で、トリックとプレゼンテーションと。もちろん“表現”を行なう上では、双方ともに欠くことのできない大切な要素ではあります。しかし、実際にはそれを兼ね備えたスキのない傑作なんてものには、なかなか出会うことができない、というのが正直な実感。まー、ヘタだけどさートリックはナカナカだからだから許す、とか。巧いンだけどねぇ、どうも核になる仕掛けが小粒だのう、とか。オノレを顧みるに、なんかこう全面的に“許せる許せない”レベルで評価してしまっているケースがとても多いように感じるのです。むろん、それはぼく自身がヤタラ文句の多い不平家だ、ということの証明でもあるわけですが、同時にこんなワタシにダレがした! とも思うわけで。それは、アチラ立てればコチラ立たずな“表現作品”としてえらくイビツなシロモノであっても許容されてしまう・“作品として”成立してしまう、本格ミステリというジャンルの特性が、こんな歪んだニンゲンを作りだしてしまったのではないでしょうか。 しかも、このことは時代小説との比較でのみ明らかになるもんでもないように感じてしまうのが、さらにツライところで。無論、個別の例を拾えば例外はいくらでもありましょうけれど、SFでもホラーでも一般小説でも純文学でも何でもよいけれど、ともかくそれらに比して本格ミステリというジャンルの(ことに)新人さんは、総体として小説技巧偏差値が低めであるような気がするんですね。……書いてしまってからコワくなってきたので、言い換えます。すなわちこのジャンルにおいては、送り手も受け手も“文章力に関して、比較的ハードルを低く・許容範囲を広めに設定している”ように思える、とでも。繰り返しますが、むろん例外はありましょうし、あくまでぼくの個人的な感じ方にすぎません。しかし、本格を読んでいると、どう考えても“本にしちゃいかんだろ”的シロモノに、時折、しかし確実に遭遇してしまうのも、また事実なのです。 極論すれば、“この世界”では、たとえ文章やプロットや登場人物の造形といった小説技巧の部分が相当以上にシンドイ処女作であっても、それ以外の部分、すなわち今回の言い方でいえば“トリック”がとんでもなく秀でていたりすれば、不問に付す……とまではいかなくとも、とりあえず条件付きOKみたいな場合が、比較的多い。ように思えるんですね。すなわち--普通一般のジャンルにおいてはなかなか考えにくいことですが、小説としての上手下手よりもさらに重要視されている要素というものが、本格ミステリの世界にはきっとある。 このこと自体は、奇妙なことだとは思うものの、それ自体特に不満があるとかイカンのではないかとか、そういう気持はありません。このジャンルにはこのジャンルの物差しつうものがあって然るべきでしょうし。本格ミステリとはまさに“そういうものだ”と思いますから。だいたい、ぼく自身は本格ミステリとして“見るべきもの”をもつ方なら、多少小説が下手でも諸手を上げて歓迎しちゃうクチですからね。しかしながら、こういうきわめて特殊な二重の評価軸を備えた本格ミステリというジャンルは、それゆえ、同時に公正な評価を行なうことが、なかなかに困難なジャンルであるようにも思えます。すなわち“小説として”の評価と、“本格ミステリとして”の評価とは、必ずしも一致しない場合が多いのではないか。 幼少の頃よりコノ道ヒトスジに本格バカ道を歩み続けてきたぼくにしても、この点覚えがないわけではないのです。たとえばね、昔は文章の上手い下手とか人物造形とか構成の巧みさとか、そういうものにはとんと目が行きませんでした。ただただ驚天動地のトリックやら意表をついた真犯人やら華麗な謎解きロジックやら、そうしたいかにも本格ミステリ的な仕掛けの数々に、ただもうひたすら酔いしれて、それだけで十二分にマンゾクしていたわけです。それさえあれば幸せでしたし、それ以上いったい何を望む? くらいの気分で。……しかし、そうしたサプライズにもいずれ慣れるもの。徐々に甲羅を重ねてちょいとばかしはモノを見る目というやつが備わってくる(<ホントか?)と、今度は徐々に“小説として”の弱点が目に付き始める。時には、イイトシこいてなんちゅう幼稚な小説を読んどるんだ、オレは。