これは単に自分の人格の欠陥を病気のせいにして逃避しているだけだ、という声も自分の中にはある。これが正しい理性的な見解なのか、それとも未だに鬱状態が続いているせいなのか、既に自分の判断に疑いを持っている以上、決着を付けてすっきりすることはできない。
やはり私は医者に行くべきだったのだろうか。
……とまあ、自分の内情を分析的に書き残してみると、なんとなく回復してきたような気がしてくるのが不思議だ。
そういえば、「軽症うつ病」でも、治療法の一つとして自分の葛藤を書き残す、というものが挙げられている。
やはり頭の中でぐるぐる思考を回すのと、こうやって記録に残すのではかなり処理に違いが出るのだろうか。
2:45頃、セスナが飛んできて、なにやらスピーカーからアナウンスを流している。そんなことは、大宮では選挙の投票日くらいしか経験がなかったので、何事かと思って耳を澄ませてみると、
「現在、光化学スモッグ注意報が発令されています……」
そうか。未だに光化学スモッグって起きるものだったのね。工場や自動車の排気に関してほとんど規制のなかった60年代から70年代にかけての遺物だとばかり思っていた。
ちなみに、大学時代に住んでいた桐生では、ちょくちょく広告を流すセスナ機が飛んでいた。実家である千葉ではついぞ出会ったことがない。ああいうのは、近所に飛行場があるかどうかで決まるのだろうか。
昨日の話だが、すごく久しぶりに観たニュースステーションで、新潟の女性監禁事件の初公判に関して、現行法の処罰が軽すぎるという意見をただの感情論として喋っている馬鹿な記者がいた。日本の現行法体系は教育刑主義で構築されている、という当然入るであろう突っ込みも入らなかった。
そんな頭の悪い素朴な意見しか言えないんならワイドショーにだけ出てろ、と一瞬思うが、ニュースステーション自体がワイドショーみたいなものだと思い直す。
それにしても、最近のマスコミはちょっと感情論に傾き過ぎではないのか。マスコミに躍らされる大衆なるものが未だに存在しているかどうかは謎だが、まだ世の中の大多数がそういう傾向を持っているのなら、これは危険な兆候だと思う。ベクトルの方向によっては、ロクでもないことが起きる。
素朴な考え方で社会に向き合えば自然と、出てくるのは感情論ばかりになってしまうだろう。社会的影響力を持つマスコミは、その流れに多少なりともブレーキを掛ける責任があるのではないか。ブレーキを掛けないまでも、素朴な印象批判から先に進んで、考えるためのきっかけになる情報を提示すべきではないのか。これは、マスコミというものに対しての過剰な期待なのだろうか。
これも昨日の話だが、石原慎太郎がまた問題発言をしたそうで、私はこの人の言うことは、理性的には危険だと思うけれども、感情的には結構好きなのである。今回の発言は前回の「治安出動」発言(「三国人」なんかより、こちらの方がよほど本質だと思う)よりはまともだと思うし。
石原慎太郎に限らず、行政のトップに立つ人間がこういう風に問題発言を繰り返すというのは、要するに民度の反映ということで、何かしらまずいことが起きて有権者が痛い目に遭ったほうが良いとさえ思うこともある。
石原発言に関連して。中国共産党政府より国民党政府をより好もしく思うのは、「判官贔屓」というものなのだろうか。
「猫の地球儀」(秋山瑞人)に関して、ロボットの描写が良い、という人が多いのだが、この作品で描かれているロボットは、未熟な人間の知性を持っているように描写されていて、人間とは異質な知性体とは描写されていない。この点で、私はすごい(=手放しで誉められる)、とは思わない。水準より上だとは思うけれども。
