の高い希有な傑作に仕上がっています。このことは当該ゲーデル問題の技術的な側面における解決(?)に関して、1つの大きな示唆をあたえてくれるように思えるわけです。
 
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(今回も引き続きカーの『火刑法廷』の“趣向”についてネタバレします。同作品を未読の方は読まんといて下さい)
カーの傑作『火刑法廷』が、物語としての完成度を高めるためにゲーデル問題的な“名探偵存在の破綻”を描きつつ、それでもなおパズラーとして十二分な満足度を与えてくれるということ。これはいっけんきわめて矛盾した解釈であるように思えます。なぜならば作中の名探偵の推理が最終的には徹底的に否定され、あろうことか名探偵という存在自体が決定的に破綻してしてしまう時点で、その作品のパズラーとしての整合性は破壊されつくしているわけですから、本来なら読者はもはやその作品からパズラーとしての満足感など得られるはずがないわけです。理屈ではたしかにそのはずなのですが、じつのところぼく自身に関していえば、そうした不満というものは全くといっていいほどなかった。というより全く逆。大満足う〜! みたいな。……これはいったいどういうことなのでしょう。
ぼくが『火刑法廷』を初めて読んだのはたぶん中学か高校時代のことでした。むろん当時は“ゲーデル問題”なんどというメンドクサゲなもの存在など知るはずもなく……というより、当時はまだ誰もそんなこといいだして無かったとは思いますが、だからといって“点が甘”かったわけではありません。よくあることですが、“本格読み”として当時はいまよりもはるかに厳しい・小うるさい、いわば非常に厳格な本格原理主義者だったわけで、枝葉末節にこだわっちゃあフェア-アンフェアに目くじら立てる、実に何とも不愉快極まる馬鹿マニアだったのです。しかし、にもかかわらずこの『火刑法廷』に関しては、ほとんどその手の不満というようなものは感じなかった。……なぜか。思うにカーはこの作品において“最終的に非パズラー的なエンディングで破壊される”パーツであるにも関わらず、サプライズに満ちた“謎ー合理的な謎解きのセット”を作り上げているからなのではないか。
つまり『火刑法廷』にあっては、作品総体の中では明らかに“パーツ扱い”されているにも関わらず、そのパーツ自体があまりにも素晴らしいので、そのパーツに対する否定(=非論理的ホラー的な結末)的な物語構造が、パズラーとしての価値を一切損なわなかったのではないでしょうか。いうなればこの場合、パズラーとしての整合性を物語としての整合性が打ち消すものとして設定されているにも関わらず、物語としての整合性とは“切り離されたカタチで”パズラーとしての面白さがそれ自体屹立しているようなイメージです。しかも、その謎解き部分の完成度の高さが、同時にホラー的物語的エンディングの効果を非常に高めている。ほとんど奇蹟のような傑作であるよなあと、ぼくは思うわけです。
 
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この『火刑法廷』の例は、十分に剛腕な作者が、パズラー部分と物語部分の双方を一切の手抜きなく構築し高度なレベルで融合することに成功するならば、仮にパズラーとしての世界観がより上位レベルの世界観によって破綻したとしても、パズラーそれ自体のクオリティの高さによって1つの世界として成立しうるということを示しているように思えます。つまり少なくとも“読者にとってのゲーデル問題の矛盾”はパズラー部分のクオリティアップによって、無視できる程度の問題になりうると考えられるわけです。ただし、コノコトは作品を総体として厳密なパズラー/読者への挑戦小説として作品を捉えた場合は、残念ながらやはり破綻しているといわざるをえないわけで。いうなれば本来“内に閉じていく形で完結するべき”パズラーが、最後の最後でいきなりスコンと底が抜けて“大きく外へ開かれ”てしまったような印象。パズラー的には壊れているけれど、物語的には美しい壊れ方だ……という気がしますね。