とか、つい思ってしまうこともあったりして。まあ、ぼくの場合、そういうキモチは老化現象の現れと考え、努めて無視するようにしていますが、これがエラい批評家先生ともなればそうはいきますまい。んなもん断じて小説作品とはいえないんだもんねッ! とか思ってしまうのも、ですからある程度無理からぬ話なのかなあと。 ともあれ、ここいらあたりの事情のヤヤコシさが、本格ミステリというジャンルの一般への認知のされ方の遅れにつながっている気がするわけで。ややもすれば、本格ミステリというジャンルそのものを、文学として1段低く見ることにつながってしまう危惧も生まれるわけです。実際、1段低いンじゃねーか、という議論はさておき、本格専業の書き手にとって、これは常々大きな憤懣のタネになっているように思えます。先頃結成された“本格ミステリ作家クラブ”の本当の狙いも、実はこの問題の解消という点にあるような気がしますし、コトあるごとに幼稚な“異議申し立て”を繰り返して、逆に識者の失笑を買ってしまう本格ミステリ作家も現にいらっしゃる。さらにいえば、かつて英国で古典本格黄金時代末期に生まれた英国新本格派のムーヴメントも、根っこの処はこれと同じものがあるような気がしないではないのです。すなわち、文学として評価してもらえないなら、本格ミステリ自身が文学に接近すればよい、という……しかし、前述したように、“小説としての評価と本格ミステリとしての評価は必ずしも一致しない”というのは、本格ミステリが本格ミステリであるがゆえの矛盾です。したがって本格ミステリが本格ミステリたろうとすればするほど、その矛盾は、より尖鋭に拡大されていく気さえしてしまうわけで。裏返して極論すれば、本格ミステリが“いわゆる文学”に接近しようという試みは……その文学的挑戦の価値は認めつつも……本格ミステリ的には、ある意味、ジャンルとしての自殺行為になってしまう場合も、なしとはしない。気がするわけです。むろん全てがそうだとはいいませんが、そういうケースが少なからず存在しているように思えてなりません。 一方では“本格は小説である前に本格なのだ! マイナーで悪いか! トリック万歳!”という気持もハゲシく吹き零れてきますし、他方では“いやしかし、本格とて文学の1ジャンルなのであるから、それぞれバランスの取れた評が理想というべきであらうからしてからに”というような気もしないではない。どうにもどっちつかずのアンビバレンツ状態なのですが、1ついえるのは、本格ミステリというのはしょせん“文学”というくくりの中では、どこまでいってもマイナージャンルであり続ける宿命を負っているという確信です。なんとなれば……ここでようやくテーマにつながってくる!……“トリック/ネタとプレゼンテーション”という基本構成要素の両方において、本格ミステリは普通一般の小説とはとんでもなくかけ離れた性質をもっていると思うからです。話の都合上、プレゼンテーションからいきますが、このうち“小説技巧”の部分をクローズアップしてみて下さい。本格ミステリの、いかにも本格ミステリらしい技巧の多く、たとえばミスディレクションなんてものは、文学、というか小説のテクニックとしては、正統から著しく逸脱し、小説技巧本来の趣旨とは相反するものである気がするからです。 たとえばミスディレクションなどという技術は、その代表格みたいなものといえるでしょう。読者に真意を悟られないようにする、誤解させる、ダマくらかす、ハメる。それも、“最終的に正しく伝えるため”の便宜的なレトリックなんぞではありません、紛れもなく“読者に正しく伝えないこと・誤らせること”を企図しているのです。フツーに考えれば、作者の掌のうちである作品世界で、読者をダマクラカすのはごく簡単であるように思えます。極端なことをいえば、ただウソを書けばいいだけなんですからね。そこに技巧なんてものが必要だとも思えません。しかし、本格ミステリにおいては、ただダマセばよいわけではなく、“フェアに騙”さなければならない、という前提条件がある。つまり、読者をして“セコい!”とか“こすい!”ではなく“騙された私がバカだった!”と、カンピナキまでに納得させなければならない。