会社にやってきて仕事。
ようやっと、原因不明のBugの原因になっているであろう部分の目星が付いたが、メモリ回りなので、その検証をするために大回りをしなければならない。
具体的に言えば、メモリが足りないので開放している部分が、必要なものまで開放してしまっているために起きているBugらしいのだが、開放する部分をコメントアウトしてしまうと、メモリが足りなくなって上手く動かなくなってしまうのである。
色々やっていると、最初に追いかけていた部分ではない部分に不具合が見つかる。それなりの規模のソフトウェア開発の宿命である(と自分の腕の悪さをさも一般的事象のように書いてみたりして)。
結局、就寝は2:00少し前だったような気がするので、都合10時間弱眠ったことになる。やはり疲れていたのだろう。
現在飲んでいる睡眠薬は、ネット上のそこかしこで「苦い」と書かれている薬なのだが、なるほど、起きてしばらくは口の中に苦みがわだかまっている。薬そのものが苦いんじゃなくて、副作用として苦みの幻覚があるのか。
どういう作用機序がこのような副作用を生むのか、不思議な気分。
しかし、これだけ寝たにも関わらず、まだ眠いのはどういう事か。
これじゃちっとも仕事が捗りゃしない。<何でも仕事が進まない理由にしてはいけません
その上、だんだん訳が判らない箇所で問題が連鎖的に起きるようになってきた。世間一般で言うところの、ハマリ状態である。
この調子じゃ今週末も出だねぇ。
さて「出版社と書店はどのようにして消えていくのか」「超激辛鼎談 「出版」に未来はあるか」を読んだ直後に、その感想を書いた訳だが、どうも私はあの著者達とは相性が悪いらしく、非常に感情的で問題の本質に関係ない論を展開してしまった。いやもう、読んでて腹が立って腹が立って仕方が無かったので、ついつい感情的になってしまったのだ。
今一度、時間を置くことで多少は冷静になった頭で考え直してみたいと思う。
上記の二冊の本を読むと判ることは「現在の出版流通は、委託制と再版制の制度疲労のために崩壊しかかっている」ということである。私にはどうも、制度疲労というよりは制度の悪用を重ねてきたツケが回ってきているように思えるのだが。
私は、再版制も委託制も、体力の少ない製造者と流通者が、少品種大量生産品の流通を行うために取られている制度であると認識している。
上記二冊の本にある、郊外型書店の出店ラッシュと従来の商店街にあった書店の廃業というのは、この少品種大量生産品を扱う業態に書店が変化している、ということを示していると私は考える。そこで起きるのは、より大規模になったほうが勝つという体力勝負であり、最終的に勝利を収めれば収益は大きいが、それまではじり貧状態がずっと続くのを耐えるという、まことにシビアな競争である。
一方で、書籍というのは少品種大量生産品の性質を持つものもあれば、そうではない、多品種少量生産品の性質を持つものもある。
現状の書籍流通では、後者の多品種少量生産品の流通に付いては、何のフォローもしていない。よって、我々消費者からみれば、それらの書籍は目にも留まらずに消えていき(棚に並ばないことすらあると、前掲の書にはある)、出版社からみれば、販売機会を徒に失っていることになる。
しかし、それは視点を変えれば、書籍の流通経路に、誰も踏み込んでいないニッチ市場が存在しているということを意味している。ベストセラーを置かないという方針で成功している本屋というのは、まさにそのニッチ市場を捉えた存在だ。郊外型書店が出来、コンビニが雑誌や文庫本を置き始めた段階で、少々でも鼻の利く書店の経営者なら、大資本と体力勝負をすることは避け、多品種少量生産品である書籍を主に扱うことでニッチ市場に移行できた筈だ。
ここで、なぜ、中間流通においてそのニッチ市場に食い込もうとする存在がほとんどいないのだろうか。既に存在する二大取次の力というのは、そういう存在さえも許さない強大なものなのだろうか。まさかそれを思い付く人間がいない、という訳ではないだろう。地方出版社流通センターは、たぶん、その多品種少量生産品である書籍を扱うことを目的にした中間流通業者だと思われる。なぜそこに続くものが現れないのだろう? 多品種少量生産品の書籍は商売にならない、ということだろうか。だとしたら、それはなぜなのか?
