トリックとプレゼンテーション(ノーカット無修正版)
 
【いいわけめいた前口上】
 
3週間弱にわたり『今日の漫文』で連載した『トリックとプレゼンテーション』のノーカット全文です。『ゲーデル問題を巡る一妄説』同様に、途方もなく冗長かつ論旨も乱れまくり。またしても読者様のご要望にお応えし原型のままでアップしますが、いずれあらためてきちんと手を入れ直すつもりです。したがいまして、お急ぎでない方はそのDirekutors cutをお待ちいただければ幸いです。Direkutors cut完成次第、この原型ヴァージョンは破棄されます。
 
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咄嗟にエラそなタイトルを付けてみましたが、まあ、例によって例のごとき本格ミステリ漫文ですので、どうかお気軽にお付合い下さい。ちなみにトリック、というと、どうもイメージが狭くなってしまいますので、この場合は対象とする作品の“本格ミステリとしての1番の仕掛け/ネタ/ミソ”ほどの意だとお考え下さい。すなわち謎解きロジックの工夫、なんてものもそこに含めたい気分であるわけですね。つまり、“トリックとプレゼンテーション”とは、平たく申せば“どんなネタをこしらえるか・と・それをどう料理し客に饗するか”ということ。……なんだかすっげー当たり前なんですけどー。っていうかそもそも小説ってそういうものよね、みたいな。いやそれどころか、さらに大きく風呂敷を広げれば、コレというのは小説に限らず、マンガでも映画でもゲームでも音楽でも絵画でも、およそ“表現”に関わること全てに共通するモンダイではあるわけですが。
で、トリックとプレゼンテーションと。もちろん“表現”を行なう上では、双方ともに欠くことのできない大切な要素ではあります。しかし、実際にはそれを兼ね備えたスキのない傑作なんてものには、なかなか出会うことができない、というのが正直な実感。まー、ヘタだけどさートリックはナカナカだからだから許す、とか。巧いンだけどねぇ、どうも核になる仕掛けが小粒だのう、とか。オノレを顧みるに、なんかこう全面的に“許せる許せない”レベルで評価してしまっているケースがとても多いように感じるのです。むろん、それはぼく自身がヤタラ文句の多い不平家だ、ということの証明でもあるわけですが、同時にこんなワタシにダレがした! とも思うわけで。それは、アチラ立てればコチラ立たずな“表現作品”としてえらくイビツなシロモノであっても許容されてしまう・“作品として”成立してしまう、本格ミステリというジャンルの特性が、こんな歪んだニンゲンを作りだしてしまったのではないでしょうか。
 
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読者の皆様におかれましては、MAQをしてヒタスラ本格ミステリばっか読んでる本格バカ、とお思いの方が多いことでしょうが、(そしてそれはまあその通りだったりもしますが)、実はこー見えても、本格ミステリ以外の本だって時折読んでいるのです。で、たとえばたまさか時代小説方面の新人の方(最近、このジャンルはたいへんイキのよい新人が続々登場し、ヒソカな活況を呈しておりますね)の作品なぞ読みますと、これがもう呆れるほど上手い! と思わされることがとても多いのですね。特に文章、ひいては“小説作り”という面においては時代小説畑では新人旧人を問わずヘボはごく稀な存在で、おおむね一定のレベルを超えているように思えます。本格ミステリ系の新人で時折遭遇する、“読んでいて哀しくなってくる”ようなレベルの拙劣な文章に遭遇する畏れは、まずないといってよい。むろん例外はありましょうが、ですから時代小説の新人と本格ミステリの新人の、それぞれの文章力を中心とする“小説技巧偏差値”には、実のところかなりの開きがある。ように思えてなりません。この場合、小説技巧というのは、そのプロットやキャラクタ、構成、そして語り口/文章を構築する力といったところで。つまりですね。ありていにいって、本格ミステリ系の新人は総じてヘタなのよ。小説が。
しかも、このことは時代小説との比較でのみ明らかになるもんでもないように感じてしまうのが、さらにツライところで。無論、個別の例を拾えば例外はいくらでもありましょうけれど、SFでもホラーでも一般小説でも純文学でも何でもよいけれど、ともかくそれらに比して本格ミステリというジャンルの(ことに)新人さんは、総体として小説技巧偏差値が低めであるような気がするんですね。……書いてしまってからコワくなってきたので、言い換えます。すなわちこのジャンルにおいては、送り手も受け手も“文章力に関して、比較的ハードルを低く・許容範囲を広めに設定している”ように思える、とでも。繰り返しますが、むろん例外はありましょうし、あくまでぼくの個人的な感じ方にすぎません。しかし、本格を読んでいると、どう考えても“本にしちゃいかんだろ”的シロモノに、時折、しかし確実に遭遇してしまうのも、また事実なのです。
 
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前回、本格ミステリにおいては、送り手も受け手も“小説技巧に関して、比較的ハードルを低く・許容範囲を広めに設定している”ように思える、と書きました。これは何も、本格ミステリの編集さんや読者、そして作家さんが小説というものに対していーかげんだとか、無頓着だとか、チェックが甘いとか、鑑賞力がないとか。そういうことをいってるわけではありません。実際、本格ミステリ作家であれ、そのファンであれ編集者であれ、本格ミステリばっか読んでるわけじゃあ(たぶん)ないわけで。本格ミステリの、ではなく小説の善し悪しを見分けることはその人たちにだってできるはず。つまり誰だって気がついてるはずなんです。小説下手文章下手の新人がみょーに多いということに。にも関わらず実際にはソレナリに評価され、メデタくデビューに至る新人さんが他ジャンルよりはるかに多く存在するのもまた事実で。
極論すれば、“この世界”では、たとえ文章やプロットや登場人物の造形といった小説技巧の部分が相当以上にシンドイ処女作であっても、それ以外の部分、すなわち今回の言い方でいえば“トリック”がとんでもなく秀でていたりすれば、不問に付す……とまではいかなくとも、とりあえず条件付きOKみたいな場合が、比較的多い。ように思えるんですね。すなわち--普通一般のジャンルにおいてはなかなか考えにくいことですが、小説としての上手下手よりもさらに重要視されている要素というものが、本格ミステリの世界にはきっとある。
このこと自体は、奇妙なことだとは思うものの、それ自体特に不満があるとかイカンのではないかとか、そういう気持はありません。このジャンルにはこのジャンルの物差しつうものがあって然るべきでしょうし。本格ミステリとはまさに“そういうものだ”と思いますから。だいたい、ぼく自身は本格ミステリとして“見るべきもの”をもつ方なら、多少小説が下手でも諸手を上げて歓迎しちゃうクチですからね。しかしながら、こういうきわめて特殊な二重の評価軸を備えた本格ミステリというジャンルは、それゆえ、同時に公正な評価を行なうことが、なかなかに困難なジャンルであるようにも思えます。すなわち“小説として”の評価と、“本格ミステリとして”の評価とは、必ずしも一致しない場合が多いのではないか。
 