ミスディレクションはそれゆえに必要とされる、高度な小説技巧であるわけです。それにしても……なんともはや、本格というのは、まったくとんでもないコトに血道を上げている! としかいいようがありませんね。 このことは、本来自由なものであるべき小説という創作ジャンルに属する本格ミステリに、おっそろしくキュークツな制限を課さずにおきません。その制限のキュークツさといったら、時代小説よりもSFよりもファンタジィよりもホラーよりもはるかにはるかに厳しくもまたシンドイものです。たとえば人間、あるいは社会、文明といったものに、未来なり宇宙なり異星文明なりといった“if”をスペキュレーションすることで、いかなる事態ドラマ感情思想が生ずるかを語るSFは、むしろ小説としては大いに自由度の高いものでありえるでしょうし、その意味では神話伝承説話の類いをベースとする、より自由度の高いイマジネーションで世界を構築するファンタジィの分野も同様であるはずです。一方“恐怖”という感情1点縛りである故に、ホラーはやや不自由さを感じさせますが、“恐怖”それ自体が人間にとって普遍的原初的な感情である以上、描き方・プレゼンテーションの方法論において、やはり本格ミステリなどより遥かに高い自由度をもっているように思えます。早い話、ホラーならSF的な趣向でもファンタジィ的な趣向でも本格ミステリ的な趣向でも成立しえるわけですから。 いうまでもありませんが、それら新手のプレゼンテーション技法にせよ、あくまで“魅力的な謎とその論理的解明”というテーマに厳密に沿って設計構築される(べきである)わけですから、そのキュークツさに変わりはないわけで。いろいろアレンジを加えてみたり別の歌手に歌わせてみたり工夫はしてみても、それが相変わらずの古い歌で有ることに変わりはないわけです。なにしろ前述した通り、その“古い歌を歌うこと”が本格ミステリであり、それ以外の歌は本格ミステリではない、のですから。 困ったことに、事程左様に窮屈な制限を課された本格ミステリにおいては、それゆえ本来の小説技巧(本格ミステリだけでなく、あらゆる分野の小説を含む包括的基本的なそれ)に対しても、著しい制限、というか掟破りを行なわざるをえないケースが生じます。それも実にしばしば。“魅力的な謎とその論理的解明”を効果的にプレゼンテーションするための必要から、たとえば(意図的に)“人間を描かない”、時制を混乱させる、話者を曖昧にしたまま物語を進行させるなんてのは序の口。極端なケースでは、普遍的な人間性・知識・常識に照らして必然性を欠いた行為行動を登場人物にとらせる、なんていうことさえ有りえるわけです。さて、長々語って参りましたが、ようやく本題に辿り着こうとしています。ここでぼくが問題にしたいのは、この最後のケースなのです。 これは昔からあったいわゆる“トリック偏重主義”に対する批判とほぼ同じものですが、この批判は本稿で度々繰り返してきた“魅力的な謎とその論理的解明”という本格ミステリのテーマの重心が、その内部において前者から後者へ移ってきたこと、に起因しているように思えます。 いわゆるトリック偏重主義への批判で槍玉に上げられるタイプの、つまりオールドタイプの本格ミステリというのは、なんらかのトリックによって構成された“謎”を解明すること、に主眼が置かれていました。ですから、ネタ=謎の中心はトリックそれ自体の工夫(オリジナリティ、スケール、精密さ、斬新さ等々)にあるわけです。そしてそのプレゼンテーションの方法としては、そのトリックがいかにキッカイな不可能現象を現出せしめるか、この1点に集中していたといっていい。 したがって必然的にその解明部分/謎解きについては、“謎を解く”というよりも、むしろそのトリックの“仕組みの解説”に近いものであったわけで、ロジックという視点からすればいかにも弱く、お粗末なものと感じられるのは当然のことだったかもしれません。なんせコレというのは“論理的に解いていく”のではなくて、“ともかく説明を付けるだけ”で手いっぱいというレベル。直感でも、ヒラメキでも、ともかく説明がついただけでもスゴイ、ということなんですから。 しかし、こうしたタイプのミステリが全盛を誇っていた当時は、それでもOKだったのもまた事実です。