00年6月下旬の世迷い言


2000/06/21

 朝から気分は最低。より詳しく言えば昨日の晩から。
 はっきり言って何もしたくない。遊びたいわけでも、買い物に行きたいわけでも、本を読みたいわけでもない。何もしたくない。
 体を動かすのは肉体的には苦痛ではない。疲れているという自覚はあるが、動くのに支障が出るほどじゃない。具体的に言えば、昨日よりずっと楽だ。でも精神的には苦痛、ではなく億劫というのがしっくり来る。
 こんな分かりやすい鬱の症状もないもんだ、と自分でも思う。同時に、単に怠けたいからそう感じているように装っているのではないか、と疑う自分もいる。
 その精神に鞭打って、足を引きずって会社にやってきて、SSRIとリタリンを飲む(早目に来て会社で朝食を摂るようにしているので)のは精神にとって良いのか悪いのか。少なくとも、私の社会的信用の最後の砦(掘っ建て小屋とも呼ぶ)を守るのには有効だと思う。
 もし精神に悪かったり社会的信用に良かったりとしても、そんなことはどうでも良いや、という気分が現在のところは支配的。
 会社に来たのは自虐をしたいからかもしれないし、昨日から引っかかっている懸案事項が気になるからかもしれない。

 昼飯もほとんど喉を通らず。ほとんどまったく食べる気にならない。勿体無いことをした。

 先週末とのこの落差はなんだろう? 薬の服用を止めたわけでもないので、やはり鬱の回復期の病状の波なんだろうか。
 こうやって文章を綴るのは何故だろう? 何もしたくないというのは嘘なのか。それとももっとやりたくないことからの逃避か。
 考えているうちに、鬱が酷くなった原因に一つだけ思い当たるものが見つかった。時間的にも丁度合うのでおそらくは正しい推測だと思うのだが、今の自分の状態を他人のせいにはあまりしたくないし、その原因は仕事上のことでもあるし、その原因を取り除いてしまうには会社を辞めざるを得ない気もする。そもそも、そんなのは単なる甘えだ、と言われてしまえば返す言葉もない。

 地下鉄のホームの端には、自殺者に自分の姿を見せて思いとどまらせるために鏡が貼ってある、と聞いた事があるが、鬱状態の人間には逆効果なのではないだろうか。鬱状態で鏡の中の自分を見たら、余計に自分が嫌いになると思うのだが、それ以外の私が認識していない効果が、抑止方向により強く働くのだろうか?

 いままでやってきたように、どうでも良いことでも毎日だらだらと書き連ねるよりは、厳選した社会に責任持って問えると自負できる文章のみを散発的に発表するほうが、読む人にとってはもちろん、絶対に自分にとっても意義があると思う。
 このページは別に意義を求めてやってるわけじゃないから、そんなことはどうでも良いのだが、主に自分にある原因で近い将来にも不安のある身としては、そういう方向も追求すべきなのではと思うこともある。
 私は建前、他人事としては「べき論」が大好きだが、自分に適用するのは大嫌いな人間(平たくいうと、卑怯者)なので、実行に移したりはしないわけだが。


2000/06/22

 昨日の朝から昼にかけてよりは回復したような気がする。気がするだけで、日常生活を支障なく送れるようになったわけではない。怠け癖なのか鬱による無気力なのか、自分には判断できない。とにかく何もする気が起きない。訂正。こうやって愚痴を垂れる以外には何もする気が起きない。
 食欲は相変わらずなし。何も食べず、SSRIとリタリンを服用して様子を見る。会社になど行けるはずもなし。

 半分寝て、半分は苦悶しながらただ布団の上に横たわって過ごす。
 心身が切り離せるものではないということは、心を病んでみると実によく判る。全身が嫌な感じに襲われて、苦しくて仕方がない。

 苦悶している間に、昨日、6/28に発売が延期になったと知った「空飛ぶモンティ・パイソンDVD Box」の予約を入れておいたWAVEから、「初回入荷分は他の予約でいっぱいなので、あんたの予約は次回入荷分になるぞ」という電話が入る。
 その時はそれどころじゃなかったので、ただハイハイ返事をして切ってしまったが、あのBoxは初回限定生産だったのではないか。その辺を確認して、入手可能性を問い質す必要がある。週末にでもやるとしよう。

