−江木姉妹小伝その2ー
written by やま

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江木ませ子
 さてだらだらと連載は続いているが、ここでやっともう一方の主人公、江木ませ子のお話である。この文章を書き始めた当初はませ子についての情報はほとんど手に入ってなかったし、期待もしていなかった。派手な人生を送って寂しく死んだ栄子と、美人画のモデルとなった以外はとりたてて話題のない平凡な主婦ませ子、という構図で書き始めたのだが、調べていくとどうしてどうしてませ子も普通の主婦とはいいながら、ドラマチックな人生を歩んでいるのであった。そうしてもうひとり、悦子という江木の名字を冠した関新平の娘がもうひとり登場する。
 なお、ませ子は漢字で書くと万世または万世子と書くのだが、本文ではませ子と表記する。

 冒頭に述べたように関新平43歳の時に正妻の和気子との間にもうけた娘がませ子であり、明治19年(1886)というから、愛媛県令であった新平はませ子が産まれて1年後に亡くなっていることになる。
 ませ子には16歳年上の悦子と、4歳年上の藤子というふたりの姉がいた(栄子の異父姉妹に当たる)。明治20年(1887)に関新平が亡くなった時、妻の和気子が何歳であったかは分からないが、悦子(17歳)、藤子(5歳)、ませ子(1歳)の3人の娘を連れて、新平の実弟関清英の元に身を寄せていた。

 この関清英という男は、嘉永4年(1851)5月7日佐賀椎小路生まれ、関家の三男で関新平の8歳年下の弟である。藩校弘道館に学び、明治元年(1867)長崎・横浜で外国語と法律を学んだ後、明治9年(1876)に司法省十二等出仕を皮切りに検事補、検事正(仙台、名古屋、鹿児島等)と進み、のちに佐賀県令(明31)、群馬県令(明34)、長野県の知事(明35〜38)を歴任、警視総監(明38)まで登り詰め、貴族院議員となった男である。ちなみに佐賀県令時代は選挙干渉に端を発した県会乱闘事件の黒幕として国会で追求されたこともある。長野県令時代も県議会ともめて政友会派への選挙干渉をするなど波乱の就任期間であったようだ。
 世間的には関清英は策士と呼ばれていたようで、かなりの遣り手であったと思われる。

 世上渠(かれ)を目して中央倶楽部の黒幕と呼び、或は権謀術数を弄するの策士と傚す、然り渠が多年官海に遊泳し往年長野県知事より一躍警視総監の要職を勝ち得たる手際などに至っては一入(ひとしお)策士たるの感を深からしめたり。
併しながら是れ皮相の感にして所謂道聴の言のみ、渠に昵近(じっきん)して親しくその為人(ひととなり)を伺はんか、策士と言はんよりは寧ろ率直たるを知るならん、渠の心事は案外に高潔なり、故に渠は人を疑わず、一度び事を他に委任するや至誠を其の人の腹中に置き敢て干渉すること無し、畢竟これ渠のの胸中明鏡の如く一点の陰影なきが故乎。
 斯く人を信ずること厚きを以て、時に或は不測の迷惑と損害を蒙むることありと雖も、多くは其の意気に感じて誠意誠心以て事に当らざるは無し、是れ渠が穏然人に長たるの大器を示す所以にあらずや。
 政客として起ちしだけありて、渠は口舌の人として敢えて人後に落ちず一度び議論を交ふるや犀利の舌鋒鋭く駁撃論難を以て対手(あいて)をして完膚なからしむ、就中(なかんづく)座談は最も得意とする所にして自から対者をチャームするの妙あり、夫の毎日数十人の訪者を相手にして長広舌を揮ふ早稲田伯と相伯仲す、又隠れたる座談家ならずや。
【財界の異彩関清英/妖星・遠間平一郎】

司直の府に立ては公平清廉の秋官を以て聞え、牧民官としては辛辣峻厳なる手腕家を以て称せられ、随所に成績を挙げ、又其の上院に在るや大浦子(註:大浦兼武)と提携して隠然一大勢力をなせり。
【佐賀県歴史人名事典】

関清英
 江藤新平などを見るまでもなく、佐賀藩士の議論好きは有名らしいが、清英もまたその性癖を持っていたらしい。故郷佐賀県に県令として錦を飾った明治33年(1900)、尺八の川瀬順輔が清英の開いたパーティに参加している。その回顧録によると当時虚無僧として九州を回っていた川瀬は、友人と参加したそのパーティで関清英に絡まれるが、最後には清英に所望されて一曲披露している。その時清英は「実は俺も明治の初年政治に奔走して居る際に、一時身を隠す手段として虚無僧をして世を忍んだこともあつだ」などと自慢している。
 実業界にも顔が利き、明治40年(1907)、茨城県日立市に設立された助川セメント製造所(現在の日立セメント)にも関与している他、明治精糖(現在の大日本明治精糖)、中央精糖などの代表でもあった。新平が亡くなった明治20年(1887)当時は鹿児島地方裁判所の検事正をやっていたが、東京の神田区西小川町に家を持っていた。ここは衷の法律事務所があった神田淡路町から近くでもある。関新平が亡くなった時、清英は遺骨を故郷佐賀に持ち帰り、佐賀県鹿子村の慶ァ寺(現佐賀県本庄町)にて葬儀を営んでいる。清英自身は昭和2年(1927)1月没。正四位勲二等を贈られている。


 長女の関悦子は関清英の家に引き取られた後、東京で女学校に通っていたが、その頃4歳年下の樋口国子(邦子とも書く)という友人を得る。この女性は、元山梨の農民で士族に成り上がった樋口則義の娘であるが、この父親が明治22年(1889)に亡くなった後は、母親と娘ふたりという女三人だけの家庭となり、かなり貧窮していた。姉も国子も裁縫などを請け負うなど、生活費を稼ぐために学業を諦めていた。
 しかし実はこの国子の姉が、樋口夏子(奈津子)、つまり樋口一葉なのである。

 悦子は国子を通じて一葉とも交友があり、一葉が残した日記にも再々登場する。一葉の日記は29年(1896)まで残されているが、悦子に関する記述は、あまり分量も多くないのですべて抜き出してみよう。悦子はすでに結婚して小石川区大塚辻町外に住んでおり、関場という名前で登場する。明治24年当時21歳である。

明治24年6月14日【若葉かけ】
 十四日 国子関場君へ行て書物ども少し借てくるうちに学海居士の十津川もありき
明治24年8月1日【わか草】
 国子今日関場君にて反物を貰ふ 幾度となく取出しては打眺めたるは嬉しさになめり
明治24年8月【同上末尾】
 日本外史関場君より借りる
明治24年9月26日【蓬生日記】
 国子は今日関場君とひ参らせるとて給はりつる栗なと我にもくはす 半井うしの事なども聞て来ぬ
 関場君より日本外史及び吉野拾遺をかりて来る
明治24年10月26日【同上】
 廿六日晴天 国子関場君へ参る 半井君の負債事件聞来る 尾崎紅葉が不品行なることなどいと多く聞ゆ
明治25年3月7日〜11日【につ記】
 関場君よりはがき来たり 国子に参りくれ度しとあれば何事かしれねど明日参り給へなどといふ
 八日 午後くに関場君へ行 ひる飯馳走に成りて午後帰る 悦子君実家の妹十歳になりとかいへるを中嶋師のもとに入門させ度紹介を依頼したしと也 同家より御伽草紙上下貸与さる
 九日 …相談種々 日没一同退散 関場君依頼一条異議なくとゝのふ
 十日 …国子関場君に復命をもたらす 同家より報知新聞かり来る
 十一日…直に関場君へはがきを出す 暫時して同家よりはがき来る 行違ひになりたる也
明治25年3月18日【日記】
 午後関場君并に中嶌師のもとより手紙来る
明治25年3月19日【同上】
 …但し関場君今日入門の筈成りしが障ることありて得せず断のはがき来る
明治25年4月24日【につ記】
 廿四日早朝関君へはがきを出す
明治26年3月7日【よもきふ日記】
 北海道関場えつ子君より文あり
明治26年3月26日【よもきふにつき】
 早朝札幌関場君より国子のもとに文あり
明治27年1月10日【塵中日記】
 これより年賀の状を出したるは山梨にて野尻兄弟雨宮古屋越後の坂本ぬ<し札幌の関場君東京にてハ三宅伊東旧半井櫻井喜多川君並びに兄君成れり
明治27年11月11日【水の上】
 十一日 けふは瀧の川の紅葉みんと田中君にちぎり置しを市川ぬし関の藤子などの稽古に来たらむも斗がたければことはりいひやる
明治28年5月17日【ミつのうへ】
 関場君のもとより藤子か病気の容体申しこさる
明治29年1月頃【水のうへ】
 日こと訪ふ人ハ花の如く蝶の如きうつくしの人々也 大嶋文学士が奥方のやさがたなる大はしとき子の被布すがたわか/\しき 今ハ江木が写真師の妻なれど関えつ子の裾もやうでたち 同じく藤子が薄色りんずの中振袖 それよりハ花やかなる江間のよし子が秋の七草そめ出したる振袖に緋むくを重ねしかわりのさまもよく師はん校の両教授がねづみとびわの三まい着取々にいやなるもなし
 明治27年(1894)正月の年賀状の記述から分かるとおり、樋口家が親しく付き合っている数少ない交際相手のひとりが悦子であり、清貧にあえぐ樋口家を何かと援助していたお嬢様という様子が見える。蔵書もかなりあり、教養程度もかなり高かったようだ。ちなみに樋口家は元々士族で羽振りがよかったが、父親と長男が亡くなってから家が没落し、清貧にあえいでいたのである。そんなに仲が良いなら、樋口一葉に資金援助してやりゃあいいじゃねえかという声も聞こえてきそうだが、一葉は最も仲の良かった友人からも金銭援助を受けることは頑として断ったらしいし、第一当時として、いくらお金持ちでも女性はお金を自由にはできなかったものらしい。