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小説としての評価と、本格ミステリとしての評価と。それぞれが必ずしも一致しない、ということをなぜそれほど問題にしているのか、といいますと。(まあ、これを“問題にしている”のは、もっぱらぼくだけなんですが)“そのため”に、大人の・読み巧者の・優れた鑑賞力を備えた評者ほど、本格ミステリを評価しにくい、有り体に言えば“讃めにくい”からです。ここからは(いや、ここまでもそうか)もっぱらぼく自身の経験に基づいた憶測になりますが……純文学であれ時代小説であれ、“小説として”優れた作品を数多く読んできた評者であれば、それがどんなに“本格として”とんでもなく優れた・ユニークな仕掛けに満ちた作品であっても、これを優れた作品とは容易には認めることができないはずだと思うのです。むしろ、そうした本格ミステリ的仕掛けの数々が、えらく子供じみた幼稚なギミックに見えてしまうのではないか。そう、“許せない”ってやつですね。
幼少の頃よりコノ道ヒトスジに本格バカ道を歩み続けてきたぼくにしても、この点覚えがないわけではないのです。たとえばね、昔は文章の上手い下手とか人物造形とか構成の巧みさとか、そういうものにはとんと目が行きませんでした。ただただ驚天動地のトリックやら意表をついた真犯人やら華麗な謎解きロジックやら、そうしたいかにも本格ミステリ的な仕掛けの数々に、ただもうひたすら酔いしれて、それだけで十二分にマンゾクしていたわけです。それさえあれば幸せでしたし、それ以上いったい何を望む? くらいの気分で。……しかし、そうしたサプライズにもいずれ慣れるもの。徐々に甲羅を重ねてちょいとばかしはモノを見る目というやつが備わってくる(<ホントか?)と、今度は徐々に“小説として”の弱点が目に付き始める。時には、イイトシこいてなんちゅう幼稚な小説を読んどるんだ、オレは。とか、つい思ってしまうこともあったりして。まあ、ぼくの場合、そういうキモチは老化現象の現れと考え、努めて無視するようにしていますが、これがエラい批評家先生ともなればそうはいきますまい。んなもん断じて小説作品とはいえないんだもんねッ! とか思ってしまうのも、ですからある程度無理からぬ話なのかなあと。
 
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実際、ミステリプロパーの評者以外の普通一般の書評家が、公の場で本格ミステリを評する機会はあまりないといっていいでしょう。新聞、雑誌の書評欄はいわずもがな、エンタテイメント指向の強い『本の雑誌』でさえ、本格ミステリが取り上げられるとしたらよほどのビッグネームの新作か話題作。もしくは“本格ミステリとしてでなく、エンタテイメントとして文学として優れた作品”である場合がほとんどで、“小説としてはシンドいが本格としてはスゲエ”タイプの作品が取り上げられているのを目にすることは、やはり少ない。ことに、昨今のジャンル別出版点数の比較からすると、冷遇されているように思えてならない。まあ、そんな風に感じてしまうのはヒガミ根性のなせる技かもしれないのですが。
ともあれ、ここいらあたりの事情のヤヤコシさが、本格ミステリというジャンルの一般への認知のされ方の遅れにつながっている気がするわけで。ややもすれば、本格ミステリというジャンルそのものを、文学として1段低く見ることにつながってしまう危惧も生まれるわけです。実際、1段低いンじゃねーか、という議論はさておき、本格専業の書き手にとって、これは常々大きな憤懣のタネになっているように思えます。先頃結成された“本格ミステリ作家クラブ”の本当の狙いも、実はこの問題の解消という点にあるような気がしますし、コトあるごとに幼稚な“異議申し立て”を繰り返して、逆に識者の失笑を買ってしまう本格ミステリ作家も現にいらっしゃる。さらにいえば、かつて英国で古典本格黄金時代末期に生まれた英国新本格派のムーヴメントも、根っこの処はこれと同じものがあるような気がしないではないのです。すなわち、文学として評価してもらえないなら、本格ミステリ自身が文学に接近すればよい、という……しかし、前述したように、“小説としての評価と本格ミステリとしての評価は必ずしも一致しない”というのは、本格ミステリが本格ミステリであるがゆえの矛盾です。したがって本格ミステリが本格ミステリたろうとすればするほど、その矛盾は、より尖鋭に拡大されていく気さえしてしまうわけで。裏返して極論すれば、本格ミステリが“いわゆる文学”に接近しようという試みは……その文学的挑戦の価値は認めつつも……本格ミステリ的には、ある意味、ジャンルとしての自殺行為になってしまう場合も、なしとはしない。気がするわけです。むろん全てがそうだとはいいませんが、そういうケースが少なからず存在しているように思えてなりません。
 
