鈴鹿の山への想い


私が今のように山に登り始めたきっかけの一つは鈴鹿にあったことは間違いのない事実です。確かに少年時代の生活やそれ以降のいろんな積み重ねの結果ではあるのですが、ここで登り始めなければ今ほど山に通うことも無かったかもしれません。
1992年の夏、長期出張で四日市にいました。独り身の気侭さで、毎日のように見ているあの山に登ってみようと思い立ったのは、ちょっと体重を気にしたということが直接のきっかけでした。それまで登ったことがあるのは、会社で連れていってもらった高水山と、観光気分でむりやり登った富士山くらいです。道路地図にある、武平峠から御在所山に繋がる薄い破線を見て、ここから登れるのだろうと、運動靴で出かけました。登った結果は予想以上に充実感を感じたのですが、その元になったのは花崗岩の岩場をペンキに導かれて歩いたり、帰りに下ることを考えて迷わぬようにしっかりと風景を目に焼き付けたりと、いろいろ自分なりに努力のようなものをしたからでしょう。ある程度経験すればたわいのないものですが、単独で人がゾロゾロ歩いていない山に行くということの楽しさを知りました。山頂でロープウェイで登った人になんとなく優越感を覚えたり、下山して車にたどり着いてほっとしたことはよく思い出されます。
その次は、多少入門書を買い求め、エアリアマップを買ってでかけた八風峠です。1992年のエアリアマップのガイドの一番最初に八風峠が紹介されていたからです。このあたりの事情は「ハイキング随想」の中に拙文で紹介しています。今ではこのガイドも新しいものに変わってしまっていますが、当時は山口温夫氏の著になるもので、通り一遍のピークハント的ガイドとは違い、鈴鹿の山を奥深く知るためにはどういうコースをとったらいいかといった視点で、小さな小冊子の範囲内でできるだけ多く魅力を紹介しようとした名ガイドだと思います。いきなりピークを一つも踏まない、田光〜八風峠〜中峠〜田光ではじまるのですから!
そのあと、その年はいくつか主要な鈴鹿の山を登りました。ガスに包まれた雲母尾根では道に迷い、喉がからからになるほどの怖さを感じました。この間に一般的なハイキングの基礎はほぼ出来上がったのだと思います。あとは全国の山にでかけて、いろんなことを体験したということになります。そういう意味では鈴鹿の山々は私のハイキングの大先生なのです。
私にとって鈴鹿の山のイメージは白砂青松の花崗岩の風景です。そして明るく白い谷に流れる澄んだ水です。これは初期に南鈴鹿の山に通い続けたことが影響しています。最近でこそ北部の山にも行き、広大な山頂部に遊ぶ楽しさを味わっていますが、時折白い稜線に立つと、あぁ戻ってきたなという気がするのです。
四日市にいる間は、あちこちとうろうろしながらも、毎月の様に鈴鹿のどこかに行くでしょう。東京に戻ってからも、時折訪れたいなと思っています。自分の山登りの原点を確かめたくなった時に。