 夕方になって幾分気分がマシになってきたので、会社に行く。食欲は相変わらず全然ないが、家を出る前に、バナナ1本とトマト1個をむりやり咀嚼し、飲み込む。
 仕事の遅れに関する危機感は、鬱の所為ではない。実際に遅れまくっているのだから、できる時にやれることをやっておかねばならない。

 会社に来てみれば、仕事をするのに問題はない。一昨日の夜までの状態に復帰したようだ。
 もう二度と、今回の悪化の原因になったことをしてもらうのは御免だが、予め釘をさしておくべきかどうか悩む。結局言わなかったが。
 夜になってくると、軽口を叩く余裕さえ出てくる。なんて分かりやすいんだろう。まるで教科書に載っているような反応を示す自分に、少し複雑な気分を抱く。

 香山リカ「サイコな愛に気をつけて」(河出文庫)読了。
 最近見られるさまざまな精神疾患の紹介と簡単な原因分析。あまりに軽くまとめられているので、そこが気に入らない人はいるかもしれない。
 こういう軽い小文の集合体は何とか読み進められるのだが(それでも集中して連続で一気に読むことはできなくて、途中で息切れして中断を何度もする)、これは今読むべき本ではなかったように思う。
 中に「未熟型うつ病」や「退却神経症」というものが紹介されており、自分がそれに当てはまるのではないかと考えて余計に気が重くなってしまった。
 中で紹介されている症状と完全に合致するわけではないので「そうじゃない、違う、安心しろ」と囁く自分もいるのだが、それは自分をそうだと認めたくないがために自分に吐いている嘘じゃないかと疑う自分もいる。
 鬱病の治癒のためには、何もしないで寝ていることが一番いいらしいが、こういう目に遭うと本当にそう思う。でも一人で寝ていると眠っている間はともかく、そうでない時は自省行為を繰り返している。これで本当に回復できるのか。これなら頭をあまり使わない行為に追われている方が良いのではないか(こうやって文章をあまり考えずに書き散らすのは悪くないかもしれない←こうやって自己正当化をすぐに図ろうとする人格は、未熟なそれではないのか)。

 ある価値観に則って、ある行為や習慣に優劣をつけ、劣等であると判断した行為や習慣を根絶しようとする人間を、私は心の底から軽蔑する。これほど野蛮な行為が他にあるだろうか。
 もちろん、その行為や習慣が人権の侵害を前提にしている場合や、ある資源を枯渇させようとしている場合は話は別だ。それらは人権侵害を伴わない形に修正されたり、資源を枯渇させない程度に制限されねばならない。その修正や制限行為も、本質的には野蛮であることに変わりはない。だから、修正や制限もその意識を持って慎重に行われなければならない。
 西洋のキリスト教文化を背景にした連中は、この野蛮な行為を大航海時代からずっと繰り返してきて、今でも一部の連中は繰り返している。聖書に書かれているキリスト教の神の性質自体が、その野蛮な行為を積極的に肯定するものであるとさえ私は認識している。だから私はキリスト教がそれ以外にどんなに素晴らしい思想を語っていたとしても、キリスト教に教化されることは絶対にない。
 最近の日本の政策方針でよく語られる「世界標準を鑑みる」という言葉は、この野蛮な行為の温床である。他がそうであるから自分もそうするというのが思考を放棄した態度であるだけでなく、日本が気にするような主要な世界がキリスト教を背景にした国によって構成されているのだから、キリスト教文化を背景にした連中の価値観を押しつけられるということに繋がるのだ。
 方針決定に必要なのは、他からの指摘に耳を傾け、指摘のあった事象に関して現状を分析し、その結果を見て自分でどうするかを決定することだ。そのためには、まず、他からの押しつけではない自分自身の価値観を持つことが必要になる。最近の日本政府は、それに逆行しているように私には見える。
 そして、小淵政権(現森政権)は、その行為や習慣の破壊に繋がるような法案を次々に通した、まことにロクでもない政権であったと私は認識している。
 だから私は今後一切、自民党も公明党も保守党も支持しない。たとえ他に支持する政党がなかったとしても、彼らに議席を与えないために他の政党に投票する。
 今、根絶やしにされようとしている行為や習慣は、あなたの価値観では価値を認められないものだったり、あなたも存在を苦々しく思っているものかもしれない。
 話が抽象的で判りにくいだろうか。では行為や習慣の具体例を挙げよう。ポルノ、児童ポルノ、同性愛、その他変態性欲の発露とされる全ての行為、喫煙、マンガ、テレビ、ビデオゲーム、賭博、狩猟、捕鯨、特殊な食習慣(踊り食いなど)、盗聴の危険のない自由な通信、生命科学の人間への適用、これらが「根絶してしまえ」という意思を持つ価値観が存在する行為や習慣の例だ。たぶん、あなたにとってそれがどうなろうとどうでも良いものや、あなたも苦々しく思っている物が多く含まれているだろう。
 しかし、いったん価値観が変わってしまえば、あなたが大事に思っている行為や習慣が根絶やしの標的にされる可能性があるのだ。行為や習慣の根絶やしが横行する世界では、あなたの大事な物は決して安泰ではない。大切な物が根絶やしにされてしまう可能性を0にするためには「根絶やしにする」という行為自体を禁忌としなければならないのだ。
 自分の心の中に一つでも大事に思っているものがある人で、私のこの文章が明らかに間違っていると思わない人は、どうか今回の選挙に投票に行って欲しい。そして、自民党、公明党、保守党ではない別の政党と候補者に投票して欲しい。
 今、世の中の流れは変わりつつあって、今変えてしまわないと取り返しがつかないかもしれないのだ。取り返しがつかなかった時、今の政権を握っている連中が残るのは、上の野蛮な行為がもっと積極的に行われる可能性がとても高い未来だと私は思う。
 それは取り越し苦労かもしれない。浮き世離れした実際的でない心配に過ぎないのかもしれない。しかし、少なくとも、実際に野蛮な行為が行われた直後の選挙で、その行為に対して拒否の意思表明を行わないのは、賛成していると取られることになる。私はそれだけはどうしても嫌なのだ。
 投票率が上がるだけでも、前回の政権の行為に関心があったということが示される。だから、白票でもいいし、自民、公明、保守に投票しても構わないから、選挙に行かない、という選択だけはしないで欲しい。どうかお願いする。