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はるけくも来つるものかな……何だかタイトルとなんら関係のない話になってるような気がしますが……まあ、いつものことなので、気にせず続けます。このように小説として評価することの非常な困難という、どーにもこーにも根本的な問題を抱えた本格ミステリの批評ですが。まあ、公正な評者ならば、小説として・本格として、両者それぞれのモノノ見方でもってバランスを取りつつそれぞれに評価を下していく、というような、かなり回りくどい評のしかたもできないわけではないでしょう。これは一見しごく合理的な批評の仕方、であるように思えます。けれども同時に、それが本格ミステリに対する評価の仕方として正しいのかというと、この点にもいくぶんかの疑問が発生しないではありません。実際、ぼくなんぞにとっては、本格ミステリとしてどうか、という部分だけきっちり評してくれさえすれば、書評としての機能性は十二分に果たされるともいえるのです。
一方では“本格は小説である前に本格なのだ! マイナーで悪いか! トリック万歳!”という気持もハゲシく吹き零れてきますし、他方では“いやしかし、本格とて文学の1ジャンルなのであるから、それぞれバランスの取れた評が理想というべきであらうからしてからに”というような気もしないではない。どうにもどっちつかずのアンビバレンツ状態なのですが、1ついえるのは、本格ミステリというのはしょせん“文学”というくくりの中では、どこまでいってもマイナージャンルであり続ける宿命を負っているという確信です。なんとなれば……ここでようやくテーマにつながってくる!……“トリック/ネタとプレゼンテーション”という基本構成要素の両方において、本格ミステリは普通一般の小説とはとんでもなくかけ離れた性質をもっていると思うからです。話の都合上、プレゼンテーションからいきますが、このうち“小説技巧”の部分をクローズアップしてみて下さい。本格ミステリの、いかにも本格ミステリらしい技巧の多く、たとえばミスディレクションなんてものは、文学、というか小説のテクニックとしては、正統から著しく逸脱し、小説技巧本来の趣旨とは相反するものである気がするからです。
 
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基本的に普通一般の小説における小説技巧というのは、“読者に伝えたいこと”を明確に素早く、そしてより効果的に(印象的に・面白く・力強く)伝えること、を目的とする技術であるはずです。ところが本格ミステリにおける小説技巧というのは、これとは狙いが微妙にズレていたり、時には全く逆だったりすることが多いんですね。それはもちろん普通の小説だって、テーマを際立たせるために謎でもってストーリィを引っ張り、そのためにナニカを隠した叙述のまま物語が進むということはありえます。しかし、その場合も最終的にはあくまでテーマとなるものをより“効果的に力強く伝える”ための1テクニックであるはずです。“隠す”としても、それはあくまで便宜的なものであるわけですね。ところが本格ミステリにおける技巧というものは、ハッキリいってそんなナマやさしいものではありません。
たとえばミスディレクションなどという技術は、その代表格みたいなものといえるでしょう。読者に真意を悟られないようにする、誤解させる、ダマくらかす、ハメる。それも、“最終的に正しく伝えるため”の便宜的なレトリックなんぞではありません、紛れもなく“読者に正しく伝えないこと・誤らせること”を企図しているのです。フツーに考えれば、作者の掌のうちである作品世界で、読者をダマクラカすのはごく簡単であるように思えます。極端なことをいえば、ただウソを書けばいいだけなんですからね。そこに技巧なんてものが必要だとも思えません。しかし、本格ミステリにおいては、ただダマセばよいわけではなく、“フェアに騙”さなければならない、という前提条件がある。つまり、読者をして“セコい!”とか“こすい!”ではなく“騙された私がバカだった!”と、カンピナキまでに納得させなければならない。ミスディレクションはそれゆえに必要とされる、高度な小説技巧であるわけです。それにしても……なんともはや、本格というのは、まったくとんでもないコトに血道を上げている!  としかいいようがありませんね。
 
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というわけで、フツー一般の小説とはまったく正反対のプレゼンテーション技術を錬磨している本格ミステリですが。じつは本格ミステリでは、普通一般の小説で言うところの“テーマ”に関しても、同様な事情が存在しています。ちなみに本格ミステリにおける“テーマ”というものは、元来たった一つしかありません。議論の都合上ドきっぱりといいきってしまいますが、それというのは“魅力的な謎とその論理的解明”--これのみです。実際これ以外のテーマをメインに持ってきた場合は、そらもうただちに本格ミステリと呼べなくなってしまうわけで。全ての本格ミステリは、この“魅力的な謎とその論理的解明”というテーマに基づいて“トリック/ネタ”をこさえ、またそれをいかに魅力的に・効果的にプレゼンテーションするか、という1点に“のみ”注目して、ヒタスラ新手の技巧を開発し続けている。言い換えればたった1つのテーマに、ネタもトリックもプレゼンテーションも、んもー小説としての全てが従属し奉仕しているわけですね。
このことは、本来自由なものであるべき小説という創作ジャンルに属する本格ミステリに、おっそろしくキュークツな制限を課さずにおきません。その制限のキュークツさといったら、時代小説よりもSFよりもファンタジィよりもホラーよりもはるかにはるかに厳しくもまたシンドイものです。たとえば人間、あるいは社会、文明といったものに、未来なり宇宙なり異星文明なりといった“if”をスペキュレーションすることで、いかなる事態ドラマ感情思想が生ずるかを語るSFは、むしろ小説としては大いに自由度の高いものでありえるでしょうし、その意味では神話伝承説話の類いをベースとする、より自由度の高いイマジネーションで世界を構築するファンタジィの分野も同様であるはずです。一方“恐怖”という感情1点縛りである故に、ホラーはやや不自由さを感じさせますが、“恐怖”それ自体が人間にとって普遍的原初的な感情である以上、描き方・プレゼンテーションの方法論において、やはり本格ミステリなどより遥かに高い自由度をもっているように思えます。早い話、ホラーならSF的な趣向でもファンタジィ的な趣向でも本格ミステリ的な趣向でも成立しえるわけですから。
 