それはロジックの弱さをカバーするに足る魅力が、そのトリック自体に存在していたから。ロジック面についていえば“こんな途方もない現象にトニモカクニモ説明がついてしまう”サプライズってことになる。 つまり、バカ本格というのは、トリックが行き詰り爛熟した果てに突発的に生みだされた、ある種の極端な“開き直り”ともいうべき存在で。さらにいえば古典的なトリック偏重主義を極度に抽象化した、アヴァンギャルドかつピュアな本格である、という考え方さえ可能である……かもしれないのです。まあ、よほどの天才でないかぎり“狙って”書けるものではないでしょうし、鬼っ子といわれればその通りなのですが、ある意味、最高に本格らしい本格であるともいえる。 “バカ”という言葉の語感から、“ユーモア本格のキツイやつ”みたいな誤解をされている方もいらしゃるようですが、実はそういうモノではゼンゼンないわけですね。むしろ作者本人は大まじめ。なのにでき上がった作品は、んもー笑っちゃうしかないッ! という感じのものほど、タダシいバカ本格になってしまうようで。……話題がズレました。元に戻しまして……ともかく“この”方向が行き詰って、じゃあ、というので“ロジック”が重要視されるようになってくる。そういえば本格ミステリって本来“そういうもの”だったよネ、というわけで、針は一気に振れて“ロジックのプレゼンテーションの邪魔になるならトリックなんかいらない”というところに行き着くわけです。 このことを別の言い方でいうならば、トリック重視=ハウダニット、ロジック重視=フーダニット、とおおまかに分類することができそうです。(無論、多数の例外があることは承知の上。あくまでお遊びの議論であることをお含みおきくださいね。)なぜこう言い換えるかというと、こうするとそれぞれの提示する“謎自体の性質”がよりわかりやすいように思えるからです。すなわち--ハウダニットとは“どうやって”やったか、であり、フーダニットは“だれが”やったか、ですよね。で、どうやってやったか、というのは、その問いかけ自体、唯一無二の合理的な結論を導きだすというノリではなく、“コレはどういうことなんだ説明してくれ!”みたいなノリ。つまり“解説を求めている”ような気配が濃厚に感じられるのですね。 一方フーダニットの場合は、“誰がやったか証明してくれ”なのですよ。説明しろではなくて、証明しろ。ですから論理的に解いて、証明しなければならない。……まあ、あくまでぼくには、そういう風に感じられるということなのですが。 本格ミステリが“魅力的な謎とその合理的な解決”を主眼とするエンタテイメントであるとするならば、ここでいう後者の、“ロジックの部分から導き出されたものとして謎を構成する”方式の方が、ある意味正しい、というかバランスが取れているということはいえるかもしれません。正統的、とでもいいましょうか。しかし、ロジックという、ある種融通の利かないネタがメインになっているだけに、このスタイルは、プレゼンテーション面における演出技法がたいへん限られているように思えるんですね。なんとなれば、中核となっている謎ー謎解きのラインは、これはもうそれこそ“ロジックによって縛られている”のですから、演出の余地がさほどないわけです。で、どうするか。……ここから生まれてきたのが“フェアプレイ”という発想なのではないでしょうか。 このタイプの本格ミステリは、前述したように、ロジックの妙とそのロジックの必然から生まれた謎がメインネタになっているわけです。したがってそれを効果的にプレゼンテーションするための方向としては、そのロジックがいかに合理的で論理的なもんであるか、を読者にアピールすることでなければなりません。そこでひねり出されたのが、その謎は“アナタにも解けたはず”だという、読者に対するある種の挑発的なプレゼンテーション技術……ここでいう“フェアプレイ”の概念だったのです。 このことからは……再びちょいとばかし極論すれば……いわゆるメタ・ミステリ的な発想の原型/萌芽みたいなものをさえ、感じることができます。