00年7月上旬の世迷い言


2000/07/01

 あ、2000年半分終わっちゃったよ……。
 承前。朝、目が覚める。体温を計る。36.7℃。ほんの少し回復。
 一日のほとんどを眠って過ごす。食欲はあるんだかないんだか良く判らない。
 食えば食えるが、食おうという気にあまりならない。

 今日のサイエンスアイは結構面白かった。
 話題は、サンゴの白化とその回復への取り組み。
 後者は結構どうでも良かったのだが、前者の分析は、知らない情報が沢山あって興味深く見ることが出来た。
 サンゴの白化は、サンゴ虫が既に死んでしまっている状態だとばかり思っていたのだが、そうではなく、褐虫藻という共生生物が体内から抜けてしまうことに原因があるらしい。
 サンゴ虫はその後もしばらく生き続けるが、栄養の70%をその褐虫藻に頼っているので、そう長くないうちに弱って死んでしまうということだった。
 褐虫藻がサンゴ虫の体内から抜けてしまうのは、海水温が主なファクターで、32℃の海水に1日ほど漬けておくと、もう抜けてしまうらしい。
 サンゴ虫はかなり古いタイプの動物で、もっと海水温が高い時代から生存している生物だと私は認識していたのだが、そんな些細な環境変化で大幅に個体数を減らしてしまうというのは、その認識と合わない気がする。
 それとも、最初の私の認識自体が間違っているのだろうか。


2000/07/02

 エアコンの設定を28℃の除湿にして、掛けっぱなしにしている。
 体温は36.5℃から37.4℃まで。活動を長く続けると確実に熱が上がるので、寝たり起きたり。
 熱がないときもなんとなく頭がふらつく。それ以上の自覚症状はなし。
 腹は減ったような気がするが、何か食べようという気に結びつかない。胃でも悪くしたかな。
 というわけで、昨日に引き続き「ない日」だった。
 集中力が続かないので、本も読めない。


2000/07/03

 目が覚めたのは6:00少し前。
 用を足して、熱を計ると35.6℃。起き抜けはこれくらいが平熱だろう。
 しかしさすがに早すぎるので、もう一度寝る。次に起きたら9:00を回っている。慌てて支度して会社へ。
 午前中はまあまあ快調。

 しかし、午後になると、だんだんとおかしくなってくる。
 熱っぽいのはともかくとして(ともかくなのか)、眩暈がするのはかなわない。
 全然集中できず、そうそうに仕事を切り上げて20:00には帰路につく。ダメじゃん。

 F1フランスグランプリ。
 しくしく。後半になってトラブルに泣くなんて、酷いや。
 いや、今回のクルサードは確かに速かった。絶対1位は取れなかっただろう。しかし、トラブルでリタイアは酷い。しくしく。

 で、今の体温は37.4℃。
 うーん、体力が落ちまくってるんだろう、たぶん。


2000/07/04

 どうも朝から調子がおかしい。
 風邪の所為だろうか、それとも、鬱病の所為だろうか。それは判らない。
 昼を過ぎて、発熱。
 知的活動を含めた活動が可能な時間がひどく制限されている。
 読書も満足にできない。とても苦しい状態が続いている。

 眩暈がする。
 全ての活動を停止しなければならないほどひどいわけではないが、集中力をそぐには十分なレベルだ。
 集中力をそがれた状態ではどうでもいい作業しかできない。

 夕方から、雷を伴った激しい雨。
 久しぶりに停電を経験した。
 夕食を買うために向かったコンビニが、停電で真っ暗。とても珍しい経験をしたと思う。経営者はそんなことを言ってる場合じゃないだろうけど。
 食欲はあるんだかないんだか、食べれば食べられるが、面倒だという気分が先に立つことの方が多い。

 夜中に突然起き出して、何かに憑かれたようにキーボードを打ち始めて出来たのが以下の文章である。
 読み返してみると、ただ混乱しているだけの文章に見えるが、これも個人的なものとはいえ、結構重要な記録になりそうな気がするので、残しておくことにする。変な文章を読みたくない人は、以下のパラグラフはまるごと無視することをあらかじめお勧めしておく。

 集中力が続かない。
 私は何がしたい? 自分でそれが判らない。働きたくない? ずっと意味のないお喋りを誰かとしていたい?
 判らない。判らない。
 医者は私は病気だという。休息が必要だという。
 私にはそれが本当かどうか、検証する術がない。医者の判断は私の喋ったことだけに因っているのに、喋った当の本人には判断できない。
 何かがおかしい。それだけは判る。でもどこがおかしいのか判らなければ、直すことはできない。精々がこうやって周囲からつつき回してみて反応を見るだけだ。
 それが状況に悪影響を及ぼす可能性はある。なにかアクションを起こせば、事態がそれに合わせて変わる可能性は常にある。
 しかし、何もしないでいるよりはずっとマシだと何の根拠もなしに叫んでいる自分が心のうちにいる。
 これは病気の症状だろうか。文章を記録することに意味はあるのだろうか。
 当てにならないことが今までの経験から良く判っている自分の直感が、これを記録しておいた方が良いと言っている。きっとそれは嘘だろう。でも記録しないでいるのは気持ち悪い。
 朝にはこんな事を書かなければならない、なんていう強迫観念に近い感情は絶対に沸き上がってこない。
 自分は異常だろうか。正常だろうか。それを決められるのはたぶん自分しかいない。おかしいと思わなければ、医者にも行かないし、行っても症状を訴えない。いや、違う。そんなことを言いたいんじゃない。
 自分の思考が混乱していることは認識できる。何かをしなきゃいけない、その思いだけが強い。鬱の症状に焦燥感があるので、たぶんそれだろう。判っていても、押さえることができない。こんな事は無意味なことなのに、やらずにはいられない。
 自分が自分でコントロールできない。抑制すべき状況だというときに抑制が利かない場面はこれまで何度もあったけど、その時は、やりたいことがあるだけで、やらなきゃいけないことはなかった。
 今は逆だ。やらなきゃいけないことだけが具体性を持たずに心の中にある。
 記録したいのだから、記録はすべきだろう。でも公開はするべきじゃない。自分の中の理性的な部分はそう言う。
 私はこれを公開したいのだろうか。今までは、コメントアウトで胡麻化してきた。ではこれもそうする?
 今の私は混乱している。それは自分でも判る。いや、判っていないのかもしれない。モニタリングは正常にできているとはとても思えない。
 制御の基本はモニタリングだ。モニタリングがきちんとされていなければ、どのように制御すべきかの判断を正確に行うことはできない。
 人間は、自分の感情を正確にモニタリングできていない事の方が多い。だから感情的になると全ての制御がとたんに不安定になる。
 ようやく自分のやりたいことが判ってきた気がする。今の私は、意味があろうがなかろうが、とにかく文章を紡ぎ出したいのだ。だから、何かを記録したいわけでもなく、自分の心を知りたいわけでもない。
 私は今、「書かずにはいられない」という、作家の資質として一番重要な部分を手に入れたのかもしれない。とにかく何か、文章を生み出したい。そういう感情。
 自分にとって都合の良い解釈を手に入れることで、ようやく私は平静を取り戻す。いや、平静ではなく、楽天的な気分を手に入れる。この気分によって今まで何度失敗を重ねてきたか、悲観主義者の私は警鐘を鳴らす。でも、今はそのことは心の隅に追いやってしまおう。その失敗の積み重ねが他ならぬ私なのだから。
 ここまで書いてようやく落ち着いた。この程度の文章量で落ち着けてしまうようでは、作家には程遠いだろう。
 現在読んでいる本に文体が引きずられるのは、あまりにもミーハーな反応だろうと自分で思う。道化の私は、私が今何を読んでいるか当ててみましょう、と言いたくてうずうずしている。