 明治26年3月に樋口一葉から札幌にいた悦子宛に出された手紙の草稿が残されている。この手紙は妹の国子の代筆であるため、国子になりきって書かれている。

御返事延引御ゆるし願上候承り候へば 又々御病気にて御入院あそばされ
候よしもし御目出度にはいらせられず候哉 それならばお嬉しけれど例の
リウマチか流行の御風などにや深く御案じ申上候 別て只今は時かふ(註
:時候)のかはりめ故 丈夫のものさへ心あしくおぼえ候へば つねにお
よはき(註:お弱き)御身にては 御如才あるまじけれど御養生専一に遊
され候様祈上候 御地も少しハ春らしく花めかし候や 此地もことしは寒
つよき為 梅はおくれ候へども 桜は廿日頃さかりと申事に御座候 御入
院中さぞかし御さびしく入らせられ候はん 申上るほどにはなけれど 東
京にては市区改正の追々にはじまり 私しがめにちかく知りたる所に而は
湯嶋の切通しなどの広く成たること 只今も猶さかりに取ひろげ中なれど
凡そ十五間斗の幅に相成べくと存じ候 天神も公園地に成りて より誠に
しづかに綺麗にて ことしは梅もよろしく此ほどの日曜の夕方より姉と一
所に参り 御社のうしろのがけより見下し候所 朧月のよるではあり誠に
よきけしきに存じ申候 お前様東京にお出ならばと其時も御うわさ申出し
候 御存じにも入らせらるべけれど 浅草のお開帳も此の一日よりはじま
り三日の大祭などには殊のほか人手ありしよし 追々花見の時節にもむか
ひ候まま 桙ゥし(註:さぞかし)賑はふことゝ存じ候 私しは御存じの
出不精に而家の中に斗籠り居り候へども 花の時には向嶋より浅草だけは
参り度と存じ居候間見物の上又々御はなし申上候 青年絵画共進会とか美
術展覧会とかどこにもかしこにもおもしろき事の多き様なれど 私しなど
はほんの耳に聞くだけに御座候 御わらひ可被下 なほ/\申上度こと 
いと多けれど 例の筆まはりかね残ねんながら書きとゞめまゐらせ候 か
へす/\゛も御病気を御大事に少しもはやく御全快の御報を承り度 これ
のミ祈り居候 末ながら旦那様にもよろしく御申上のほど是又願上候 何
もあら/\のミに御座候
                              かしこ
 この日記と手紙の草稿から、悦子は夫の関場と共に札幌へ引っ越したが、北海道の気候が会わなかったのか病気がちとなり、明治27年(1894)11月頃には単身東京に帰京し、結局は離婚していることが分かる。妹の藤子は「悦子君実家」つまり神田の関清英邸に住んでおり、樋口一葉の紹介で中嶋歌子の私塾に入門している(一時期一葉から直接教えを受けていた)。特に記載はないが、ませ子もこの関清英邸にいたものと思われる。


関場不二彦
 悦子が嫁いだ「関場」であるが、筑摩書房版「樋口一葉全集」の注釈によれば、関場不二彦という医者とのことである。号は関場理堂という。関場不二彦は慶応元年(1865)9月19日生まれで悦子の5歳年上である。彼の家系もなかなか興味深いので、ちょっと寄り道して紹介してみたい。
 関場家の祖先は伊賀の出身で、蒲生家に仕えていた。蒲生氏郷に仕えた関場太右衛門は禄高130石で、伊賀衆と呼ばれるエリートであったそうだ。つまり忍者の祖先なのである。本能寺の変で織田信長が没して後、豊臣秀吉により蒲生氏郷は会津百万石に飛ばされるが、それに従い、関場家も会津に移動する。しかし氏郷没後、跡を継いだ蒲生秀行は豊臣秀吉に下野国宇都宮18万石に格下げされる。関場家はそのまま会津に残り、会津藩加藤家、松平家の藩士となり、時代を下る。
 関場不二彦の曾祖父にあたる関場春温(友吉)は会津藩で与力を勤めていた。この頃ロシアの南下政策により、北方が脅かされるようになっていたが、それに対抗するため、江戸幕府は文化4年(1807)に津軽・南部・秋田・庄内各藩に対し、蝦夷地(北海道)防備を命じる。会津藩に対しては、翌5年に松前・宗谷・利尻・樺太の防備が命じられ、会津藩は梶原平馬景保を番頭として252名の藩士を利尻島に派兵している。関場春温は252人のひとりとしてこれに従い、1月10日に出発、翌閏6月1日に利尻島に到着している。この蝦夷地防備は約3ヶ月で終わるが、開拓前の蝦夷地のこととて、気候、食物の違いにより派遣された藩士にとって大変過酷なものであったらしい。春温は帰還直前に風土病である水腫病に罹り、その地で倒れることとなる。水腫病による死者はこの蝦夷地防衛で51名に及んだそうだ。(※1)
 春温の息子関場春武(安五郎。関場不二彦の祖父)は文化4年(1807)生まれであり、蝦夷地出兵中に父親が亡くなった時、彼はわずか2歳であり、この年で関場家の家督を継ぐことになる。会津藩で小納人や武具役所吟味役、奥女中付などを務めたが、幕末戊辰戦争が勃発。松平容保率いる会津藩は当然幕府側(賊軍側)であり、官軍相手に壮絶な鶴ヶ城守備の戦いを繰り広げている。春武は当時62歳という高齢であったため、軍役には付いていなかったが、「今敵兵我境を侵す。是れ臣一死を報ゆる秋なり」と壮烈な上申書を提出し、戦いに馳せ参じようとするが、この上申は高齢を理由に却下される。しかし春武は再度上書して譲らず、遂に敢死隊指図役の命が下る(九石五斗二人扶持)。
 ちなみに敢死隊は鶴ヶ城が包囲された慶応4年8月に藩下の町民を募って作られた義勇兵である。250名で隊長は小原信之介。8月25日小田山を巡る戦いで壊滅。
 春武は鶴ヶ城下柳原口を守備したが、慶応4年(1868・明治元年)9月6日、敵兵迫るを聞き、槍を揮って出撃したが、敵兵の弾丸にあたって62歳の命を閉じた。
 関場春武の次男、関場忠武(辰治、不二郎、万図之助とも。不二彦の父親)は天保9年(1838)1月17日生まれ。御徒士勤九両三人扶持の会津藩士であったが、藩主の松平容保が京都守護職として京都にあった際に随従していたらしい。京都常詰御本隊御先備(さきぞなえ)ということで、在京都会津軍の先鋒隊である。従って、新撰組とともに京都を舞台とした幕末動乱を見ているのだろう。会津藩主松平容保は大政奉還後に会津に戻り、この後戊辰戦争が始まるが、会津藩の主力である朱雀隊に所属して戦っているようだ。
 会津人の会津人による会津人のための幕末会津小説『会津士魂』(早乙女貢)にも関場辰治として登場している。

 酒屋に配置された会津藩大砲隊に、赤谷を守る命令が届いたのも、その日のことである。(中略)
 案じられるのは、新発田藩の向背である。西軍に通じて、北辺を侵す心配があったのだろう。
 大砲隊の隊長安部井彦之助は、ただちに大砲隊を出発させようとした。(中略)
 隊士の関場辰治は、出動をいさめた。
「西軍はすでに越路に入って来て居ります。いま、動くのは、危険ではありますまいか。」
「てまえもそれを考えていたところですが」
 と、中川景次郎も言った。
「酒屋の守備を疎かにしてよいとはいえません。赤谷の方は、津川から行けばよい。何も、この酒屋を空にすることはないのだ」
 隊士たちには、国境いの山中である赤谷よりも、信濃川のほうが、大事に思われるのだ。
(中略)
 安部井は、かれらの言葉にいちいち頷いた。
「おぬしらのいうことはもっともだ。だが、われらの判断だけで、ここに居座ることは出来ぬ。新発田藩の動向は判然としないが、ともあれ赤谷に行くしかあるまい」
 安部井の言葉で、隊士らは納得した。
 かれらが酒屋を出発したのは、翌閏四月八日のことである。
 翌日は大雨になった。(中略)漸く、日没に赤谷の本陣へ到着した。
 新発田から攻めてくるには、必ずこの赤谷街道である。ここを扼していれば、会津領に侵入させることはない。
 だが、新発田藩が東軍に味方するのなら、ここの守備は無意味なのである。
 その真意を探る必要があった。
 数日後、朱雀二番寄合組隊が五十公野に移動したことを聞いて、安部井は関場辰治を派遣した。
 関場は、新発田藩の動向を早く知りたい気持ちが強かったから、進んでその任にあたった。
 五十公野は新発田の近郊で会津領である。
 関場は、まず中隊頭の土屋徳蔵に会って、新発田藩の様子を聞いた。
【会津士魂/早乙女貢】
 とのことで「新発田藩に、敵対の気持ちがあるとは思えない」との報告を持って赤谷に帰るが、そのまま会津若松へ送られる。この後も朱雀隊とともに各地を転戦し、終戦まで生き残ることになる。
 戊辰戦争を生き残った関場忠武は高田藩預けとなったが、その時の身分は城取新九郎附属士分(朱雀四番士中隊?)とのことで、横手浄国寺本堂に幽囚されている。

 敗軍となった松平容保の会津藩は、明治2年(1869)の版籍奉還で旧南部藩領を与えられる(これは左遷ではなく、容保が望んだものらしい)。この時に旧藩士およびその家族17,000人あまりが同行したが、関場忠武も息子不二彦と共に同道し、斗南藩大湊大平村(青森県むつ市大平町)に移住する。斗南藩は表高3万石とされているが、実高は7000石程度であったといい、旧会津藩の移住者は想像を絶する辛酸をなめることになる。

建具あれど畳なく、障子あれど貼るべき紙なし。板敷には薦を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等を藁縄にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き貫け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。衣服は凍死をまぬかれる程度なれば、幼き余は冬期間四十日ほど熱病に罹りたるも、褥なければ米俵にもぐりて苦しめらる。
【ある明治人の記録/柴五郎】
関場忠武は明治4年(1871)2月27日斗南藩権少属庶務掛に任命されているが、権大参事山川浩ですら生活は困窮しており、給金としては微々たるものであったと思われる。そんななか元会津藩士族の若者たちに書や読書を教えたりしていたようだ。そして明治11年2月には東京に出ているようである。
 しかし斗南藩は、北国の厳しい環境に農業もうまく立ち行かず、松平容保も明治4年の廃藩置県を期に東京へ行ってしまうなどあり、旧会津藩士たちは次第に全国に散っていったとのことである。そういった経緯によるものかどうか分からないが、忠武は役人というよりも歴史家・著述家として名を残している。代表的な著作に『葦名家由緒考証』『葦名世系年代事績考』『浮世絵編年史』などがある。
 息子の関場不二彦はその影響を受けたのか、明治の新時代に学問で身を立てることを決意し、見事東京帝国大学に進むことに成功する。

 関場不二彦は慶応元年(1865)9月19日、会津若松に生まれている。先に述べたように明治3年、家族と共に大湊へ移住した時にはまだ5歳である。明治7年9月には東京へ移住し、湯島小学校下等八級に入学する。父親に影響されたのか勉学に親しみ、東京師範学校付属小学校(明9)、東京外国語学校(明11)を経て、明治15年(1882)東京帝国大学で医学部へ進み、外科教師であったドイツ人医師スクリバに師事する。卒業は大日本帝国憲法が発布された明治22年(1889)である。その後も同学第一医院外科で助手を勤めていたが、この助手時代に関清英の下に身を寄せていた関悦子と結婚する。
 不二彦は恩師スクリバの推薦を受け、明治23年(1890)に官立から公立に移行したばかりの区立札幌病院(現市立札幌病院)の副院長に就任、グリンムを継いですぐに院長となる。この札幌病院着任のため、明治25年(1892)に妻の悦子を連れて北海道に渡ることになる。不二彦は札幌病院長を1年勤めた後に職を辞し、私立の北海病院(※2)を開設する(明26)。
 悦子と離婚したのはこの頃のことらしいが、明治31年(1989)から不二彦は欧米に留学し、帰国後病院を北辰病院に改める。北辰病院はその後、北海道で最も大きく有名な私立病院となり、札幌病院と共に北海道の中心的役割を担うようになっていく。
 関場不二彦は当時外科の腕は一流と言われ、北海道医師会の初代会長を勤めたり、バチェラー(※3)に請われてアイヌの無料診療所を開くなどの事跡があると共に、アイヌ人について文化的人類学的研究行うなど、北海道の医学界にとっては欠くことのできない人物であった。ちなみに不二彦は悦子と離婚後、再婚しており、昭和6年(1931)までの38年に亘って北辰病院長を勤めた後、昭和14年(1939)に病没している。