このことは、しかし本格読みの読者にとってどこまで一般的な問題といえるのでしょうか。少々怪しくなってきた気もします。っていうかむしろそういう実践的な問題というよりも、おそらくは徹底して書き手側の問題であるのでしょうし、いってしまえば“気の持ちよう”ということになりかねないのですが、だからといって「それをいっちゃあオシメエよ」でありまして。なんせここでは“ゲーデル問題”をネタにアレコレ遊ぶのが目的なのですから、そういう気がするのは重々承知しつつも、とりあえず先に進めることにいたしましょう。今度は皆様にもよりナジミ深い新本格期の作家さんを取り上げましょう……。
あ、その前に。この問題に関して、MAQのインチキな話を読んでられっか、おいらはマジメに考えたいぞ、という方には、まず法月綸太郎さんの『初期クイーン論』(『現代思想』95.2月号)をお勧めします。んでそのベースとなった“ゲーデル問題”に関しては柄谷行人さんの『隠喩としての建築』をどうぞ。ただし、いずれもそーとーハゴタエありまくりです。少なくともMAQのよろず大雑把な脳みそではついていきかねる小難しげな内容。たとえば柄谷論文によると「ゲーデルの定理(不完全性の定理・1931年)は、どんな形式的体系も、それが無矛盾的である限り、不完全であるということだ。彼の証明は、形式体系に、その体系の公理と合わない、したがってそれについて正しいか誤りかをいえない(決定不可能な)規定が見出されてしまうということを示す……(中略)……こうして、純粋数学の完全な演繹体系は、一般に存在しないことが証明されてしまったのである。」とかいってるし。だれかきっちり読み解いてご指南いただければ、こらもうたいへんありがたいのですが。
 
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(今回は麻耶作品、ことに『翼ある闇』『夏と冬の奏鳴曲』のネタの一部を割ります。未読の方はお引き取り下さい)
こうしてみていくと、このゲーデル問題というものは、たとえそういう名称(ゲーデル問題)で呼ばれていなくとも、本格ミステリをある程度誠実に追求していこうとする作家なら、大なり小なり誰もが必然的に直面する問題であった……というのはやはり事実であったように思えます。しかし、いうまでもなく古典本格黄金期の作家と現代の新本格派の作家では、やはりおのずと環境というか、置かれている事情が異なるはずで。黄金期の作家たちがみずからの創作活動を通じてその問題に遭遇し、それぞれのやり方でこれにアプローチしていったのに対して、いまや“本格ミステリ先進国”たるわが国の作家は、すでに共通の前提というか当たり前の知識として、このゲーデル問題が存在しているわけです。むろん新本格の第1期生の登場したあたりでは、そういった意識はごく薄かったようですが、現在の、いわゆる新本格第2世代もしくはそれ以降のポスト新本格と呼ばれる世代の本格ミステリ系の作家では、あきらかにデビュー時からそれを強烈に意識していると思えるフシがあります。特にその影響を強く感じられるのが麻耶雄嵩さんです。
デビュー作『翼ある闇』でいきなり“名探偵の敗北と死”を描いて、ナチュラルな本格ミステリ(つまりゲーデル問題に不感症なそれ)に対する疑義を提示した麻耶さんは、ごぞんじ最大の問題作『夏と冬の奏鳴曲』に至って、ついに“パズラーとしての本格ミステリの形式”に則った結末を拒否し、ある意味、読者を置き去りにしてもなお“パズラーとしてのリアリズム”を突き詰めるという冒険を試みました。その後も、ややそうしたチャレンジャブルな要素は薄まりつつも、徹底して人工的な虚構としてのパズラーの様式美と共に、その人工性にゆえに破綻する論理という爆弾が仕込まれています。まさにデビュー以来一貫して“ゲーデル問題”に正面から向きあい続けた希有な作家ということができるでしょう。また、麻耶さんに続く新本格第3世代とも呼ぶべき新人たちの中では、デビュー以来3作続けてクイーン流のパズラーを追求し続けた氷川透さんは、その第3作の『最後から二番目の真実』において、作中の議論でこの“ゲーデル問題”を取り上げ、さらに複雑なエクスキューズによってその“解”にあたる“特異な名探偵の位置づけ”を設定。ゲーデル問題に関して独自のやり方で“けじめ”をつけ、摩耶さんとは異なるある種“現実的な対応”の仕方を見せてくれました。(この特異な設定に関してはJunkの掲示板でもおなじみ藤鷹さんのサイト『レベル5〜6』に詳しい解説があります)一方、これと対照的なのが、資質的には麻耶さんにより近いものを感じさせる驚異の新人・殊能さんのアプローチです。
 