ハードウェア的にはかなり実際の生物に近い組成になっているようだけど、制御系だけ真似するならともかく、機構のほとんど全てを生物の模倣にしてしまうというのは、工学的には遠回りな道なんじゃないかと思う。その割には完璧に中央制御だしなぁ。生物体はかなりの部分を末端の自立制御で賄っていると思う。現行のコンピュータだって、OSがBIOSのやってることまで把握/管理してるってことはないと思うのだが。いやまぁ、描写しやすい、描写して格好良いという利点は認めるのにやぶさかではないが。
この辺の描写とか設定とかは、やはり「雪風」の域に達してくれないとすごいとは言えないね。
寝不足の影響かどうかは知らないが、昨日辺りから半自動的に行う行動がちぐはぐになってしまっている。
例えば、釣り銭として札と硬貨を受け取った時に、いつもなら効率よく小銭入れと札入れにしまいながら歩き始めたりするのだが、手順がバラバラになってしまって立ち止まって考えないと上手くしまえなかったり、目薬を注したあとに、袋に入れてしまわなければならないのに袋は出しっぱなしで目薬だけしまっていることに気付いたり。
夜になって疲れている時にやってしまうのはともかく、一晩経って、昼間っからそういう失敗をしてしまったことに気付いた時の気味の悪い感じといったらない。自分がこのまま壊れていくのではないかという恐怖だ。
新居昭乃「降るプラチナ」購入(山本正之「快傑きらめきマンのうた」を一緒に買おうかどうか迷ったのは秘密だ)。
とりあえず、"スプートニク"はとても気に入った。後は聞き込んでから。
金に飽かして権利を独占し、ゲーム業界制服を企む悪の株式会社、コナミのPS2用RPG。PS2初のRPGとか、酷いことを言ってる。Eteral RingはれっきとしたRPGではないか。
ゲームの内容自体は、私にとってはかなりどうでも良いのだが、気になる点が一つ。ひょっとすると、コナミのPS2タイトルは、今後ずっとオープンプライスなのだろうか。
オープンプライスって、消費者にとって嫌なことがありこそすれ嬉しいことが全然ないので、自由競争経済においては早々に駆逐されるものだとばかり思っていたのだが。
秋山瑞人「猫の地球儀」に関して。ネタばれにならないよう気を付けているが、未読の人は読まないほうがよろしいかと思われる。
ここでクリスマス(作中に登場する少女型ロボット)の性能というか扱われ方が不自然だと言っているが、焔の章のp18の1行目から4行目を読むと、クリスマスは非常に趣味に走ったオーバースペックな機体であることを示唆する描写がある。これは、作中に登場する他のロボットの描写と対比させるとより鮮明になる。趣味に走って作られたからこそ少女型なのかもしれない。
さらに「喧嘩には自信がある」という記述があるところから、充分な戦闘能力をも有しているであろうことを導くのは好意的に過ぎるだろうか。
よって、私は後半の展開に関して不自然に思わないし、不自然に思うのはクリスマスの性能に関する単なる思い込みのせいではないのかとさえ思う。
あれは、楽に自分の本心を突き付けられた幽がヤケクソになって始めてしまい、始めたからには本気でやった結果だと読むこともできる。クリスマスを使って互角に戦えたのは手持ちの資産を最大限生かした結果だし、それを始めること自体が理性的じゃなくてもベストを尽くそうとするのは不自然ではない。
こういう時には「時間貯金箱」が切実に欲しくなる。眠れない時間を貯金してしまい、眠れる時に一気に下ろして眠るのだ。
……良く考えたら、主観的には時間経過がなかったことになるから、これじゃ解決しないのか。
瞬間的に覚醒が訪れることもあるのだが、基本的には半分寝ているような状態で一日を過ごしてしまう。
ちょっとしたことでいらいらの発作が起きるのを止められない。幸いにして、それを心の中だけに押し留めておく理性は残っている。しかし、誰かと何かしら直接衝突するような事態が訪れた場合にもそれが保たれる保証はない。自重が必要だ。
ふと思った疑問。
日本人は、清音と濁音の間に明白な関係性を見出すが(「さ」と「ざ」の関係とか)、アルファベットで表記する言語を使う人種は、そのような関係が理解できるのだろうか?("s"と"z"の関係とか)