再版制と委託制ががっちり組み合っていて、双方を切り離すことは出来ない、という意見を持っている人もいるようだが、では岩波書店の存在はどうなるのか。再販指定によって定価販売をしているが、委託販売品ではない。だから置いてある書店が少ない? それは多品種少量生産品の特徴である。全ての書店にあまねく行き渡るのは、少品種大量生産品の本だけである。
再版制は、本に書籍流通の世界だけで通用する貨幣という役割を与えてしまうので、安易な本作りを許すことになる、という意見もある。しかし、それは委託制だからこそ成り立っているのであり、買い取り制に移行したとたんに、そのような本は見向きもされなくなるはずである。
しかも、時限再販にしてしまえば、書店のリスクも出版社のリスクも減らせる。委託制の廃止によって失われるリスク回避の代替には、本が情報のメディアであるということと、情報メディアというものの性質を考えると、これがふさわしいと思うのである。
また、絶望書店の店主氏から、「超激辛対談…」の対談のメンバの一人である安原氏が、bk1に協力していて、決して「何もしていない奴が偉そうなことを言っている」訳ではない、というご指摘を頂いた。
この点については、私の認識不足を認め、訂正と謝罪を行いたいと思う。多分読んではいないだろうが、安原顕さん、謂れのない中傷を行ってしまい、大変申し訳ありませんでした。
こういうことを書くのは愚痴にしかならないので、格好悪いとは思うのだが、ここは私の心に浮かんだことをとにかく文字にして定着させ、それを発表する場であるので書く。
こういう地味な上に独善的性格の持ち主(自覚しているのだよ、直す気がないだけで)がたいして芸も意識せずにやっているページなのだから当然なのかもしれないが、ReadMe!のランキングを見ると、このページは大体毎日20〜25カウント程度なのである。一時期はずっと一桁だったから、躍進したと言えないこともないのだが。
いや、その数字自体に文句はない。有り難い限りである。しかしながら、ReadMe!参加サイトを評価するページ(終わっちゃったけど、たとえばここ)で、酷評されていたページが、ランキングで上にあったりすると、複雑な気分になるのである。
「ここの面白さって、酷評されるようなページと同程度なんだろうか」という、非常にヘビーな気分になるのである。実際に酷評されるより、具体的でない分、重いかもしれない。だって、直しようがないんだもの。
もちろん、ページの面白さとアクセス数が直接的な関係にはないことは承知している。ベスト10にいつもあるようなサイトで、私はホンの少しも面白いと思わないページもある。どことは言わないけどね。
とはいえ、これは気分の問題なので、そういう理性的な部分ではどうしようもないのである。
ほら、ただの愚痴になってしまったではないか。こんなことを書いているからアクセス数が伸びないのである。
私は、常々、数学は人工的な言語体系を構成しているといわれているけれども、それは不完全なものなのではないか、と思っていた。
なぜならば、通常の数学の証明などには、その筆者の母国語による補足説明があるからである。
ところが、「ペアノ算術公理系」というものを厳密に適用すれば、数式のみで全てを記述することができるということを、とある方から教わった。
なるほど、道理でファーストコンタクトネタのSFでは、数学を宇宙共通の言語だとしている訳だ。
これまで、私は全ての数学がそういう訳ではなくて、ほんの一部のみが宇宙共通の言語として使えるものだとばかり思っていた。しかし、それは間違いで、数学全体が使えるらしい。
最近本もあまり読めないので(主に時間が余っているとMr.ドリラーをやってしまうので)、たまにはSFらしい話題もしとかないと。
プログラムのハマリ継続中。
動作を変更しても変更しても、なおBugはなおらじ、ぢっと手を見る。
本当は、5:30頃に一度目覚めているのだけど、睡眠薬の影響かふらふらしたし、いくらなんでも時間が早すぎるので、エアコンだけ点けてまた寝たのである。本当は、ゴミをまとめて出すとか、やることは山ほどあるのだが、その気力は全くなし。
その際、エアコンを点けたのだが、タイマーを掛けるつもりで、いつもは除湿にしてある運転モードを、寝ぼけて冷房にしてしまったらしい。除湿だと間歇運転になるのだが、冷房だと送風モードが切り替わるだけで運転自体はずっと連続するのだ。
おかげで目が覚めた時には鼻水が止まらず、頭がふらふらする。典型的な風邪である。典型的な阿呆の風邪のひき方である。
風邪の所為か、一日中気持ち悪く、頭が重い。鎮痛解熱剤を導入しても頭の重苦しさは改善してくれない。いつも書いている、イブプロフェンの副作用と思われる鼻の奥の薬臭さは感じ続けているというのに。
よって、仕事は全然進まないのである。もう駄目なんじゃないかという気がしてこないこともない。
最近不思議に思ったこと。
会社で買ってきたグランディアIIを、他の人がやっているのを見ていて思ったのだが、何故に人間はメディアが変わると、その表現内容に関して突っ込みどころが変わるのだろう?