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(今回は殊能将之さんの『黒い仏』を思いっきりネタバレします。未読の方はお引き取り下さい)
本格ミステリに関する知識と透徹した知性に裏打ちされた殊能ミステリは、“本格ミステリのパロディ”と受取られることが多いように思えます。たしかに、本格ミステリとしての骨子の上に、本筋部分への様々な“批評的”な暗喩・象徴・暗合を分厚く重ね合わせた独特のスタイルは、この作家が本質的に批評家的体質をもっていることを示しているといえそうです。しかし分厚い“批評的装飾”の影からのぞく本格ミステリ的なアイディアの切れ味は、この人が本格ミステリの書き手としても傑出した才能を持っていることを示しているのですが、どうやら作者自身は本格ミステリ専業的なアプローチにはさほど興味が無い……というより、そうしたプリミティヴな創作を行なうのは照れを感じている様子で。まあ、それほどまでに殊能さんの批評家的体質は強固なものである、ということなのかもしれません。
こうしたユニークな資質を備えた作家が、この“ゲーデル問題”をいかに作品化したか、というきわめて興味深い作例が最新作である『黒い仏』でした。奇しくも氷川さんの『最後から二番目の真実』と同じく作者にとって第3作目にあたるこの『黒い仏』において、名探偵は定石通り優れて“本格ミステリ的な解答”を提出します。が、“真犯人”によるゲーデル問題的な論証によってそれがじつは不正解であることが“読者に対して”明らかにされます。しかしさらに驚くべきことには、その敗北を名探偵自身は“最後に至るまで気づかない”のです。つまりその決定的な敗北を知らされぬまま、名探偵は偽りの勝利を獲得してしまうんですね。
ここにどういうトリックがあったかというと、実は真犯人は“名探偵よりも上位レヴェルの世界”に位置しているんですね。で、その上位レヴェルの世界の要請によって真犯人は超絶的な工作を施し、とりあえず都合の良い解決策として、便宜的に名探偵の推理を実現してやるわけです。……むろんアレの登場にも驚きましたが、それよりなによりぼくがビックラこいたのはこの点です。本来、本格ミステリの作品世界において、つねにその最上位に位置して神のごとき権力を振るうべき名探偵とその推理が、これほどまでに矮小化されてしまうとは! このような破壊的なオキテヤブリを徹底して行なった本格ミステリの例を、ぼくは他には知りません。
 
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(今回も引き続き殊能将之さんの『黒い仏』をネタバレします。未読の方はお引き取り下さい)
ともあれ。この『黒い仏』における殊能さんの“ゲーデル問題”に関するアプローチは、その衝撃度の大きさは別として、かつてクイーンが“読者への挑戦”の挿入によって試みたアプローチの方法と近しいものを感じます。すなわちクイーンのそれは、作品世界の上位レベルにある作者が“挑戦状”によって作中に介入し、作品内の論理的無矛盾性を読者に対して立証する……というものでしたが、『黒い仏』の手法は、記述者ではなく“真犯人”を名探偵の上位レヴェルに置く、すなわち名探偵の属する世界の上位にもう一つの/別次元の世界を構築するというメタフィクショナルな手法を、作者抜きで、つまり徹底して単独の作品世界の枠組みの中で実現しようとしたものだったのです。ここでさらに驚くべきは、この殊能方式のメタ構造がクイーンの目指したもの、すなわち作中の本格ミステリとしての論理性の無矛盾性を保証する、という本来的な方向とはまったく正反対の目的で使われている点で。実に『黒い仏』におけるメタ構造は、作中の名探偵の論理の非論理性をこそ、しかも実にあからさまな形で証明してしまっているのです。