2000/06/23

 朝はまだちょっと具合がよろしくない。もとより雨天で外出するのは好きではない。
 食欲は朝はいつもないとはいえ、無理やり何かを流し込んでしまおうという意思さえ拒絶したい自分がいる。
 とりあえず、会社の人達には自分が鬱病であるということは伝えてあるし、なにがしか理由をつけると勤務時間が結構フレキシブルに解釈されるのをいいことに、遅れることを電話で連絡する。
 私の勤務評定はほぼ最低レベルまで落ちている筈だが(私が上司なら絶対そうする)、そういうものを気に病むのも鬱には良くないはずだし、一度あの揺り戻しを体験してしまうと、鬱に悪いとされることをする気は全くなくなる。できるなら快癒するまで休んでいたいが、さすがにそれは許されない。これは勤務評定には関係なくて、仮令、今の仕事が終わったら馘首になるのであっても、最低限、今の仕事を最後まで終わらせてからでなければ、これから一生自分が半端な仕事しかできないと思うからだ。
 これは、普段は忘れている自分の心の中の砦を守るために最低限必要なことで、これが思い出されるということは、事態が洒落になっていないことも同時に意味している。

 結局会社に行ったのは昼から。
 取り掛かっていた機能で、昨日の時点ではまだフォローしていなかった部分を実装し、そこで気が抜ける。
 昼食は食べられないことはなかったが、普段の量の1/3程度でそれ以上食べたくなくなる(カレーだというのに!)し、後で胃が痛くなる。
 ここの6/22に、「鬱病の薬は、今は楽になるけど病気を治してくれるわけじゃない」と書いてあるのを読んで、その事は今まで頭から追い出していた自分に気付く(いや、リンク先の文章の本質はそんなところにはないわけなのだが)。
 今度医者に行って、仕事上の会話から症状が一気に悪化したことを告げたら、その症状が1日ダウンして何とか回復したことも合わせて説明しても、「しばらく(たぶん一月くらい)会社を休め」と言われそうな気がする。
 そりゃ、短期間でなんとか通常の生活が送れるレベルまで回復できたのでこうして仕事もしているが、あの状態が一週間、いや三日間続いたら、発作的に自殺してもおかしくないな、と自分で思うくらい苦しかったのは事実だ。何度も書くが、あんな目に遭うのは、二度と御免だ。
 自分が病気であることを自覚して周囲にも理解を求める、なんてヌルいことを言っていられる猶予は後どれくらいなんだろう。一日のダウンで済まないくらい私がダメージを溜めるのと、私が何とか仕事を片づけるのはどちらが先なのだろう。
 結局、私は職業プログラマとしてやっていくには心身が脆弱すぎるのだろうか(追いつめられないと身を入れて働かないことも含めて)。でも、心身が脆弱な人間が就ける職業なんてそうそうありはしないだろう。