普通一般の小説において作者は可能なかぎり姿を隠し、その作品世界が作り物であることを忘れさせようとするのとは反対に、ここでは作者は逆に最前面に登場して読者と真正面から対峙します。そしてその2人が作品世界を見下ろして議論を戦わせる。ちょっと大仰ですが、そんな構図さえ目に浮かんできます。実際、ここまでくれば、メタ・ミステリまではほんの一歩、であることにお気づきいただけるでしょう。 ちなみに本来、メタ・ミステリとはミステリに関するミステリ。自己言及的なミステリ。平たくいえば、“ミステリとは何か”を作品内で論じ批評するミステリを指します(とぼくは理解しています)。そのため往々にしてメタ構造が採用されるケースが多いことが、その外観的な特徴(人によっては、この外観的な側面のみでメター非メタを分類するケースもあります)で……小説内小説(劇中劇ですね)が用意されたり、登場人物が“作中人物であること自覚的”な言動を取ったり、戯画化されたキャラクタ、設定等が採用されたりします。むろん、いずれも既存のミステリに対する批評の一環として、採用されるものであるわけです。無論それぞれ程度の大小はありますけどね、作品世界に通常より1段高いレベルの作者の視線を感じたら、それはもう“メタ入ってる”といって差し支えないのではないでしょうか。 さあらばあれ、ではもう一方。すなわち、謎およびその演出技法として開発された、トリックに重心がおかれているタイプの本格ミステリにおいてはどうだったか。こちらはもう前述しました通り、ロジック方面はあまりゲンミツなことをいっても仕方がないわけです。説明がついていればOK、であるわけですからね。“考えられる可能性の中でいちばん可能性が高い”程度の謎解きであれば、まあ上の部という。……しかしいったんそういう認識がなされてしまうと、ある種の本格ミステリ作家の方たちというのは、たちまち暴走しはじめる傾向がなきにしもあらずで。んじゃあとりあえず“説明がつきさえすればよい”ってことね、ってぇんで、どんどこ妄想的なトリックの創出、およびそれを使った謎の演出に血道を上げるようになってしまう。 しまいには謎解きロジックですら“考えられる可能性の中でいちばん可能性が高い”どころではなく、いっそ“考えられる可能性の中で最も可能性が低い”ものの方が意外性が高いじゃん!ってなことになってしまうというイキオイで。もはやこうなってくると、論理性なんざ風前のともしび状態。いうなればこの派のプレゼンテーションのコンセプトは“サプライズ命!”であるわけです。まあ、それはそれで面白い場合もけっこうあったりするのですが、“許せん!”とおっしゃる方がいらっしゃるのも、無理からぬところではあります。 このケースは、たとえばトリックから導き出される怪奇性・不可能性だけでは満足できなくて、そこに天変地異やら特殊な環境条件やらの様々な特殊条件を付与することで、当該トリックだけでは実現しえなかった、さらに一段高次のよりトンデモな謎を現出せしめるという、いささか以上に掟破りのプレゼンテーションが行われることもあります。ここまでいくともはや完全に小説及び小説読みさんの常識の範疇を超えています。ですから、往々にしてそれらはある特殊な性向を持ったマニアしか楽しめない、という事態が生じます。たしかにおそろしくバランスの悪い、倒錯した、マニアックな情熱の産物ではありますが、本格ミステリという本質的に奇形な文学の方向性としては、これも当然アリなわけです。っていうかぼくなんて大好きだし。 さて、この派が生みだしたプレゼンテーション技法は、いわゆる本格コードというものに集約されている気がします。むろん例外はたくさんありますし、2つの派が夫々もう一方のそれを応用使用する場合も多々あるわけですが、まあ細かなことは気にせずにいってしまえば、“密室”“嵐の山荘”“見立て殺人”“童謡殺人”“呪い”“古城”etc,etc……きりがありませんね。 実際、このトリック派の実作者には、ストーリィテラーな傾向をもった方がとても多いように思えます。むろん全部が全部そうだとはいいませんが、この派の大家・カーなどは、クイーンやヴァン・ダインなど比較にならない、生まれついてのストーリィテラー/物語造りの名手であったと思うわけで。