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本格ミステリはSFよりもファンタジィよりもホラーよりも遥かに厳しい制限を課されている、というようなことを(やや暴走気味に)書きました。ここでの反論はまあ容易に想像がつきます。すなわち、SF的なファンタジィ的な時代小説的なホラー的な舞台で展開される本格ミステリちゅうものもあるではないか、と。けっこう自由じゃん、みたいな。しかしこれらはあくまでプレゼンテーションの技法の一環として、これらの舞台語り口世界観その他が採用されただけの話で、“魅力的な謎とその論理的解明”というテーマにいささかの変更もありません。
いうまでもありませんが、それら新手のプレゼンテーション技法にせよ、あくまで“魅力的な謎とその論理的解明”というテーマに厳密に沿って設計構築される(べきである)わけですから、そのキュークツさに変わりはないわけで。いろいろアレンジを加えてみたり別の歌手に歌わせてみたり工夫はしてみても、それが相変わらずの古い歌で有ることに変わりはないわけです。なにしろ前述した通り、その“古い歌を歌うこと”が本格ミステリであり、それ以外の歌は本格ミステリではない、のですから。
困ったことに、事程左様に窮屈な制限を課された本格ミステリにおいては、それゆえ本来の小説技巧(本格ミステリだけでなく、あらゆる分野の小説を含む包括的基本的なそれ)に対しても、著しい制限、というか掟破りを行なわざるをえないケースが生じます。それも実にしばしば。“魅力的な謎とその論理的解明”を効果的にプレゼンテーションするための必要から、たとえば(意図的に)“人間を描かない”、時制を混乱させる、話者を曖昧にしたまま物語を進行させるなんてのは序の口。極端なケースでは、普遍的な人間性・知識・常識に照らして必然性を欠いた行為行動を登場人物にとらせる、なんていうことさえ有りえるわけです。さて、長々語って参りましたが、ようやく本題に辿り着こうとしています。ここでぼくが問題にしたいのは、この最後のケースなのです。
 
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“魅力的な謎とその論理的解明”を効果的にプレゼンテーションするための必要から、“普遍的な人間性・知識・常識に照らして必然性を欠いた”行為行動を登場人物にとらせる。前回、これが問題だと書きました。つまりこの“トリックとプレゼンテーション”という漫文のキモにつながる問題なわけですね。んじゃあ、今まで長々書いてきたのはなんじゃい! でしょうね。すいません、“マクラ”です。というわけでようやく本論を始めますが……“普遍的な人間性・知識・常識に照らして必然性を欠いた”行為行動を登場人物にとらせる、なんてどうも回りくどいんでカミクダキますね。たとえばそれは、これってなんのために密室をこさえたんだよ! ……いわゆる“密室のための密室”とか。おめーがいなけりゃもっと簡単に解決できただろうが! ……いわゆる“名探偵のための事件”とか。なんでこんなややこしいトリック使わなきゃなんないんだよ!……いわゆる“必然性を欠いたトリック”とか。まあ、キリがないんでこれくらいにしときますが、ともかく“小説の掟破り”も、ここまでいくと本格ミステリとしてのルールさえも逸脱しかねない問題になってくるわけです。というのはことに現代のいわゆるモダン・ディティクティヴ・ストーリィにおいては、この“必然性”というやつがきわめて重視されており、犯人の動機にしろトリックにしろ犯行計画にしろ謎にしろ、必然性を欠いたものは、オールドタイプのそれとして否定的に捉えられるケースが多いわけです。
これは昔からあったいわゆる“トリック偏重主義”に対する批判とほぼ同じものですが、この批判は本稿で度々繰り返してきた“魅力的な謎とその論理的解明”という本格ミステリのテーマの重心が、その内部において前者から後者へ移ってきたこと、に起因しているように思えます。
 
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“魅力的な謎とその論理的解明”という本格ミステリのテーマの重心が、前者から後者へ、すなわち“魅力的な謎”から“論理的解明”に移ってきた。そのために、本格ミステリはその“必然性”がきわめて重要視されるようになってきた。というお話。要するにトリックからロジックへ、ということで。この流れが現代の本格ミステリのメインストリーム、ちゅうか基本的なスタンスであったことは、まあ否定できないでしょう。で、さらにお話を進める前にとりあえず確認しておきますが、では、なぜ必然性を重視することがロジックを重視することにつながるのでしょうか。
いわゆるトリック偏重主義への批判で槍玉に上げられるタイプの、つまりオールドタイプの本格ミステリというのは、なんらかのトリックによって構成された“謎”を解明すること、に主眼が置かれていました。ですから、ネタ=謎の中心はトリックそれ自体の工夫(オリジナリティ、スケール、精密さ、斬新さ等々)にあるわけです。そしてそのプレゼンテーションの方法としては、そのトリックがいかにキッカイな不可能現象を現出せしめるか、この1点に集中していたといっていい。
したがって必然的にその解明部分/謎解きについては、“謎を解く”というよりも、むしろそのトリックの“仕組みの解説”に近いものであったわけで、ロジックという視点からすればいかにも弱く、お粗末なものと感じられるのは当然のことだったかもしれません。なんせコレというのは“論理的に解いていく”のではなくて、“ともかく説明を付けるだけ”で手いっぱいというレベル。直感でも、ヒラメキでも、ともかく説明がついただけでもスゴイ、ということなんですから。
しかし、こうしたタイプのミステリが全盛を誇っていた当時は、それでもOKだったのもまた事実です。それはロジックの弱さをカバーするに足る魅力が、そのトリック自体に存在していたから。ロジック面についていえば“こんな途方もない現象にトニモカクニモ説明がついてしまう”サプライズってことになる。
 
