初めての単独行 〜鈴鹿の峠道を登る〜

自から山に登りたいと思って向かった頃から基本は単独だった。登山・ハイキングとして、最初こそ会社の先輩に連れられて高水三山に登り、ハイキングの楽しさを知るきっかけとなったが、以後登山の楽しさに気づいてふらっと出かけた富士山、太り気味の体が気になって武平峠から駆け上がった御在所岳。いずれも単独行である。但しどちらも回りにたくさんの人が歩いている人の匂いの濃い道だった。その3回の山のあと、ピークこそきわめなかったものの私にとっての本当の意味での登山の第一歩がスタートした。
半年の予定で短期に赴任した四日市での休日は、東京の生活からも離れてすべてが自由に作り上げることができる。この有り余る時間の中で、昨年登った奥多摩や富士山を思いだし、背後に連なる鈴鹿の山並を見上げて、あれに登ったらきっと楽しいだろうと思った。山の中に入ることに関しては、小さいころ田舎の山を歩いての山菜取りや檜の枝打ちの経験もあるので、少々自信があったのも事実である。そして試しに手ぶらで武平峠から駆け上がるようにして御在所岳まで登ってみた。意外とあっけなく登れたし、山の中に入ると花崗岩の山ならではの独特の風景も展開し、やはり思った通り楽しいものだった。しかし、ここまでは少々怖いものしらずだったかもしれない。その後本屋で登山に関する入門書やルート集や地図を買って来て貪るように読んだ。そして登山が本当は考えているより遥かに危険なことだということ、また遥か先には槍穂高という大きな山があって、今ではとても手の届かないことが解った。そして私の山が始まった。
さて、それなら道具が必要である。とりあえずザックと靴が必要みたいなので、デパートの鞄売場で小さなブランド物のデイバッグを買った。今でもこれは近郊の山に行くときの友なのだが、ちょっと山には似合わないかもしれない。レインウェアはゴルフ用品売場で5千円程度のものを買った。靴はスポーツ用品店にあった底の固い靴ものにしたが山用では無かったようで、今でも時々使ってみるもののよく滑ってくれる。とりあえず、これだけあれば一応山に行く格好はそろったのであとは目標のコースを決め準備万端週末を指折り数えて待つこととなった。
その週末はいかにも雨のふりそうな曇空だった。これだけ期待して待った週末だから多少の雨であろうと、いてもたってもいられず、コンビニに寄って弁当とお茶と行動食を買って出発した。行き先は地図に付属のガイドブックの先頭に出ていたコースで、田光から八風峠、中峠に行き、できれば三池岳の山頂に立ってみたいというものである。時折雨の粒か落ちてくる天気の中、田光の集落から山の方に入って行くと、花崗岩を切り出してたくさん並べてある場所がある。どこまで車で行けるか解らなかったので、このあたりに車を止めて歩いて行った。今思えば随分手前に止めたもので、当時は登山口付近までは車で行ってはいけないと思っていたのかもしれない。登山口には登山届を出すポストがあった。今日は登山届を書いていないし、登山届はもっと大きな山行の時に出すものと思っていた。道は、堰堤をいくつか越えて沢に沿って登っていくが、細い道で笹藪も被さっており、小雨混じりの笹藪のおかげでズボンはすぐビショビショに塗れてしまった。ジーパンでビショ濡れになることが非常につらいことだというのが身をもって良く解った。おまけに蒸し暑い中、自分のペースも解らずどんどん歩いているので、すぐに汗で体中がビショビショになった。しかし、途中時々横を流れる渓流の美しいこと!これはこの時初めて体験した美しさだった。まさに山の自然のすばらしさを体験しているのだ。
やがて、八風峠と中峠の分岐に出たが、帰りは八風峠から降りてくることにして、中峠に向かう。道は沢から離れどんどん高度を上げて行く。汗が体中を滴っている。今まで歩いたような富士山や御在所と違い、複雑に小尾根を回り込んでいく道は、樹林の中で方向感覚がつかめず、不安になる。時折開ける視界は谷底から吹き上げる雲が激しく舞っている。もう着くか、もう着くかと思って登っていくとやっと道が緩やかになった。それでもまだ道はしばらく回り込んで行ってやっと中峠に到着した。ここで久々に現在地を確認する看板を見てほっと一息つけた。
ここからはアップダウンの少ない尾根上のコースだが、八風峠までは体で笹を押し分けて行く様な道でコースタイム以上に時間がかかってしまった。そして、いままでこんな笹の中を歩いたこと無かったので、これが山の中を歩くことなんだなと思った。八風峠には八風大明神の大きな石碑があり、往事の人の往来の頻繁であったころが忍ばれる。ここから三池岳を目指してみた。今まで以上に笹の藪で、また笹だと思って寄りすぎると、やせ尾根のため笹の隙間から空中が見えたりするのだ。急な坂を登り、山頂だろうと思ってピーク周辺をうろうろしたが、標識類は何も無い。さらに進むとどんどん道は下りハゲてやせた鞍部にでた。ここまで来たときこれ以上進むことに恐れを感じて引き返すことにした。やはり、笹藪の中の道を薄暗く今にも降り出しそうな日に進むのは荷が重かったようだ。たぶん頂上はさらに先にあったのだろうが、未練をもちつつ八風峠まで引き返し腰を落ち着けて、暗い雲の立ちこめた日、今日はもう誰も訪れそうもない八風峠で、谷の底からわき上がってくる白雲を見ながら本当に山に来てこの場所にいるのだという感動を自然への畏怖とともにかみしめた。それは、大勢でいった奥多摩とも違い、一人で行ってもたくさんの人と会っている富士山や御在所とも違った。そして、この雨混じりのたった一人の笹藪の八風峠が、私の単独行の原点となった様だ。
下山は再び蒸し暑く濃い草いきれの中を笹の滴で服を濡らしつつ降りていく。確かに行きに通った分岐点を確認し、沢の流れが近づけば思わず岩に乗って、流れに手を差しのべたりした。そのとき濡れた岩で滑ってしまい、膝から下が沢の中に落ちてしまった。行きに通った堰堤を越え登山口に戻るとアスファルトの道を車の方に戻っていく途中、今日一日のそれほど長くない山行を思いだしつつ充実したいい気分で歩いて車まで戻った。そして、それから毎日週末を楽しみにする様になり、その後5年を経てついに槍ヶ岳まで到達したのである。


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