 私はたぶん、フリーでは絶対にやっていけない。自己管理も自分の評価も全然できないことは、普段は忘れていて、まずいことが起きない限り思い出さないのだ。そしてそのまずいことはプロジェクト毎にやってくる。
 もっとも、今の精神状態だと、フリーになって干されて餓死するのも悪くないか、などと考えてしまうのだが。

 韓国で、90%の医者がストライキを行っているらしいが、私はそういうことができる人間に自分の命を預けたくはない。
 ストライキの抗議対象である医師と薬剤師の分業化に、いくら医者の利益確保にだけでない悪影響があるとしても、今、治療が必要な患者を治療しないことでそれに抗議するのは、本末転倒ではないのか。そこには倫理観のかけらも感じることはできない。
 日本の医者がそういう立場に置かれたという事実があるかどうか、私は無学ゆえに知らないのだが、あれだけの騒ぎになれば、それなりに有名な事件として歴史に記されるだろうから、時の政府がそういう立場に医者を置くことをしなかったか、日本の医者には韓国の医者よりは職業的倫理観があるということになるだろう。
 ある程度以上の知性を備えた人間は、ある程度満たされた立場にいれば、倫理にもとるような行動に出ないはずだ。私は、これらの推論を拠り所にして、日本の医者を信用することにしよう。

 現在、火星の人工衛星として地表(火表?)を探査しているMars Global Surveyerが、現在も火星に液体としての水が存在する可能性を示唆する地形(要するに最近水が流れた跡に見える場所)を発見したようだ。
 地球上においては、液体の水が存在する場所では、ほとんどどんな環境でも生物が存在している(深地下にある岩石の内部の空隙にさえ存在するのだ!)。よって、火星にも生物が存在する可能性が非常に高まったと言ってよいと思う。それが、火星起源であるのか地球起源であるのかは判らないけれども(南極で見つかった隕石が火星起源で、そこに生物の痕跡らしきものを見つけた、という発表を思い出して欲しい。逆のことが起きる可能性は当然ある)。
 これで、一気にアメリカの世論が火星有人探査に傾いてくれると、SF者としては嬉しいのだけど。

 最近やけに増えたプロバイダやサーチエンジンのCMだが、ぷららのCMで気になることがある。
 あのCMで使われている絵はWindows98のものなのだが、使われている音は、MacOS9から入ったTempleという警告音なのだ。
 もしかすると、Windows98には同じ警告音が入っているのだろうか? AppleとMSの業務提携ってこういうこと?
 私はVirtualPCでWindows98も使えるが、Windowsの警告音の多くは、それがどんなイメージの音であるかまったく判らない、まことに押しつけがましい名前しか付いていないので、面倒臭くてとても調べていられなかった。

 結局、他人のために何かをした時に、それに満足してもらえるレベルのものを提供するには、まず自分が低いレベルでは満足できないようにならなければならないのだと思う。
 提供しても良いレベルに達しているか、という最終判断を下すのは自分であるわけだから、結局は自分が満足すればそれで良し、となるはずである。
 つまり、何が言いたいのかといえば、人に読んでもらえる文章を書くには、世の中でレベルが高いと評価されている文章をたくさん読まなければならないし、人に見てもらえる絵を描くには、同じく評価の高い絵をたくさん見なければならない、という、一般論として良く言われることの検証をしてみたかった、ただそれだけだ。
 良い作家に本を良く読む奴はいない、という言葉もあるが、これはある意味正しくて、ある意味では正しくないことになる。
 つまりは、読んでいる量が問題なのではなく、読んでいるモノの質とその質をどう評価するか、が問題なのだ。多読すれば、平均としての質は確実に下がるはずだが、その時は、読んだもので満足しているかどうか、が問題になる。
 他人の作品に、それがどんなモノであろうとも満足しているなら、多分彼は良い作家たりえないだろう。つまらんモノにつまらんという感想を持てるなら、多読乱読であっても作家としての資質に問題はないと思う(多読乱読するための時間は勿体無いけど)。
 むしろ、文章やストーリーのお手本とされる作家にでもなった(≒完成した)のでなければ、自分が満足するレベルを向上させるためにどんどん他人の作品を読むべきだと思う。生命がそれ以上変化しなくなることを「死んだ」と言うのだから。