これだけでは意味が分からないと思うので詳しく説明すると、グランディアIIのストーリーは、非常に分かりやすい、言葉を変えれば使い古されたファンタジーなのである。
たぶん、私はこの世界を小説でやられたら、怒り狂ってその時点でその本を放り出すと思うのだが、何故かゲームだと許せてしまう。あまつさえ、変に凝ったFFなどの世界よりも好ましいものとして捉えてしまうのである(いや、FFの世界が好ましく見えないのは、凝ってるくせに重箱の隅だらけな所為だと思うが)。
これは何故なのだろうか。
マクルーハンの言う「メディアはメッセージだ」を体現しているのか。つまりは、送り手の無言のメッセージを受け取って、自分の中の評価モードを無意識のうちに切り替えているのだろうか。
現在の私の体調は、難しいことを考えるのに向いているとはとても言えない状況なので、これ以上の考察は不能なのである。これ以降の考察は各人への宿題とします。
13:30頃にようやく起き出す気力が涌いてきて、準備をするが、14:30まで一端もう一度倒れる。
14:30にようやく活動再開。とりあえず街中に出かけ、昼飯を食べて買い物をする。
「ガオガイガーFinal Vol.3」を探し回って、WAVE、Sofmap、NACK5 Townをはしご。なんで売ってないんだよぅ。
その間に、JoJoの最新刊やらCCさくらの最終巻やら上遠野浩平「冥王と獣のダンス」(電撃文庫)やら太田忠司「新宿少年探偵団 まぼろし曲馬団」(講談社新書)やら京極夏彦「怪」(角川書店)やらを買い込む。いつ観る/読むんだよぅ。
さくらやに寄り、「GRANDIA II」と「Armored Core2」も買う。いつやるんだよぅ。
しかしながら、さすがにMac版DiabloIIは買わなかった。自分の意志の強さを誉めてやりたい。
Sofmapで新色のiMacの光学マウスを触っていると、何故か店員らしき男が話し掛けてくる。Snowが人気色だなどと、要らん知識を教えてくれる。Sofmapは客に声を掛けないのが売りじゃなかったのか。
私がiMacを買うことはありえないので、適当にあしらう。私はiMacに興味があったのではなくて、マウスに興味があるだけなのだ。
新型光学マウスは、表面がタッチセンサになっているのかと勝手に思っていたのだが、透明な部分全体が黒い部分にかぶったスイッチになっていて、押すとちゃんとクリック感がある。
こりゃ、気持ち良いわ。スクロールボタンさえあれば、現在使っているMSマウスからこちらに切り替えても良いくらい気持ち良い。一つ前の円形マウスより明らかに良い。格好も良いし、使い心地も良い。
後は、新iMacの色はみんななかなか渋くてよろしい。特にSage(Sageって薬用サルビアなのか。ソードワールドに毒された頭脳では「賢人」という訳語しか出てこなかったよ)とIndigoが良いねぇ。
何だかんだで会社にやってきたのは17:30過ぎ。なんだかなー。
とりあえず、現在上手く動いていない部分の管理方法を根本から考え直すことにして、作業。
う゛〜、ぜんぜん上手く行かん。あちらが立てばこちらが立たずというのを地で行っている感じだ。
まともな設計書なしにこの規模のプログラムを作っているのが悪いと言われれば、返す言葉はないのだが。
20:30を過ぎた頃、雷鳴が轟き始める。
外を覗いてみると、豪雨。なんでバイクで会社に来た時に限ってこういうことになるかなぁ。
いや、出かける前から曇っていたのだから、こうなることは予め予測していてしかるべきだったのだが。
まぁ、どうせ明日は洗濯しなければならない(今日洗濯しなかったから)のだから、濡れても構わんと言ってしまえばそれまで。<結構ヤケクソ
それに、遅くまで仕事をしていれば、止むかもしれないし。<かなりヤケクソ
と、いうわけで、23:00近くまで会社にいたら、雨はほとんど止んだ。人徳やね。
最近では、電線は街の美観を損ねるということで、地下に追いやる傾向にあるようだが、私にとっての原風景は、電柱がそこかしこに立ち、電線で空が区切られた風景なのである。電柱にポリバケツのようなトランスがくっついているとなおよろしい。
