石原藤夫「ハイウェイ惑星 惑星調査艇ヒノシオ号の冒険」(徳間デュアル文庫)[bk1で購入]読了。
リンクに必要な情報を集めにbk1に行ってみたら、喜多哲士さんが既に書評を書いているようだ。
ここの感想は、基本的にネタバレを一切行わないという方針で行っているため、結構私が気に入ったかそうでないか以外の情報は拾えないはずである。
よって、この本の内容に関してより確実な評価情報が欲しい人は、リンク先で喜多さんの書評を読んでください。向こうはプロですから。
閑話休題。いやぁ、SFはいいねぇ。やっぱ私にはホラーの風は肌に合ってないようだ。
SFを読んでいると、ホラーでたまったうっ屈がどんどん吹き払われていくようで非常に気持ちがいい。もしかすると、ホラーとSFを交互に読むのが一番気持ちの良い読書体験を維持する方法だったりして。
ネタにされている話題が私のレベルからすると高度過ぎていまいち何が面白いのか判らないような気がする箇所があったり、出てくるガジェットや人物描写が微妙に古臭かったりするのも、この際だから目をつぶりましょう。判らないような気がしていても充分面白いし。
徳間デュアル文庫がどうやらかなり本気らしいことはこれで判ったので、後は隆盛を究めてもらうためにSF者はなるべく気に入りそうなものが出たら買っていくしかないですよ。うん。
ところで再び話は変わるが、「ブラックホール惑星」は、最近ホーキング博士が唱えている「蒸発するマイクロブラックホール」という概念を導入しても成り立つ話なのだろうか、か、か。
こういう基本的な思考実験さえ、私の物理知識ではようやらんのである。情けないというか何というか。
勉強しないとねー、と思ってるうちは駄目なのである。あぁっ、なんかスゲー面白そうなことが書いてあるのに勉強不足で判らない。ちくしょう目茶苦茶悔しい。勉強するぞっ! までいかないと、なかなか。
んで、他にやったことといえば、世間で起きている事件に関して、事件関係者に後ろから刺されるような見解を示した文章を書いていたらエディタが落ちてパーになったりしたくらいなものである。
エディタが落ちたのは、公開するのは止めとけというMacからの警告だと思って公開は見合わせます。酔っぱらいが言ってるんでもないと冗談としても受け入れられないかも。
んで、PSOで徹夜。これから寝ます。うーん、駄目ヲタク生活。でもむちゃくちゃ楽しい。我々はトンデモないものを文明社会に解き放ってしまったのかもしれない。
NHKスペシャル「被曝治療83日間の記録〜東海村臨界事故」を観る。
JCOの作業員が、病院に運ばれた後も意識を保っていた(というか、治療中も一度心機能が停止するまでは保っていたようだ)という事実を知らなかったので、まずその点に驚く。
兵器の破壊力を伴わない短時間の大量被曝によって、生物がどういう影響を受けるのか、という実験はたぶん既に行われていると思われるが、こちらとコミュニケーション可能な存在がそのような事態に晒されている、という状態は、それだけで精神的にかなり重くのしかかってくる。
治療のしようがないというのは、最初に行った検査で明白である筈(番組の最初に遺伝子が元の状態が判らないほど破壊されている様子が紹介されている)で、これは延命の名を借りた一種の人体実験ではないのか、と私などは思ってしまう。最先端にある医療行為は、多かれ少なかれそういった側面があることは承知している。関わった医療関係者の方々のなかでそのような考えが上に立っていたとも思ってはいない。しかしながら、結果としては実験的側面の方が強く見えるということである。
それと同時に、放射線被曝による影響が、細胞の分裂が不能になることによって起きる組織の再生不良による症状が主である、という事実に驚きを覚える。もちろん、身体の部位によって被曝量が異なるだろうし、細胞の種類によって放射線に対する耐性も異なるだろう。しかし、核の遺伝情報が分断されてしまっていても、細胞の機能自体が維持されていなければ、その総体としての生命活動はすぐに崩壊してしまう筈ではないのか。私は、核の遺伝情報は、細胞分裂のときだけでなく、細胞の生化学反応全般に対して支配的に働いているとただ漠然と思い込んでいたので、遺伝情報が破壊されてしまった細胞は、速やかに細胞自体が崩壊してしまうと思っていたのだ。