それにしてもこれは、なんという救いのないアプローチでしょう。殊能さんはこの作品で、通常の本格ミステリにおいては読者が意識しない/する必要もない“ゲーデル問題”という“破滅の種”を、なんともエゲツないほどあからさまな形で、読者に突きつけているのです。その仮借の無い姿勢には……思い過ごしだとは思いますが……“パズラーとしての本格ミステリ”への挽歌すら、感じてしまいます。だいぶ前に殊能さんと麻耶さんに“ゲーデル問題への自覚性”という点でどこか似たような資質を感じる、と書きましたが、それぞれのアプローチの仕方を比較すると、摩耶さんはあくまで“本格ミステリの作り手”として取り組んでいるように思える(氷川さんについても方向性としては同様でしょう。むしろ書き手として合理的というか実践的なノリでしょう)のに対し、殊能さんはむしろ“本格ミステリの批評者”として徹底して客観的な地点から俯瞰し、問題を明らかにすることに力を入れているような気がするのです。
このように、期せずして時を同じく登場した『最後から二番目の真実』と『黒い仏』、そして遡って『夏と冬の奏鳴曲』は、“ゲーデル問題”というものが、本格ミステリの書き手にとって避けては通れぬ問題となっていることを示しているように思えます。ことに若い、新しい書き手ほど、これを意識せずにはおれない……というような。裏返せば、本格ミステリは、すでに“そういう地点”にさしかかっているのではないでしょうか。
 
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さあらばあれ。こうしてみてくると、この問題というのは本格ミステリの作品世界のレヴェルでは、やはりナンボひねくり回したところで(根本的には)解決しえぬ問題であるようにも思えてきます。まあ、そもそもぼくなんぞ考えたところでヘタな考え休むに似たり。実のある結論だの解決法だのといったものを導き出せるハズもないのですが……それはそれとして、読み手/本格ミステリ愛好家としてのスタンスでその問題点を明確化しておくことは、もしかするとさほどムダなことではないかもしれません。ま、とりあえずもう一度問題の所在を整理した上で、さらに議論を進めることにいたします。
本来“ゲーデル問題”というのは『1つの体系はその体系の中だけで自分自身の無矛盾性を立証できない』という定理です。本格ミステリにこれを当てはめると、作品世界に従属する存在たる名探偵には作品内の事件の論理的な無矛盾性を立証できない……すなわち名探偵が唯一無二の真犯人の存在なんてものを論理的に証明することは“論理的に不可能”ということになるわけで。これが“ミステリにおけるゲーデル問題”というものでした。これに対して、ことにフーダニットパズラーの書き手として尖鋭な意識を持った一部の作家は、多いに悩み、かついくつかの手法でもってこれをクリアすべく様々なアプローチを続けてきた、ト……これらを並べて比較してみますと、大きく2つの方向性に分けられるように思えます。すなわちこれを“解決不能な本格ミステリの絶対的な矛盾として”その“矛盾や破綻をあからさまに描く形で作品化していく”方向が1つ(麻耶さん、殊能さんなど)。そして、独自のレトリックによって強引に“矛盾を解消しパズラーとしての整合性を保とう”とする方向性が1つ(クイーン、氷川さんなど)。(他に、問題の存在そのものを否定するというケース/本格メインストリームにあって、この問題を意識しつつ、しかも名探偵としてのアイデンティティに寸毫の揺らぎも見せずにいられるのは(やや立場は違えど)、島田さんと二階堂さんくらいしかいないのではないかなあ。あと森さんという方もいますが、なんとなくやや立場が違うような。……それと、そもそも全然気づかないというケースもありますね。が、まあとりあえずこれは置いておきます)
これらの手法を比較し解体しますと、結局のところ問題は、パズラーの作品世界における論理的無矛盾性を、たとえそれが非論理的であっても“そういうものだ”として認めてしまえるか否か……という点に帰着してしまうように感じています。つまり非常に大雑把ないい方をしてしまえば、割り切れるか、こだわる……こだわらずにはおれない、か。
 