 自分で読み返してみても、今の私にはこれがまともな文章になっているかどうか良く判らない。きっとむちゃくちゃ個人的なことをただ書き連ねただけの、意味不明の文章になっている(私が混乱していることくらいは判るかも)と思うのだけど、それが正確な評価なのかは判らない。
 少なくとも、トランキライザーの代わりにはなったようだ。書き始めたときよりずっと落ち着いてきた。やっと眠れそうだ。
 読まされる方は堪ったものではないだろうが、たまにはこういう毛色が変わったのも良いでしょう、と思って頂ければ幸いである。変わりすぎ?


2000/07/05

 今日も朝から駄目人間。遅刻する。
 眩暈はようやく収まったのだけど、気力があまりにもない。足が先に踏み出せない。なんか鬱にまずいことでもやったかな。

 とある場所でマンガを片仮名で表記することに関して、それはマンガを馬鹿にした行為だ、と言っている人がいた。
 確かに、そこで例示されているように、他に漢字を片仮名で表記するシチュエーションを考えてみると、その通りなのかもしれない。
 しかしながら、私はマンガを「漫画」と表記することに非常に説明しにくい気持ち悪さを感じるのである。なんというか、自分がすごく古い形式で文章を書いているような、わざと昔風の仮名遣いをしながら文章を書いているような、そんな気がするのだ。
 私にとって、マンガは常に「マンガ」であり続けた。「漫画」は、私が少年時代を過ごした時間より前、トキワ荘の住人達が重鎮にならずに第一線で活躍している頃の作品達を私に想起させるのだ。
 だから、私はこれからもマンガを「マンガ」と表記し続けるだろう。そこには思想的な意味付けなど存在しない。私にとって心地よい表現が「マンガ」であるというだけの話である。
 これは、ずっと私にとって心地よい表現であり続けるだろう。私の気が変わるまでは。

 愛・蔵太氏仮想日記で、新刊の中から自分が読みたい本をピックアップする、という企画をやっていて、それを見ると、自分も欲しくなって困る。
 何が困るって、今は全然集中力がなくて本が読み進められないため、積読のキューが長くなる一方なのだ。これ以上本を買っても、一年以内に消化できるかどうか怪しいところまで来ている。
 それに加えて、欲しくなる本がどういうわけだか矢鱈と高い本ばかりなのである。25000円の本とか、仕事に使うのならともかく、趣味では、欲しいけど買えんですよ。
 そういうベラボーに高い本はともかくとしても、1万円以内の半端に高い本はついつい買ってしまったりする可能性があるのが恐い。
 要は自分を強く持てば良いだけの話なのだが、最近は「今は要らないな」という判断をして買わなかった本が後から欲しくなった場合に、もう入手できなくなっている、ということが頻繁にあるので、ついつい少しでも心に引っかかる本は買っておきたくなってしまうのである。
 古書店がそういう需要に答えている部分もあることは承知している。そういう新刊書店で扱わなくなった本だけを古書店が扱うのなら、別に何も問題はないのだ(映画でいうところの封切り館と二番館、三番館、名画座の関係になるだろうか)。多分それだけでは古書店はやっていけないのだろうけど。

 畜生。二日間に渡って悩みに悩みぬいたプログラムの不審な動作が、開発ツールのBugの所為だったということが判明した時の、このやり場のない怒りと脱力感は誰が補償してくれるのですか。しかもその開発ツールはリプレース不能だったりするのが余計に腹立たしい。
 怒りに任せて失礼な、とまでは言わないが、礼儀を気にすることを止めたBug報告メールを書く。事務的とも言うな。出来ることといえば、精々がこんなものか。
 開発ツールに限らずプログラムは必ず二社以上で代替可能な仕様のものを平行開発させろ! でないと腐る! Win32APIが使えるUNIXがあったら、10万までなら個人で買う。それ以上でも会社には買わせるぞ。誰か作れ!<既に最初とは関係ないことを言っています。

 昼頃を過ぎた辺りから、眩暈が復活。しなくていい、しなくて。
 なんだろう、頭の中がぐるぐるとゆっくりかき回されている気分だ。車酔いほど酷くはない。でも集中力はそがれるって昨日も書いたな、これ。
 あぁ、しばらく寝たい。そうすれば、この眩暈は治るはずなのだ。就業時間中に昼寝するのと、集中力がないままで能率の全然上がらない仕事を続けるのと、どちらが正しい行動なのか。
 なんて言い訳してないで、さっさと仕事を進めるのが正しい勤労者というものなのだろう。寝てしまうといつまで寝続けるか判らないからね。

 とか何とか言いながら、眩暈に耐え切れなくなってしっかり1時間ほど眠ってしまった。
 目覚めた時はそれなりに回復したように感じたのだが、いざ作業を始めてみると、そんなに変わらない、どころの話ではなく、脂汗が身体全体から浮いてきて、寒気までしてくる。駄目だ、こりゃ。

 そういえば、昨日、ニュースステーションを見ていたら議員初登庁(で、良いのか?)の場面になり、小渕優子の顔が映った時点で胸くそ悪くなり、TVを消してしまったことを思い出した。
 普段から頭を使えとは言わんから、せめて選挙の時くらいは頭を使えよ。阿呆なことを言っている候補に投票するなよ。それとも、自分達が阿呆であることを自覚して、わざと阿呆な奴を代表に立ててきたのか?
 あんな何も考えてなさそうな言動をする阿呆女に投票する阿呆どもと同じ国に暮らさなければならないのは苦痛が強すぎる。せめてマスコミは無視してくれ。でないと自分の所属する国家があまりに情けないところであることを何度も再確認せざるを得なくなる。
 少なくとも群馬県と石川県を日本から切り離して別の国にしてしまうことはできないものか。そこでは封建制にするとかすれば、住民は今と変わらず幸せに暮らせると思うが。