実際、カーは非ミステリの歴史小説だって面白いものを書いてくれてますからね。つまり、ロジック派のプレゼンテーション技法が、いわば“ゲームというイベントの演出”的な技法であるのに対し、トリック派のそれはあくまで“物語りとしての見せ方”的な技法が中心であるように思えるのです。うーん、わかりにくいかなあ。ぼく自身よくわかってないような気もするが……“気分”だけでも伝わるとよいのですが。 このミスディレクションというテクニックがいつ・誰によって開発されたのかはよくわかりません。ただ私見ですが、トリック派ではなくロジック派の側で開発されたものなんではないかなあ……っていうかその方が“都合がいい”。ミスディレクション/誤導というのは、こと改めて説明するまでもないことですが、“読者を誤った方向に導く”ための記述テクニックです。たとえばある手がかりを、“読者が正解とは反対の方向に受取るように”描く技術、とでもいいましょうか。これというのは“描き方”でありますから、基本的にはあくまで作者が読者に対して仕掛けるタイプの詐術です。しかもそれは全くの嘘を書くということではなく、“本来、受取り方次第で意味が変わる”はずの手がかりを、ある一定の(作者の意図した/正解とは正反対の)方向に導いていく記述テクニックです。つまり詐術ではあるけれど、あくまでフェアでなければならない。という点が大前提となっているわけです。作者が仕掛け・フェアプレイが前提になるテクニック、ということで(無論例外はあります。つい最近も、“作中人物が、作中人物と読者に同時に仕掛けたミスディレクション”という離れ業に感心したばかりです)。これはやはりロジック派特有の、プレゼンテーション技術に相応しいように思えるわけです。いうなれば、トリックを使うことを潔しとしないロジック派が開発した“ロジック派なりのトリック”ということが、できるかもしれませんね。 むろん、よほど奇想天外な、つまりけっして読者に解かれずそれでいて納得度も高いロジックをこさえてしまえばいいわけですが、1作2作ならともかく、ずっとその水準を維持することは現実にはなかなか難しいことであるように思えます。ともあれ、そもそもこのロジック派においては、フェアであること、論理的であること、という前提条件が足かせになって、ゲーム指向の強さにも関わらず、実際には作者の側から“攻める技術”というものがあまりなくなってしまったわけです。トリック派の、ある意味何でもありな野放図さとは対照的に、きわめて縛りの多いジャンルなのだといえるでしょうね。 そこで、フェアであり・論理的でありながら、しかも読者を騙し倒す、というある種攻撃的なプレゼンテーション技法として生みだされたのが、ミスディレクションだったのではないでしょうか。このミスディレクションの技法は、その天才的な使い手であるクリスティによってさらに洗練され、進化し、やがてさらに攻撃的かつトリッキーな技法……“叙述トリック”として生まれ変わったことは、皆様もご存知の通りです。 フランスミステリでの叙述トリックの応用の仕方は、しかしまことに斬新というか大ざっぱというか……簡単にいえば、本来の1セット(=叙述トリック・フーダニット・ロジック・フェアプレイ)から、ロジック・フェアプレイを引っこ抜いた作風が多いのですね。結果、何が残るかというと、叙述トリックとフーダニット。でこの2者のみで作品をこさえると、そこに強烈な不可能性とサスペンスが生まれ、そこからハウダニットの謎が生じるわけです。なんたってフェアでも論理的でもないわけですから、早い話が何でもあり、みたいなもんで。まあ、このあたりは、瑣末な合理性よりもまずサスペンスやサプライズを重視するお国柄みたいなものがあるのかもしれませんね。 ところで、このフランスミステリにおける叙述トリックの構図って、何かに似ていると思いませんか? そう、本格ミステリのもう一方の旗頭、トリック派の作品コンセプトに非常に近いものがそこに生まれるわけです。冒頭の強烈な不可能興味、中段の目眩くサスペンス、そしてラストの豪快な、ほとんど何でもありのサプライズ。まさにアレです。