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というわけで、作家側のゲーデル問題に関するアプローチを、いささか強引に2つにまとめてみたわけですが、しかしこの両者のアプローチというものは、これ自体どっちがいいとか悪いとか、あるいは優劣を付けるとか、そういう問題でもなさそうです。そもそも考えようによっては、割り切れるにせよこだわるにせよ、どちらの方法にしても結局は“袋小路”であることに変わりはないようにも思えるわけで。どちらを選ぶか、あるいは無視するか。答えは、それぞれの作家の嗜好/指向/志向次第ということになるわけで。むろん読者たるぼくらはそれをただ見守るしか、とりあえずは術が無いでしょうし。
では、見守るしかないぼくら読者にとっては、この問題はどういう意味を持つのでしょうか。パズラーとして、の評価においては、結論を出すのはさほど難しいことではないように思えます。なぜなら、ゲーデル問題的にはパズラーはつねに“破綻すべきもの”なのですから、パズラーとして読んだとき、この問題にこだわりまくった類いの作品は、絶対といっていいほど読者を満足させえないはずなのです。ということは--純粋に“パズラーの読者”というスタンスからすると、作家がこの問題に拘泥することは百害あって一理無しという判断になる。……たしかにたいていの場合、こいつにこだわってしかも正面から向きあっちゃったりなんかした作品は、結局パズラーとしてはバランスを欠いた・破綻した奇形な作品になってしまうことが多いような気がしないでもない。
しかし、です。だからといって、これを否定しさってしまうというのもいささかの躊躇があります。たといパズラーとして破綻していても、本格ミステリとして絶対に愛せないとは限らないのは、こらもうぼくらが体験的に知っている事実でありますゆえに……。いや、それよりも何よりも、“行き止まりの袋小路”は、それがけっして破れない袋と認めてしまったら、それはもうけっして破れないのであろうけれど、もしかして万に1つ。袋小路の袋を突き抜けようという果敢な挑戦が、パズラーの別の世界/次元を切り開くという可能性があるかもしれない、とも思うのです。さしづめ何ものも抜け出せないブラックホールに思い切って飛び込んでみたら、それは別の宇宙に続くホワイトホールだった、とでもいうような。いささか以上にチューショーテキな表現ですが、仮にそんなことがありえるとしたら、そんなたわけた奇蹟を起しえるのは、まずはそこに“飛び込んでみる”勇気を持った作家でありましょうから。
 
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とかなんとか。つい最近まで、読者としてのぼくがこのゲーデル問題に関して考えていたことは、せいぜいここいらあたりまでのことでした。そんなものを意識する必要がある作品に遭遇する確率も、実際には非常に低かったように思えましたし……ちょっと以前まではこうした問題にまったくといっていいほど無自覚な、いわばきわめてプリミティヴな書き手も多数存在していたはずです。むろんプリミティヴといってもココロのソコから無自覚な作家はたぶんごく一握りで、大半の作家さんは意識しつつもあるレヴェルで割りきって創作していたのでしょう。ともかく……繰り返しになりますが……ぼくが読み手としてそれ(ゲーデル問題の存在)を意識させられるような機会はごくごくマレだったといっていいいわけです。ところがここ数年、なぜだかこのゲーデル問題を強く意識した本格ミステリが、以前に比べどんどこその数を増やしているような気がする。そらもう大変なイキオイで。特にこの1〜2年くらいは、さらに加速度的に増えているような気さえするんですね。
前述しましたように、パズラーというジャンルの枠の中で普通に考えていったら、この問題はけっして解決しえない問題であるはずです。パズラーがパズラーであろうとする限りは逃れられず、かといって解決もできない。絶対的な矛盾とでもいうような。しかし、にも関わらずこれを作品中にとりあげ、論じ、あるいは試行錯誤する作家が増えているというのは……これはいったいどういうことなのでしょうか。ことに--たとえば摩耶さんであるとか、殊能さんであるとか--この問題に積極的に取り組んでいる(と思える)作家さんの顔触れが、現代本格ミステリ界において若くもっとも尖鋭的な、アヴァンギャルドな人たちであるように思えることが、ぼくの妄想をいたく刺激するわけです。モシカシテ、コレは次なる本格ミステリのムーヴメントとして、なんらかの歴史的必然みたいなものなンではなかロウカ? とか。