そう思って和英辞典で濁音を引くと、a voiced soundとある。なるほど、濁音の子音を発音しようとした場合には声帯を使うので、こういう名前になっているわけだな。とすると、たぶん清音の子音と濁音の子音はまったくの別物であって、関係性は考慮されていないのではないだろうか。
そもそも、清音と濁音に関係性を見出すということが果たして論理的なのかどうか、という問題もあるのだが。
なんとなく、スケジュールの見積もりを言っても信用されなくなっているような気がする。あれだけ自分で設定した締め切りをぶっちぎってれば、当然なんだけど、危険信号の一つとして書き留めておこう。自己管理を怠らずにやっていこう(と日記には書いておこう)。
アーサー・C・クラーク(伊藤典夫訳)「失われた宇宙の旅2001」読了。
「2001年宇宙の旅」で没になった部分と、クラークのスタンリー・キューブリックに対する愚痴が交互に現れるフィクションともノンフィクションとも言えない不思議な本。
原書の発行は1971年で、なんで30年近く経過してから訳されるのかが不思議なのだが(むしろ、2001年に出したほうが良くないか?)、クラークファンなら楽しく読める本だろう。
しかし、スターゲートを通過してからの没原稿は、陳腐にならないように映像化するのは至難の技だと思わせるものである。その点ではキューブリックの判断は正しかったと思うが、代わりに出てきたのがあのサイケデリック映像と白い部屋なのにはいまいち納得が行かない。
渓由葵夫「奇想天外SF兵器」読了。
大失敗。表紙の加藤直之のイラストに騙された。SFにも科学にも工学にも詳しくない奴が、適当に思い付いたことを書き散らした酷い本。
タイトルにSFとあるし、表紙の絵がそんな調子なので、SF小説に出てくる兵器に関する本かと思わせるが、小説がネタになっているのは、「宇宙の戦士」と「銀河英雄伝説」のみ。後は映像作品である。「奇想天外アニメ/特撮兵器」としてあった方がよほど内容に近い。紹介されている小説のどちらもアニメ化されてるしな。
文章の半分以上が兵器とは関係ないことが占めている上、兵器に関しての記述も説明不足で、説得力のかけらもない。ついでに言うと、本の中で論旨が右往左往していて、何を論点にしたいのかさっぱり解らない(作中の兵器としての変なところに突っ込みたいのか、それとも、むりやりでも理屈を付けてそういう兵器体系になった理由を説明したいのか)。
あとがきで、資料に当たったようなことが書いてあるが、「宇宙の戦士」の作者をアーサー・C・クラークなどと書いてある(しかも文中に何度も)ところを見ると、嘘としか思えない。他にも、アポロ11号の月着陸が1971年などと書いてあるとか、ビームとレーザーを混同してたりとか。ちなみに「宇宙の戦士」の作者はロバート・A・ハインラインだし、アポロ11号の月着陸は1969年である。レーザーはビームに含まれるが、ビームが全て電磁波もしくは光波ということにはならない。こんなことはSF者を名乗る以上、常識な上に調べるのも容易である。あとがきで書かれている当たった資料にゲーム(たぶんスーパーロボット大戦)が含まれている時点でもうどうしようもなく作者のレベルが低いことは露見しているのだが。
加藤先生はどうもこのしょうもない本文をちゃんと読んだ上でイラストを描いたらしい(あれ? 読んだのに「宇宙の戦士」の作者について突っ込まなかったのか?)。同情に値するとは思うが、それであの表紙を描くのはいかがなものかと思う。バーサーカーなんかが描いてあったら、それなりに期待してしまうではないか。ちなみに、文中に時折現れる加藤先生のイラストと文章は、きちんとしている。あまりに投げやりなものも散見されるが、それは編集者の責任のような気がする(ロボットアニメを観ない人にロボットアニメがネタのイラスト付きコラムを書けって言ったってねぇ)。
