01年7月下旬の世迷い言


2001/07/21

 明石市の花火大会で観客が将棋倒しになる事故が起きたようである。
 これを書いている時点では10名の方が亡くなったようで、御冥福を祈りたい。
 しかし、毎年毎年、えらい騒ぎになっているコミケで、少なくともマスコミに報道されるような事故が起きていないのは奇跡に近いと感じる。
 スタッフの皆さんに敬意を表するとともに、一参加者として、事故につながるような行動は厳に控えなければならない(今までもそんなことはしていなかったが)と思う次第である。
 具体的に書けば、走ったり、列を乱したり、他人を押したり等ということである。ただでさえ世の中から風当たりが強いイベントなのだから(幕張メッセを追い出されたことを知らない人もいるんだろうな)、そんな事故が起きてしまえば存続は危うい。
 そういう行動をしている参加者がここを読んでるとも思えないけど。


2001/07/22

 就寝は3:00を回っていたのに、驚くべきことに9:00に目が醒めて、NHKの党首演説番組を観ることができた。
 重要な懸案事項に関しては何も言わないのはどの政党も相変わらず。
 ただ、保守党の扇千影の言ってることは無茶苦茶である。衆議院で通ることが参議院で通らなければ困る、などと言っているのだ。参議院のチェック機構としての役割をまるっきり無視した事を言っている。こんな政党には絶対投票できない。
 公明党と共産党は、なにか言うたびに聴衆から拍手が上がる。どっちも宗教団体だなー、というのが正直な感想。言ってることの具体性は共産党の方が上だけど、拍手の回数も共産党の方が上。こういう雰囲気は政治の場としては危うさを感じる。
 どの団体も、講演会に集まるような聴衆であるわけだから、ある程度の支持者である可能性は高い。しかしながら、反応に差があるということは、支持の強さが違うということである。
 どの政党であっても、主張したいことや強調したいことは大きな声で言うが、自分達に都合の悪いことは言わないか、なにがしかの言い訳をするという点では似たりよったりなのである(共産党が苦しい言い訳をすると、右側の団体から一斉に突っ込みが入るので、共産党だけそのイメージが強いかもしれないが)。その中で、妙に支持層が強いというのは、正常なチェック機能が働きにくくなっていることにつながると思える。
 政治の世界で一番やってはいけないのは、雰囲気に流されることである。都合の悪いこともきちんと言って、その都合の悪いことに対してどのようにフォローを入れるのか、ということを言わないこの風潮は、政治家が我々有権者を馬鹿にしている証左である。我々有権者が雰囲気に流される馬鹿である、ということを前提にしているのだ。
 我々は、そのような態度を取る連中しかいない中から選択しなければならないというこの事態に当たって、自分の力で本当はどのような意図が連中にあるのかを調べて、自分の頭で最善を判断しなければならない。
 そのような事態に至ってしまった原因は、他ならぬ我々にある。政党を駄目にしてしまったのは、我々なのである。その反省を我々がしない限りは、日本の政治は駄目なままであり続けるだろう。

 それはともかく、来週に夏コミ用の本の編集の予定を入れてしまったので、不在者投票に行く。
 てっきり平日にしかやっていないものだと思っていたら、土日祝日もやっているらしい。役所の方々(なのか?)、休日出勤の上に、8:30〜20:00までの勤務、お疲れさまです。
 行ってみると、結構沢山人がいる。いつも投票に行く近所の幼稚園より確実に活況を呈している。まあ、旧大宮市中の投票所が集まってきているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、少なくとも祝日、休日としては、投票日の倍(二日)あるので、多いと思うべきなのか、少ないと思うべきなのか。平日に行けばもっと空いているのだろうけど。
 不在者投票は初めて行なったのだが、どういう訳だか、自分の名前を書いた二重封筒に投票用紙を入れ、それを投票箱に入れるという制度になっているようだ。なんとなく、厳密性を重視していて投票の秘密はないがしろにされているような気がする。しかも封筒に名前を書くときの筆記用具は鉛筆。それで良いのか?
 複数の人間のチェックを経る過程になっているのだから、そうそう変なことにはならないと思うが。