※1北方警備
 北海道の利尻島には現在でも会津藩士のお墓があり、その業績を称えた碑が宗谷岬に建てられている。碑に刻まれている慰霊の句。
 「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」
※2北海病院
 元々は関場医院と呼ばれた。後に北辰病院に改称。現在の札幌社会保険総合病院北辰病院。札幌市中央区の大通り沿い、北1条西4丁目にあった。ちなみに三浦綾子の『塩狩峠』に北辰病院の関場博士が登場する。
※3バチェラー
 英国聖公会の宣教師として北海道に渡り、宣教と共にアイヌに対する教育や職業など救済に力を注いだ。「アイヌの父」


 関場不二彦が明治25年(1892)に区立札幌病院へ赴任した時に、悦子が一緒について北海道に渡ったものと思われる。ところが悦子は厳寒の札幌生活に合わなかったのか、はたまた夫婦間がうまく行かなかったのか不明であるが、まもなくそこで離婚、ひとり東京に帰ってきていた。明治29年1月の一葉日記に「今は江木が写真師の妻なれど関えつ子の裾模様出で立ち」と書かれていることから分かるように、悦子は明治28年(1895)に再婚しており、江木悦子となっている(明治28年5月には「関場君」と呼ばれているので再婚はその後)。ここに出てくる「江木が写真師」とは、神田淡路町二丁目に江木写真館を経営していた江木保男という実業家のことである。同じ江木姓を名乗ってはいるが、江木衷や千之の江木家と縁戚関係にはなく、ただの偶然である。
 江木保男は隅田川の一銭蒸気の経営や乗合馬車にも参画するなど、洋風文化が入り込んだ明治という時代で手広く事業を手がけており、写真店も神田淡路町と新橋(京橋区銀座土橋)に2支店構えていた。神田淡路町二丁目の本店は、江木衷の黒門の邸宅と同住所であり、両江木家は同じ町内のご近所さんだったのである。江木写真館の淡路町店が開いたのは明治17年(1884)、9年後の明治26年(1893)に江木衷が引っ越してきており、そこに異腹の姉栄子が嫁いできたのである。これも全くの偶然である。
 ちなみに樋口一葉も一時淡路町に住んでいたことがある。明治22年3月からということなので、江木写真館はすでに開業しているが、友人の悦子はまだ独身で関清英邸にいたものと思われる(父親の関新平は明治20年没)。悦子と樋口国子がいつ出会ったのかは分からないが、悦子はその後関場不二彦に嫁いで北海道に渡るので、一葉も友人が数年後にご近所の有名写真館の主人と再婚するとは思ってもみなかったであろう。

 悦子は再婚であるが、江木保男も結婚歴がある。福山藩の儒学者であった父親江木鰐水の弟子の娘・蝶子と明治18年(1885)に結婚しており、ふたりの間に定男という名の息子をもうけていた。しかしこの奥さんが明治27年(1894)に病没したため、まもなく北海道から帰ってきた悦子を後妻として迎え入れたものらしい。ちなみに悦子から見れば保男の連れ子となる江木定男は明治19年(1886)生まれであり、実妹のませ子と同い年の息子ができたということになる。

 ませ子の幼少時代についてはよくわからないが、関新平が愛媛県令を勤めていた時に生まれた娘であり、1歳の時に新平が亡くなっている。新平没後、母和気子、姉たちと共に神田区西小川町に住んでいた弟の関清英の邸宅に移り、そこで育ったようだ。
 やがて15歳の頃(明33頃)、東京女子高等師範学校附属高等女学校に通い始める。年の離れた姉・悦子は既に江木保男に嫁いでおり、淡路町に住んでいた。淡路町と御茶ノ水は淡路坂を登ってすぐ近所なので、おそらく通学の便のために、ませ子は淡路町の姉夫婦の家に移り住み、家事を手伝いながら通学することになる。江木千之の娘秀子も同じ学校であるが、この頃は父・江木千之の広島県知事赴任に同行しているため、同時に在学したことはない。
 先に述べたように、栄子の調査により、異母姉妹である彼女らが再会を果たしたのはちょうどこの頃のことである。
 悦子が江木家に嫁いできたのが明治28年(1895)頃で、栄子が越してきたのが明治30年(1897)頃のことであり、栄子の調査によって姉妹であると判明する明治33年頃まで、何の運命かごく近所に住んでいながら姉妹だとは夢にも思っていなかったのである。
 同じ町内に江木姓の家が2軒あり、有名な写真店と高名な弁護士であったわけで、当然双方の面識はあったものと思われる。
 栄子は江木衷と結婚してから自分の出自を調査し始め、関家との関係を知るわけだが、その実の姉妹がすぐ近所に住んでいたというわけなのである。この後栄子とませ子は親しく付き合い、栄子が亡くなるまで途絶えることはなかったようである。栄子と悦子、ませ子が再会した当時、栄子は21歳、ませ子は15歳、悦子は30歳である。

 後にませ子をモデルに『築地明石町』を描くことになる鏑木清方は、江木保男の知人であり、後に妻となる照はませ子の女学校時代の友人でもあった。鏑木清方がこの頃のませ子を目にしている。

 私が好きでかく明治の中ごろ、新橋の駅がまだ汐留にあつた時分で、もう出るのに間のない客車に、送るのと送られるのとふたりの美しい女学生を見た。送られる方は洋髪の人で車上にゐる。ホームに立つて送るのは桃割れで紫の袴を裾長にスラリとしたうしろすがたは、そのころ女学生をかくのにたくみだつた半古さんの絵のやうであつた。(※4)  昭和二年にかいた「築地明石町」に面影をうつしたM夫人(註:ませ子)はその時の桃割れの女学生だつた人で、私の家内と女学校のともだちなのだ。
【M夫人/鏑木清方】

 先述のとおり、この家には江木保男と先妻の子である定男という同い年の息子がおり、東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)へ通っていた。「いわく不可解」と遺書を残して華厳の滝に身を投げた藤村操の一期後輩であり、夏目漱石が英語の教鞭を取っていた時代でもある。友人に岩波茂雄(岩波書店創立者)、阿倍能成(のちに学習院学長)、尾崎放哉(「咳をしてもひとり」)、中勘助(作家)などがおり、卒業後も付き合いが深かったようだ。
 ませ子は文学少女であり、同時代の人気作家であった泉鏡花のファンクラブ、鏡花会(鏡花を囲んで酒肴を楽しむ会)に出入りしていた。定男もまた同じこの会に出席していたらしい。
 同い年で同じ屋根の下に住み、同じような文学趣味を持つふたりはしだいに惹かれあい、ふたりは学生のうちに結婚することになる。
 その経緯を友人の作家中勘助がこう書いている。

 五十年にもなる。一高のとき私は新入生の一人(註:定男)と友達になつて、毎週一二回は訪問しあふといふほど近しくした。楽しい期待に胸をふくらませていつて案内を乞ふと予て噂にきいた親戚の令嬢(註:ませ子)といふ美しい人が小走りに出てきて取次いでくれる。はたち前後か、背の高い、強くひいた眉の下に深くぱつちりとした瞳、錦絵からぬけでた昔風のそれではなく、輪郭の鮮明な彫刻的な美人だつた。しづかにあいた襖から小腰を屈めて現れる姿、膝のまへにしとやかに両手をつく。さてその取次ぎぶりだが、まるで言葉が唇からこぼれるのを惜むやうにぎりぎりのひと言しかいはない。実はこちらもその式ゆゑそれはいいとして、生来の無愛想でも不機嫌でもなささうなのに表情の影さへない、慣れれば微笑ぐらゐは普通だらうに。大理石像は冷くとも表情がある。これは地が通ひながら呪法で魂を氷らされた仮死の肉体である。そこになにか鬼気をさへ感ずる。そんな風でその後何年か足繁く訪問するあひだつひぞ暑い寒いの挨拶もせず、ただの一度も笑顔を見たことがなかつた。とはいへその不可解な物腰はそれ故に反つて奇異に消し難い印象を私に与へた、鋭い刃物で胸板に刻みつけるやうな。彼女には懇望されての婚約者があつた。
 そのうち何かの理由でそれが解消されると入代りに友人の一途な恋愛が始まつた。私は心から成功を祈り且つ予想される困難について心配したが、結局それはめでたく実を結んだ。友人の話は自分の恋愛にはあまり触れずに先方から結婚を懇願されたらそれならと引受けたといふいひかたで、彼女は喜んで泣いているともきいた。そしてそれを裏書きするやうに彼女はそれからは別人のごとく明朗快活になつた。よく知らないが二人は性格と若気にまかせ馬勒をはづした派手な生活を続けたらしい。その点完全にうまの合つた夫婦であり、申分のない伴侶であつた。
【呪縛/中勘助】
 中勘助の文章には若干の文学的誇張が入っていると思われるが、ともかく当時定男は大学二年生。ませ子も女学校在学中という、当時まだ珍しい部類に入る熱烈な恋愛の末、若い夫婦ができたのである。しかし中勘助の文にも「予想される困難について心配」とあるように、親戚からもだいぶ反対の声があったらしい。それはふたりの若さが原因ではなく、結婚はしたものの、定男の父・江木保男の後妻である義母が悦子、つまり、ませ子から見ると、姑が実姉の悦子になるということになったのである。
 ここらへんのいびつな血縁関係が後に波紋を呼ぶのであるが、そこらの事情はひとまず後にまわすとして、まずはこちらの江木家の人々について見ていくこととしよう。