これは単に、確率的な問題に帰す話なのだろうか。つまりは、全体としてみた場合は細胞の数が充分多いので、一部の細胞は遺伝情報を破壊されずに(もしくは一部だけが破壊されて)機能を維持し続けているが、それが生命活動を維持できるほどは多くないということなのだろうか。
番組での紹介は、終末医療に関係するような、医療関係者と近親者の心情に偏っていて、私のこの疑問を解消してくれるような情報は得ることができなかった。
番組の最後に紹介された作業員の妻の手紙に「自分の身を守ることが出来ない」との一節があり、これが私にはとても引っかかった。
火から始まって、人間が得てきた文明の利器には、必ず危険な部分がつきまとう。状況による強制に近い選択であっても、利器を直接取り扱うような人間は、それに対する知識を自ら身につけておくのは必要なことなのではないか。こういうのは知識階級に属することの出来た運の良い人間の机上の空論に過ぎないのだろうか。
北朝鮮から「よど号ハイジャック事件」(私がまだ日本語を解さない時期に起きた事件なので、事件の名前くらいしか知らない。学校では大正以降の歴史はほとんどやらないし)の犯人の娘さん達が一時帰国したとの報道。
子供は親を選べないのだから、彼女らにはなんの罪科もないのは当然の話である。日本国籍を認めたのならば、どういうわけでビザの審査が一時帰国という形になっているのか、不思議である。
ニュースステーションでは、北朝鮮関連の話題に詳しい人間というのが出てきて、まず最初に子供を送り返してくるのは、そうやって相手の憐憫の情を買おうとしているような背景を感じられ、そのまま北朝鮮の外交戦略を感じさせて不快である、とコメントしていたが、外交手段に何を使ってはいけない、という話はないわけで、相手が同情してくれるようなら、そのようなポーズを取るのも別に構わないと思う。同情した方が間抜けなのである。いずれにせよ、もしそういう背景があったとしても、彼女たちは被害者であって、当事者などでは絶対にない。
というか、彼女たちが流暢な日本語を喋ることが出来るということは、それだけの数の日本人が北朝鮮にいるということで、なんでそんなにいるのか、そのことも不思議である。こういう突っ込みをすると北朝鮮政府はどういう言い訳をするのだろう。
国会で「130年築き上げてきた日本外交を根本から破壊してしまう行為は許せない」などと発言している議員がいたが、私は根本からの破壊、大歓迎である。
日本の外交は失敗を営々と積み上げてきた結果である。それが認識できている奴が外務省で出世するとは思えないので、外務省出身だというあの議員の反応もどうしてそんなことをするのかは理解できる(馬鹿だなぁ、とは思うが)。
最近のNTTコミュニケーションズのCM(風間盛夫とかが出てくるの)は押しつけがましくて嫌い。
日本経済新聞のCMも嫌い。なんか鬱陶しい。
Mac OS Xのシステム標準インストーラに戦慄のBugがあるということを知る。
詳しくは、ここを見てもらうとして、やはりまだβ版と呼ぶべき品質だ。いや、Publicβのインストーラは、そもそも私の環境では「使えない」というこれまた戦慄のBugがあったのだが(インストール先を選ぶ段になるとどのパーティションも表示されないのである)、システムに与えるダメージを考えると、今度のBugの方が恐ろしい。
この時期にこんなことで、本当に夏までにプリインストールモデルなど出せるのだろうか。
テレ朝を選局していると、必然的にやたらと聞かせられることになるB'zの"Ultra soul"だが、私はどうにもあのメロディーラインはまともな曲になっているとは思えない。
CMで断片的に聞いていたときも「変な曲」と思っていたのだが、あるラジオ番組で通して流されたものを聞いたとき、その思いはますます強くなった。
「〜ましょう」で繋がる辺りと、「そして」で繋がる辺りは、繋がっていないメロディーを無理矢理繋げているようにしか思えない。