と、言うわけで、まだ買ってない人は金の無駄なので買わないように。ライター志望の人には他山の石としての価値がないこともないかもしれない。このレベルでもプロとして食っていけるという自信はつけられるかも(却って有害か)。
「お前は新紀元社の本に何を期待しているのだ」とか「目次も検討せずにいきなり本を買ってしまうほうが悪い」などという突っ込みもあるかとは思うが。
「モンティ・パイソン傑作選」を買って、即日観る。
文句なく面白い。値段も安いし、ナンセンスギャグに興味のある人は必見。
ライナーノートによれば、6/19に、「空飛ぶモンティ・パイソン」が完全DVD化されたものが出るらしい。素晴らしい。なんとなく体の良い詐欺に遭ったような気もするが、Box買い決定。
この調子で、「ホーリーグレイル」「ライフオブブライアン」「人生狂想曲」もDVD化して欲しいものだ。
Electric Sheepの「天国から来た男」というゲームが、評判を聞くと、私が密かに考えていたゲームに近い感じがするので、買ってきてやってみる。
……やりたいことは解るが、あまりに突き放しすぎのような感じを受ける。まるで8bit時代のPC用ゲームのような感じ。FROM SOFTWAREのゲームのよう、といえばもう少し分かりやすいだろうか。テキストベースのゲームなので、余計にその感が強い。
とにかく、面白さを理解するためには、ぶっきらぼうなところに我慢して付き合ってやらなければならないタイプのゲームである。最近、忍耐力が落ちているから付き合いきれるかどうか自信がないが、とにかくしばらくやってみるとしよう。
起動しなくなったPowerMacの話。
ふと思いついて、PRAMをクリアしてみた。
すると、何事もなかったかのように起動するではないか。あー良かった。
手遅れになる前に、ディスクの内容はバックアップしてあったので、後は戻すだけである。とはいえ、これが大変なのだが。
んで、どういうわけか昼頃になると体調も回復してくる。ちょっと熱っぽいかな、くらいで、他の症状は鳴りを潜めてしまう。どういう事だ? 私はそんなに会社に行きたくないのだろうか。それとも、報告をしたくなかったのか。ますます駄目さ加減が募ってきたような気がする。
それらの症状とは関係なく、肩凝りが酷い。ずっと痛み続けるので、動く気がなくなる。
しょうがないので発熱で重い身体を引きずって、湿布薬(とついでに風邪薬)を買ってくる。
湿布して風邪薬を飲んで一眠りしたら、どちらもそれなりに回復。
しかし、安心して何か食べると途端に下るので、何も食べられない。
飲むのは平気な様子だったのだが、ゼリー状食料を買い出しに行く元気がない。さほど腹も減らないので腹が減るまでは何も食べないことにする。
谷甲州「背筋が寒くなる話」読了。
正直言って、面白くはなかった。やはり私にホラーは向いてないらしい。
宝島編集部「『死んでもいいや』症候群」読了。
新しい見識は何も得られないワイドショー的な本。別冊宝島が元なんだから、当然といえば当然。
鬱になったことのない(と思われる)人間が、自殺について社会と自己の関係を基にして理性的な分析を加えているのを見ると、腹が立つというかなんというか「お前は何も解ってない」感が募る。
実際に自殺未遂を経験している人間のインタビューで「理由なんかない」と言っているほうが余程感情移入できる。
自殺を、精神のアポトーシス的作用ではないかという仮説を開陳している文章もあったが、精神の働きと細胞の生理の間に関連性があることが示されているのならばともかく、ただ同じような働きに見えるから、どちらも生物の活動だから、という点のみに拠る主張ではいかにも弱いと感じた。
こういう本では、ただ自説を開陳されるよりも、事実のみを淡々と並べてくれたほうがいい。主義主張は、事実のフィルタリングという形で間接的に示すこともできるのだから。
主に執筆者よりも、そういう人選を行った編集者側の問題だと思うが。