※4半古
 日本画家梶田半古のこと。明治3年(1870)〜大正6年(1917)。浪漫的作風を得意とし、挿絵で評判を取った。


江木鰐水
 江木定男の祖父、保男の父親は幕末備後福山藩の儒学者江木鰐水である。福山藩における尊皇開国派の急先鋒であったらしい。生まれは文化7年(1810)、安芸広島藩の豊田郡戸野村(現在は東広島市河内町戸野)の割庄屋、福原与曽八(号、貞章)の第三子として生まれている。通称は始め健哉、のちに繁太郎。母親は備後福山藩の沼隈郡山手村(現在の広島県福山市山手町)の医師藤井玄好の娘、繁である。藤井家は藤井高尚が跡を継いでおり、その子第二郎共々江木鰐水と交流があった。父福原与曽八とその兄は寛政3年(1791)に広島藩侯から孝子として表彰されている(※5)。
 しかし文化12年(1815)父福原与曽八が亡くなる。鰐水少年はまだ健哉と呼ばれ6歳であり、父親の記憶はほとんど持っていない。福原家の庄屋は長兄が継いだが、若い鰐水は長兄、次兄などに四書五経などを学んでいたようである。医者の家系である母方藤井家の影響で、若い頃は医者を志した。文政6年(1823)14歳の時に、藤井家の知人である福山藩医五十川義路(菽斎)に師事することになり、福山の義路家に寄寓しながら医を学ぶ。その後五十川家の親戚に当たる江木玄朴の家系が絶えていたため、文政12年(1829)義路の娘道(のち政と改名)と結婚、江木姓を継ぐことになる。江木家は前の福山藩主水野家の医官であったが、その娘が五十川義路の曾祖父に嫁いで以来家系が絶えていたのである。ただし江木玄朴の没年は延宝4年(1676)のことであり、鰐水が江木家を再興したのは実に153年ぶりということになる。つまりこれは江木家再興が目的ではなく、鰐水を見込んだ義路が、福山藩に仕官させるために使った方便なのかもしれない。
 天保元年(1830)一歳年下の妻政が亡くなり、福山実相寺の江木家の墓所に葬られる。二人の間に子はなかったようだ。後妻には政の兄義集(簑州)の二女亀(のちに年または敏)が嫁ぐことになる。亀は文政7年11月4日生まれ、鰐水の15歳年下である。
 医学を志していた鰐水であるが、文政11年(1828)小寺葵園(※6)の塾で関藤藤陰(※7)と出会った頃より儒学に傾倒し、妻(政)と死別したこともきっかけになったか医を捨て、天保元年(1830)京都の頼山陽(※8)に師事することとなった。頼山陽は幕末における尊王攘夷派の思想的背景となった『日本外史』を著した文人である。鰐水は頼山陽最晩年の弟子であり、彼の名「晋」、字「晋戈」は頼山陽に命名されたものであり、その命名書が今でも福山誠之館(※9)に残されている。天保3年(1832)に頼山陽が没して後、天保12年(1841)に編まれた『山陽遺稿』に鰐水は『山陽先生行状記』を寄せたが、その内容について兄弟子森田節斎(※10)との論争が起きたことが世間の耳目を集め、鰐水は世に名が知られるようになった。

 江木鰐水には日記が多く残されており、古くは天保3年(1832)のものから東京大学史料編纂所により刊行されている。若かりし鰐水が(天保3年23歳)師匠や同門の仲間とたちと共にのびのびと勉強にいそしんでいる様子が垣間見える。天保年間などは世間的には天保の大飢饉の真っ最中ではあるが、まだ幕末動乱の不穏な空気も察せられず、鰐水にとって充実し、また、楽しい時代であったかのように見える。紫宸殿(京都御所)で舞楽を見、伏見神社に詣で、伊勢神宮に参拝し、壬生狂言を見、頼先生に従って大仏を見物して下鴨神社糺の森に遊ぶなど風流を経験しながらも時に師匠に教えを受け、仲間と議論を尽くす。しかし天保3年(1832)6月1日、頼山陽が吐血したころより運命の風向きが変わってくる。同年8月29日養父五十川義路が病に倒れ、天保4年9月23日には頼山陽が亡くなる。頼山陽亡き後は京都を離れて大阪へ行き、山陽と交友のあった篠崎小竹(※11)に従学、天保8年(1837)江戸に出、儒学を古賀とう庵(※12)、長沼流兵学を清水赤城(※13)について学ぶ。
 同年、開明的な藩主として有名な福山藩の阿部正弘に抜擢され、藩校弘道館の講書に招かれ、天保12年(1841)8月17日正式に福山藩儒官となっている(十人扶持御儒者大目付触流)。幕末に至り、英米仏露の異人船が日本界隈に出没するようになると、弘化3年(1846)11月21日蘭学御用に任用。この頃より長沼流軍学の時代遅れを悟り、西洋兵法を学び始める。そして幕末福山藩における西洋式兵学の先駆者のひとりとなり、藩内でも軍事面での意見を求められるようになっていく。

 幕末動乱時、福山藩主阿部正弘は幕府筆頭老中となっており、ペリーの黒船来航に対応し、日米和親条約を締結するなど活躍したが、これが幕末の攘夷運動に火を点けたとも言える。正弘自身は安政4年(1857)に39歳で急逝しているが、ともかく福山藩は当然佐幕派であったのだ。しかし藩内の意見が攘夷を主張しているにもかかわらず、鰐水ひとりその非を唱え、尊皇開国を主張したらしい。
 嘉永6年(1853)6月3日、ペリー提督が率いるサスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号の4隻による米国艦隊が浦賀沖に来航。国内は黒船を迎えての大騒ぎとなる。この時は浦賀奉行がペリーと会見して国書を受け取り、翌年に回答するということで一旦ペリーを追い返すことに成功する。この事件により幕府は混乱の極みを見せ、また国内に攘夷思想が沸き立つ。鰐水はこの時福山在であり、錯綜してはいるものの情報収集に努めており、早くも時勢の変化を察している。

浦賀ノコト紛々 実説ト思ウ所供覧 六月三日異船四艘共和政治所コロンヒヤノ船カ 一船箭ノ如ク江戸海ニ入リ金川(神奈川)沖ニ止リタリ 一一日四艘トモ江戸海ニ乗込ミ大師河原沖ニ至ル 一三日出帆本牧細川・佃島黒田皆火消装束 品川上陸ナレバ小大名マデ皆登城 浦賀ニテ戦トナレバ若年寄・老中皆出陣ノヨシ 石川和介ヨリ一書ナク不明 主人海防掛リ且ツ首相 臣子ノ心配オ察シ願ウ 願ノ趣ハ互市カ八丈島借用トカ一向不明 土州人漂海記御返却乞ウ
【嘉永6年月7日付阪谷朗廬宛鰐水繁太郎書翰】
直接会っていないにせよ、開国を迫るペリー提督に対するのは筆頭老中である藩主阿部正弘であり、江木鰐水もまた黒船対応のために12月19日江戸出府を命ぜられ江戸表奥勤となる(上下格三人扶持加増)。しかし鰐水が江戸に向かう途上の嘉永7年(安政元・1854)1月14日、早くもペリーが米国艦隊7隻を率いて浦賀に来航する。江戸到着早々の2月25日、鰐水は使節ペリーとの応接状況を視察するために横浜へ派遣される。だが実はこの時、鰐水は密かに黒船に乗り込んでいるらしい。2008年9月新聞各紙に報道された記事によれば、江木繁太郎(鰐水)と石川和助(関藤藤陰)が江戸町奉行の家来に身分を偽ってペリーが乗船するポーハタン号に乗り込み、米国側が開いた宴席に出席した、とのことである。この日嘉永7年2月29日(西洋暦では1954年3月27日)、日米和親条約締結の目処が立ったペリー提督は、林大学頭を筆頭とする日本側の交渉担当役人達をポーハタン号に招き、大規模な船上パーティを開催している。主賓格の林大学頭以下幕府高官達はペリー提督の船室にて直々にもてなされたが、その他約60人の日本人達は、後部甲板に設えられた宴席にてもてなされることとなった。この模様は画家ハイネにより記録され、そのカラー銅版画が下田了仙寺に残されている。このパーティの様子は米国側の記録に基づけば次のようになる。
 提督は、日本人にアメリカ風のもてなしを見せてやろうとして、水夫や給仕を除いても客が七十人を超える大パーティーを準備した。高位の委員たち(註:林大学頭他の幕府高官)が従者と同じ卓につくことはないという日本の厳しい作法はわかっていたので、二つの宴を催した。一つは提督の船室で高位の役人たちをもてなす宴、もう一つは後甲板での宴だった。(中略)五人の委員は、立派な宴の用意された提督の船室へと案内された。それに次ぐ位の六十人の役人は後甲板の雨よけの下の大きなテーブルで、たっぷりとした食事を供された。
 (中略)
 各艦から集まった多数の士官にもてなされていた甲板の一行のほうは、あふれるほどのシャンパン、マデイラ酒、それにパンチなどの好みの酒を振る舞われてやかましくなってきた。健康を祈って日本人たちが乾杯の音頭をとり、すすんで杯を干した。座を盛り上げようと楽隊が演奏する軽快で楽しい音楽をしのぐほど、声を限りに叫んでいた。とにかく騒がしい陽気さで、お客はとても楽しんでいた。飲み物と同様に食べ物も口に合ったようで、テーブルに山と積み上げられた、量も種類も豊富な料理がまたたく間に消えていくのには、アメリカ人の健啖家すら驚くほどだった。そのがっつきようといったら、料理の選択とかコースの順序などないのだ。魚や肉や鶏もない、スープもシロップもない、果物だろうが、炒めようが炙ろうが煮ようがどうでもいい、酢漬けも砂糖漬けもない、といった様子だ。食事は最大限用意してあったので、客たちが満腹したあとにもやや残りが出たが、日本人はいつもの流儀で、残り物を丁寧にしまって持ち帰った。(中略)
 宴会のあとは黒人ミンストレル・ショーが演じられた。数名の水夫が、顔を黒く塗り、役割に合わせた衣装をつけ、とてもおかしく演じた。ニューヨークのクリスティ一座で演じても、喝采を浴びただろう。むっつりしたハヤシ(註:林大学頭)の謹厳さもこの奇妙な見せ物にはもちこたえられず、おどけた演技がもたらすバカ騒ぎに引き込まれていった、夕暮れになって、日本人は持てる限りのワインとともに帰る準備を始めた、陽気なマツサキ(註:松崎満太郎)は提督の首に腕を回して抱きついて新しい肩章を押しつぶし、めそめそしながら日本語でこう繰り返した。
「ニッポンもアメリカも心は一つだ」
 そして彼よりはしっかりしている同僚に助けられながら、千鳥足で舟に戻っていった。最後の舟がポーハタン号から離れるときにサラトガ号が十七発の礼砲を撃った。そして艦隊はいつもの静けさと艦隊勤務の日常に戻った。
【ペリー提督日本遠征記/三方洋子訳】
 江木鰐水もまた、この洋食にがっついていたひとりなのである。菅自牧斎(※14)の「時彦金石文集」に、鰐水が中国人通訳と交わした筆談の記録が残されているとのことである。ちなみにパーティー終了間際、ペリー提督自身も後甲板に登場したとのことで、鰐水も直接ペリーを目にしていることになる。鰐水自身についていえば、その時のことを記したと思われる書簡が国会図書館に残されている。

