これからの過密な人間社会で必要とされるのは「他人が自分と違うということを認めること」だと私は確信します。その上で「他人はやはり自分と同じ人間なのだ」という認識も必要になります。
人間は思想と感情の生き物です。感情は大抵の場合、大多数の人間の間で同じベクトルを持って推移し、思想はそれこそ多種多様で、どれが正しいかどうかなどということについての結論は出すことができません。一つだけいえるのは、明らかに他人に物理的な害を与える思想は悪であるとするしかない、ということだけです。しかし、その検証はきわめて慎重に行なわれなければなりません。理由が知りたい人は過去の思想弾圧の歴史を調べてください。
「おめーだって他人のことを認めないし、自分の意見を俺らに押しつけてるじゃねーかよ」という批判は免れ得ないものであることは承知しています。ただその点だけを指摘した反対意見には、私は耳を貸しません。そんなことはとっくに承知の上でこれらの行動を行なっているからです。
もっとこの表現を改善した方が良い、という助言はいつでも歓迎します。自分の物言いが他人を説得するのに全く向いていない、ということは経験的に知っていますが、具体的な改善点とそれを徹底するだけの精神的余裕をまだ持っていないのです。手がかりはいつでも渇望されています。
科学文明、技術に関しては「技術に悪も善もない。それは全て人間に委ねられている」という思想です。
一度技術を手にしてしまったからには、人間は遍く賢くあらねばなりません。それは文明を享受するものとしての義務です。
少なくとも、自分達の生活の基盤を支えているもの(電力を筆頭として、内燃機関の自動車などなど)の本質を、理解している必要があります。でなければ、正しい道を探索して自ら決定することなどできはしません。
そのような決定を他人任せにしておいて、安穏とした生活を送ることの出来る時代は遥か遠くに過ぎ去ってしまったのです。
なんて格好良いことを書いていますが、大半はどうでも良い文章で占められています。
このコンテンツには暇潰し以上の意義は存在しませんので、もっと他にやることがある方は読まなくても良いものなのです。