2000/07/06

 8:10に目覚ましの音によって目は覚めるが起き上がる気力はない。
 いつもなら、時計代わりにTVを点けるのだが(番組内容音で時間が分かるので目をつぶっていられる)、それをする気にすらならない。
 という訳で、目覚めた早々から遅刻決定。ダメ人間継続。

 昨日の晩もずっと眩暈に悩まされ続けた。朝になると一応治まっているのだが、また午後になると復活するのではないかと思うと、朝から憂鬱。
 このままではあまりに仕事の効率が落ちるので、会社に行く前に内科に行こうかと考えたのだが、ふと思い付いて精神科に電話。そういえば、6/30に薬の処方が変わってから眩暈が起きるようになったことに気付いたのだ。
 すると、案の定、眩暈は現在処方されている抗鬱剤の副作用の可能性が高いとのこと。
 2,3日様子を見ても変わらないようなら処方を変えるから再度来院せよとのこと。それじゃ、副作用が治まらなかったら、今週の午後は仕事にならんということか。午前中の調子があまり良くないのは相変わらずだというのに。
 どんどん自分の首が絞まっていくように感じるのは、鬱のためだけではないと思う。
 先週の風邪は、鬱の病状が進んでものが食えなくなり、その結果体力が落ちたことに原因があるのは私の中でははっきりしているだが。

 昨日書いた開発ツールのBugの問い合わせメールに対する回答のメールが来ている。対応が速いことは評価する。関心、関心。
 だがしかし、回答は現象を全く理解していない見当外れもいいところのものであった。というか、その回答で示された現象はこちらでは確認できない。有り体に言ってしまえば嘘である。
 一度喜ばせておいて後でがっかりさせると、最初からがっかりさせるより評価が落ちる。これは論理的ではないが人間の心理として自然な働きである。人間は、絶対値よりも微分に敏感に反応するように出来ているのである。
 早速、その回答が的外れである上に嘘であることを指摘した返事を書く。口調は昨日のメールより丁寧だが、嫌味は多分三倍増しくらいになっているだろう。わざわざこちらの工数が無駄になっていることも書き添えてやった。
 こんな事をするような性格だから、エゴグラムで一匹狼だとか野を行く野獣だとかいう評価が出てくるのだろう。知ったことか。
 さて、次はまともな回答が返ってくるだろうか。

 MacWireで連載されている、藤本裕之氏のコラムを私は割と楽しみにしている。ここ二週のネタが選挙ネタである。
 氏によれば、現在の日本の不況を打開するための政策をどの政党も持ち得ていない、とのこと。自民党に関しての分析は、確かにその通りだと思う。民主党の大抵の議員もまあそんなものだろう。何せ、元自民党が大多数だ。
 しかしながら、民主党の唱える道州制への移行は、あまりに不況対策とはかけ離れているのでぱっと見はそうは見えないし、実際に民主党が政権を取ったからといって、すぐさま実行されるとは限らない性質の公約であるが、ここには、日本の官僚主導の経済政策が行き詰まっていることに現在の日本の不況の原因を見出し、それを打開する、という意味も込められているはずである。
 つまりは民主党の主張は、日本の不況は国主導、すなわち大規模公共事業主導の経済運営がもたらした構造不況であるから、その構造を変えてしまいましょう、という提案なのである。それが上手く行くかどうかは誰にも判らないのだが、何もしないよりは絶対良い。
 よって、即効性はとても期待できないけれども、不況に対する対策としては、民主党の主張は決して間違いではないし(明らかな間違いではないだけで、絶対正しいわけでもない)、直接的ではないけれども、具体性や実効性に欠けた主張であるとは私には思えないのである。
 個人的には民主党支持者はそこまで考えて民主党を支持してると信じたいが、それは過剰な幻想というものだろう。

 より踏み込んだことを言えば、経済政策などというものは、後から回顧してみてやっとその正否が判る性質のもので、やる前は誰もが、何の根拠もなく自信満々か、それとも全く自信がないかのどちらかでしかないのである。
 我々人類は、全体としての経済というものの性質をまだ完全には理解していない。極論を言って良いのなら、判っているのは、事前に予測を行うと、その予測自体が結果に影響を及ぼすということくらいなのではないか、とまで言える。
 だから、自信満々の経済政策などをうち立ててくる奴の話は、眉に唾を付けて聞くべきだし、却って自信なさげな方が人格としては信用が置ける可能性が高いのではないかと私は思うのである。

 NECが、ITにターゲットを据え、経営資源をそこに集中して、これからの経営を行っていく、という趣旨の発表を行ったようである。
 私は、実はこの会社とは少なからぬ縁があったりするわけなのだが、どうもこの会社は世間のテンポから一拍ずれているような印象を私に与えてくれる。
 今更ITなどと言ってみたところで、感心するのはコンピュータから取り残された人々だけである。そういう人たちへのアピールは、所謂"e-business"というキャッチフレーズで、IBMが1年も前からやっている。連続してCMネタで申し訳ないが、まさに「馬鹿言ってんじゃないよ〜」である。
 既にそれに取り組んでいる先行組に対抗できるだけの策があるのか、それとも、経営資源を集中すれば策などなくとも対抗できるのか。そういう策があるかどうかなどという発表は世間に向けてやらないのは当たり前だが、外から見ていてとても心配なのである。
 私はNECという会社に結構愛着があるのだ。最初に自分のものになったコンピュータはNEC製のPC-8801だったし(まさかそれを6年以上使い続けることになるとは思わなかったが)。それがApple程ではないにしても、である。

 そごうに対する債権放棄に関して、国庫からの支出を行う問題で、会長に私財を提供することを求めているという話があるが、何故にそれが法律で義務として定められていないのか、私は不思議でならない。
 経営者というものは、経営に対して責任を持っているからこそ、それに見合うだけの収入を保証されるのではないのか。
 会長職を辞しているならば、すぐさま経営に対する責任を免れ得るというのはどう考えてもおかしい。時効があるというのならばまだ判るが、一度でも経営に携わったからには、そこに一定以上の責任が一定以上の期間生ずるのは当然である。
 国庫から資金が出るかどうかに関わらず、経営が傾いた会社の再建に当たっては、現在の経営状態に至った経緯に関わる人物からは、その責任に見合っただけの額を提出させるべきである。これは常識的な見解だと思うのだが、違うだろうか。
 それが法によってフォローされていないというのは、どうにも間尺に合わない印象を受けるのである。法律用語としては、無限責任社員、有限責任社員という言葉があるようだが、何故この場合はそれが適用されないのか、不勉強なので分からない。株式会社における有限責任は、株主にしか適用されないのだろうか?