扨小生モ御道中浜松ニテ、異船八艘神奈川沖エ乗込候事承り、道中相急、卓介(註:五十川訊堂、義集の次男)江ハ路々職□僕壱馬ニテ駆付候共、大井川二日河留ニテ、廿六日夜江戸入候処、江戸ハ殊之外静ニテ平日ニ替り候模様モ無之、雖も廟堂ニ出レハ頗ル議論有候事と相見え御老中御登城ハ、夜ニ入候。被入候事度々多クハ□しく及候。小生モ着後誠ニ忙敷、千偖万端嘆息之事而已。(中略)乍去極内ニテ異船ニ上り蒸気船ヲ此日奇観、此船ニ乗阿墨俄(註:アメリカ)羅斯(註:ロシア)エ行ハ奇妙と又夜興ヲ発申候。古賀先生も御健固ニ御帰り、不相変西学研究色々申上度候得共、先ハ此度の大概外ノ異船エ乗込候一件ハ、追テ糸井より可差上候間、御許し可被成、其節使節ペルリの似顔絵御目ニかけ申候。此度の結局ハ交易ハ許サズ四五年さきニ而返答、薪水石炭漂民撫恤ヲ許シ候処モ、処々エ立寄ハ困ル故、下田港と松前箱館ト両処ニ極メ候也。ケ様無之テハ御仁徳ニモ係り候ナドト立派ナレドモ、其実ハ可勝之策なきより起り候ナリ。此処至憂之所在、以後之情体ハ真兄ナド高踏申ニテ傍観、僕等未知税駕之処御憐察可被下候。此手紙他見ハ御無用也。心易き人ニハ小生之名ヲ不出、江戸朋友より聞トシテ御咄被下度非是。(略)
【安政元年(=嘉永7年)3月27日付阪谷希八郎(朗廬)宛鰐水繁太郎書翰(※15)】
鰐水は後甲板での宴席であったが、鰐水が熱心に写生したペリーの似顔絵やその他日本人の写生癖は、図らずも米国側に「日本人は巧くもない似顔絵や写生を盛んにする」と揶揄されることになる。
 同年3月3日、ペリー提督一行は横浜に上陸。その強引な手腕により徳川幕府の鎖国体制は終焉を迎え、阿部正弘の手により日米和親条約が結ばれ、5月25日には下田条約が締結される。ちなみに鰐水が阪谷朗廬に手紙を書いた3月27日には、吉田松陰(※16)が密かに小舟で黒船に乗り込み密航を企てるが、米国側に乗船を断られるという事件が起きている。ここにおいて閏7月19日、鰐水は役を免ぜられ、福山へ帰国する。

 先述の通り、阿部家福山藩は元和元年(1619)福島正則が改易され、徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成が入封して以来の関係であり、当然バリバリの佐幕派であった。ペリー来航以後国内外に不穏な動きが広がる中、安政元年(1854)藩内の人材育成のため、藩校弘道館を発展的に解消し誠之館を建設、翌2年正月16日に開講している(現在の広島県立福山誠之館高等学校)。鰐水は弘道館に引き続き洋学寮教授として就任する。藩主阿部正弘は安政4年(1857)6月17日に没し、甥の正教が跡を継ぐ。阿部正弘はまだ39歳であり鰐水にとっても衝撃であったようだ(鰐水は48歳)。

恩公閣下、以十七日七ツ時 御逝去、雖未発喪、既不可如何、嗚呼悲哉惜哉、如[晋+戈]実受特恩、天下之依頼、国家之 仁君、一旦失之、実非一国之不幸、天下之不幸也、頗有旧鳥(註:窮鳥)之嘆、入夜帰家、惨然蒙被而臥而已、従此夜精進潔斎、服喪、
【江木鰐水日記/江木鰐水】
 しかしこの正教も短命で、4年後の文久元年(1861)5月17日若干23歳で没し、弟の正方が跡を継ぐ。鰐水はこの時(5月20日前後)、北斗星の西に妖しい星を目にしている。これは1861年のTebbutt彗星(C/1861J1)であると思われるが、古来より彗星の現れた時には凶事が起きるとの噂があるが、鰐水もまたこの幕末動乱を背景に不穏な雰囲気を感じている。

五月廿日前後之夜、視一妖星于北斗柄星之右、始初昏、従北方地球下、光芒南射如匹練、従塾北望、在小川氏之邸上、循斗量出地、光芒初皆指東南、半夜正南指、暁天向西南、西説云、彗星無光、承大陽之光発光芒、始信其説之信、六月十日前失光芒、妖星猶在也、蓋月光奪其光乎、
【万延二年文久二年日記/江木鰐水】
 鰐水は先代藩主阿部正弘の頃より藩に重用されていたが、阿部正教にも江戸に呼ばれ、以降藩中枢に近い所で活躍している。文久年間に入り、鰐水日記の記述も幕末の殺伐とした情報へと変わっていく。文久2年(1862)5月の日記には「幕威は既に虚威」であるとの記述が見える。そして翌3年8月の堺町門の変(八月十八日の政変)により長州藩が失脚、岩国藩士江木仙右衛門は七卿と共に都落ちする。そして元治元年(1864)7月、長州藩攘夷派が藩主の赦免などを求めて京都に押し入ると(禁門の変)、禁裏に発砲した長州藩は朝敵となり、ついに8月2日幕府による長州藩征討が布告される(第一次長州征伐)。福山藩も当然幕府征長軍に参加し、6,000人の藩兵を率いて広島に進軍する。鰐水も息子健吉と共に従軍し、藩主阿部正方に従って安芸に向かうが、長州藩内における俗論派のクーデターにより、責任者の切腹と共に第一次征長はうやむやに終わってしまう。そのため鰐水は戦火も交えず10日ほどで福山に帰藩している。江木仙右衛門が情勢視察のため徳山に向かった元治元年(1864)大晦日には、鰐水は藩命による大阪行の帰途であり、兵庫へ向かう船中にあった。
 翌慶応元年(1865)の第二次長州征討では福山藩は浜田藩と共に先鋒を勤め、石州口(島根側)に進軍する。鰐水もまた参謀として従軍している。慶応2年(1866)6月17日には石見国益田(現在の島根県益田市)において大村益次郎率いる長州軍と交戦、これに敗走する。鰐水は石見美濃郡の戦いにおいて敵情探索の任を受け、敵陣に潜入している。二里ばかり適地に潜入したところで敵兵と遭遇し、からくも逃げ帰っている。鰐水は熱射病にかかるが、息子の健吉に助けられている。なおこの戦いは福山藩にとって、島原の乱以来230年ぶりの戦争であった。ちなみに若き江木千之が泣きながら従軍していた岩国藩は芸州口に出陣しており、福山藩との交戦はない。

 慶応2年(1866)の薩長同盟により国内の勢力地図は大きく転回、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還、同年12月9日の王政復古の大号令、慶応4年(明治元年1868)1月3日の鳥羽伏見の戦を経て薩長土肥などの反幕軍が官軍、徳川幕府や会津藩、福山藩などは朝敵となり、幼い明治天皇を擁した官軍により、徳川幕府に対する倒幕令が出される。幕軍の福山藩は敵長州軍の来襲を予想し、鰐水は福山城小丸山砲台胸壁修築掛に任命される、鰐水は戎服(軍服)に身を包み、子供らたちを集め、「もし変あらば、汝らは各々処置をなせ。余を辱めることなかれ」と言い置き、正月8日に入城する。しかし早くも翌日9日には福山城は杉孫七郎(※17)率いる長州軍に包囲されることとなる。実は福山藩主阿部正方は前年大政奉還直後の慶応3年(1867)11月23日に死亡していたのであるが、その死は藩内で厳重に秘されていた。その中で官軍に包囲された福山藩では議論噴出したが、関藤藤陰が中心となって藩論を恭順にまとめ、安芸広島藩主浅野長勲の実弟正桓を福山藩主に迎えることを条件に、一発も発砲することなく福山藩の恭順が認められることとなった(広島藩は慶応3年に薩長と同盟を締結している反幕派)。

是ヨリ先旧臘ヨリ長藩の兵隊、福山ヲ去ル五里、芸藩封境尾道駅屯集シ、梢々人千四百計及ビ、是上国ノ形成由リ進退ヲ決スノ巷説アリ。而シテ去ル三日、上国伏見辺戦争事起リ、既仁和寺宮、坂兵追討大将軍任セラレ、錦旗ヲ搴ラレ伏見マテ出張在セラル云々、風聞頻リ確報ヲ渇望、一藩上下恐敬苦心ノ折柄、正月八日朝右屯集ノ長藩兵、今午刻后出発、備前片上駅通行云々ノ、宿駅前途先触ヲ発ス。故彼ノ上国ノ異変就テ進軍ノ事ト推知スル処、豈科ンヤ同夕至リ、右兵隊俄吾ガ治城福山ヲ襲フ軍令ヲ発セシ注報アリ、偶実ハ一藩国喪中当リ、悲哀憂苦堪ズト雖トモ、無名師、卒然足下襲来セハ、不得已城ト共存亡ヲ期シ血戦セザルヲ得ズ。然リト雖トモ、上国ノ風評ヲ以テ察スレハ、即チ王師モヤ有ン。若シ然ラハ、是ト接戦スル寸ハ、忽チ徒ラ朝敵ノ汚名ヲ万世受ケ、徳川家対スルモ、亦恐懼不義陥ン、不如其、襲来ノ旨意、飽迄問尋応接ノ後、唯大義名分ノ帰スル所従ン。其旨意、未タ分明ナラサル際ハ、縦令(たとえ)攻城、発砲及ブモ、我レ決シテ無名ノ接戦及ブベカラザルト決議。一藩人数城内備エ、各道応接ノ士ヲ出ス。其ノ応接未タ面晤ヲ得ス。而シテ翌九日黎明ヨリ、長藩兵隊城下に近ツキ、左ノ戦書を投ズ。
  (あんたの藩は徳川方で朝敵だから、勤王諸藩で攻撃するからご用心、という内容)
右戦書達スルヤ否、直チ西・南・北ノ三方取囲ミ、西・南ノ兵隊ヨリ朝卯中刻及フ、北モ頻リ大砲・小砲ヲ乱発スル数時。然レドモ城中厳命ヲ守リ、一発モ応砲セズ。
【阿部家文書「戊申記事・明治元年」】
これより後福山藩は官軍して戊辰戦争を戦っていくことになるが、旧幕府軍への仕打ちは過酷を極め、まずは伊予国松山、次いで播磨国西宮、大阪府天保山と新政府より立て続けに出兵を命じられ、また軍費の提供を強いられる。そして明治元(1868)年9月7日、会津鶴ヶ城下で関場春武が壮絶な最期を遂げた翌日、福山藩は箱館(函館)・弘前への出兵を命じられる。幕府海軍副総裁榎本武揚(※18)は官軍に服せず艦隊を率いて脱出し、新撰組や彰義隊、会津藩などの奥羽列藩同盟の残党と合流して蝦夷地(北海道)へと向かっていた。江木鰐水は9月19日軍事参謀に命ぜられてこの遠征軍に参加している。鰐水は後にこの従軍の様子を『北征記行』として纏めており、これについては福山城博物館友の会刊『函館戦争に於ける福山藩』に抄録されているので、それを拾い読みしてみよう。福山軍は岡田伊右衛門を総督とする650人が函館守備を命じられ、 鞆の浦を出軍する。

明治元年戊申の秋、我が藩箱館府戌兵の命を受く。又改めて奥州弘前藩の援軍を命ぜらる。予州宇和島、越前大野の二藩も、亦同じく命を受く。宇和島の兵、別艦に乗りて発す。我が藩と大野藩と、英艦に同乗す。
 艦は天朝の給ふ所なり。此の行、兵艦・糧食の諸費は、皆太政官より優給せらる。
(中略)
 廿日朝、十小隊を以て一大隊と為し、次第を以て城門を発す。蓋し我が藩西洋銃を用ふと雖も、長沼流と混ず。純乎として西洋法を用ひしは、今年正月以来なり。正月の変(福山城包囲)後、執政・典客・諸有司憤発し、軍制を改革し、兵隊を操練す。又民兵を招集せり。数月の際に、国勢大いに変る。此に於て兵を出し、先づ鞆の浦に至りて、英艦の至るを待ち、又日々兵隊を練る。一日祇園の祠に詣で、戦勝を祈る。諸兵隊随ふ。威儀観るべしと云ふ。
【北征記行/江木鰐水】
 意気揚々とした出発風景だが、鰐水の姿はこの出撃風景には参加しておらず、10月1日に鞆の浦に停泊中の英艦モーナ号に向かっている。翌日2日に鞆の浦を出発したモーナ号は馬関(関門海峡)を抜け長崎で弾薬を補給、日本海を北上する。「風濤は益々暴れ、浪華船頭を洗ひ、怒波船窓に入りて、満船舟暈(註:船酔い)を患ふ」日本海の荒波にもまれながら、敦賀、新潟粟島、秋田土崎港、舟川港(男鹿)と北上、15日会津藩降伏の報を聞いた後、20日九ツ(昼12時)頃に函館港に着く。函館は既に雪模様であり、瀬戸内生まれの彼らには寒気の厳しい季節であった。