 左翼の人間の言動で一番私の気に触るのは、「日本人は太平洋戦争の反省をしていない」というものである。
 子供の頃から、さんざん「戦争は悪いことだ」と教わってきた。戦争は、最悪の外交手段であって、それを行使する状況に陥らないようにすることは、至上命題だと言っても良いと考えている。太平洋戦争がどういった経緯によって起きたかどうかには関わらず、愚かな行為であったことは間違いない。
 しかしながら、それは言論の自由を妨げる言い訳にはならないし、戦力の不保持の理由にもならない。戦争を賛美する言論は統制されてしかるべきだ、戦力を持っていなければ戦争は起きない、等というのは、太平洋戦争の反省をしていないのは一体どちらなのか、と問いたくなるほど無分別な意見にしか見えない。
 反省は、正しい調査と広い視点を持って、過去に起きた事件を把握することから始まる。中国共産党や韓国マスコミや朝日新聞が喧伝する過去の日本の姿は、一方向からの視点から見たものに過ぎない。それらの団体が行なっている「その他の視点の見方を否定すること」は、正しい反省にはつながらないということをきちんと認識すべきである。
 右翼運動は「その他の視点の否定」によってより強くなるに違いない。人間は理性を持っているが、感情も持っているのだ。こちらを否定し続ける存在を、好意的に見ることなどできるだろうか?


2001/07/23

 米国が生物兵器禁止条約より離脱するとの声明を発表したらしい。
 思えば、現在のブッシュ大統領は、対立候補とどっちが選ばれたのかよく判らないほどの僅差で当選したのであった。
 それを考えると、支持基盤固めのための国内への大盤振る舞いをしているという見方もできるのだが、もしこれが本当で、それに対しての反発が米国国内から出てこなかった場合(多少は反発もあるらしいが)、米国は非常に危うい状態にあるといえるだろう。なぜならば、この前提はあまりに近視眼的な行動をしているということになるからである。

 「パラサイト・イヴ」でデビューした作家の瀬名秀明氏が、今年のゴールデンウィークに行なわれたSFセミナー2001で行なった公演の資料を配布しているという話を聞いたので、ダウンロードして一通り読んでみた(Web上で行なったアンケートの原文は、途中で読むのを放棄した。だって変な文章が多くて鬱陶しいんだもん)。
 私は、何度も書いているが、言論の自由が制限された社会は碌な社会にならない、という信仰を持っているので、「これはSFじゃない」と言うのは禁止、という案には反対である。「そういう言葉を使うのはデメリットしかない」というキャンペーンを張るのならばともかくとして。
 ちなみに、「これはSFじゃない」という言葉自体を私自身がここで使っているかどうか、「SFじゃない」というキーワードで検索を掛けてみたら、一箇所だけあった。97年の5月18日(この頃はまだアンカーを付けていなかった)の、A.K.ルグゥインの短編集(のうちの一作品)に関する好意的な感想である(SFじゃないような気がするが面白かった、というもの)。
 私は、自分のことをSFに関しては極薄い人間だと思っているので(海外SFはほとんど読んでいないし、小松左京もほとんど読んでいない。どちらかと言えば、ジャンルよりも作家で本を選ぶ人間だし)、ある作品がSFとして分類されることに違和感を感じるかどうか、と問われれば、Yes/Noの答を返すだろうけれども、自分から積極的に「これはSFじゃない」という言葉を使う気にはあまりなれない、と思う。「SF的視点から見てどうか」という突っ込み議論は、友人とよくやるが。
 しかしながら「パラサイト・イヴ」の後半の展開に前半との乖離感を感じたのは確かなのである(どうも「パラサイト・イヴ」を読んだ当時はまだ日記をつけていなかったようだ)。前半までは、リアリティを出すために細かく積み上げられてきた説明が、後半になっていきなりとっぱらわれてしまった感じ、とでも言えば良いのだろうか。どうも私は(ラブクラフトは読むくせに)ホラーは好きじゃないらしいので、そういう感覚を持ったのはそのせいかもしれない。
 私にとっては、SFかどうかが問題なんじゃなくて、その小説世界内できちんと説明が完結しているかどうか、その説明が説得力(納得力でもいいや)をちゃんと持っているか、が重要なのではないか、と思う。