 WebSiteの殿堂というページで、ReadMe!に参加している全サイトの評価を登録順に行うという大事業(当然、まだ途上)を行なっているのに気付き、調べてみたら、ReadMe!が発足してかなり初期のうちから参加していた当ページは、すでに評価されていた。
 評者はかなり容赦ない評をする人のようなのだが(元々のページの趣旨が「ReadMe!の逆ランキングで上位のサイト=つまらないサイトの評価をしよう」なので、それには合っていると思う)、幸いにも気に入っていただけたようで、「ちょっとしたオススメ」とまで書いてもらえた。
 この「世迷い言」は、件のReadMe!の逆ランキングではベスト20圏内にいつもいるようなページなのだが、こうやってわざわざ評価してくれて多少なりとも気に入ってくれる人がいるのだから、登録がまるっきり無駄だったというわけでもないようだ。嬉しいことである。

 どうしてWindowsは、ユーザが明示的に背後に回したウインドウを、一度最前面に持ってきてから消すのでしょう?
 ユーザの操作を中断させていらつかせるための仕様ですか?
 まさか世界一のソフトウェアメーカが作ったOSの仕様を、馬鹿が書いているとは思えません。
 ねぇ? 会長兼一番偉いエンジニア(正式名称は忘れた)のウィリアム・ゲイツ・三世さん?

 がーっ! 原因不明で動かないソフトのデバッグをしてる時に、デバッガが不正な処理で落ちるんじゃねーっ!
 うーん、意味が三重になってるなぁ。原因が分かってて動かないならそこを直すし、動くソフトのデバッグは開発中にはあまりしない。いくらいらついている時だからといって、こういう悪文を書いてちゃいかんよなぁ。


2000/06/24

 自民党の名義で、ポストに入っていたパンフ。
 表紙には『必ずやります「景気回復」自由民主党』とあるが、中は民主党と共産党への言い掛かりに近い誹謗中傷だった。ていうか、景気回復の具体施策が書いてないんですけど。
 誹謗中傷の例としては、国旗国家法案の採決において、民主党内の意見がまとめきれなかったことを揶揄していていたりするのだが、そんな論理的な可否が問えない意見が、党内でまとまる方が気持ち悪いわ。全体主義国家への道が透けて見えるような気がするのは、ナーバスに過ぎるか。ついでに言えば、日本の現状はそんなどうでも良い法案を審議してるほど悠長じゃないだろ、とも思う。
 なんというか、自民党は民主党や共産党に相当な脅威を感じているのだなぁと感じさせるパンフレットであった。つまりは、冷静に見れば、共産党や民主党を応援するパンフに見えるわけだ。
 こんなんに騙される頭の弱い人や、こんな頭の悪い連中が現政権を握っていてそれを良しとするから選挙に行かない連中からは、参政権は奪うべきなのかもしれないなぁ、と不穏なことも考えたり。

 その流れで、共産党のWeb Pageに行ってみると、どうももっとえげつないことも全国では行われているらしい。誰がやってるかは知らないけど。
 ぱっと見の印象だと「我々はいわれのない攻撃にさらされている!」という主張ばかりが先に立って、一時期のオウム真理教のようなイメージを持ってしまう。
 まぁ、腹が立っているのは判らんでもないし、こういう卑劣な連中をあなたは支持するのか、という問いかけをしたい気持ちも分からんではない。
 しかし、政治というものを正義感だけで行われると、たぶんロクなことにはならないのだ。理想だけで行われても同じ。
 そういうものは、自分の心の奥底にしまっておいて、自分の行為の正否を問うときに参照すべきもので、前面に押し出された正義感や理想がまともな結果を作り出したことは、これまでの歴史の中でそんなにない(大抵は戦争を含む人殺しの理由になりますなぁ)。
 共産党の不破哲三委員長は、非常に頭の良い人物だと私は評価しているのだが、こういう場合に「我々を攻撃している連中は、我々を攻撃する以外の有効な手段を持たないから攻撃している。そんなところを支持できますか?」くらいの、実際的な主張を全面に立てることがなぜできないのだろうか。
 現時点で、私が共産党を積極的に支持できないと思う理由は以上である。