 夕方、眩暈に耐えきれなくなって、仮眠室でしばらく横になる。
 途中、飛び込みのツールの修正があって、1時間ほど作業。集中力はまるでないので、場当たり的なやっつけ作業。それでも原因は、ちゃんと把握できていたらしくて、紆余曲折(ほとんど全ては私が手抜きをしたための自業自得)の末に完了。
 またしばらく横になり、本来の作業を再開するが、とても続けられない。自分の周囲の距離感までおかしくなってくる。まるでオーバーヒートしたみたいになって、帰ることに決める。
 帰り道は、歯を食いしばって浅い呼吸を繰り返し、繰り返し、自分の腕を自分で抱き締めながら、倒れそうになって何とか辿り着いた感じ。これはただ、自分でそう思い込みたかっただけかもしれない。
 とても食事なんて出来ないと思っていたけど、一度口にしてしまえば難なく収まってしまう。不思議だ。自分で自分の状態が判らない。

 22:00を過ぎた頃から、だんだんと調子が戻ってくる。身体は熱い。36.9℃。立ち上がるとよろけるし、他にもあまりここには書きたくない体の不調もある。でも集中力も出てきて、本も読める。TVは消しておく。
 もしかすると、調子がいいのは寝る前に飲むマイナートライキライザーの作用なのかもしれない。

 森博嗣「女王の百年密室」(幻冬社)読了。
 たぶん一週間ほど掛かった。半分まで進むのに6日、残りに3時間ほど。ようやく、自分のペースを取り戻した感じ。
 ここから先には、ネタバレを書くので、この本を読む気がある人は読んではいけない。警告したよ。いいね。




 これは、もしかすると∀ガンダムのオマージュなのだろうか。
 森博嗣の執筆ペースと本の刊行時期を考えると、それも不自然ではない気がする。
 だって、コールドスリープで間欠的に生きることで長い治世を送る女王が治めるルナティックシティなんて、あまりにもそのまま過ぎるではないか。
 もしかすると、本人のページにいけば答が見つかるのかもしれない。明日にでも探しに行ってみるとしよう。
 それはともかくとして、これはミステリとしてはかなりアンフェアな作りになっていると言えるだろう。最初に提示されたわけではないものがひっくり返されるという、どんでん返しはあるけれども。
 とりあえず感じたのは、こういう未来社会の方が今よりずっと暮らしやすそうだ、ということ。たぶんそこでは私は嫌われるだろうが。
 別にギミックとかツールとかが欲しいわけじゃない。そこにある常識の中で暮らしたい、それだけだ。
 自分の価値観を押しつけることが野蛮だと見做される社会。それが私の頭が柔らかいうちに(たぶんまだ5年くらいは大丈夫)訪れてくれると、私はもっと長く生きたくなるだろう。現状では、私は未来に希望を持っていない。
 もし人間が互いに争いたくないと思っているならば、遠からずこのような社会にならざるを得ないと私は思っている。私のこのような稚拙で直接的じゃない文章で、同じ考えを語ってくれる人が、自分とあまりずれていない時間軸にいることを、私は幸運だと思うべきなのだろう。


2000/07/07

 目覚めた時に動かないで測った体温は35.5℃。布団の中で30分ほどぐだぐだしたのち、シャワーを浴びてでかける支度を整えた後に測った体温は36.7℃。
 どちらが私の平熱なのだろう。なんとなく熱っぽいなー、という印象を持ったので、でかける支度を整えた後に熱を測ってみたのだが。どちらにせよ、遅刻は確実なのだ。今週は駄目人間ウィークに決定。明日に出勤するかどうかは体調に相談してからにしよう。

 天気予報を信用するのなら、台風が近づいているはずなのに、外はやけに涼しい。
 台風が接近している時は、やけに蒸し暑いというのが普通だったと記憶しているのだが、それが間違いなのだろうか。
 もしくは、今回の台風は高気圧に挟まれる形で日本に接近しているので、偏西風に押されつつ、太平洋高気圧の縁に沿うように日本に接近する時とは状況が異なるから、なのだろうか。
 それはともかくとして、こういう珍しいパターンで台風が日本に接近してくると、「気象精霊記」シリーズ(清水文化)を思い出してしまう。毒されてるな。

 だんだん、眩暈で仕事に手が付かなくなる時間が遅くなってきているような気はする。
 今日は16:30くらいまでは何とか我慢できた。その後も、しばらく休息を取ればそれなりに長い間モニタを眺めていても苦痛ではなくなってきたような気がする。
 あくまで気がする、レベルの話で、眩暈がなくなったわけではないし、集中力も続くようになったわけではない。

 森博嗣「女王の百年密室」に関して、私が感じたこと(ネタバレなのでここには書けない)を探して二つほど感想文が有りそうなサイトを回ってみたが、そのどちらでもその事に全く言及していない。
 何故だ? 彼らには英語をネイティブに話す連中が、自分達の住む街を「ルナティック・シティ」などと呼ぶことに違和感を感じられないのだろうか?(これくらいはネタバレになるまい)
 この街の創設者(これも、物語のかなり最初のほうで言及されていることだからネタバレには当たるまい)が、どういう意図でこの街をこう命名したのか、自分達の思想を「ルナティック」だと思ったからなのか。
 とにかく、lunaticという単語は、少なくとも街の名前としては単なる冗談だとしか思えない意味しか持っていないと私は認識している。この物語の舞台では、その常識はその他の常識と共に一掃されてしまったのだろうか。
 さて、ここからは意識的に行うネタバレだ。しかも、最近の森作品全体に関わるようなネタバレもある。これから森作品を読もうと思っている人は読んではいけない。いいね、警告したよ。