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当然ながらこのことはオリジナルな、そして斬新なトリックというものが枯渇していくに従って、読者の側にも作者の側にも徐々に不満が生まれてきます。ま、だんだん詐術めいた、ある意味子供じみた工夫が幅を利かせるようになってきて、オトナの読者&作者にとっては幼稚に見えてきた、というのもあるでしょうね。しかし、そうはいってもこの方向とて、必ずしも“進化の袋小路”の不毛な世界とばかりはいえません。なんとなれば、コイツがどんどんどんどん極まっていって“あるレベル”を突き抜けてしまうと、そのとき突然、そいつは昨今話題の“バカ本格”の世界にブレイクスルーしてしまう可能性があるんですね。
つまり、バカ本格というのは、トリックが行き詰り爛熟した果てに突発的に生みだされた、ある種の極端な“開き直り”ともいうべき存在で。さらにいえば古典的なトリック偏重主義を極度に抽象化した、アヴァンギャルドかつピュアな本格である、という考え方さえ可能である……かもしれないのです。まあ、よほどの天才でないかぎり“狙って”書けるものではないでしょうし、鬼っ子といわれればその通りなのですが、ある意味、最高に本格らしい本格であるともいえる。
“バカ”という言葉の語感から、“ユーモア本格のキツイやつ”みたいな誤解をされている方もいらしゃるようですが、実はそういうモノではゼンゼンないわけですね。むしろ作者本人は大まじめ。なのにでき上がった作品は、んもー笑っちゃうしかないッ! という感じのものほど、タダシいバカ本格になってしまうようで。……話題がズレました。元に戻しまして……ともかく“この”方向が行き詰って、じゃあ、というので“ロジック”が重要視されるようになってくる。そういえば本格ミステリって本来“そういうもの”だったよネ、というわけで、針は一気に振れて“ロジックのプレゼンテーションの邪魔になるならトリックなんかいらない”というところに行き着くわけです。
 
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ちょっと整理しておきましょう。本格ミステリにおいては、“謎と謎解きロジック”という2つの要素が核となっている。んで、謎を構成するための独特の技法として編み出されたものがトリックであると。ただし、この大ネタのトリックに重心をおいた場合、相対的にロジック部分の興趣は薄くなる(トリック>ロジック)し、逆にロジック部分に重心をおけば謎の構成に大ネタのトリックはむしろ邪魔になる(トリック<ロジック)ことが多い。このことはトリック主体でロジックを導き出すか、ロジック主体で謎を導き出すか、という創作者の発想法の違い・得手不得手・好き嫌いが関係しているのでしょう。
このことを別の言い方でいうならば、トリック重視=ハウダニット、ロジック重視=フーダニット、とおおまかに分類することができそうです。(無論、多数の例外があることは承知の上。あくまでお遊びの議論であることをお含みおきくださいね。)なぜこう言い換えるかというと、こうするとそれぞれの提示する“謎自体の性質”がよりわかりやすいように思えるからです。すなわち--ハウダニットとは“どうやって”やったか、であり、フーダニットは“だれが”やったか、ですよね。で、どうやってやったか、というのは、その問いかけ自体、唯一無二の合理的な結論を導きだすというノリではなく、“コレはどういうことなんだ説明してくれ!”みたいなノリ。つまり“解説を求めている”ような気配が濃厚に感じられるのですね。
一方フーダニットの場合は、“誰がやったか証明してくれ”なのですよ。説明しろではなくて、証明しろ。ですから論理的に解いて、証明しなければならない。……まあ、あくまでぼくには、そういう風に感じられるということなのですが。
 
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このように考えていきますと、本格ミステリの“謎”は大きく2種類に分けられるということがわかりまます。“謎それ自体のインパクトを高める”方向性……この場合はトリックというギミックを使うことが多く、往々にしてそのトリック自体の工夫に大変なパワーが割かれる場合が多い、という性質を持っている。また、もう一方は“ロジックの部分から導き出されたものとして謎を構成する”ケースで。この場合は、いわばロジックの必然から遡る形でこさえられていく(いや、実際にそういう作り方をしているわけではないでしょうけれども、方向として)わけですから、ロジックが精緻で美しいものになるのは、まあ当然です。
本格ミステリが“魅力的な謎とその合理的な解決”を主眼とするエンタテイメントであるとするならば、ここでいう後者の、“ロジックの部分から導き出されたものとして謎を構成する”方式の方が、ある意味正しい、というかバランスが取れているということはいえるかもしれません。正統的、とでもいいましょうか。しかし、ロジックという、ある種融通の利かないネタがメインになっているだけに、このスタイルは、プレゼンテーション面における演出技法がたいへん限られているように思えるんですね。なんとなれば、中核となっている謎ー謎解きのラインは、これはもうそれこそ“ロジックによって縛られている”のですから、演出の余地がさほどないわけです。で、どうするか。……ここから生まれてきたのが“フェアプレイ”という発想なのではないでしょうか。
このタイプの本格ミステリは、前述したように、ロジックの妙とそのロジックの必然から生まれた謎がメインネタになっているわけです。したがってそれを効果的にプレゼンテーションするための方向としては、そのロジックがいかに合理的で論理的なもんであるか、を読者にアピールすることでなければなりません。そこでひねり出されたのが、その謎は“アナタにも解けたはず”だという、読者に対するある種の挑発的なプレゼンテーション技術……ここでいう“フェアプレイ”の概念だったのです。
 
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“アナタにも解けたはず”だと、読者をして合理的に納得させるための“フェアプレイ”というプレゼンテーション技法の発見により、この方向性はやがて一つの到達点に達しました。ヴァン・ダインが手を付け、クイーンが完成させた、このロジック重視型の本格ミステリにおいて、謎解きロジックを効果的に見せるための“フェアプレイ”は、作中の犯人の意図などとは本来なんら関係のない演出です。つまりあくまで作者から読者へ向けたプレゼンテーションのためのそれであるわけで。(ここいら辺りの議論は、いわゆる“ゲーデル問題”やら“クイーンの後期的問題”にもダイレクトに関連します。が、こいつに深入りするとエライことになるので、ここでは触れません。っていうか逃げる)極論すれば、物語としての作品世界とはなんら関係がない仕掛ともいえる。結果としてこの部分を徹底して推し進めることは、作品世界の完成度云々とは別に(いやそれ以上に)“作品世界の一つ上のレベルにいて全てを支配する”作者自身の存在をクローズアップすることに繋がっていきます。平たくいえば“読者VS作者”という構図を際立たせ、作品の“ゲーム性”を強めることにつながっていったわけですね。
このことからは……再びちょいとばかし極論すれば……いわゆるメタ・ミステリ的な発想の原型/萌芽みたいなものをさえ、感じることができます。普通一般の小説において作者は可能なかぎり姿を隠し、その作品世界が作り物であることを忘れさせようとするのとは反対に、ここでは作者は逆に最前面に登場して読者と真正面から対峙します。そしてその2人が作品世界を見下ろして議論を戦わせる。ちょっと大仰ですが、そんな構図さえ目に浮かんできます。実際、ここまでくれば、メタ・ミステリまではほんの一歩、であることにお気づきいただけるでしょう。
ちなみに本来、メタ・ミステリとはミステリに関するミステリ。自己言及的なミステリ。平たくいえば、“ミステリとは何か”を作品内で論じ批評するミステリを指します(とぼくは理解しています)。そのため往々にしてメタ構造が採用されるケースが多いことが、その外観的な特徴(人によっては、この外観的な側面のみでメター非メタを分類するケースもあります)で……小説内小説(劇中劇ですね)が用意されたり、登場人物が“作中人物であること自覚的”な言動を取ったり、戯画化されたキャラクタ、設定等が採用されたりします。むろん、いずれも既存のミステリに対する批評の一環として、採用されるものであるわけです。無論それぞれ程度の大小はありますけどね、作品世界に通常より1段高いレベルの作者の視線を感じたら、それはもう“メタ入ってる”といって差し支えないのではないでしょうか。
 