これは私の感覚が古いだけの話なのだろうか。
AVEX系の歌手が(詳しくは誰だか知らん。おんなじようなのばっかりに聞こえるので)やたらと使う音声の加工がどうも好きになれない。
古くはYMOのテクノポップで多用された技術ではあるが、ずっとそれで通すとか、詩のポイントになっている部分のみで使うなどの手法ならばそれほど気にならないと思うのだ。例えば、他の楽器が止まっていてヴォーカルだけになっている部分で使うとか。
しかしながら、あまり集中して聞いているわけではないのだけれども、そういう風に使われているようにはどうも聞こえない。ただ漫然と使っているとしか思えないのである。
まぁそれはともかくとして、この間、ラジオで流れた松任野由実の新曲を聞いたら、まさにそういう使われ方をしていて仰天した。
やはり私の音楽のセンスは古いということなのか。
今日は街中にコサキンコント集「」[bk1で購入]を買いに行ったので、晩飯はお手軽なマクドナルドで済ませたのだが、今日出会ったバイトは恐るべき人物であった。
あろうことか、彼女はレジの操作方法をほとんど把握していないのだ。私が注文をする度に、先輩に押すべきボタンを聞いてからでないと先に進めないのである。
おかげで、たまごダブルマックのLLセットを注文したのに、MMセットにされてしまった。レジにコーラMと表示されていた時点で訂正すればよかったのだが、そんな面倒なことをするくらいならコンビニに寄って別の飲み物でも買う方がマシである。
私が順番を待っているわずかな間にも、「注文したものと入っていたものが違う」というクレームを付けていた客がいたので、今日一日でどれだけの失敗をしたのか、試算するのも恐ろしい。
悪いことは言わないから、ビデオの予約録画ができない人間はコンビニのレジ打のバイトにしておいた方が無難だろう。あっちは商品のバーコードを読み取れば、レジのボタン自体は適当に押しても大抵の場合は問題にならない(金額は除く)。
「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」という会のアピールが、いくつかのマンガ雑誌に載ったようである。
これに否定的な見解を示す人間も多数いるようだが、以前にも書いたように、著作物を原著作者に利益還元することなく商業目的で取り引きするのは、他人の利益をかすめ取る行為であると私は認識している。汚い言葉を使えば泥棒である。
私は、金がなかった学生時代を除けば、既に市場から消えてしまったと思われるもの以外は中古の著作物は買わないし、自分の所有している著作物を中古業者に売却することもしない。これは私のポリシーの問題であり、よほど困窮しない限りは貫く。プライドの問題である。
音楽著作物に関しては、かなりスムースに原著作者への利益還元システムが構築されたと私は認識しているが、これは著作権管理を行う団体が既に存在していたことによるのだろうか。それともアメリカなどの外圧による成果なのか。
それはともかく、まんだらけ社長の古川氏がこの会に参加していることの意味を、単に安いから新古書店を利用したりマンガ喫茶を利用しているような人間は考えていただきたいものである。
iBookの店頭展示品を触ってきた。
第一印象は「丈夫そう」である。小さいとかそういう感想よりも、そちらの方が先に立つ。PBTiがとにかく華奢な作りで、怖くて持って歩けないと感じたのと、小さいのはAT互換機のB5ノートで見慣れているせいか。
キーボードの感触はふにゃふにゃであると感じたが、これは今現在Pismoのキーボードを純正からP.T.K.に換装して使っていることが大きく影響しているだろう。
性能からいえば、買う必然性はなにもない(私のPismoは500MHzなので)のだが、物欲を刺激される機械であることは確かである。
ついでに、その横に展示されていたG4 733を見てみたら、OS Xで動いていた。