 主人公が、ジェンダー=社会的性別を超越した人物である、という点も、∀ガンダムへのオマージュを思わせる点だ。
 ∀ガンダムの最終回でのロラン・セアックの選択は、自分が男であり、ディアナ・ソレル女王=キエル・ハイムが女であるということを敢えて無視し、主従という関係を選択したものとしか私には見えない。しかもロランはソシエ・ハイムとの男女の関係を断ち切ってまで、そちらを選択しているのだ。
 つまり、ロランは外側からジェンダーを超越させられた(ローラと呼ばれたり、女装させられたり)だけでなく、自らもジェンダーの超越という選択を行ったと私には見えるのだ。ディアナ女王は、そもそも人間であることを超越させられた人物であり、キエルと入れ替わることでそれから開放されたということも、この選択には大きく関わっていると思うが、それはここでは横道に属する問題だろう。
 「百年密室」に話を戻す。物語の終盤で、主人公が何を基準にして自分のジェンダーを決定したのか、はっきりと描写されているわけではないから、こちらとしては推測するしかないのだけれども、順当な答としては、それはマノ・キョーヤに襲われるまでの人生の記憶であろう。
 主人公の主体であるところの大脳新皮質(私は、これが人間の主体を構成するものであることを信じて疑わない。作品中であのような処理を行ったからには、作者も同意見なのだろうと思う)が、男の肉体と生物学的に直接接続されていたことはないのだから、ジェンダーの混乱は視覚や触覚以外ではなかったと推測されるし、そういう混乱を招かないための整形が行われなかったことを示す描写もされていない。むしろ、逆の描写はある。主人公が裸に近い格好をしている状態を見て、男性だとはっきり描写された人物が戸惑うシーンがある。しかしながら、物語の終盤で主人公は女王に言う。「あなたの前では男性です」と。これは、肉体としての男性機能は失われていない、ということだろうか。それとも、精神的な意味=ジェンダーに近い意味での発言なのだろうか。いずれにせよ、服を着ている状態での主人公の外見は、女性に見えるように整形されていると考えるのが妥当だろう。
 また、終盤でのルナティック・シティの創設者の一人、マイカ・ジュクとの会話も興味深い。マイカは主人公を男性ではないと断ずる。主人公がその前に、女王と自分とロイディを称して、女性と男性とそのどちらでもないもの、と感じているのに。ロイディが生物でないことは明らかなので、こういう風に主人公が感じるからには、サエバ・ミチルの肉体は男性機能を失っていない筈なのだ。なぜならば、主人公の頭脳は女性のものであり、生物学的に男性として機能すべき状態には一度も置かれなかった筈だからである。
 マイカは、神としてルナティック・シティに君臨するためには、ルナティック・シティの思想に外にいて、男性のジェンダーを持つものを欲していたのだろうか。生物学的な男性では何故いけなかったのか。それは物語中では語られていない。少なくとも、私は読み取ることが出来なかった。登場人物達は、どういうわけかこの問題に関して非常にあっさりと納得してしまうのである。マイカが古い=現在に近い感覚の持ち主として、ジェンダーと生物学的性を切り離して考えることに慣れていなかったために、主人公が仕掛けた罠(ジェンダーと生物学的性を混同して、敢えて曖昧に表現すること)にあっさり引っ掛かってしまっただけなのかもしれない。
 最近の森博嗣作品の傾向として、登場人物のジェンダーをわざとぼやかして描写するということが意識的に行われているが、これは「奇妙に思える描写をさりげなく作品中に散りばめておき、最後のその理由を明らかにするのがミステリである」という定義を作者がしていて、それに従った結果なのだろうか。それとも、作者の思想信条に基づいた非常に思想的側面が強い作品を書くことを作者が自分に許したからなのだろうか。
 つまり、叙述トリックの一手法として、読者側に強いバイアスが存在しているジェンダーという問題を取り上げているだけなのか、それともそこに何らかの主張が存在するのだろうか。
 今までの「保呂草・紅子シリーズ」(「犀川・萌絵シリーズ」とのバランスを取ってみた)では、そのジェンダー描写のミスリードはストーリーには直接的な関係をしてこなかった(というか、重要なものに関しては読者に混乱が存在していることが明らかにされていた、というべきか)。ところが、この「百年密室」では、ジェンダーの混乱は物語の結末に関わる重要なキーになっているのだ。
 いずれにせよ、読者がその傾向に気付いてしまえば、ミスリードの魔法は解けてしまう。そろそろ魔法は解けかかっている頃合いだと私は思う。それでもなお、その魔法を使い続けるかどうかで、作者の意図を判断するしかないだろう。私には、この作品が魔法が解けかかる頃合いを見計らって繰り出された、最後の大ネタに見えるのだけれど。