 ところで「森首相は思ったことは口に出さずにはいられない阿呆であることが日本全国津々浦々に知れ渡っているので、自分が投票に行かずとも、自公保に投票する馬鹿は少ない筈。だから大丈夫だ」と考えている人がいたりはしないだろうか。
 ところがどっこい。森首相が阿呆であるかどうかに関わらず、発言内容から見えてくるその思想背景は、戦前の皇国史観教育によって洗脳されてしまっているお年寄り達には非常に受けがいいのである。
 記憶には美化作用がかかるので、彼らの脳裏からは戦前戦中の辛い記憶は影を潜め、天皇陛下を崇拝してさえいれば全てが上手く行くという、非常に楽な生き方ができた甘美な印象しか残っていないのだろう(この見解が偏っていることは認識していて、それでも敢えて書いている)。
 彼らは暇であるばかりか非常に勤勉で真面目なため、ほとんど必ず投票に行く。公明党の支持者とまったく同様の構造がここにもあるのだ。ちなみに公明党の支持層は、個人崇拝(崇拝対象は個人ではないのかもしれないが)によって自分の政治的立場を決めているという点で、ほぼ北朝鮮の国民と同じだと私は認識している。
 よって、森首相は阿呆でしかも彼の思想信条はまったく支持できないと考えている人は、必ず選挙に行かねばならない。
 なに、選挙に行ったってやることは簡単だ。選挙ポスターから「自民党」「公明党」「保守党」という文字列が見当たらない候補を一人探し出して、その名前と、同じく違う文字列を持った政党の名前を、それぞれ別の紙に書いて投票箱に入れればよい。それくらいのことなら簡単だし面倒でもないだろう。
 それさえも面倒だという人には、自分では何も考えなくても良い、奴隷の生活が楽でいいですよ、とお勧めしておこう。

 そういえば、これは私自身もかなりどうでも良いと思っているのだけど、最高裁判所の裁判官に関するデータを集めたページが存在していたので、適当に○×をつける行為に虚しさを感じていた人は、参考にしてもらいたい(なんの裁判に関わったのかは書いてあっても、その判決の結果どうなったのかが判らないのが片手落ちだと思う)。
 私的には、衆議院小選挙区比例代表制の違憲判決で、反対意見を出さなかった(=合憲と見做した)裁判官は、馘首にしたい感じかな。だって、あの制度は自民党と公明党に有利な制度だから、制度自体が違憲か合憲かはどうでもいいんだけど、存在自体が違憲な公明党に有利に働く制度をつぶさなかったという点で感情的に許せないから。

 絶望書店なるサイトで、本はもっと古書店に回るべきであるという主張がされている。
 その根拠として、この文章が挙げられているのだが、これは要するに、「高度成長期以前の収入と価格のバランスと同じになるように本の定価を上げ、本の所有を一部の金持ちに許された行為とせよ。さすれば、本の流通量が減っても出版社の収入および書店の収入は保証され、高くなった本を所有するだけの余裕のない貧乏人が古書店を支えるであろう」ということだろうか?
 私の読解力では、根拠としてリンクされていた文章から、それ以上の情報は読み取れなかったのだが、間違っているようなら指摘願いたい。再販制が廃止される云々という言及もあるのだが、根拠も経緯説明もなく、ただ前提と結論が述べられているので、そこにはなんの情報もない。
 もし間違っていないなら、私はそんな後退した未来は御免だ。文化を一部の金持ちに支えてもらい、庶民はそのおこぼれに与かれとでも言うのか? 多少のファンがついてなんとか食っていけている作家は、皆、職を替えるか餓死しろ、とでも言うのか? そもそもこんなことが可能であるわけがない。
 物体としての本など、中身がなければ何の価値もない。本の本質は内容であり、内容の情報が保存されている限り、メディアである本など、いくら燃やされようが捨てられようが、関係ないのである。
 焚書というのは、本の内容情報を抹消しようとする行為であるからこそ許されない行為なのだ。100万部刷られた本の99万部が読まれたあとにゴミとして燃やされたからといって、何の痛痒があろうか。まだ1万冊も残っている、という問題ではない。形としての本の元になる情報さえ残っていれば、100万部全部が燃えてしまってもまったく問題はない。
 それを只、本を燃やすという行為にのみ着目して、100万部の本を印刷する行為さえ憎悪する態度は、狂信者のそれである。一見まともに見えても、底を狂信が支えているのなら、それは聞くに値しない意見だし、そういう人物と議論などしても労力の無駄である。
 ちなみに、最初の主張は連続したある主張の一部らしいのだが、最初から読んでみてもさっぱり要領を得ない文章で、意図を悟らせないために書かれた文章の見本のような代物である。というか「最初から順に説明してやるから最初から読むように」というのはどう考えても嘘で、説明のための前振りを延々と続けているに過ぎない。最後まで一通り読んでみてから、やはりこの書き手は狂信者なのだという思いを新たにした。
 彼には明白な信仰があり、その信仰を全うするために日々の活動と布教(と敢えて言おう)を続けているが、その核心は信仰であるが故に彼には説明できないのだ。だから彼は、分かったような分からないような言葉を連ねてから言う、「考えろ!」と。古今の宗教者とまったく同じ態度である(実はうっすらとその信仰の輪郭は見えているのだが、わざわざ解題してやるのは癪だからここには敢えて書かない。ひとつ書くとすれば、私にはまったく同意できない、ということだけだ)。
 私は彼の信仰に帰依することはできない。私の邪魔にならない範囲で頑張ってくださいね、と言うしかない。邪魔になってる(新古書店擁護論を展開している)からこうして批判しているのだが。……ちょっと違うな。論理的じゃないから反論はできない、と言ってるだけ……それも批判と言えないこともないか。