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話がそれました。このように、フェアプレイのコンセプトに基づいたプレゼンテーション技法は、前述の通りヴァン・ダイン、エラリー・クイーンの2人の巨匠に代表されるいわゆる本格黄金時代に、その基本的なスタイルと技法のほとんどが開発され尽くしました。“手がかりの提示”“容疑者の限定”“名探偵役の設定”“読者への挑戦”……今日ではごく当たり前となったこれら本格ミステリルールも、したがって、本来ロジックのプレゼンテーション技法の一環として生みだされ、なおかつ厳密に適用されるようになったもの、なのではないか。……というのはまあ、例によってぼくの考えた妄説ですから、易々と信じてはなりませぬ。
さあらばあれ、ではもう一方。すなわち、謎およびその演出技法として開発された、トリックに重心がおかれているタイプの本格ミステリにおいてはどうだったか。こちらはもう前述しました通り、ロジック方面はあまりゲンミツなことをいっても仕方がないわけです。説明がついていればOK、であるわけですからね。“考えられる可能性の中でいちばん可能性が高い”程度の謎解きであれば、まあ上の部という。……しかしいったんそういう認識がなされてしまうと、ある種の本格ミステリ作家の方たちというのは、たちまち暴走しはじめる傾向がなきにしもあらずで。んじゃあとりあえず“説明がつきさえすればよい”ってことね、ってぇんで、どんどこ妄想的なトリックの創出、およびそれを使った謎の演出に血道を上げるようになってしまう。
しまいには謎解きロジックですら“考えられる可能性の中でいちばん可能性が高い”どころではなく、いっそ“考えられる可能性の中で最も可能性が低い”ものの方が意外性が高いじゃん!ってなことになってしまうというイキオイで。もはやこうなってくると、論理性なんざ風前のともしび状態。いうなればこの派のプレゼンテーションのコンセプトは“サプライズ命!”であるわけです。まあ、それはそれで面白い場合もけっこうあったりするのですが、“許せん!”とおっしゃる方がいらっしゃるのも、無理からぬところではあります。
 
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このようなサプライズ命! なプレゼンテーションのヤリクチというのは、まずは“謎の不可能性やら怪奇性やら神秘性やらなんやら”、まあなんでもいいけどそういったコンセプトの演出が一つあって。そして、その謎を成立させるためのメカニズムとしてのトリックそれ自体の“突拍子もなさ”の演出という部分がまた一つ。さらに前述した謎解きロジックの、時に非論理的になることさえ辞さない“三段跳び論法”的論理のアクロバット。という3点がポイントになります。要するにそのプレゼンテーション性格は、“ケレン”そのものなのですね。まあ、最後の1点についてはトリックのメカニズムそのものから生みだされるケースも多いかもしれませんが、こいつがさらにさらに暴走した揚げ句、トリック部分が異常なまでに肥大して、トリックのトンデモナサを際立たせるためにのみ謎が設定されるという、目的と手段が完全に入れ替わってしまった倒錯したケースさえ出現します。いわゆるトリックのためのトリックちゅうやつですね。
このケースは、たとえばトリックから導き出される怪奇性・不可能性だけでは満足できなくて、そこに天変地異やら特殊な環境条件やらの様々な特殊条件を付与することで、当該トリックだけでは実現しえなかった、さらに一段高次のよりトンデモな謎を現出せしめるという、いささか以上に掟破りのプレゼンテーションが行われることもあります。ここまでいくともはや完全に小説及び小説読みさんの常識の範疇を超えています。ですから、往々にしてそれらはある特殊な性向を持ったマニアしか楽しめない、という事態が生じます。たしかにおそろしくバランスの悪い、倒錯した、マニアックな情熱の産物ではありますが、本格ミステリという本質的に奇形な文学の方向性としては、これも当然アリなわけです。っていうかぼくなんて大好きだし。
さて、この派が生みだしたプレゼンテーション技法は、いわゆる本格コードというものに集約されている気がします。むろん例外はたくさんありますし、2つの派が夫々もう一方のそれを応用使用する場合も多々あるわけですが、まあ細かなことは気にせずにいってしまえば、“密室”“嵐の山荘”“見立て殺人”“童謡殺人”“呪い”“古城”etc,etc……きりがありませんね。
 