さて。ここからは(いやまあここまでだって、けっこうそのケはありましたが)当方お得意の妄想大爆発。暴論激走のお時間です。すなわち……ゲーデル問題への取り組む作家の増加には、前述した“次なる本格ミステリのムーヴメントとして、なんらかの歴史的必然みたいなもんがある”という仮説に基づいた議論を始めることにします。
 
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ゲーデル問題は、パズラーがより高度に論理的たろうとすること、すなわち“もっともっとパズラーたろうとする”ことから生ずる絶対的な矛盾です。ところで、パズラーというのは“謎とその論理的な解決”を1セットとする物語形式であり、いうなれば本格ミステリの原点みたいなものですよね。で、この“原点”としてのパズラーの重要性をあらためて指摘し、今日の新本格ミステリの理論的基盤を構築したのは、いうまでもなく都筑道夫さんです。都筑さんが提唱したこの“モダン・ディティクティヴ・ストーリィ”理論は、 “トリックよりもロジック”“論理的必然性の重視”“名探偵システムの復活”といった、より現代的な視点を盛り込むことにより、本格ミステリの原点たるパズラーを、モダンな本格ミステリのあるべき姿として捉え直すことを提唱したものでした。現代のわが国本格ミステリ作家にとって、この理論はいわば基礎教養……創作上の絶対的な大前提ともいうべきもので。本格ミステリを書く作家ならば誰でも、程度の大小はあれ意識せざるを得ないのが、このモダン・ディティクティヴ・ストーリィ(以下MDS)論なのです。
そしていま、むろん個々の差はあれ都筑氏のMDSは達成され、そのことは同時に本邦本格ミステリ界の隆盛につながったといえます。ではこのことと、昨日まで縷々お話してきましたところのゲーデル問題とはどう関係してくるか……。MDSというものが、より今日的なパズラーとして、論理性必然性を重視することで達成された、あるいはされるであろう本格ミステリ的な成果だったとするならば、パズラーがより論理的たろうとすることから生まれるゲーデル問題は、MDSそれ自体が本質的に内包していた因子……いうなればそこに遺伝子レベルで組み込まれていた問題だったといえるのではないでしょうか。しかもその因子は、母体であるMDS/パズラーを、“パズラーであるがゆえに”破壊する可能性を秘めている……というのはここまで何度となく指摘してきた問題です。
すなわちゲーデル問題というのは、パズラーが生まれた瞬間から遺伝子レベルで組込まれていたいわば“自殺DNA”だったといえるわけです。で、都筑氏のMDS理論によりあらためてパズラーの根幹に創作者の注目が集まった結果、その時限爆弾が作動してしまった。……いわばMDSのジャンルとしての発展が始まったと同時に、その自壊へのカウントダウンが開始されたといえるのではないだろうか、と。
 
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いうまでもないことですが、このゲーデル問題/MDSの劣性遺伝子の発現という、なにやらいささかオドロオドロしい仮説は机上の空論、つうかあくまで観念レベルの話でありまして。ま、そんなこと誤解する人いないでしょうけど、“パズラーの終焉だー”とか“本格ミステリ終末論ー”とか、わけのわからない妄想に駆られることのないようにして下さい。何度もいいましたが、当方はこのゲーデル問題をサカナにごく不真面目に、だからこそある意味しごくシンケンに玩んでは面白がってるだけ、なのですから。ま、そうなったら(そういうすっとこどっこいを言い出すヒトたちが出てくれば)そうなったで、面白い気もしますけどね。仮に現実レベルでの影響をいうならば、作家はその発現を観測してしまったばっかりに創作に影響を受ける……裏返せば、観測していなければそんな問題は存在しないも同然である--わけで。いうなれば半分死んで半分生きてる猫。観測者の存在そのものが現象に影響を与えている、ともいえる。なんちゅうか、作家という人種の業を感じさせる仮説でしょ? 