 半年前の慶応4年(1868)4月11日には江戸城は無血開城しており、徳川慶喜は水戸謹慎と決し、9月には明治政府が樹立、明治に改元する。しかし恭順に従わない幕臣や新撰組などの幕軍残党たちは戊申戦争を追って北に向かう。幕府海軍副総裁榎本武揚は軍艦を引き連れてそのまま北海道に逃亡しており、この時榎本武揚艦隊には、戊辰戦争で敗れた会津藩士や仙台藩士などの一統、彰義隊の生き残り、新撰組の土方歳三、幕府軍事顧問であったフランス人ブリュネなどが集結しており、10月21日渡島半島の鷲ノ木(現在の森町)に上陸したばかりであった。榎本軍はすぐさま30人ばかりで函館に向け進軍する(本来は新政府軍への嘆願が目的)が、対する新政府側には清水谷公考(※19)を大総督とし、函館府兵・松前藩兵に到着したばかりの福山藩、越前大野藩(藩主は土井利恒)を加え、更に急遽派遣された津軽藩兵を加えた陣容が峠下(現在の七飯町)、大野(現在の大野町)、川汲峠(現在の函館市)に布陣していた。福山藩兵本隊は五稜郭を中心に守り、大林壮作率いる一小隊を尻沢辺りに送り出している。そして榎本軍先遣隊と新政府軍は、翌10月22日峠下にて榎本軍に夜襲をしかけ、北海道に於ける戦いの戦端を開くことになる。

 午後、青木軍監と大林壮作と、清水谷公の命を奉り、鷹勁隊を以て、大野口に赴く。蓋し津軽兵は機に遅れ、未だ嶺の先を扼へざるに、賊兵既に嶺を越え、峠下駅に屯す。駅亦た要地にて、三面山が囲み、一坂路のい通ず。路の左右、沼地は阻を為す。古昔、土豪某嘗て之に拠りし地形此の如し。故に賊は先んじて之に拠る。賊は地形に熟るること、此の如し。津軽兵は進むを得ず。函府吏督責して、二十二日夜半進撃す。賊小兵を出し偽り走る(逃亡する)。追ひて去るも、坂路に至り伏するに遇ふ。賊兵下りて撃てば、即ち敗走す。敗聞の至りて、府議は賊兵の嶺下に多集せざるに乗じて之を復せんと欲するに、茅部嶺路を扼へしむることを以てす。故に援兵を命ずるなり。
 鷹勁隊時に尻沢辺を守る。申牌(16時)発す。途に津軽兵の遠く去るを聞く。大野駅に兵無かりければ、乃ち壁立村松前陣屋を過ぎり、其の兵を催(うなが)す。銃隊無く、槍兵二十人有り。且つ倶に大野駅に到る。敵兵既に二十丁外に在り。岡阜に上りて、兵隊桀土(ケット=毛布)を蒙(おほ)へば其の色を弁ずべし。大野藩の兵隊亦た至ると雖も、津軽兵は退きて一本木に在り。兵少く進撃すること能はざるなり。
【北征記行/江木鰐水】
と、いうわけで新政府軍は初戦勝利を飾ることはできなかったのである。但しこの文章は同じく敗走した福山藩参謀江木鰐水の筆になるものであり、津軽藩に責任を押し付けようとする意図があるのは割り引いて読む必要があるだろう。
 さてこの敗走を受けて新政府軍は戦陣を立て直し、江木鰐水は岡田総督と共に福山藩の一部を率いて函館を発し、10月24日早朝、大野村に布陣する。兵に朝飯を取らせた後に配陣しようとした矢先、敵襲の報を受ける。ちなみに大野村を攻撃するのは幕軍歩兵奉行大鳥圭介(※20)率いる伝習隊である。新政府軍は兵を東側の杉並木に布陣しようとするが、既に榎本軍が迫っており、銃撃戦となる。新政府軍自慢の大砲も地盤が緩いために一発撃てばひっくり返る有様。榎本軍は地理にも通じている様子で間道をぬって新政府軍を側面から脅かす。鰐水は七重村に向い、清水谷大総督と軍議のうえ、西洋式要塞である五稜郭に籠もって守備に徹し、秋田にいる長州・肥後藩の援軍を待つことに一致するが、五稜郭には銃砲が足りないうえに兵も足りない状況。鰐水は大野村へ戻るが、徹夜明のうえ疲労困憊し、久根別亀田念仏堂で夕食後昏睡する。この間、鰐水の道案内をしていた利助が逃亡。夜半に目覚めると新政府軍が続々と敗走してくるのに遭遇、前決の通り五稜郭に撤退することに決し、鰐水は10月25日払暁、五稜郭へと走る。しかしこの後、鰐水には信じられない展開となる。

 一人に遇ふ。余の手を挽きて、回して之が曰く、「銃声を聞く進むべからず」と。余謝し、要緊の事にて、五稜郭に赴く。銃声は未だ留るべからず。亦五・六丁を進む。津軽藩士の五・六人も亦余を留めて曰く、「大総督(清水谷公)、昨夜函館に帰りて、郭中に官軍無く、賊既に之に依れり。僕等は守りに入らんと欲して、橋外に到れば、郭上より銃を発ちたり。大呼して曰く、『津軽の兵隊守りに入らんと欲す』と。又銃を発てば、乃ち還るなり」と。予は之を聞きて、驚駭し倶に還る。
 函館に入り、市人の出でて観るに、夷然として驚かざる者有り。負担して立つ者有り。南部陣屋に到れば、我が兵隊在らざるなり。東本願寺(荷役)を問へば、一人だに見えず。弁天砲台を問へば、一人の在る無し。益々驚怪す。
 以為へらく(おもへらく)、函館を守らんと欲して、南部陣屋・弁天砲台を守らずそて、何れの地を守らんと欲すと。路に土著の吏(地元民)に遇ふや、余を見て狼狽し、目は笑い得意の色有り。蓋し此等が内応して賊を導きしなり。
 遂に逆旅(宿屋)の長崎屋に帰れば、曰く、「総督以下、皆船に乗り去らんと欲す。速に船に登らずんば、恐くは後れん」と。走りて海浜に出づれば、兵隊皆一夷艦(陽春丸)に在り。小艇を雇ひ之に赴く。既に梯子を釣り上げて、上がるべからず。岡田総督、余の来るを見て、大いに喜び、大縄を垂らしければ、攀ぢて艦に入る。山岡・大林の二監督皆在りて、相見て、恙無きを賀すと雖も、事意表に出づれば、心は揺々として定らず。
 蓋し昨二十四日申牌(十六時)、晋(鰐水)は五稜郭に在りて、死守の議を決し、弁天崎砲台の兵尽く五稜郭に入れんとす。議は驟(にわか)に変じて、曰く、「郭中に水無く、守るべからず。暫く青森港に避け、再び王師を整へ、恢復を行(な)さん」と。此を万全の方策と為す。多く兵士を殺すは、無為なり。夜半既に航海す。而して我が兵隊も之に従ひて去る。副督も又倶に去る。留る者は、山岡源左衛門・前田藤九郎のみ。
【北征記行/江木鰐水】
つまり、鰐水が五稜郭に向かったところ、大総督はとっくに五稜郭を放棄して函館に引き払っており、五稜郭は榎本軍に占領されているという。驚いた鰐水は函館に急ぐが、兵隊も消え失せている。宿屋のあるじに聞いたところ、清水谷公以下新政府軍はとうの昔に青森に撤退することに決め、船に乗り込みまさに出航しようとしているところだという。鰐水が慌てて浜辺に走ると、既にハシゴも上げて出航寸前。鰐水に気付いた岡田総督が大縄を投げてくれたので乗船できたものの、昨日五稜郭を死守すると決めた舌の根も乾かぬ内に「五稜郭には水もなし守るのは厳しい。ここは一旦青森に帰って体勢をを立て直そう」と決まり、さっさと兵を引き上げようとしている途中だったというのである。
 青森に着いたものの鰐水は納得できず、飯も喉に通らない。前日には函館で討ち死にまで覚悟しておきながら、安穏と青森に引き上げることの心苦しさが見えるが、無理に函館で防衛戦を行ったとしても、榎本軍3,000名に対し新政府軍は福山・大野藩の650名足らず、圧倒的な兵力不足と準備不足は否めず、ということで自らを慰めることになる。榎本軍は10月26日五稜郭に無血入城、11月5日松前藩松前城を陥落、11月20日までには蝦夷地を平定する。こうして函館における前哨戦は幕を閉じたのである。

 榎本軍は年の暮明治元年(1868)12月蝦夷共和国樹立を宣言(但しこういう国名を名乗ったわけではない)、日本初の選挙により榎本武揚が初代(そして唯一人の)総裁となった。新政府軍は巻き返しを図るべく清水谷公考を青森口総督に任命、陸軍では全国より7,000名の兵を掻き集め、海軍では米国より最新鋭の装甲艦(甲鉄艦※21)を購入し、翌春明治2年(1869)蝦夷地征討を期する。
 共和国軍では前年11月、悪天候により新鋭艦開陽丸と神速丸を失い、自慢の海軍力が大きく低下していた。共和国軍では新政府軍の甲鉄艦を奪うべく3月23日宮古湾海戦を仕掛けるが敗北、更に軍船一艘を失う。
 満を持した新政府軍は明治2年(1869)4月9日早朝、山田顕義率いる兵1,500人が乙部に上陸し函館を目指した。しかしこの戦いに江木鰐水は参加しておらず、青森に居残りとなっている。理由は不明だが、青森において函館戦争の実記や報告書、建言書などを多数書いている。鰐水はこの年還暦を迎えており、そのせいもあったかもしれない。ともかく新政府軍は次々と援軍を投入、共和国軍も兵数を逆転され、元新撰組土方歳三などの奮戦もあったが、5月18日遂に降伏、五稜郭を開城、共和国軍は武装解除する。ここにおいて日本の歴史上唯一の共和国は霧散することになる。江木鰐水は戦いの終わった函館で藩兵に合流し、5月25日英国船にて函館を発ち、福山に凱旋する。こうして福山藩にとっても鰐水にとっても幕末は終わりを迎えたのであった。