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このトリック派には、ロジック派とは違い、メタ趣向の方向性はあまり存在していません。(むろんカーの某作のようなメタなキャラクタもいますけどね)ロジックがやや弱点であるせいか、読者と正面から闘うゲーム性というのはむしろ希薄な感じなのですね。謎の怪奇性という演出と、それと謎解き解説の落差から生まれるサプライスという演出を主眼とするトリック派では、時に作品世界のリアリティを根本的に否定しかねないメタ構造という手法は、基本的にあまり向いていないように思えます。得意とするプレゼンテーションの方向からすれば、むしろ読者をして物語に深く没入させ、謎解きゲーム等という些事にはあまり真剣に心を向けさせない方が、都合が良いわけです。物語に没入してくれた方が、謎の怪奇演出にもラストのサプライズ演出にも、より効果的であるでしょうしね。
実際、このトリック派の実作者には、ストーリィテラーな傾向をもった方がとても多いように思えます。むろん全部が全部そうだとはいいませんが、この派の大家・カーなどは、クイーンやヴァン・ダインなど比較にならない、生まれついてのストーリィテラー/物語造りの名手であったと思うわけで。実際、カーは非ミステリの歴史小説だって面白いものを書いてくれてますからね。つまり、ロジック派のプレゼンテーション技法が、いわば“ゲームというイベントの演出”的な技法であるのに対し、トリック派のそれはあくまで“物語りとしての見せ方”的な技法が中心であるように思えるのです。うーん、わかりにくいかなあ。ぼく自身よくわかってないような気もするが……“気分”だけでも伝わるとよいのですが。
 
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このように、そのコンセプト・プレゼンテーションの双方において、ほとんど正反対の方向を目指していたように思える2つの本格ミステリ派閥ですが、ではこの両者、一切の交流もなく反目しあっていたのかというと、まあそんなことはあるはずもなく。それぞれ互いの利点を認めあって、各技法のヤリクチを応用したり移植したりしあっていたわけです。こうした交流の中で生まれた様々な成果のうち特に顕著なものだったのが、ミスディレクションの技法であったように思えます。
このミスディレクションというテクニックがいつ・誰によって開発されたのかはよくわかりません。ただ私見ですが、トリック派ではなくロジック派の側で開発されたものなんではないかなあ……っていうかその方が“都合がいい”。ミスディレクション/誤導というのは、こと改めて説明するまでもないことですが、“読者を誤った方向に導く”ための記述テクニックです。たとえばある手がかりを、“読者が正解とは反対の方向に受取るように”描く技術、とでもいいましょうか。これというのは“描き方”でありますから、基本的にはあくまで作者が読者に対して仕掛けるタイプの詐術です。しかもそれは全くの嘘を書くということではなく、“本来、受取り方次第で意味が変わる”はずの手がかりを、ある一定の(作者の意図した/正解とは正反対の)方向に導いていく記述テクニックです。つまり詐術ではあるけれど、あくまでフェアでなければならない。という点が大前提となっているわけです。作者が仕掛け・フェアプレイが前提になるテクニック、ということで(無論例外はあります。つい最近も、“作中人物が、作中人物と読者に同時に仕掛けたミスディレクション”という離れ業に感心したばかりです)。これはやはりロジック派特有の、プレゼンテーション技術に相応しいように思えるわけです。いうなれば、トリックを使うことを潔しとしないロジック派が開発した“ロジック派なりのトリック”ということが、できるかもしれませんね。
 
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“ロジック派なりのトリック”、ミスディレクションが造りだされた(これはもちろんぼくの私見ですよ)背景には、あくまでフェアな、つまり読者と対等な推理バトルゲームを展開することが前提となっている、ロジック派ならではの悩みというものがあったのではないでしょうか。読者に対してフェアであろうとすればするほど、推理勝負という点において作者はどんどん分が悪くなっていく……のは想像がつきます。この場合、実際に読者に謎を解かれてしまうという危険性もさることながら、この方向を突き詰めていくと、結末のサプライズがどんどん減じていく危険があるのが、さらに問題であるように思えるのです。
むろん、よほど奇想天外な、つまりけっして読者に解かれずそれでいて納得度も高いロジックをこさえてしまえばいいわけですが、1作2作ならともかく、ずっとその水準を維持することは現実にはなかなか難しいことであるように思えます。ともあれ、そもそもこのロジック派においては、フェアであること、論理的であること、という前提条件が足かせになって、ゲーム指向の強さにも関わらず、実際には作者の側から“攻める技術”というものがあまりなくなってしまったわけです。トリック派の、ある意味何でもありな野放図さとは対照的に、きわめて縛りの多いジャンルなのだといえるでしょうね。
そこで、フェアであり・論理的でありながら、しかも読者を騙し倒す、というある種攻撃的なプレゼンテーション技法として生みだされたのが、ミスディレクションだったのではないでしょうか。このミスディレクションの技法は、その天才的な使い手であるクリスティによってさらに洗練され、進化し、やがてさらに攻撃的かつトリッキーな技法……“叙述トリック”として生まれ変わったことは、皆様もご存知の通りです。
 
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繰り返しになりますが、叙述トリックは、トリックであると同時にプレゼンテーション技法の1つでもあるわけです。それはあくまで作者が読者に対して仕掛けるものであり、本質的に作品内の人物や事件とは本来関係のない、いわばメタな次元のトリックともいえるかもしれません。したがって、このプレゼンテーション技法が採用される作品は、本来ロジック派のフーダニットであるべきだったはずなのです。しかし、これ自体、技法として非常に魅力的なものであったためか、以後、非本格の世界でも引用されるケースが多発(というほどではありませんが)しました。それがことに顕著だったのはフランスミステリでした。
フランスミステリでの叙述トリックの応用の仕方は、しかしまことに斬新というか大ざっぱというか……簡単にいえば、本来の1セット(=叙述トリック・フーダニット・ロジック・フェアプレイ)から、ロジック・フェアプレイを引っこ抜いた作風が多いのですね。結果、何が残るかというと、叙述トリックとフーダニット。でこの2者のみで作品をこさえると、そこに強烈な不可能性とサスペンスが生まれ、そこからハウダニットの謎が生じるわけです。なんたってフェアでも論理的でもないわけですから、早い話が何でもあり、みたいなもんで。まあ、このあたりは、瑣末な合理性よりもまずサスペンスやサプライズを重視するお国柄みたいなものがあるのかもしれませんね。
ところで、このフランスミステリにおける叙述トリックの構図って、何かに似ていると思いませんか? そう、本格ミステリのもう一方の旗頭、トリック派の作品コンセプトに非常に近いものがそこに生まれるわけです。冒頭の強烈な不可能興味、中段の目眩くサスペンス、そしてラストの豪快な、ほとんど何でもありのサプライズ。まさにアレです。いわば叙述トリックを駆使したフランス・ミステリというのは、叙述トリックというプレゼンテーション技法を、メイントリックとして使うことで奇妙な発展を遂げた、トリック派だったのかもしれません。
 