いわば叙述トリックを駆使したフランス・ミステリというのは、叙述トリックというプレゼンテーション技法を、メイントリックとして使うことで奇妙な発展を遂げた、トリック派だったのかもしれません。 このように、世界でもあまり例のない叙述トリックの流行ぶりは、いわゆる新本格派に始まる本格ミステリルネッサンスの始まりと期を一にしています。むろん表現のアイマイさへの柔軟性がきわめて高い、日本語という言語の性質そのものが、そもそも叙述トリックに向いていた、という点も見逃せないポイントではあるでしょう。しかし、それ以上にこのことは、新本格派が単に古典的な本格ミステリそのものをそのまま再現していたわけではけっしてなく、まぎれもなく古典的本格ミステリが辿った歩みの最終地点、すなわち当時のもっとも先端的な地点からスタートした……少なくとも技巧的には……ものであったということを、結果的に示しているといえるのではないでしょうか。 またしても少々話のスジがズレたような気がします。まーどちらにしろそろそろ飽きてきたのですが、最期にちょこっとだけわが国本格ミステリ界の“トリックとプレゼンテーション”的状況を概観してみましょうか。 しかし、トリック・ロジックが多様な発展を示す一方で、その“見せ方”、すなわちプレゼンテーションの部分に関しては、残念ながら往々にして後回しにされなおざりにされているようで。時には旧態依然とした本格コードのみに寄り掛かった方法で、お手軽に処理されてしまうことも珍しくありません。本格コードの使用がすべてイカンというわけでは無論ないわけで、それがどうしても必要なトリックなりロジックなりというものも、もちろん存在します。っていうか、大多数はそれである、と信じたい。しかし、ぼくが不満に思うのは、ややもすればそれらが単に“古典的な本格ミステリへの懐旧の情”を喚起させること、もしくは“ごぞんじの・おなじみの”それを用いることによる“便利さ”ゆえに使われているように思えるケースがまことにd多いことです。もちろんそうしたものもあってよいですし、それはそれで読みたいわけですが、そればかりというのは困ってしまう。 無論一方では新しいプレゼン手法も生まれてないわけではないのですが、どうも昨今感じるのは、それらがトリックなりロジックなりの内的必然から導きだされた技巧というより、ビジネス的な要請から生みだされた“ある種の手続き”めいたものが多いように思える点で。たとえばいわゆるキャラ萌えニーズに応えたキャラメイクのごときは、それはあくまで商品としての付加価値添加作業にすぎないのであって、本来“本格ミステリとして”のクオリティにはなんら寄与するものではないはずです。 このように本格ミステリのプレゼンテーション技巧というのは、現在ややもすればビジネス的な要請に基づくそれのみばかりが、やたら多用されている気配がないではありません。しかし、本格ミステリという基本的にきわめて限定されたテーマ・ルールの基で製作される小説作品においては、それは一般的なエンタテイメントにおけるものとは、かなり異なった性質をもったものであるはずです。これはある読者さん……長年にわたりご愛読いただいている得難い読者さんからいただいた、お手紙の一節にあった言葉なのですが……『本格と呼ばれるものはむしろ、「読者の読解力や知識量を正確に図って、*正しく誤らせる*日本語を書く」必要がある、凄く難しいジャンルになるんですね。一番「日本語」を使い切ってるかも。』……そうです。本来、プレゼンテーションの技術という点では、本格ミステリというジャンルは、本質的に最も高度な技巧が求められるものであったはずなのです。本格ミステリであろうとすればするほど、確実に。 むろん、ここでいう高度な技巧というのは、いわゆる文学性や芸術性といったアートの世界のものではありません。日本語の言葉として・文章としての機能を熟知したうえで、緻密な計算と予測に基づいて引かれる設計図にも似た、きわめて散文的な・職人的な・理数系的な技術の産物であるはずです。むろん、それは理想、ではありますが。……その意味で、本格ミステリを書くならば、まず日本語を理解し文章力を鍛練すべきだというのは……イヤハヤ、まったくもって正論だったりするのですね。 (2001.05.07脱稿)
|