あのひと-1

 
のひとに、僕は2回ほどお会いした経験があります。
 
からもう10年以上も前のことです。
そのころある事情があって、僕の会社のオフィスの一角に、
業界ではちょっとは知られたイラストレーターがデスクを置いていたことがあります。
そのイラストレーターはとても気さくな人で、
ヒマさえあれば僕らのところに来て馬鹿話をしていくのが習慣になっていました。
あるとき、なにかの話でぼくがミステリマニアであることを知った彼は、
「ほんじゃあ、彼とかの作品も読むんきゃ?」といって、1人のミステリ作家の名前を挙げました。
ええ、もちろん!……というか、僕にとっては神様みたいな方ですよ。
「ふ〜ん、じゃ会ってみるきゃ?
わし、今度あの人と仕事することになってのう。打合せ、ここに来てもらおっきゃ」
(ホントにこういうしゃべり方をする人なんですよ)
その時の気分は、ちょっと言葉ではいいあらわせません。
紋切り型ですが、文字通り「天にも昇る気持ち」というやつです。
 
日後。
あのひとはたった1人でぼくらの事務所にやってきました。
細身の体にジーンズ、傷だらけのブーツ。
肩に革ジャンをはおり、もつれた長髪の陰から射るような視線をのぞかせ……。
著者近影でみなれていた風貌そのままの、あのひとです。
手早く打合せを済ませると、イラストレーターは約束通り僕を彼に紹介してくれました。
「いつも僕の本を読んでくれているそうですね。ありがとう」
そういって、彼は笑みを浮かべました。
一見とても気難しくとっつきにくそうな雰囲気をもった彼ですが、
その笑顔はどこか照れくさそうで、人懐っこく、なんていうかとても“いい感じ”です。
とはいえ、なんといっても憧れのあのひとなのです。
商売がらいろんな人に会う機会が多い僕は、誰に会ってもめったに上がることはないのですが、
その瞬間から一気に頭に血が上り、自分が何を話しているのかさえわからなくなってしまいました。
 
もかく無我夢中のまま1時間。
ひたすらミステリのこと、彼の作品のことを話し続けました。
忘れられないのは、僕がサインをもらおうと用意してきた彼の処女長編を見て、
あのひとがちょっと驚き、ひどく嬉しそうな、懐かしそうな顔をしたこと。
「この初版を持ってる人は、たぶん数百人しかいないよ。売れなかったからね……。
君はこれ、古本屋さんで見つけたの?」
 
いえ、とんでもない!新刊で買いましたよ。
さすがにその時は、書名にも著者名にも心当たりはありませんでしたが、
なぜか魅かれるものを感じて手に取ったんです。
すると読者への挑戦がついてる。解決部分は袋とじになってる。レジにすっ飛んでいきましたよ!
もうその頃から、本格は……書く人そのものがどんどん減っていましたからね。
 
りがとう、と、またあのひとはいいました。
「だいじょうぶ、本格は絶対になくならないよ。どんな時代になっても、なくならせはしない。
本格の灯は消しちゃいけないんだよ。絶対にね」
そういって、彼はまた笑みを浮かべ、僕が差し出した本にサインをしてくれました。
 
れから10年以上の年月が過ぎ、僕と僕を取り巻く世界はずいぶん変わってしまいました。
けれどそれでも、僕はあいかわらず本格ミステリを読み続けています。
“期待の新人”、“話題の新作”。
新刊を手に取るたびに抱く大きすぎる期待は、裏切られることの方が多かった気もするけれど、
それでもやっぱり読み続けています。
好きだから?
ええ、もちろんそうですが、それだけじゃない。
たぶんこうして読みつづけることが、僕なりの本格の灯の守り方なのかも知れません。
 
してまた。
僕はいまも信じて疑いません。
いつの日かふたたび、最高の本格ミステリが彼の手によって書かれるということを。
あのひと……島田荘司さんの手によって。
 
 
PS できすぎてる、と思われるかも知れませんが、これはほんとの話です。
その後、僕は島田さんの自宅にまでお邪魔したのですが……その時の話はまたあらためて。
 

 
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