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今日、この叙述トリックをもっとも盛んに用い、様々なバリエーションを生み出しているのは、まぎれもなくわが日本国の本格ミステリ界です。本来、一回性の強い、つまり繰り返して使いにくいネタであるはずのこの叙述トリックを、ほとんどすべての著作に使用するという、折原一さんのようなとんでもない作家まで生みだしているほどで。わが国本格ミステリ界では、いまや叙述トリックは作家にとっても読者にとっても、ごく基本的かつ初歩的な素養の1つとして認識されるに至っているといっていいでしょう。
このように、世界でもあまり例のない叙述トリックの流行ぶりは、いわゆる新本格派に始まる本格ミステリルネッサンスの始まりと期を一にしています。むろん表現のアイマイさへの柔軟性がきわめて高い、日本語という言語の性質そのものが、そもそも叙述トリックに向いていた、という点も見逃せないポイントではあるでしょう。しかし、それ以上にこのことは、新本格派が単に古典的な本格ミステリそのものをそのまま再現していたわけではけっしてなく、まぎれもなく古典的本格ミステリが辿った歩みの最終地点、すなわち当時のもっとも先端的な地点からスタートした……少なくとも技巧的には……ものであったということを、結果的に示しているといえるのではないでしょうか。
またしても少々話のスジがズレたような気がします。まーどちらにしろそろそろ飽きてきたのですが、最期にちょこっとだけわが国本格ミステリ界の“トリックとプレゼンテーション”的状況を概観してみましょうか。
 
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前述の通り古典的な本格ミステリの“最先端の地点”からスタートした新本格派は、トリックおよびロジックの面において、古典的な本格ミステリ技法のあらゆる領域をカバーし、それらを進化させ磨きあげてきました。結果、今日……特にここ数年、トリックおよびロジックの面において、これほどまでに多彩かつ幅の広い技巧の数々を一望できる状況は、おそらく本邦本格ミステリ界以外、世界中のどこにも存在しない、といいたくなるような活況を呈しています。
しかし、トリック・ロジックが多様な発展を示す一方で、その“見せ方”、すなわちプレゼンテーションの部分に関しては、残念ながら往々にして後回しにされなおざりにされているようで。時には旧態依然とした本格コードのみに寄り掛かった方法で、お手軽に処理されてしまうことも珍しくありません。本格コードの使用がすべてイカンというわけでは無論ないわけで、それがどうしても必要なトリックなりロジックなりというものも、もちろん存在します。っていうか、大多数はそれである、と信じたい。しかし、ぼくが不満に思うのは、ややもすればそれらが単に“古典的な本格ミステリへの懐旧の情”を喚起させること、もしくは“ごぞんじの・おなじみの”それを用いることによる“便利さ”ゆえに使われているように思えるケースがまことにd多いことです。もちろんそうしたものもあってよいですし、それはそれで読みたいわけですが、そればかりというのは困ってしまう。
無論一方では新しいプレゼン手法も生まれてないわけではないのですが、どうも昨今感じるのは、それらがトリックなりロジックなりの内的必然から導きだされた技巧というより、ビジネス的な要請から生みだされた“ある種の手続き”めいたものが多いように思える点で。たとえばいわゆるキャラ萌えニーズに応えたキャラメイクのごときは、それはあくまで商品としての付加価値添加作業にすぎないのであって、本来“本格ミステリとして”のクオリティにはなんら寄与するものではないはずです。
 
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ビジネス的な要請から生みだされた“ある種の手続き”としての“キャラ萌えニーズに応えたキャラメイク”。……まあ、それはそれでいいのかもしれません。悪いとはいいませんよ。ニーズあるところマーケットあり、つうのは資本主義社会の基本でありましょうし。が、それでもなお、そんなトコロに工夫をするヒマがあったら、もうちっと他にやるべきことがあるよねえ、などと。どうしても思ってしまうことが多くて。ぼくなどはむしろ、今日ではやや影の薄い感のあるミスディレクションあたりのすぐれた使い手の出現をこそ、おおいに期待したい気がしないではありません。巧妙なミスディレクションは時としてトリックに勝る、なんて思うことさえあるほどで。ぼくはそういもんも大好きだったりするのですが。
このように本格ミステリのプレゼンテーション技巧というのは、現在ややもすればビジネス的な要請に基づくそれのみばかりが、やたら多用されている気配がないではありません。しかし、本格ミステリという基本的にきわめて限定されたテーマ・ルールの基で製作される小説作品においては、それは一般的なエンタテイメントにおけるものとは、かなり異なった性質をもったものであるはずです。これはある読者さん……長年にわたりご愛読いただいている得難い読者さんからいただいた、お手紙の一節にあった言葉なのですが……『本格と呼ばれるものはむしろ、「読者の読解力や知識量を正確に図って、*正しく誤らせる*日本語を書く」必要がある、凄く難しいジャンルになるんですね。一番「日本語」を使い切ってるかも。』……そうです。本来、プレゼンテーションの技術という点では、本格ミステリというジャンルは、本質的に最も高度な技巧が求められるものであったはずなのです。本格ミステリであろうとすればするほど、確実に。
むろん、ここでいう高度な技巧というのは、いわゆる文学性や芸術性といったアートの世界のものではありません。日本語の言葉として・文章としての機能を熟知したうえで、緻密な計算と予測に基づいて引かれる設計図にも似た、きわめて散文的な・職人的な・理数系的な技術の産物であるはずです。むろん、それは理想、ではありますが。……その意味で、本格ミステリを書くならば、まず日本語を理解し文章力を鍛練すべきだというのは……イヤハヤ、まったくもって正論だったりするのですね。
 
(2001.05.07脱稿)


 
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