閑話休題。この20世紀末〜21世紀初頭に突如顕現したゲーデル問題/MDSの劣性遺伝子の発現は、MDSの発展/パズラーの隆盛に伴って起こった歴史的必然であったと。そういう話でした。で。面白いことに、この発現と期を一にして、本格ミステリ界では非常に興味深い現象が多発していることが観測できます。たとえばそれはひとことでいって本格ミステリと他ジャンル(ホラーだのファンタジィだのSFだの)の境界線上に生まれた様々なハイブリッド化風ミューテーションであり、時には小説というメディアとしてのジャンル境界すら超えてしまうほどの爆発的な多様化です。いわゆるカンブリア爆発論ってヤツですね。このカンブリア爆発もまた、ある種歴史的必然だったとするならば、時期を同じくして発生したゲーデル問題/MDSの劣性遺伝子の発現とナンラカの関係があるような気がするんですね。っていうか、こーんなシンクロニシティ、偶然と考える方が不自然な気がしませんか。
だとすれば。このカンブリア爆発もまた、ゲーデル問題という劣性遺伝子の発現の一側面だったのではないか。(さー、三段跳び論法だあ!)
 
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本格ミステリ全体の活発化とそれに伴うほとんど爆発的ともいうべき多様化--カンブリア爆発が、パズラー劣性遺伝子としてのゲーデル問題の発現の一側面なのではないか。とまあ、昨日はそういう仮説をぶったてました。ホラーとの融合、ファンタジィとの融合、SFとの融合といったハイブリッド化、あるいはTV、コミック、ゲームなどとの連携ージャンルミクス、またキャラクター小説化等々。このカンブリア爆発は、おそらくはぼくの知るかぎり本格ミステリ史上最大のスケールで(いまもなお)進行しつつある現象です。むろん、その全てをゲーデル問題の発現に帰するのは、いささかやり過ぎですが、これを背景の一つと考えてもそれはさほど無理無体な推測にはならないはずです。
繰り返し述べました通り、ゲーデル問題の発現は、パズラーのパズラーたる所以、その最も根本的な部分を追求することから生まれてくる現象です。だとすれば、たとえそれと意識していなくとも、より新機軸の、よりユニークな、あるいはよりピュアなパズラーを作りだそうとする試みは、それがどのようなものであれ、つねにゲーデル問題に抵触してしまう可能性があるわけです。その意味で、カンブリア爆発が生みだした-生みだしつつある本格ミステリの様々な奇形的亜種は、いわばゲーデル問題的劣性遺伝子が発現した多種多様なミューテーションの産物……といえるのではないでしょうか。まあ、これはもう誰が見たってとんでもねー妄説ですからこれくらいにしておきます。
で、麻耶さんにしろ殊能さんにしろ氷川さんにしろ、ともかく全ての本格ミステリの作家にとって、ゲーデル問題を追求することがMDSを母体に“そのさらに先に存在するべきものを探ろうとする試み ”になっているのはおそらく間違いないはずです。仮にその先に現われるものが、現在のMDSとは似ても似つかぬシロモノだったにせよ、それは間違いなく、MDSを母体にパズラーとしての本質を追求する試みから生まれてきたものであるはず。いうなれば“MDSの次に来るもの・来たるべきもの”なのです。すなわちこれこそ“ポスト・モダン・ディティクティヴ・ストーリィ”(以下PMDS)なのではないか。
 
