三守の解放
昭和63年 仁杯争奪 晨前場所

 混沌之庭はどの盤面においても、「禁じ手」というものは成立しないとされている。手や陣形の相対的な優劣は存在しても、混沌之庭の性質上、絶対的に相手を屈服させてしまう「禁じ手」は存在しないはずなのである。しかし現在においても少なからず「禁じ手」は存在している。例えば五岳興での「人殺」「帰郷」「時戻し」などは公式戦での使用は固く禁じられており、使用した場合は対戦相手の希望した場合のみ勝負の続行は許されるが、その時点での負けは決定となってしまう。しかし前述したように禁じ手は存在せず、必ずその対処法は存在する。そのため勝負師達は各々の力量を上げると共に、研究者として禁じ手の解法を求め続けることが運命づけられているのである。そしてその結果、これまでに多くの禁じ手を解放してきた。なかでも最も劇的であったのは俗に「三守の解放」とよばれる対局中での禁じ手の解放である。

 「三守」(あるいは「三呪」)は江戸時代に黥布之夢で生じた禁じ手であり、盤面を裏返す「寝覚め」を起点に「壊陣」「壊盤」「走背」のいずれかを行う守りの戦法である。これは多少でも優位に立った側が行えば勝負を終えるまでには逆転されることはないため禁じ手となり、長年に渡り勝負師達を悩ませ続けた難解な禁じ手である。この「三守」の解法が見つかったのが昭和63年に行われた仁杯争奪の晨前場所での坂上孝四朗と山田八との対戦中だった。坂上孝四朗は前年の仁杯所有者であり、「昭和の墨子」と異名をとる守りのエキスパート。対する山田八はプロ歴は48年と長いものの、それまでAクラスの下位に留まる特徴のない勝負師であったが、この年の仁杯争奪では行陣の切れがよく、初の晨前場所への勝ち上がりとなった。勝負開始直後は予想通り坂上が強襲により山田を引き離す展開になり、やはり山田では役不足であったか、といった雰囲気が漂った。しかしその後の坂上の鉄壁の守りに対して、山田は駒数を半分に減らす思い切った戦法で切り込み、さらに後方にまわした遊軍の電撃のような攻撃に坂上の前線が揺らぐなど、記者達を唸らせる攻撃を見せ坂上に迫る。それにより坂上は「寝覚め」を余儀なくされ、次手は禁じ手である「壊陣」「壊盤」「走背」は行えないため、東門を捨てるであろうと誰しも予想した。しかし山田の追撃を受けた坂上は、そこで「壊盤」を行い、三守の禁じ手を犯してしまう。これにより山田の勝利が決定したのだが、お互い勝負を終える姿勢を見せずに勝負は続行。山田の歴史に残る長考が始まった。お互い微動だにせずに二時間が経過し、遂に山田の打った手は自駒全てを最初の状態に並べ直すという単純なものであった。しかし単純であるが故に、普通なら徐々に手の狭まっていく三守の守りを崩す道が、幾筋も見つけることができる。この手を見届けて初めて坂上は投了をし、すぐに他の勝負師を集めての日付を跨ぐ検討が行われた。その結果「壊盤」だけでなく「壊陣」「走背」にも通じる解法であることが証明され、その後多くの勝負師や研究者の確認により一ヶ月後に三守の正解法であると認められた。これにより「三守」は禁じ手から解放され、通常の手として使用されるようになり、多くの戦法が編み出されることとなった。

 「三守の解放」は一大事件として混沌史に残ることとなったが、その当事者である山田はそれ以後は活躍することもなく平成2年に引退。協会の名誉職も用意されていたというがそれを辞し、現在は実家のあった徳島で農業を営んでいる。取材もほとんど受けない山田であるが、友人の作家、取手優七のノンフィクション『方丈の地平』(1999)の中で当時を振り返り、「あの時は坂上君が三守を打ったなんて気づかなかった。気づいていたらあんな手は思いつかない。禁じ手ならあんなに考え込まなくても勝ってたのにねえ。慣れないことはするもんじゃないね。」(p85)と語っていた。

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