当然のことながら、きびきびした動作でG3 450 B/Wで動かしているOS Xより断然快適である。私がやたらとOS Xに悪印象を抱いているのは、動作速度が微妙に遅いことも影響しているに違いない。しかしながら、733MHzのPowerPC G4はパイプラインが伸びた影響で、クロックと動作速度が線型になっていないという話なので、ここはじっと我慢の子が賢い消費者の行動というものだろう。
家から一番近いコンビニであるところのセブンイレブンから、MIUの深海生物ボトルキャップ付きのものが消えたと思ったら、近所の東部ストアのMIUがその前のMIUの在庫が尽きて、深海生物ボトルキャップ付きのものに変わった。
ナイスローテーション(単に躍らされているという話もあり)。
しかし、今日買った5本で一番欲しかったオウムガイが出たので、もう買わないかも。コウモリダコとチョウチンアンコウが出ればコンプリートなんだけど、そういうことに拘り出すと際限がなくなってしまう。
明日、カンコンキンシアターのチケットを入手すべく、日進のSATYに行こうと思ったのだが、いきなり行って道に迷ったりすると洒落にならないので、予行演習のつもりで行ってみる。
地図で確認するとえらい遠いような気がしたが、NS-1ならすぐである。大宮の市街よりは遠いが、さいたま新都心よりは全然近い。
これからは映画もちょくちょく観に行けそうな感じだが、もともと映画観ない人だからどうなることやら。
店内は、新しく開店したショッピングモールと大差はない。新しいのだから綺麗なのは当たり前である。
ヲタク的スポットしては、Bibrosと上新電器(だったかな?)が入っていたが、大宮市街にジュンク堂とさくらやとSofmapがあるのだから、SATYまで行く足があるならそっちを使った方が良い。
びっくりしたのは、totoの発売カウンターに行列が出来ていて、それが一時間以上も途切れる様子を見せなかったこと。単にオペレータのスキルが低くて人のはけが悪かったのか、それともtotoはものすごい流行しているのか。
スイングあずまんがの機械を初めて発見。突貫するも、榊さん以外はさっさと揃うも、後は1000円以上の惨敗に終わる。
帰り道に、新しいグッズ関係の中古屋が出来ているのを発見。寄ってみる。
店内は雑然としていたが、そこでスイングあずまんが全セット1500円というのを発見。……展開としてあんまりだ。
さすがに買わなかった。
中古ゲームの棚では、プリンセスクラウンを探したが、見つからず。そりゃそうだな。
中古LDの棚もあったので、Zabadak Liveを探すも見つからず。当然の結果である。DVDで再販してくれ。
家に帰ってきたら、猛烈に眠気が襲ってきて、眠ってしまう。
目が覚めたら14:00を回っていた。午後から調布の友人宅に呼ばれていたので、慌てて電話して家を出る。
出るのとほとんど同時に雨が降ってくる。結構な降りだったので、折り畳みでない傘を持って出る。
東武線を使い、大宮駅まで来ると、雨は降っていなかった。もちろん調布でも降っていなかった(途中は知らん)。
今日はどういう訳で呼ばれたかといえば、DC版のGuilty Gear Xを買ったはいいが、難しくてエンディングを観ることが出来ないので、エンディングを見せて欲しい、ということなのである。
というわけで延々とプレイするが、途中から尋常でない難易度になり、ちっとも進めなくなる。
18:00を過ぎた頃に一度諦めて夕食に出る。
その後、勝ち数1、難易度をEasyにしてやるも、やはり尋常でない難易度で引っかかる。キャラの性能が違いすぎて、どうにもならないというのが正直なところ。2D格闘ゲームもシューティングゲームが辿った道を辿っていることが判る。まぁ、私は波動拳コマンドもたまにスカるヘタレ格闘ゲーマーなので、あんまり偉そうなことは言えないが。
全10ステージ中、8人目、9人目、ラスボスで引っかかり、8人目のキャラ性能が異様に高いように思えたのでそのキャラに変えてとうとうラスボスを倒す。……疲れた。
小泉純一郎をヒットラーの再来だと言った奴がいるが、議会民主政治というのは、相手をどうやって説得して自分のやりたいことをやるか、というのが本質である。
つまり、きちんと議論を行って物事を進めようとする有能な政治家は、押し並べてヒットラーの再来と批判可能であると私は推察する。