 まだネタバレは続く。
 もう一つの「死の超越」(もしくは忘却、もしくは隠蔽)に目を奪われる人が多いような気がするので、そちらにも言及しておきたいと思う。
 現代人は「死」の不安から逃れてはいない。普段は(多分)意識して遠ざけているだけだ。死と生の間のバランスはあっけなく崩れるし、現代社会にはそのバランスを崩す要因は以前より減ったとは言え、少なくなったとはとても言えないだろう。
 「百年密室」の舞台となるルナティック・シティでは、「死」という単語は使われない。「永い眠り」か「果てる」がその代わりに用いられている。
 その点に付いての描写は作中にないので推測に過ぎないのだが、「永い眠り」はすなわちコールドスリープである。そしてコールドスリープは、ルナティック・シティを作った者たちが選択したとりあえずの延命手段に過ぎない。もしかしたら、彼らも最初は、ルナティック・シティの住民達が無邪気にも信じている未来の医療技術の発達による復活の可能性を信じていたのかもしれない。しかし、百年が経過する間にそれは虚しい夢物語として消えた。少なくとも、マイカは消えたと思っているように私には思える。
 それでもなお、マイカや女王が間欠的なコールドスリープを繰り返すのは何故なのだろう? 女王は、それが当然であるという価値観で育てられたのだから良い。しかし、マイカは何故続けるのか?
 マイカは眠りに就く前に、それを断ち切っても良い、と主人公に告げた。それは、繰り返しが単なる惰性によって行われているからなのだろうか。それとも、その時になって初めて、マイカは主人公の生物学的性別に気付いたのだろうか。後者である可能性は高いと私は思う。なぜなら、女王を自分から奪えと同時に言っているから。
 しかし、ルナティック・シティの欺瞞を続ける意義は既に失われていることはマイカは承知している筈なのだ。それでもなお、続けていくことに意欲を見せるのは何故なのか。
 恒常性が生物の本質だから、それに従っているに過ぎない、と言ってしまうのは、あまりに散文的すぎる。我々の中には、本質的に死を避ける傾向がある。どんなものであれ、急激な変化は死に近づくことを意味する。よって生物は急激な変化を嫌い、現状を維持しようとするのである。つまりマイカもそれに従ったに過ぎない、と本当に言えるだろうか。
 どういうわけか勘違いしている人が多いのだが、魂の不朽性は宗教によって初めて納得し得るものではなく、大抵の宗教では魂の不朽性は単なる前提に過ぎない。つまり、それは当たり前のものとして捉えられている。
 仏教はその不朽の魂の輪から逃れるための方法を説いた宗教だし、キリスト教は不朽の魂が最後に受けるであろう審判を有利な結果に導くための方法を説いた宗教だ。
 一体、いつから魂の不朽性は当然のことではなくなってしまったのだろう。魂が不朽のものであったとしても、死が恐れられることに変わりはない。死ぬ人を見ていると大抵が苦しそうだし、なにより、次の転生時に状況が今より良くなっている保証は何もない。
 話がそれた。ともかく、「百年密室」の世界では魂は不朽のものではないし、死から逃れる方法もない。それは現在の常識と同じである。
 その常識の中にあって、ルナティック・シティの住人達が無邪気に「永い眠り」のことを信じ続けられるのは、どう考えても変である。なぜなら「永い眠り」が「死」と同等でないことを保証するのは、医学の発達である筈なのに、ルナティック・シティにおいては、医学の発達は「永い眠り」が存在することによってなおざりにされている、とあるからだ。外部世界の医学の発達を当てにしているわけでももちろんない。ルナティック・シティは、外部世界との交渉を断った街でもある。
 もちろん、住人の絶対数が少ないことが、そのような欺瞞を続けられたもっとも大きな理由だろう。それに気付くような思考を働かせる人間の総人口に対する割合は、それほど多くないことは歴史が証明している。情報を共有する人口を充分少なく押さえれば、その数を一人未満に押さえることは可能だ。
 結局、何が言いたいのかといえば、この話における「死」の隠蔽はそれほど綿密に行われたものではない、ということだ。綿密に行われなかったということは、それほど重要でなかったということにも繋がる。
 よって、これは作者によって仕掛けられたミスリードの一つであり、この話を彩るデコレーションの一つでしかない、ということだ。
 マイカ・ジュクを神足らしめ、デボウ・スホを女王足らしめている理由として用意されたのがコールドスリープによる死の超越という欺瞞であり、それが欺瞞であることは明白で、入念に隠す必要も作者にはどうやらなかったようだ。
 つまりは、この物語にとって「死」を超越したように見せかけること、は主たる話題ではない、それは添え物であり、それに目を奪われることは物語の本質を見失う結果になると私は思う。
 エンタテインメントにそんなものはない、と言われてしまえば返す言葉はないのだが。


2000/07/08

 起床11:30。雨は上がっていたように思う。そんなことはどうでもいいくらい、体調悪し。
 とりあえず、ウィダーのエナジーインと毎日果実で腹ごしらえ。薬を飲む。一回分飲み損ねたな。
 しばらくWebを巡回していると、熱っぽくなってくる。体温を計ると37.2℃。こりゃダメだ、ということで寝る。

 次に目覚めたのは19:00少し前。熱は下がっていない。
 起き上がる気力を作り出すまで、森博嗣氏のWeb Pageへ行き、近況報告を斜め読みして「女王の百年密室」の執筆時期を推測する。
 今年の二月には、手直しを始めているという記述があるので、どんなに遅くとも今年の一月には書き上がっていたことになる。そうすると、私の展開している論(ネタバレなので内容は書かない)とタイミングがかなり微妙になってくる。
 昨日展開した話はたぶん私の勇み足なのだろう。執筆時期が4月以降でない限り、そういう事にはならないはずである。
 しかし、サーチエンジンで調べても、感想をまともに書いているサイトというものが見つけられなかったのは少しびっくり。ハードカバーだからだろうか。

 そんなこんなでいつのまにやら21:00を回っている。
 Webで調べものをすると、あっと言う間に時間が過ぎ去ってしまう感がある。やはり、Dilbertで言われていたように、HTTPというプロトコルは我々人類の時間を浪費させるために考え出された陰謀なのだろうか。

 近所のやる気のないファミリーマート(この間、停電で休業を余儀なくされていた珍しいコンビニはここである)で、夕食と明日の朝食を買う。
 夕食を平らげ、NHKでエルサレムのレポート番組をやっていたので観る。
 宗教を信じるという行為は愚かなものだという印象がさらに強くなる。別に止めないけど、私のそばには寄らないでくれ。
 連中の一番の問題点は、自分と違うものを信ずる人を認められなくなる点である。自分の信ずるものが脅かされるのでない限り、他人が何を考えていようが関係ないはずなのに。
 たぶん、心のどこかに自分の信ずるものへの疑いがあって、その疑いを顕在化させてしまうがために、違うものを信じる人間の存在が許せないのだろう。そこで必要なのは、他者への攻撃ではなく、自己の反省であるはずなのに。

 続けて、NHK教育の「21世紀への証言」を観る。
 昨年の9月にBSで放映されたものということだったが、状況が今でも全然変わっていないことに少し驚いた。
 たいてい普通のことしか言っていないので、特に感想はないのだが、一つだけ、アフリカ諸国の貧困が、その前の植民地支配からいきなり自由な状態になってしまったことで、きちんと機能する政体を確立する方法を学習していないために起きている、という意見だった。
 私は世界史を取らなかったし、積極的に勉強したこともないのでよく判らないのだが、アフリカでの植民地支配というのは、二度に渡る世界大戦によって宗主国が疲弊して、なしくずし的に終焉を迎えたものなのだろうか。
 アジアでの植民地支配には、それなりの抵抗運動と、植民地国の住民への教育による指導者の誕生があったことは知っているつもりなのだが、アフリカには何故それがなかったのだろう。あってもそれがまともに機能する政府に繋がらなかったのは何故なのだろう。ソビエト連邦から遠かったことが原因しているのだろうか。それとも、アジアには華僑がいることで、有効に機能する政府なしでも効果的な経済的発展を遂げられたのだろうか。


2000/07/09

 起床10:00。早速洗濯。洗濯機を回して、力尽きて横たわる。
 最近よく来るようになった三毛猫が、窓際に座って無言の圧力をかけてくるので、牛乳を恵んでやる。
 そうでも思わないと、人類としてのプライドが許さない。決して私は彼ら食肉目猫科によって、支配されているわけではない。彼らの可愛さという特徴によって洗脳されているわけではない。ないんだったら。

 14:00に洗濯が終わる。いや、洗濯機が止まってもごろごろし続けた時間が45分ほどあったので、別に大量の洗濯物があったわけではない。洗濯機は二回しか稼働していない。ないんだったら。