私が現在住んでいるアパートの近所は、まさにその風景そのもので、夕方などに外を出歩く時は、意味もなく空を見上げたりしている。電柱にはトランスの代わりにPHSの基地局がくっついていたりするが、それもまた良し。要するに私は、空が無秩序に引かれた太い線で区切られていさえすればそれで良いのである。
私くらいの年齢の人間は結構そういう人が多いと思うのだが、送電線を地下に追いやろうという動きがあるということは、実はそんなことはないのだろうか。
いつも洗濯をやる休日と同様に、8:30頃一度起き出して、洗濯機のスイッチを入れてまた倒れる。
起床は11:30。頭の芯になにか重いものが詰まっているような感じ。軽い二日酔いの症状に似ているか。酒なんぞ飲んでないのだが。
しばらくごろごろしていると、なんとか動けるくらいまで回復してきたので、洗濯の終わった洗濯物を干し、残った汚れ物を洗濯機に突っ込んでスイッチを入れる。
その時点で13:00を回っていたので、とりあえず昼食を食べに行くことにする。
最近は、基礎体力が落ちまくっていることが自覚できているので、休みの日の昼食はスタミナの付きそうな豪華なものにしようと考えている。
今日は焼き肉屋にタン塩とロースとレバーを食いに行くことにした。
やはり焼き肉というのは幸せな味である。……当初の目的と何かが違っているような気がするが、気にしないことにしよう。
出社は15:00。昨日よりはマシか。
メモリ関連で、既に使っていないポインタ変数に値を代入していたために妙な動作をしていた部分を、基本ライブラリを作っている同僚に手伝ってもらって解析して直す。
ついでに、この一週間はまり続けていた部分にやっと気付く。
やったー! これで遅れは一週間以内に収まったー!<後ろ向き
昨日に引き続き、怒り狂いながらCorel Drawのスクリプトを作成する。
何故怒り狂うかといえば、Helpの内容があまりに役に立たないことと、スクリプト自体がまともに動かないからである。
動作試験を繰り返して、どう考えてみても、スクリプトのコマンド自体がちゃんと動いていない。
もう、小振りの手斧を持ってCorelに乱入し、手当たり次第に社員を殴り殺していきたいくらいである。
個人的にはCorelの製品には一銭も金を払わないことを心に誓ってなんとか気を落ち着ける。
結局、目的自体はコペルニクス的展開でなんとかなったのだが。<最初のアルゴリズムを思い付いた自分が間抜けなだけという話もある。
さて、留守電サービスのあまりの使えなさに憤慨した私は、PHSをNTT Docomoから他社に乗り換えてやろうと決心したことは既に書いた。
通信利用がメインになることや、基本料の馬鹿高さ加減、基本的に都市部でしか行動しないことを考え合わせて、携帯という選択肢は無しだ。cdmaOneは現状でMacに対応していないらしいので却下。そんな物は滅びてしまうがいい。
そこで、候補としてはPHSサービスを行っている東京電話アステルかDDI Pocketの-H"になる訳だが、-H"は常時64kbpsでの通信が魅力。アステルはRIMとの提携で通信料が安くなるのと、若干基本料金が安いことが魅力である。特殊なPCカードが必要だが、64kbps通信もできないことはないし、多分常時64k通信が可能な端末もそのうち出るに違いない。が、そもそも私は今までやっていた32kpbs通信で速度に不満を持った事自体が実はないのだ。
通信時の待ち時間は、ブラウザのHTMLレンダリングがネックになっているか、HTMLサーバもしくはそこまでの通信路がネックになっていることがほとんどで、サーバ負荷が軽い時に巨大なファイルを一気に落とすような使い方をするのでもない限りは32kと64kの違いは実はほとんど分からない(少なくとも私には)。
となると、残る検討事項は乗り換えを決心させた留守電サービスである。
しかし、そこで資料を調べていた私は愕然とした。なんと、アステルも-H"も、伝言が入った事をPHS端末のみで受動的に知る手段が提供されていないのである。それなら伝送経路の状況による遅延の可能性を度外視すれば、メールで充分である。
ということは、少なくともその点だけにおいては、NTT Docomoのサービスの方が勝っていることになる。なにせ、一時間遅れとはいえ、伝言が入るとちゃんと向こうから知らせてくるのだ。一時間遅れだから大抵の場合は役に立たないけど。