 それはともかくとして、瀬名氏がSF系日記更新時刻に登録されている日記を全部一年分読んでみた、という話にはひっくり返った。
 私のこの一年は、完全な停滞期に当たっていて、本は読んでないしビデオは見てないしゲームはやってないしで、どうして約30人/日の読者の方が訪れてくださるのかよく判らないような内容だった(いや、それ以前だってたいしたことは書いていない)筈なのだが、どうか途中で諦めて放棄してしまっていたことを切に願うものである。明らかに自分より才能のある他人の時間を無駄に使わせてしまったのではあまりに申し訳ない。

 ぴあを買ったら、映画観客への出口調査(「百点満点で今の映画に何点つけますか?」というもの)で「パールハーバー」が3位に来ていてひっくり返る。しかも100点の奴がコメントが紹介されている5人中2人もいるよ!(全体では209人平均85.9点)
 「アルマゲドン」のラストシーンで失笑が漏れない市場になにを期待しているのだ、と言われてしまえばそれまでだが(ヨーロッパのある劇場では失笑が漏れたそうである)。
 いやもう、疑うことを知らないってのは、現代社会においては一種の罪悪だと思うのだけど、本人たちは幸せなんだから放っておけ、と考えておくべきなのだろうか(それって森首相の「寝てて欲しい」発言と同じ気がするんだけど)。


2001/07/24

 なんか急にアクセス数が増えたのだけど、どこぞの有名サイトからリンクでも張られたのだろうか?
 と思って調べてみたら、スズキトモユさんの「見下げ果てた日々の企て」だった。
 昨日書いた「瀬名公演資料」に対する反応を集めているようだ。時流に乗った話題を扱うのはアクセスアップのための地道な努力ですね(などと茶化したくなってしまうのは私の習性なので、読み流してください)。

 ちなみに、私はここに買った本のことはほとんど書かないし、読んだ本もマンガや雑誌に関してはほとんど書かないので、ここを読んで私の趣味を特定するのはとても難しいと思う。
 書かない理由は「大量過ぎて面倒臭い」というのが一番大きい。次点で「ジャケ買いしてるのも結構あるので、評価をしないうちに広めるのはあまり良くない」というものも入るだろうか。マンガは「ネタバレしないように感想を語るのが難しい」という理由もある。
 ここ一年は読むスピードより買うスピードの方が明らかに速くなっていて、積ん読キューが増える一方である。それでも買うのは「今買っておかないと入手できなくなる」という意識が強いからだ。自分の趣味がマイナーであることは過去の経験から思い知っている。
 「買い支えている」などという意識はさらさらないが、使っている金額はそれなりに多いと思う(ちゃんと計測したことがないので嘘かもしれないが、本、雑誌に2万円以上/月は確実に使っている。下手すると3万円以上/月使っているかも知れない。マンガも込みで、だが)。
 私が「買い支え」の意識を強く持っていたのは、一時期のコンシューマゲーム業界に対してだ。コンシューマゲームは、雑誌などに売上本数が載るので、危機感を煽られやすいのである(あるハードの週間売り上げ一位のソフトの売上本数が、他のハード用の1位のソフトの1/10だったら、これはマズいと考えるだろう)。その意味では、SFがどれだけ売れていないのか(売れているのか)、を統計資料として広く世間にしらしめれば、SFファンを自認する人間はそういう行動に走るのではないだろうか。
 それにしたって、なんでもかんでも出たものは買う、という発想はあまり健全ではないように思える。

 規制緩和協議会の経過が、参院選の前に発表されるのは良いことだね。
 なんとなく、国民より企業を重視した規制緩和案に見えるのだが(コンビニでの薬品取り扱い緩和、マンションへの建て替え緩和など)、「不景気なのとどっちが良い?」と聞かれたりするとちょっと考えてしまう。変なことをする企業は市場原理で淘汰されていく、という考え方もできるし。