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以上から、ぼくはゲーデル問題を主体的に追求し、そのために従来のパズラー概念を逸脱した・あるいはしかけたようなチャレンジャブルな作品を“ポスト・モダン・ディティクティヴ・ストーリィ”(以下PMDS)、もしくはそれに至る過渡期的作品と呼ぶことにいたします。あらためて定義しますならば、PMDSとは都筑氏のモダン・ディティクティヴ・ストーリィ理論に基づくMDS/モダンパズラーの考えをベースに、その作品世界における論理的無矛盾性を厳密に追求する試みから必然的に誕生すると推測される本格ミステリ作品です。残念ながら現時点では、これが完璧な形で実現されていると思える作品は存在しません。しかし、それを試みる作家は確実に増えており、かれらの努力はいずれなんらかの形で成果を挙げる可能性はけっして無しとはしない……と予言してみたりなんかして。
ここであらためて皆様の注意を喚起しておきたいのですが、PMDSはその出現を理論的に予測できるというレベルのものであって、その登場はけっして確実なものではありません。してまた、当然のことながら何れ全てのMDSがPMDSに置き変わるわけではない、という点も強調しておきたいと思います。MDSとPMDSの分水嶺はそれに取り組む作家の創作姿勢・嗜好にほぼ完璧に依存しており、両者が併存することはマーケットニーズ的な要請からいってもむしろ望ましいものだといえるわけで。むろん文学的にもミステリ的にも、どちらがエライとかエラくないとか重要だとか、そういう質的位置的な上下関係があるものでもありません。ただ単にPMDSはMDSより“より新しい”、というだけのことです。むろん、寿司屋のネタじゃあるまいし、新しいからエライなどということはありません。
ちなみにもう一点、注釈しておきたいのは“ポスト・モダン・ディティクティヴ・ストーリィ”(PMDS)という用語についてです。このフレーズそのものは、実は皆様ごぞんじ『まったりcafe』のnaubooさんが、都筑氏の“モダン・ディテクティヴ・ストーリィ”という言葉を踏まえて創出なさった言葉です。ぼくはこの言葉が非常に気に入ってしまい、失礼を省みずこやって勝手に使わせていただいています。が、実のところ今回ご提示したこの解釈については、創案者たるnaubooさんのそれとは必ずしも一致していません。つまり、ここいらあたりの論説は徹底してぼく固有の妄言であり、“ポスト・モダン・ディティクティヴ・ストーリィ”とはどんなものであるか・ありうるかに関するぼくの個人的な憶測であるとご承知下さい。そもそもぼく自身にしてからが、すでにこれまで何度か(GooBooの『アリア系銀河鉄道』評など)このコトバを使用していますが、お読みいただけばお分かりの通り、当時の用法と今回の解釈とはコレマタまったく異なっています。ま、要するにコペ転。MAQならではの、大胆不敵太股素敵石野真子的に進化し続ける本格ミステリ論ということで、ご了承下さい。いうまでもなく、これに関わる一切の文責は全てMAQにありますのでお間違え無きよう。
ということで、長きにわたった“ゲーデル問題”咄、全編の終了でございます。ヘイ、どちら様もお後がよろしいようで(お囃子と共に退場)。
 
(2001.04.26脱稿)


 
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