ヒットラーのやったようなこと、すなわち、現在のドイツで禁止されているナチズムのような思想を語り始めて、初めてヒットラーの再来という批判が当を得ることになるのである。いわゆる一番目立つ右翼の人々がそれに一番近いだろう。
護憲派という人々の立場もよく判らない。あの文章、絶対に変えてはならないというほどよくできた法律だとは私にはあまり思えない。ついでに言うなら、あれは占領時にGHQが作成したものが基本になっているわけで、そういう意味では我々の中から出てきた物ではない。
別にそれだけを理由に否定するわけではないが、地に足が付いた物でないような印象を常に受けるのは、そのせいもあるのではないだろうか。
そもそも、憲法自体に憲法を改正するための手続きがきちんと成文化されている。ある条件が満たされれば変えてもいいよ、と書いてある物を変えるのに、いかなるタブーがあるというのか。
憲法九条は既に形骸化した文章(GHQの指示により、警察予備隊が結成された時点で形骸化している)であり、今一度、その意義を含めて議論をした上で改正すべきである。
軍事力は、それを使うことは愚か極まりない行為ではあるが、保持しているという事実は重要な外交カード足り得るのである。
民主党メールマガジンというものを購読登録してみた。
鳩山由紀夫が「マスコミのニュースは絶対に真実を伝えているものと疑いませんでした。」と書いていて呆れた。
本気で言っているとすれば、本当に馬鹿なのだが、国民全体のレベルに合わせたつもりで書いているとしたら、国民を馬鹿にしている。今時、マスコミが真実を伝えているなどと能天気に信じている奴がいたとしたら、そういう奴からは選挙権を剥奪した方が良い。民主主義というのは、国民がある程度以上の知的レベルにあるということを前提にした政治形態なのである。
こんなところが野党第一党で大丈夫なのだろうか。
その後は、同人誌やらマンガ雑誌やらを読みつつ馬鹿話などをして時間が過ぎる。
昼食はこれまた近所のステーキハウスのランチセット。
その後、昨日、行きがけに農家の直販で買ったトマトにモッツァレラチーズを合わせてオリーブオイルを掛けたコジャレたつまみを肴に真っ昼間から赤ワインなどを飲む。
怠惰な生活万歳。
夕食は、蕎麦ビール、蕎麦酒などがある蕎麦屋で盛り蕎麦を肴にまた酒を飲む。
なんか飲んでばっかりの一日だった。
水谷三公「江戸の役人事情―『よしの冊子』の世界」(ちくま新書)[bk1で購入]読了。
タイトルにある「よしの冊子」とは、寛政の改革を行った松平定信が、配下の隠密に集めさせた風評を記録したものである。「〜由」というのが、昔は「〜という噂である」という意味で、ほとんど全ての文章の末尾に「由」が付いているので、よしの冊子という名前になったという。
要するに、自分の行なった政策に対する世間の反応を調べたものである。それが風評だというのは何とも頼りない気がしないでもないが、よく考えてみると現在でも似たようなことをしようと思った場合に取ることのできる手段は同じようなものだし、本当に客観的な方法などないのかも知れない。
閑話休題。この本は、その「よしの冊子」の内容を元に、江戸時代の武士階級の業務などを考察したものである。
しかし、読者が江戸時代の官制に関しての基本的知識を持っているという前提で書かれているのか、今一つ具体的なイメージが湧かない説明が多く、元々が風評を集めた本であることも手伝って、単に昔のゴシップ記事の羅列を読んでいるような気分になってくる。
不親切といえば不親切なのだが、新書という形式にまとめるためのやむを得ない省略なのかもしれない。
とはいえ、通読すればそれなりにどのようなルールで江戸時代の役人の世界が動いていたのかということは見えてくる。
封建制によって必然的にだが、政府組織が管理部門と実務部門に分かれていて、それが現在の政府組織には欠けているという、筋の通った指摘もある。
記述に舌足らずな面もあるが、制度疲労を起こしている、という指摘のある現代の日本社会を考える上で、重要な示唆を含んでいる本であると思う。