2001/07/25

 昨日、あんなことを書いたせいかどうかは知らないが、大量散財。
 とりあえず、Sprit of Wonder Vol.2は観たが、他のはいつ観るんだか。マンガは代替消化。サンデーGXのマンガって結構面白いのが沢山あるねぇ。
 しかし、かなり多数のCD屋があるってのに、アニメDVDが一番揃ってるのがSofmapだっていうのはどうかと思う。<大宮駅周辺
 おかげでポイントカードの効率が悪いったらない。ちなみにSofmapに絞れってのは却下ね。あんな客あしらいの悪い店は最終候補である。

 Kids Gooでは、私の所はトップページは表示されるが、この「世迷い言」は何かの規制に触れるらしく、表示されない。どういう仕組みで決めてるんだか判らないので、表示されない、以上の事は言えないのだが、ここの文章って子供には有害かね? 「世の中のものは一通り疑え! 変だと思ったらとにかく突っ込め!」って主張は扱いやすい子供を作るためには有害か。仏教など、主要哲学の根本理念なんだけどな。まぁ、そんな子供の世話をするのはまっぴら御免だが。
 ちなみに、

http://kids.goo.ne.jp/cgi-bin/kgframe.cgi?BL=0&SY=0&MD=2&TP=
の後に自分のページのURLをつけてみると、goo的ルールによって自分のページが有害かどうか判るぞ。面白いからやってみよう。
 しかし、漢字にルビを振る技術などは非常に高度なものが使われていると感じるのに、こうやって情報をフィルタリングしていることでそれが台無しになっていると感じる私はアナーキストですか。


2001/07/26

 昨日買ってきた「シャーマニックプリンセス」を観る。
 これは所謂OVAバブルの最後期に企画された作品の一つで、ほぼ同時にリリースされ、世間的に評価が高い「魔法使いTai!」に隠れて、いまいち評価が聞こえてこない作品であった。
 CMに使われていた無国籍風の音楽とともに、気にはなっていたのだが、当時の経済事情では1話5800円は払えなかったのだ(最終話のCMで使われていた曲って「ウヨンタナ」なのね。なに? 誰だか判らん? ベターマンを観て出直してきなさい)。
 OPとEDのイメージと本編のイメージのギャップに戸惑うが、面白いじゃないですか。ダークファンタジーが基本的に好き、という私の性質を割り引いても、大胆な画面構成(特にアニメでなければできないような演出)やスピード感溢れるアクションシーン、魔法に対する解釈、美しい美術など、見どころは沢山あると思う。
 この作品を、最初のLD発売時に評価できなかったのはとても悔しい。しかし、1/3の価格になって出てきた今となっては、積極的にお勧めするものである。下手な原作付きアニメーションよりよっぽど面白いぞ。面白いアニメに飢えている人は買いなさい。
 しかし、なんで続きは2カ月後なんだー。8/25でいーじゃん。なんか無茶苦茶時間のかかる作業が必要だとも思えないぞ。どうにかしてくれ>バンダイヴィジュアル

 この勢いに乗って、「オーガス02」も出てくれ。予告編を観る限りではとても面白そうだったぞ。

 えーと、私が「これはSFじゃない」禁止令に過剰に反応するのは、以下の理由があるからなのである。
 前提として、

というものがあり、情報伝達の過程で、「これはSFじゃない」禁止令は、(背景になる論理はどんなものかは判らないが←これ重要)きちんとした背景を持った「ドグマ」として世間に浸透してしまう可能性があるのである。理由は、その方が楽だから。
 ついでに、そういうドグマが浸透すると、「きちんとした理由があれば言論の自由は制限してしかるべきだ」というドグマも発生する。これは絶対発生する。感情の動物である限りは、誰かの発言にむかついているのは普遍的に起こり得ることであり、誰かを黙らせたいと思っている奴は(私を含めて)、絶対居るはずである。そいつがからくりに気づいてしまえば、絶対発生する。
 そして、そのようなドグマが発生してしまえば「言論の自由」は風前の灯である。気に入らん発言は何かしら理由をつけて大勢を納得させることができれば、その封殺が通ってしまうのである。これを「言論の自由」の危機と言わずして、なにが言論の自由の危機になるだろうか。これは、ある意味、政府による弾圧よりよほど恐ろしい。
 つまり、そのようなドグマの発生は、兆候から地道に摘み取っていかなければならない、という結論に至るのである。

 あ、そうそう。CUBICやってみた。
 全部引用は面倒なので、評価の文章だけ引用。もしかしたら、このURLで見れるのかな?