 明治の世になり、時代の寵児となった旧田舎侍たちは退去して東京を目指し、続々と政府・官僚になっていく。それなりに有能であった幕府官僚を一掃し人材が払底していたこともその背景にある。関新平・清英も江木千之・翼もその流れに乗っている。鰐水にも新政府から大学講師に招きがあったようだが、それを固辞し、福山のために尽くす道を選ぶ。明治2年(1869)、鰐水還暦の歳である。

江木鰐水墓
 明治2年(1869)6月17日版籍奉還により中央集権が成り、明治4年(1871)7月14日には廃藩置県により福山藩を含め、旧来の幕藩体制、ひいては藩主と藩に忠誠を尽くす藩士たち武家社会という関係は消滅する。特権階級であった武士階級はこれまで藩、のちには明治政府を通じて家禄を受けていたが、ここに至って一時金や公債を渡されることで家禄を廃され、この後は自ら生活費を稼がなければならなくなった。これまで武術と藩務による官僚技術しか持っていない彼らが、武家の商法と云われるように、商人や農民に互して商業や農業で生活を立てられる訳もなく、また、これまで士農工商として支配階級であることが当たり前であった彼らにとって、四民平等政策は新しい支配階級(明治政府)による裏切りとさえ見えた。旧幕府側はもちろんのこと、維新に命を張って邁進したはずの自分が禄を巻き上げられ、世間に放置されたことで、旧官軍側でも不満を募らせる旧武士が多くいた。そうして旧士族による反乱が各地で噴き出ることになる。明治7年佐賀の乱、明治9年熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、長州萩の乱、そして明治10年(1877)には遂に薩摩の西郷隆盛が下野し、西南戦争が勃発する。

 江木鰐水は福山にあってこれらの騒動には参加していない。それよりもその背景にある藩士たちの救済が急務であることを悟り、士族授産に骨を折っている。明治時代になってから鰐水が尽力したのは福山の産業振興であり、福山城小丸山に桑を植え養蚕を奨励し、塩田開発を建言する。治水事業については、そのあまりもの熱中様に周囲から「水狂い」とまで陰口を叩かれたという。

福山ノ形勢一新シテ、士族・商売、人ヲ恃マス、塩田ナリ養蜂ナリ、人々自カラ衣食スルノ本立チテ、加之ルニ海船・河舟集マリテ、他所ノ商賈集マレハ、又人ニ依リテ衣食スヘキナリ、自カラ衣食スル業成リテ、又人ニ依リテ衣食セハ、本末備リテ、福山ノ繁昌、真ノ繁昌ナラン。然レドモ、福山ノ本ハ福山ニ住スル士族・商賈是ナリ、福山形勢一新ナストモ、士族・商賈ノ心一新セサレバ、福山ノ繁昌覚束ナキ也、忠言耳ニ逆ノ習、薬言ハ苦キナレハ、些申シ悪キナレドモ、申ス可ナリ、
【明治七年石州入湯後日記/江木鰐水】
その一方嗣子健吉が明治4年(1871)に病没、明治6年(1873)には頼山陽塾以来の先輩門田朴斎が亡くなる。同年甥であり交流の深かった五十川基が死亡。明治9年(1876)には関藤藤陰没と、交流ある人々との別れが続く。鰐水日記の記述は福山の殖産興業が中心であるが、息子たちに関する記述が多くなってくる。明治6年(1873)2月8日には15年ぶりに「江戸」に向かっている。この東行には甥の五十川基が死床にあったこともあったであろうが、この時息子高遠(たかとう)がアメリカ留学しており、手紙などで先進文明に触れたのがきっかけになっているのではないかとも思われる。鰐水は蘭学御用を仰せつかって以来洋学に親しみ、ペリー提督の黒船にも乗り込み、ペリーが持参した蒸気機関車の模型なども目にしているが、その後は安政5年(1858)に阿部正教に呼ばれ、江戸に行ったきりである。この東京旅行で鰐水は内田九一(※22)に写真を撮られ浅草に遊び、慶應義塾で福沢諭吉に会い、湯島天神伊勢屋で酒を飲み、王子権現(王子神社)に詣でて吉原をひやかし、横浜に行く。生まれて初めてガス灯を見て汽車に乗る。自らが一役になった文明開化を存分に謳歌しているのである。次は鰐水が生まれて初めて品川駅から汽車に乗ったときの感想である。
其駛如馳、鉄路別為路、在駅後瀕海之地、陥凹如[土+遂]出駅村落、遠近之山、遠近之樹、挟車而走、不知車之走、近者急走、瞬息瞥過、遠者梢緩、車外如騒動天、雖有渓岳、疾徐大小皆走、而持静者車也、而其実車外皆鎮静、山也者万古不動、樹亦植大地、皆万古不動、今只車動、故似動非動也、因此知地動説之是
【明治五日記/江木鰐水】
 車窓の景色が飛ぶように見えるが、動いているのは汽車の方で、山も樹木も万古不動だ、と言ってるわりには、その実やはり鰐水もその速さに興奮気味なのではないか。コペルニクスの地動説まで引き合いに出すのは大げさであるが。
 そんなことがあったのが原因というわけでもないが、鰐水は明治10年(1877)には息子たちのいる東京に移住。明治12年12月、鰐水は古希を迎え、浅草井生村楼(※23)にて祝賀パーティーを開いている。この古希祝は神田三河屋より西洋料理、日本料理を浅草下平右衛門町の常磐屋(※24)より取り寄せ、150人の知人・友人を招いて執り行われた。鰐水に送られた古希祝書画帳を寄せた中には、旧藩主阿部正桓をはじめ、東久世通禧、有栖川宮熾仁、三条実美などの公家、巌谷一六、日下部鶴鳴、長三洲といった書家、阪谷朗廬、三島中洲、藤井松林、高田杏塢、門田杉東などの郷土福山の文人や西周、南摩羽峰、津田真道、古賀茶渓、玉乃世履、鈴木百年、松本良順、小野湖山、大槻文彦、那珂通高、鶴田晧、フェノロサなどそうそうたる面子が顔を揃えている。(※25)しかもこの祝賀会、日本で初めて行われた立食パーティーでもあるのだ。
 翌明治13(1880)年には、嗣子四男高遠が留学先の米国で客死したとの報を聞く。幕末の動乱を経て平和な時代を迎えたはずであるのにもかかわらず、老齢の鰐水には悲報が続いている。そして江木繁太郎鰐水は翌明治14年(1881)10月8日、東京にて病没する。東京谷中天王寺に葬られた。数え72才の大往生であった。谷中霊園に墓が残されている他、福山城に明治27年(1894)に建立された遺徳碑が残されている。
 江木鰐水と先妻道(のち政)の間に子はなかったが、後妻亀(年または敏)との間には7男授かっている。長男次男(長男は名不詳、次男は千之という)は若くして没し、三男健吉、四男高遠、五男保男、六男松四郎、七男信五郎である。彼らは明治の時代の中でそれぞれ活躍していくことになる。

※5孝子
 儒学思想の「忠孝礼」を元としたもので、親孝行者を表彰したものと思われる。
※6小寺葵園
 備中林田藩出身の儒者で菅自牧斎の弟子。藩校敬業館教授。
※7関藤藤陰
 福山藩出身の儒者。鰐水とは頼山陽塾以来の親友。福山藩維新三傑の一人。(のこる二人は?)
※8頼山陽
 広島藩儒学者頼春水の子で、漢学者、陽明学者。菅自牧斎塾の塾頭などを経て、『日本外史』を著す。多くの弟子を教育した。息子の頼三樹三郎は鰐水とも交流あったが、安政の大獄で処刑された。
※9福山誠之館
 現在は広島県立福山誠之館高等学校。誠之館記念館に所蔵。
※10森田節斎
 頼山陽に学んだ京都の儒学者。尊皇攘夷論者で、弟子から吉田松陰、乾十郎などの志士を排出した。天誅組などにも大きな影響を与えた。
※11篠崎小竹
 豊後国出身で頼山陽の親友。大阪を代表する儒者、詩人であり、塾生を多く抱えた。
※12古賀[イ+同]庵
 佐賀藩士で昌平黌(昌平坂学問所。東大の前身で幕府)の儒学者。黒船来航前からの開国論者。弟子に江木鰐水、北條悔堂、阪谷朗廬、津田終吉(津田賁)など。鰐水も参加した詩会如蘭社を主宰。
※13清水赤城
 江戸後期上野国(群馬県)出身の兵学者。
※14菅自牧斎
 菅茶山。備後神辺宿(広島県福山市神辺町)出身の詩人・教育家・思想家。福山藩弘道館の儒官。
※15
 福山城博物館「茶山・朴斎・鰐水−福山藩の儒者たち−」による。但し日付は正月廿七日になっているが、国立国会図書館阪谷朗廬関係文書目録によれば安政元年(嘉永7年)三月二七日とされている。阪谷朗廬は初め大塩平八郎に学び、後に鰐水と共に古賀とう庵に学ぶ。広島藩の儒者。明治期は官僚を経て福沢諭吉の明六社に参加した。
※16吉田松陰
 幕末長州藩の思想家。佐久間象山の弟子であり尊皇攘夷派の首領。安政4年に松下村塾を開き、弟子の久坂玄瑞、伊藤博文、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠らは皆明治維新の主導的立場となっている。阿部正弘の日米修好通商条約に反対し、老中暗殺を企て投獄、安政の大獄の際に処刑される。
※17杉孫七郎
 周防国吉敷郡御堀村出身の長州藩士。吉田松陰に師事し、遣欧使節にも参加した。宮内大丞、秋田県令、宮内大輔、皇太后宮大夫を歴任、後枢密顧問官となった。
※18榎本武揚
 ちなみにこの人の父親箱田良助は福山藩の人。のちに江戸に出て幕臣榎本家の株を買った。
※19清水谷公考
 しみずだにきんなる。幕末の公家。明治政府の初代箱館府知事だが榎本軍に追われ青森に撤退。榎本軍が降伏すると函館に復帰、後開拓次官となる。
※20大鳥圭介
 播磨国出身で緒方洪庵に蘭学を学ぶ。幕府歩兵奉行で伝習隊を率いて戊辰戦争を戦う。北海共和国陸軍奉行。明治政府では工部省で工業振興に携わり、工部大学校校長、元老員議官、家族女学校校長、学習院院長、駐清国特命全権公使、朝鮮公使、枢密院顧問官を歴任。
※21甲鉄艦
 東艦。日本初の装甲艦で、米国がフランスに発注した軍艦ストーンウォール。明治2年に明治政府が購入した。
※22内田九一
幕末明治の写真家で上野彦馬の弟子。明治初年頃江戸で最も評判のよかった写真屋。明治天皇の御影を撮影した。現在の内田写真。
※23井生村楼
 いぶむらろう。両国橋近くにあった有名な貸席。
両国橋の木造だつた頃には駒止め橋もこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼や二州楼といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外に鮨屋の与平、鰻屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食はせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあつた「坊主軍鶏」――かう一々数へ立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集つてゐたらしい。【本所両国/芥川龍之介】
※24
神田三河屋は慶応3年外神田佐久間町に三河屋久兵衛が開いた江戸初の西洋料理店。常磐屋は不明。
※25
東久世通禧(攘夷派の公家。後に伯爵)、有栖川宮熾仁(戊辰戦争の東征大総督で西南戦争の鹿児島県逆徒征討総督)、三条実美(攘夷派の公家。明治政府太政大臣)、巌谷一六(滋賀出身の書家、政治家。明治三筆の一人)、日下部鶴鳴(書家、漢詩人)、長三洲(豊後出身の書家・漢学者)、三島中洲(備中松山藩出身の漢学者。東大教授など歴任)、藤井松林(福山藩の画家)、高田杏塢(福山藩の画家)、門田重長(杉東)(門田朴斎の子、誠之館教授)、西周(徳川慶喜の政治顧問から記名時の貴族院議員)、南摩羽峰(会津出身。太政官・文部省に歴任後、東大・東京高師教授)、津田真道(美作津山藩出身。初代衆議院副議長)、古賀茶渓(久敬舎経営で河井継之助の師)、玉乃世履(岩国藩出身の裁判官。明治の大岡)、鈴木百年(京都出身の画家)、松本良順(幕府側の医者。後に軍医総監)、小野湖山(近江出身の書家・漢詩人。優遊吟社を結成。)、大槻文彦(江戸出身の国学者・教育者。『言海』を編纂)、那珂通高(盛岡藩儒者。『古事類苑』『小学読本』を編纂)、鶴田晧(佐賀藩出身で鰐水の弟子。司法省出仕)、フェノロサ(御雇外国人で政治経済哲学を教授。岡倉天心を弟子とし、日本美術を海外に紹介した)