アステルは、ポケベルに通知を行うというサービスを行っているらしい。-H"は、自分で調べに行くか、転送電話番号を登録するかのどちらかしかない。
となると、どうしても受けなければならない連絡がある可能性がある(そもそも、携帯できる通信機器を持っているというのはそういう事がある可能性があるからだろう)場合は、アステルにして、その可能性が生じそうになったらポケベルを別途契約するか、-H"にしてこまめに伝言をチェックする習慣を付けるかのいずれかということになる。
普通は、そういう連絡待ちを行っている時は他に作業を行っていることが多い訳だから、いくら利用料金が嵩むとはいえ、1000円以内で自動サービスになる可能性がある方が良いに決まっている。
という訳で、私はアステルを選択することにとりあえず決定した。-H"には私の知らない魅力がまだまだたくさんあるのだ、とか、アステルはこういうところが腐ってるから悪い事は言わないから止めておきなさい、とか、NTT Docomoも契約内容を替えさえすれば使えるようになるのだよ、とか、そういう有用な情報は受け付けている。ただし、多分8/14まで。
上遠野浩平「冥王と獣のダンス」(電撃文庫)読了。
一度は光速を越える恒星間航行技術を手に入れたものの、恒星間空間に進出したとたんに「虚空牙」という正体不明の強大な敵に攻撃され、必死に抵抗するも、完膚なきまで叩きのめされて再び地球に縛り付けられた人類の暮らす世界が舞台。その辺りの描写は、ごくごく最初の方でさらりと流される。
そこでは、昔の高度技術の名残である自動プラントで生産され続ける兵器(虚空牙との戦闘の名残なので、兵器しか生産しないのだ)を用いる「枢機軍」と、ごく少数の人間が持つ核兵器並の破壊力を持った能力「奇跡」を用いる「奇跡軍」が終わる事のない戦争を繰り返している。
「奇跡軍」の一般兵が使う武器は、後退した技術でもなんとかなる一次大戦並。「奇跡使い」達にあまり権力を振るわれるのを良しとしないので、「奇跡軍」は「奇跡使い」を積極的に運用しない。
「枢機軍」には都合の良い事に無線技術がないので、指揮系統は一次大戦並。生産される兵器群も基礎技術が失われているために生産調整が出来ない上にほぼ使い捨て。
という訳で、莫大な死者が出るような戦闘が起こらない。よって、小競り合いを繰り返す戦争を長々と続けられる。上手い設定だ。
物語は「枢機軍」の民間叩き上げの下士官を主人公に、戦場でたまたま出会った「奇跡使い」と彼との絡みで進む。
「超文明」とか「戦車ロボ」とか、なんか推敲をやってないんじゃないかと思われるような陳腐な言葉遣いがかなり気になったのだが、ストーリー自体は面白く読めた。
「奇跡使い」同士の戦闘などはスピード感もたっぷりで、非常に読み応えがある。
しかし、これ良く考えてみたら物語の構造が「聖刻群龍伝」と同じなんじゃなかろうか(もし、シリーズが続くとすれば、だが)。
作者のあとがきでは、しきりに「奇跡」の定義について拘っていたが、私は「この世界に起きる事に意味を与えるのは人間だけで、しかもその意味に価値を見出せるのは意味を与えた人間と価値観を共有している人間だけである」という価値観を持っているので、あとがきに書かれている事に意味があるとは思えなかった。
自分に起きた事が「奇跡」だと思いたければ思えば良い。それが奇跡である保証は、付けようと思えば自分で後からいくらでも付けられるのだ。自分を説得する事くらい、朝飯前にできなくてどうするのだ。そんな事じゃ他人を説得する事なんか、絶対できない。
なんか知らんが、16:00を過ぎたら猛烈に眠くなる。
Corel Drawのスクリプトが上がった(動作試験は甘々なので、きっとDebugで苦しむ)からか? それとも、今日は珍しく2時間も早く目が覚めたからか?
とにかく、眠くて仕方がないが当面締め切りの作業はない(なくしてもらった、の間違い)ので、居眠りしてしまった。<そういう態度だから作業が遅れて没になったりするのだ
気が付くと眼鏡に手と目の回りの脂がついて白く濁っている。これは気付かれないほうが変だよなぁ。