どちらかといえば内向的な人で、大勢の友達と騒ぐより、数少ない友人との時間を大切 
するほうが向いているようです。ですが、その仲間とだけに自分の世界を限定している 
わけでもなく、自分なりのアンテナは周囲にも張っています。他人への思いやりもあり、
ときに、非常にユニークな発言もし、センスのよさを感じさせることもあります。あな 
たの視点は客観的で、あまり私情を交えないため的確な判断をしているといえます。し 
かし、一歩外側から距離をおいて眺めているために、他人にわかりづらいというイメー 
ジを与えてしまうこともありますが、本質は自分自身をよく内省していて、豊かな内面 
の持ち主といえます。また、確信がもてるまで動かないという慎重性があり、評価でき 
ることのひとつなのですが、神経が過敏で細かすぎるという欠点でもあります。もっと 
精神的に余裕をもって、多少、強気に堂々と実行してみると良い結果が得られるかもし 
れません。落ち着いた雰囲気があるので、気弱な面を捨て、もう少し大らかさをそなえ 
れば、あなたに信頼をよせてくる人は、これからもっと増えていくことでしょう。   
 当たってないこともないが、誉めすぎ(私を個人的に知る人はここが笑うところです)。この私が言うに事欠いて「気弱」ってことはないだろう。


2001/07/27

 夏コミ用の原稿作成、およびチェック、および整形、プリントアウト作業の日。合間に日経サイエンスを読んだり。
 ちなみに、電源不要ゲームサークル「Studioよゆーぴーぽー」は、今回でとりあえずコミックマーケットへの参加は停止する予定です。
 今回の売り物は、前回、非常に好評だった「おジャ魔女ファーマシーRPG」の再販と、活動停止記念本(題未定)。後者は無料配布の予定。
 明日から調布に行って編集&コピー&製本作業をするので、ここが更新されるのは早くても29日の夜以降になります。


2001/07/28

 SFセミナーに関しては、存在は知っていたものの「怖そうなもの」というイメージが強く(ほら、俺って「内向的」だし〜)、日本SF大会と同様に、深く関わる気は全然なく、他で話題になっている場合にはやじ馬根性でちょっと観に行く、程度の興味しか持っていなかった。
 で、「瀬名公演」に関しては、定期巡回している日記(結構少ない。ニュース系のWebやってる人々ってのはどういう生活を送ってるんだか、尊敬半分呆れ半分である)にたまたま紹介されていたので、読んでみた(しかも公開時点では、夏コミの原稿がまだ終わっていなかったので、その作業が一段落着いた後に読んだのだ)。
 世の中に流れた意見に対して何かを言って、それがそれなりに波紋を広げていそうな時には、他の人が何を言っているのかを知りたくなるのが人情ってもので、水も漏らさぬよう厳密にやっているというわけではないけれど、それなりにいつもよりアンテナを広げて調べてみている。
 そこで引っかかってきたのが「瀬名氏の感じている苛立ちには共感できる」という意見。
 そう。瀬名氏が「現状の日本SF界に苛立ちを感じている(らしい)」ことは判るのである。ただ、その苛立ちを共有できるかどうかについては別問題。私は現状のSF界(と括ってしまって良いものか)に別に苛立ちは感じていない。むしろ少しずつだけど改善されてきているように見えるのだ。
 「瀬名公演」には、そのギャップを埋めるための情報は、「編集者が根拠なくSFは売れないと信じ込んでいる」くらいしかないように私には思える(編集者からの個々のアンケート回答を見ると、幻冬社がSFを毛嫌いしているだけのような印象も受けるのだけど)。つまり、ちょっとばかり苛立ちを感じていない人に対する説得の材料が足りないように感じる。他では水も漏らさぬような調査資料を提示し、そこから結論を論理的に導き出しているので、余計に説得力がないように見える(人間は、絶対値より他との差を敏感に感じるものなのだ)。
 だから、瀬名氏の苛立ちを共有できる人にはきっとあの公演は諸手を挙げて賛成できるものになっているのだろうし、あの極端に見える反応からして、もしかすると瀬名氏もそういう反応を期待していたのではないのだろうか。
 だとすれば(瀬名氏がここをまだ読んでいる可能性はとても低いと思うのだけど)、「苛立ち」を共有できるような論を十分に展開できていないように見える、という指摘は、とても有用に思える。
「今さら何言ってみても無駄なんじゃない? あはは〜」と心の隅で言っている誰かさん(自分に決まってるだろ)の存在を感じながら書いているのだけど。