 江木鰐水が初めて子を授かったのは天保13年(1842)3月12日のことである。しかしこの男の子は名を付ける間もなく、翌日に夭折している。鰐水33歳、妻の敏は文政7年(1824)生まれであるため、数え19歳ということになる。先妻の政は天保元年(1830)に20歳で亡くなっているため、敏と再婚したのはその後間もなくのことと思われるが、残されている鰐水の日記には記載が見あたらない。
 次子が生まれたのは2年後の天保15年(弘化元年,1844)4月6日のことである。鰐水は三鹿齋日記巻三に次のように記している。

天保十五年、甲辰、四月六日、婦挙一男児、此日館(註:藩校弘道館)中温習、晋(註:鰐水)直館中、午牌帰家喫飯、及出、祖母曰、温習畢、当直帰、不得他過、阿亀(註:妻の敏)微覚腹痛、恐分娩之期近也、暮帰、婦横臥在席、乃為設臥褥、曰、喫飯就褥、周兄(註:五十嵐修敬)適至、為按其腹、陣痛頻至、不能喫飯、乃使初蔵呼産婆、且告宗家(註:五十嵐家)、婦起上厠、漿水已破漏、還褥上不能坐、依儿俯首、産婆至、撤儿、産婆坐前、周兄坐後、使婦努力、再努力、児已生在地、発呱々之声、幸哉、挙一男子、胞衣共下、無災無害、宗家主母亦至、一家懼欣、実申牌半過之時也、分娩後、婦気色如平日、夜初更周兄以其平安欲帰家、余懐児在婦側、婦乍眩暈不省人事、如此者再、救之以薬、幸蘇醒、児雖身手長大、色白而不赤、白者多不育、令飲五香湯、飲之甚無気力、恐不育、右憂婦、左憂児、心如懸旗不定、情況非他人之所知也、夜半婦熟睡、至暁、児色亦赤漸発紅、呱々之声甚壮、糸井叔来視曰、是健強之児、何故患其弱、余心初降
【三鹿齋日記/江木鰐水】
鰐水35歳、当時としては初子を得るには遅い方であると思われるが、出産に際して母は失神、子は血の気が無く、今度の子も育たないのではと心配しきりの様子が見える。この男児はお七夜に千之(通称千之進)と名付けられる。江木衷兄の江木千之は嘉永6年(1853)生まれなので、元祖江木千之はこちらである。
 続いて弘化3年(1846)9月3日、三男健吉(通称乾吉)が生まれる。千之の比べて楽な出産だったようだが、「発熱焼ける如し、乳房張らず、赤子は呱々乳を索して啼く」とある。その2年後嘉永元年(1848)5月28日、次男千之が急に発熱する。「熱勢頗る劇しく」終夜昏睡、翌朝にも熱は下がらず、慌てて医者を呼ぶが、下痢が収まらず、5月30日四ツ頃ついに力尽きる。「悲惨々々、一家慟哭」。名も無き長男に続き、鰐水夫婦は次男をも若くして亡くすことになる。千之わずかに5歳であった。

 兄を亡くした江木健吉はまだ3歳であるが、江木家を継ぐべき者として育てられる。鰐水は嗣子として期待し、また賢く育った息子を愛したようである。
 弘化4年(1847)5月5日は健吉の初節句だったが「倹約の故を以て」客も呼ばず無人の祝いであった。7、8歳の頃、母方の祖母と共に賢忠寺(福山市にある曹洞宗の寺院)に詣でた際、人々が僧の読む大般若経をありがたがるのを見て、ひとり毅然と「余は儒家の児なり。此の如き物には拝まず」と言い放つような子であった。嘉永6年(1854)黒船来航の年、8歳にして藩校誠之館に入学する。この頃にはまだ世情に余裕があったようで、鰐水の日記にも芦田川での船遊びや、息子たちの勉学の進み具合などといった記述が並んでいる。ちなみに健吉に関しては親バカ気味に、小学(※26)を講じても誤りなく音声は明朗だ、などと書き付けている。安政4年の考試(試験)では、最年少(12歳)にもかかわらず甲科(最優等)で合格、金300疋(大体3貫=1両)を下賜されており、かなり早熟であったのは間違いないようだ。文久2年(1862)4月、金子霜山(※27)に学ぶため家を出る。6月に福山に一時帰国するが麻疹に罹り、8月の虎利刺(コレラ)流行にも巻き込まれる。
 江木鰐水の日記は幕末維新時期は多忙を極めていたものと見え、残されている日記が少ない。あるいは佐幕から反幕へと立場を変えた福山藩士として、敢えて記録を残さなかったのかもしれない。ともかく文久2年(1862)12月9日に江木健吉は福山藩御供番士に召し出される(十二石二人扶持)。この頃には江木鰐水は隠居の身となり、健吉に家督を譲ったらしい。もちろん幕末動乱の中で鰐水も東奔西走することになるのではあるが。

 元治元年(1864)10月31日、第一次長長州征伐において健吉は18歳にして鰐水に先立ち出陣、出発前には父母に告別し、弟たちを集めて訓戒し、詩を賦した上で死を決し出立するが、先述の如く交戦する間もなく長州軍が謝罪することで戦闘は回避される。

嗟矣無謀奏奇功
聊抛一死報吾公
他時収骨題何字
鉄石忠肝臣順通
【江木健吉の詩/江木鰐水明治四未日記二より】
続いて起こった第二次長州征伐にも父子共々出陣、健吉は熱射病に罹った父鰐水を助け、鰐水を喜ばせる。慶応3年(1867)秋、時勢の急変を受け、健吉は鰐水に洋学を学ぶ許可を求めるが、福山にも過激な攘夷派が跋扈しており、鰐水は「俗士の憎悪を受けることを慮り」それを許さない。三日三晩の議論の末、夜間のみの学習を許される。慶応4年(明治元年1868)1月福山城が長州軍に包囲された際には敵情探索の命を受けて出陣している。
 官軍に鞍替えした秋には官の許可を得て長崎に出、フルベッキ門下で猛勉強する。その無理が祟ったのか、8月に健吉は肺病を病み吐血するが、この時はオランダ人海軍軍医マンスフェルトの治療を受けて死境を脱す。明治2年春には東京遊学の官命を受けるが、体調が回復していないため、暫く福山で療養につく。その後体調も回復したことから、明治3年(1870)秋には大阪に遊学に出たが、そこで病が再発する。明治4年(1871)8月10日、大阪において健吉吐血すの報が鰐水の元に届く。母親の敏が帰省を促すため船に乗り大阪へ急ぐ。しかしこの時、解放令反対一揆(※28)が尾道より広島全土に拡がっている時期にあたり、健吉と母は福山に帰るに帰れなくなってしまう。しかし健吉は死を決して乗船、10月10日鞆の浦で鰐水に迎えられ、福山に帰宅する。自宅において母の手厚い看護を受けるが、10月16日に容態が急変、翌日明治4年(1871)10月17日、鰐水が「余最も之を愛す」と記した息子、江木健吉が永眠する。維新が成り、これから拡がる新しい世界を見ることもなかった、健吉26年の人生であった。葬儀は健吉の遺志により神式で行われた。

※26小学
 1187年に朱子学を広めた南宋の朱子が劉子澄に編集させた書。朱子学(儒学)の入門書。
※27金子霜山
 江戸後期安芸広島藩の儒者。
※28解放令反対一揆
 明治4年8月太政官布告により、被差別階級であった穢多・非人の呼称及び身分が廃されたことに対し、反対する民衆による一揆(というより被差別部落民襲撃)が西日本を中心に頻発した。


<続く>


《関係人物系図》

               白石某
                |―白石彦太郎
                |―後藤静子
              早川政吉
                |            文子
                |―小林登鯉子      |―[冫+煕]治
                |―政治         |―克己
                |――――――――――――徳次
                |            |―住江
                |            琴子
                |
                |           卯作
                |            |――翼
                |         羽村ゆみ子 |
                |               |―芳郎
                |       西田明則―中子 |
                | 江木繁憑―俊敬    |――秀子
                |       |――――千之
                |       |
                |       |    近藤某
                |       |    |
                |       |――――衷
                |       |―精夫 |
                |    田村糸子    |――富夫(養子)
                |            |  |―昌子
                |            |  |―信敬
                |            |  |―糸子
                |            |  |―俊二
                |            |  みつ子
              藤谷花子           |
                |――――――――――――栄子
          関迂翁   |            |
           |――関新平            有吉男
           |―清英 |      関場不二彦
           ?    |       |
                |―――――――悦子
                |       |
                |――藤子   |
                |――――――――――――ませ子
               和気子      |    |
  五十川義路                 |    |
   |――――――――――――道(政)    |    |
   | 福原与曽八      |       |    |
   |  |――藤右衛門貞雄 |       |    |
   |  |――惣五郎修齋  |       |    |
   |  |         |       |    |
   |  |         |       |    |
   |  |         |       |    |
   |  |―――――――江木繁太郎鰐水   |    |
   |  |         |――男    |    |
   |  |         |――千之   |    |
   |  |         |――健吉   |    |
   |  |         |――高遠   |    |
   |  |         |――――――江木保男  |
   |  |         |――松四郎  |――――定男
   |  |         |――信五郎 鶴田蝶子
   |  |         |
   |  |――才介(陶叔) |
   | 藤井繁        |
   |            |
   |    河合絹子    |
   |――義集 |―基    |
   ?  |――義則(周圭) |
      |―――――――――亀(敏)
      |――左武郎(訊堂)
      ?


江木姉妹小伝は
はんせいきにて不定期連載中です。こちらのログは新情報を入手次第、適宜加筆訂正していく予定です。
江木栄子、ませ子に関する情報がありましたら、教示いただければ幸いです。
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 byやま(hustler@cc.rim.or.jp)
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