 前髪が鬱陶しいので、床屋へ電話を入れ、すぐに出来るとのことだったのでさっさと向かう。
 何か知らんが四回くらいしか行ってない私のことをいちいちよく覚えている床屋で、朝、店の前を通るとか(通勤路にあるのだ)、前に来たのは二ヶ月前だとか、なんとなく気持ち悪い。
 いつもは無意味な会話を続けるような圧力がかかるので、仕方なく世間話をしているのだが、今日は「二ヶ月前に来ましたねー」「そうですか?」という会話のみで打ち切る。というか、向こうが話しかけてこなくなる。うーむ。人嫌いの偏屈ものに見えただろうか。それは正解だ。

 床屋から解放されて15:30。ずっと行けなかった本屋その他に行くために、街中へ。
 安倍吉俊+gK「NieA_7」1巻(角川コミックスAエクストラ)、佐々木倫子「Heaven?」1巻(BIG SPRITS COMICS SPECIAL)、浦沢直樹「MONSTER」14巻(BIG COMICS)、みよね椎「それゆけ宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコRemix」2巻(角川コミックスDragon Jr.)、竹本泉「アップルパラダイス」3巻(ノアール出版)、丸川トモヒロ「成恵の世界」1巻(角川コミックスA)、田中芳樹「夏の魔術」(講談社ノベルス)、はやみねかおる「少年名探偵虹北恭助の冒険」(講談社ノベルス)、恩田陸「ネバーランド」(集英社)その他を買い込む。
 ひと月に一辺か二辺くらいしか本屋に行かないと、自分が如何に本を買い込む人種であるかということを認識することが出来る。
 本屋で一万円遣って、さらに欲しい本があるというのは如何なものかと自分でも思う。
 次にLOFTのWAVEに行き、小野リサ「DREAM」と「アポロ13」を買う。この間買ったモンティパイソンDVD Boxの時のサービス券を全部使ったので、3000円弱で済んだ。すごく得した気分。でも観ていないDVDソフトがどんどん増えていく。
 続けてさくらやに行き、DC版「Mr.ドリラー」と「首都高バトル2」を買う。いつやるんだ、おい。
 さくらやには相変わらずIXY DIGITALの店頭在庫がなかったので、ほっとしてその場を足早に立ち去る。このまま噂の後継機が出る8月まで引っ張って欲しいものである。後継機はIXY(本物)並みに薄くなってるといいな。
 歩き疲れたのと小腹が空いたので、無駄遣いついでに駅前の入ったことのない喫茶店に入って、アイスティーとトーストサンドイッチを頼む。「夏の魔術」を読み出して、これが著者校正だけもう一度やったリニューアル版であるということに遅蒔きながら気付く。
 ……読み続けるべきか、横に置いておくべきか。

 最後に、閉店セールをいつまで続けるのか興味深かったナガサキヤに行く。
 そしたら、会社更生法による再建のめどが立ったので営業を続ける、付いてはその感謝セールを続けるという店内アナウンスにずっこける。いや、ものが安いので文句は全然ないのだが。
 栄養剤とか目薬とか、医薬品関連製品を買い込む。最近微熱が続くので、熱さまシートなるものも買ってみる。

 家に帰ってきて、早速、熱さまシートを使ってみる。おぉ、こりゃ確かに快適だ。でも使っているところは間抜け極まりない。
 これは他人には見せたくない自分の姿のかなり上位に来るのではないか。実は、目元ひんやりシートを使っている姿もかなり間抜けなのではないかと推測するが、こちらは鏡で確認できないのである。

 とるもとりあえず「Mr.ドリラー」。
 だがしかし、100円を使っているという緊張感から解放されてしまった私は、300mも突破できないヘタレプレイヤーと化してしまっているのである。だめだこりゃ。

 久々に米を研いで飯を炊いて、夕食。おかずは無添加と書かれたマグロ中落ち風と牡蛎フライ二個とゴボウサラダ。全部東部ストアのできあい。ところで、中落ち風の「風」ってどういうことよ? しかも無添加。謎だ。赤身のぶつぎりにしておいた方が良かったのだろうか。

 食事を終わって、NHK教育の東山魁夷の番組を観ていたら、雷が鳴り始めた。
 台風一過なのに、大気の状態が不安定なのは変わらないらしい。天気予報を丸一日見ていないため、現在の天気図が判らない。判ったからといって何かが変わるわけでもないが。
 それはともかく、画家の番組で画家の知人と称する文化人の変な解説が入るのは鬱陶しい限りである。「国宝探訪」くらいのレベルに押さえられないのか。
 文句があるなら画集を買って、自分の好きなように眺めろ? 御尤も。

 その後、一期一会の覚悟で望み、631mまで進むことが出来る。え? 何の話だって? 判らん奴は判らんで良い。


2000/07/10

 やった! 遅刻しないように起き上がれて、実際にも遅刻しなかったぞ! バナナ一本とはいえ、朝飯も食った!<それが普通です
 しかもどうやら目覚ましは掛け忘れていたらしい。目が覚めると、その気力がある時はすぐさま目覚ましを手にとって、時間を確認することを習慣としているのだが(目覚ましをそう簡単に止められないように、寝床からなるべく離して置いておくのだ。他の時計は眼鏡を掛けないと読み取れない)、どう考えても目覚ましが鳴っていなければならない時間なのに、目覚ましを止めた記憶がなかった。
 いや、ひょっとすると、無意識のうちに止めてまた寝ていたのかもしれない。しかし、そのような経験は大学時代に一度しかない。その当時は、起き上がって3歩ほど歩かなければ目覚ましまで到達できなかったはずなのに、確かに掛けた目覚ましが止まっていて、寝過ごしてしまったということが一度だけある。あれは何だったのだろう。当時はとうとう俺にも念動力が発動したか、などと思っていたのだが。

 体調は最悪とは言わないが、良くはない。余裕がある時なら休みたいくらい。疲れが澱のように身体の中にわだかまっているとでも言えば良いのだろうか。これは鬱のせいではないと思う、たぶん。
 いつの間にやら口内炎で口の中がぼろぼろになっていることに気付く。煎餅などの口の中をむやみに刺激する食物を最近摂っていなかったので、気付かなかった。ちなみにそういうことになったのは風邪と食欲不振のせいなので、口内炎とは直接の関係はない。間接的には大いに関係あるだろう。
 下唇の左側に出来た大きな口内炎は、治りかかっているのだが、口の奥の上顎の親知らずを抜いた辺りの歯茎が左右とも擦り切れてしまったかのように痛む。ここは食べ物を触れさせないのが難しい場所なので、他の場所に出来た口内炎よりも辛いのだ。
 うーむ。最近はビタミンB剤も摂っているというのに、何故に口内炎になってしまうのだろう。消化器系の臓器がそれだけ弱っているということか。別に暴飲暴食を率先してやっているわけでもないのだが(私のことを個人的に知っている人間は、ここで笑ったりしないように。ここは笑うところじゃないからね)。
 春先に流行った消化器系に来る風邪を未だに引きずっているのだろうか。