2000/06/25

 色々あった日ではあったが、書くべきことは、選挙に行ったことくらい。

 今回、選挙に行かなかった連中からは、選挙権を剥奪すべきだと思う。
 支持政党、候補がないなら、白票を投じよ。意思を表明せよ。表明する意思を持たぬものは、奴隷として生きよ。
 この国の国民は民主主義を標榜する資格を持たない。さっさと稼いで、将来は違う国に逃げ出すべきだという意思がより強くなった。


2000/06/26

 睡眠が不足しているとも思えないのだが、やけに眠い一日。集中力がない。

 昨日の日記が妙に短かったのは、選挙の結果を見て暗澹たる気分になり、何かを書けば棄権者と地方在住の自民党支持者に罵詈雑言を浴びせてしまう結果になるであろうと予測して自重した結果だった。ちなみに、棄権者についての昨日の記述は、暴言だと思っていない。まぁ、一日おいたとしても、こうして書くのだからあまり意味のある行為ではなかったわけだが。
 国政選挙が利益誘導のための選挙であってはならない、実質的にはそれが建前であったとしても、今の日本はそれどころではない、ということを認識している人間は、一体日本国民の何%なのだろう? それどころか、国政選挙を人気投票だと勘違いしている人間さえいるのではないか。それだって、選挙に行かない人間よりは100万倍マシだ。
 今回の自民党の選挙運動は、我々有権者には思考能力もなければ記憶力もないということを前提にしているようなシロモノだった。具体策は掲げない、前回の総選挙時の公明叩きには口を拭う、ちょっと考えれば単なる言いがかりに過ぎないことが判ってしまうような、底の浅い民主、共産批判をやる、最近死んだ父親の同情票を集める。etc. etc. 主張に筋も通ってなければ、説得力もないように見える。
 我々は、明らかに彼ら自民党に馬鹿にされているのだ。直接馬鹿にしているわけではないが、有権者は馬鹿である、という前提で選挙運動をするということは、負ける気でいるのでなければ有権者を馬鹿にしているのと等価である。
 そんな真似をされても、政府の金が自分の懐に入りさえすれば良いのだろうか? 楽して金を得るためなら良心も自尊心も捨てるのか? 食うや食わずという状態ならばともかく、いくら不況とはいえ現代日本の状況下で、そんな金のためならなんでもする連中の方が数が多いなら、こんな国は滅びてしまって一向に構わない。当然私は滅びの兆しを嗅ぎ取ったら逃げる。
 もちろん、まともな自民党候補者だってそれなりの数いる。しかしながら、彼らを支持することは同時に他のどうしようもない自民党議員、公明党議員、保守党議員を支持することにも繋がってしまうのだ。そのバランスまで考えて彼らに投票した有権者はどれくらいいるのか。たとえそこまで考えが及んでいないとしても、選挙に行かない連中よりは……。選挙に行かない連中の価値は0なので、倍数による比較は意味がないことに今気付いた。
 ところで、現時点での一票の重さの格差はどうなっているのだろうか。自民党の議席獲得選挙区を見ると、今回の結果は地方の連中が票の重さで優遇されているからこそ出た結果のように思えてならないのだけど。