 睡眠時間7時間は確保しているはずなのに、昼間も矢鱈と眠いのは、寝過ぎなのかそれとも風邪をひいているのか。昨日までの体調を考えると、多分後者。

 とにかく、1時間に一回くらいの割合で、トイレに行かないと拙い事態になりそうな感覚が襲ってくる。
 ニュアンスが伝わるだろうか。別に腹痛がするわけではないが、堪え切れない気分がする便意のようなものが襲ってくるのである。
 普段から集中していないというのに、これではまるで集中できない。格好の仕事が進まない理由が見つかってしまってとても良くない。

 珈琲って、香りはあんなに良い匂いだと感じるのに、なんで飲むと不味いと感じるんだろう? 1時間おきに珈琲を淹れて、香りだけ楽しんでそのまま捨てたら、やっぱ罰が当たるんだろうなぁ。
 紅茶は香りはあんまり好きじゃないけど味は好き。緑茶は香りも味も好き。ほうじ茶を焙じてる香りがするお茶屋さんには吸い寄せられていってしまうくらい好きだな。
 同じカフェイン飲料なのに、この違いは何? 中国茶で香りが好きなやつって今のところないから、醗酵してるかどうか、なのだろうか。

 仕事のBGMは先週の溝口肇「Espace」に代わり、昨日買ってきた小野リサ「DREAM」。
 こういうスタンダードナンバーをアレンジし直したアルバムというのは、BGMとしてかなり良いことが判った。ボサノバだから耳触りも良い。派手な展開が必然的に現れる映画音楽なんかよりずっと良い。所謂、喫茶店などで小音量でBGMとして通用するものならばなんでも良いのかもしれないが。
 関係ない話だが、私は日本語の歌詞が入っていても、仕事のBGMとして気にならない質なのだが、会社の同僚達は一様に気になる、と言う。言語に対する感覚が違うのだろうか。それとも、私は集中しないで仕事をしているためなのか。注意散漫なのは子供の頃からずっとなので、もうこれは治らないと思う。

 午後になる直前くらいに、頭痛の前触れのような感覚を味わったので、用心のためイブプロフェンを服用。
 こうしておけば、どうやら眩暈も遠ざけることが出来るようである。一瞬これで予防できるかと思ったのだが、甘かった。眩暈がしたら、患部を切り開き、急いで口で吸え仕事に関係ないテキストファイルを適当に眺めていると立ち直ることが出来る。
 なんとなく薬漬けの人生、という言葉を体現しているような気もしないでもないが、所詮は血塗られた道だ(このネタもいつまで通用するのだろうか。スネークマンショウネタは、モンティ・パイソンネタと同様に永久に通用するべきなのでここでは問題にしない)。

 読み始めてしまったからには仕方がない、という流れで、田中芳樹「夏の魔術」を読んでいるのだが、読み進めるのがどうにも苦痛でならない。
 登場人物以外の人間、つまり作者の主観が地の文に現れるのが鬱陶しくてたまらない。なんでこんな泥臭い手法を使うんだ、登場人物がそう思った、と書けば、別に作者が出てくる必要はないだろうに。文中で使われるレトリックもどうにも鼻に付くものばかりだ。
 それが田中芳樹の味である、と言われてしまえば、私の好みが変わってしまったということなのだろう。とにかく読み進むのが苦痛だ。まだ1/3辺りなのだが、中断しようと思う。きっと銀英伝とかも美しい思い出の中に閉じ込めておいたほうが良いのだろうな。この感覚は既に「摩天楼」シリーズの最初の作品を読んだ時から味わっていたし。

 安倍吉俊+gK「NieA_7」だが、安倍というか脱力AB節大爆発。枠線もへろへろ線だし。ぜひぜひ「がっかり電波」をネタとして使って欲しいところである。
 こんなの描いてたら、同人方面で出すネタがないのではないかと心配するが、そもそも同人方面に振り分ける労力のほうを心配すべきなのだろう。
 これは、今月の終わりからリリースが始まるDVDシリーズが楽しみである。lainのエンディングテロップから十分予測できた結果ではあるので、別にマンガを読む前から大期待していたわけなのだけれども。

 昨日、眠さに唸りながら観たNHKスペシャル「四大文明」の感想。
 そんな! ピラミッドが親方日の丸の無意味な箱モノ公共事業と同じだったなんて! ショック。
 逆に考えると、現代日本の政権与党は、3000年前の滅びた文明と同じことをしているということにもなる。人類は、人類である限り進歩することはないのだろうか。少なくとも、自民党と土建屋は3000年前から一歩も前進していない人種であることははっきりしているが。いや待てよ。土建屋が普段は農作業をしてるなんて聞いた事はないので、より無意味な方向に後退していると言えるのではないか。
 それにしても、東京ビックサイトがピラミッドを逆にした、どう考えても機能的でも何でもない変なデザインなのは、人類学的に意味のあることだったんだねぇ。東京ビックサイトは鈴木都政の箱モノ行政の集大成だもんねぇ。

 唐沢俊一氏の裏モノ日記に、能登半島で見た蛍について、能登半島までえらい苦労をして見に行かねば見れぬ、などと書いてあるが、群馬の赤城山に車で登れば、それくらいの蛍なら充分今でも見られるはずである。田圃の脇道に車を止めて、ハザードを点けていれば蛍が勝手に寄ってきてハザードと同期して光る。私が実際に見たのはもう10年も前の話だが、バブルも崩壊した昨今だから、開発の手もそれほど入っていないだろう。あんなところにわざわざ住まなくても、平野部に土地は十分余っていた。
 群馬なら、JRで東京から2時間ちょい、前橋駅からレンタカーを借りて国道17号沿いを走り、渋滞にでも捕まらなければ1時間もしないで赤城山にたどり着くことが出来る。ずっと車を使っても、やはり3時間程度で東京からたどり着けるだろう。遠いことは遠いが、わざわざ能登半島まで出ることを考えれば、ないも同然の苦労である。それで同等の光景が見られるのだから、その事を知っている人間としては可笑しいことこの上ない。苦労が有り難味を増す好例だろう。
 良く考えてみれば、高尾山辺りまで足を伸ばせば、東京都内だって蛍くらい見ることが出来るのではないか。


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