 新聞記者の癖に中道政党という言葉を知らない御仁がいる。
 彼の、民主党を「右翼の中の左翼」と評する見解には、アメリカの二大政党である民主党を右翼、共和党を左翼と呼ぶような気持ち悪さを感じる。通常、左翼といえば、それは社会主義、共産主義を意味する。急進主義という意味で使うにしても、あまり民主党にはそぐわない。
 そういう、与党に反対するものはすべからく左翼である、などという50年体制的立場からしか今の政界を見通せないのは、その職業からして不見識の謗りを免れ得ないだろう。
 また、民主党支持者に対する彼の見解は、国政選挙というものを真面目に考えることを明らかに揶揄している。有権者の誰もが政党や候補者の主張を検討せず、雰囲気で投票しているとでもいうのだろうか。それとも、主張を検討する事自体が単なる自己満足だとでもいうのか。
 彼のこの態度が、政治に不満を持って選挙に臨んでも何も変えられない無力感から来るニヒリズムなのか、それとも単に思考せずに感じたことをただ書いているのか、それは判らない。
 しかし、各党および候補者の主張をきちんと聞いてそれを検討した上で出てくる意見だとはとても思えない。有り体に言って「お里が知れる」主張である。
 もしかすると「選挙時の主張など守られるわけがないので聞く必要はない」という究極のニヒリズムなのかもしれない。

 選挙番組を見ながら思いついた下らない疑問。
 確か「万歳三唱」という習慣は、大日本帝国憲法発布の時に考案されたはずだが、やはり共産党の候補が当選を決めた時には万歳三唱はしないのだろうか?
 それと直接の関係はないが、共産党の選挙結果に対するコメントは「我々は卑怯な攻撃を受けている」の一点張りで、やっぱり一時期のオウム真理教みたいな印象を受ける。よほど腹が立ったんだろう。気持ちは分からんでもない。でもそれはたぶん誹謗中傷している連中の思う壺だと思うぞ。


2000/06/27

 承前。
 と、思ってたら調子が悪くなった。現在体温37.2℃。
 ちょっとでも身体がしんどいと、精神の方が保たない。
 鬱を直すには頑張らない方が良いと判ってはいるが、もどかしい。


2000/06/28

 承前。
 朝からだるいと思ったら体温が下がっていない。
 気持ち悪い。胃がむかむかする。
 何も食料がないのでちょっと買い物に出たら、汗はだらだら息はぜぇぜぇ。
 というわけで今日も休み。……生きててすいません。


2000/06/29

 承前。
 ちっとも治らんので、医者に行く。
 風邪との診断。
 ……ヌルく生きててすいません。


2000/06/30

 承前。
 朝、目が覚める。熱っぽい。動かずに体温を計る。36.9℃。
 動いてないのにこの体温ということは、動き出せば確実に37℃は越える。
 会社に電話を入れて、休む旨を状況と一緒に伝える。
 そしてそのまままた眠る。

 目が覚める。16:00を少し回ったところ。
 体温を計る。36.9℃。変わらん。
 今日は6月の最終日だ。
 家賃を払っていない。精神科の予約も今日だ。
 無理やり身体を起こし、2日ぶりにシャワーを浴びる。これが風邪に悪いことは判っている。しかし、外に出るにはあまりにも酷かったのだ。
 銀行経由で精神科へ。15分前に着き、15分遅れて診察を受ける。都合30分待ち。座っているだけで辛い。待合室のベンチに横たわりたくなるが、それは我慢する。
 医者に経緯を正直に伝えると、やはり最低で1カ月、本当なら3カ月会社を休めと言われる。
 それはできませんと言うと、薬の量を増やそうということになった。本当はだましだましが一番良くないと釘を刺された。
 今後の展開について、どうしようか、帰り道で少し考える。

 夕食を帰り道でコンビニに寄って買い、無理やり詰め込む。
 TVを点ける気がしない。本を読む気もしない。ただ横たわって過ごす。
 現状の体温は37.4℃。この一週間はなんだったのだろう。


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