 ちなみに、私はSFを読んでいて「センス・オブ・ワンダー」なるものを感じたことがない。ただ「面白い」と思ったことはあるけれど、他人に「これがセンス・オブ・ワンダー」なのだ、と胸を張って説明できるような特別な感覚を覚えたことはない。
 だから「センス・オブ・ワンダー」なるものの存在を実は信じていない。たぶん不勉強のせいだろうが、私が納得するような「センス・オブ・ワンダー」の説明にもであったことがない。


2001/07/29

 昨日の話だが、調布の友人宅にて原稿を集めて編集作業。
 今回は、自分の原稿だけではなく、他人の原稿が入っている本(絵は別)を作ることができて、久しぶりに本を作るという作業自体の楽しさを感じることができた。共同作業の楽しさというか、互いに刺戟を与えあえる楽しさというか。
 こういう本はよほど内容が飛び抜けていない限りは世間には受け入れられない、ということは思い知ったから、内容に絶対的な自信がない限りはもうやらないけどね。
 作業は滞りなく進み、たぶん20:00位には終わっていたのではないか(時計を確認しなかったのでよく判らない)。

 ラーメン屋で晩飯を食い、ゲーセンで遊ぶ。怒首領蜂2をやったら、妙に調子が良くて3面までクリアできる。たまにこういうことがある。どういう要因が絡んでいるのだろうか。

 続いて、今日の話。
 9:00頃起床。朝食は近所のロイヤルホストでモーニングセット。
 今日も仕事の友人とそこで別れ、残りのメンバーは調布の友人宅に戻って「シャーマニックプリンセス」の布教。あんまり手ごたえがない。ちぇー。

 その後、甲州街道沿いにあるプラボの近所にバッティングセンターがあると勘違いした我々は、群馬から来た友人の車を使ってそこに向かうも、「調布センター」というパチンコ屋があることを、バッティングセンターがあるものだと勘違いしていたことが判明。
 第二案としてボウリングをやるという案もあったので、ボウリングをやる。
 どういう訳だか、ストライク連続(でもスペアは取れない)。二回やってどちらも169という、今までにない高スコア。確かこれまでで一番高いスコアは145だったので、一体何が起きたんだかという感じ。昨日の怒首領蜂2と同じものだろうか。

 ちょいと早めの夕食を摂り、いつものごとく友人の車で帰宅。
 とりあえず、予約して撮ってあったF1ドイツGPの予選を観る。
 今年のウィリアムズのマシン特性に合ったサーキットとはいえ、ちょっとウィリアムズだけ違うところにいる感じ。
 マクラーレンは完全に復調したか、M.シューマッハは、ハッキネンにも及ばず。クルサードより上なので、チャンピオンシップ的には問題はないけど。

 選挙の話は今はしたくない。


2001/07/30

 F1ドイツGP決勝。
 今回の敵は、気温と燃料供給システムのBug。燃料供給システムはFIA提供なのだから、責任問題になるんでないの? 燃料供給システムのBugに引っかかったチームで、気温に勝てたのはフェラーリだけだったのではないか(引っかかってないのに気温に負けたM.シューマッハのマシンとかあるんだけど)。モントーヤもポールトゥフィニッシュをこれでふいにしたようなものだし。
 ウィリアムズの次元の違う速さは、決勝でも全く色褪せていなかった。とにかく速い。地元レースであるBMWの面目躍如。逆に、どっちのマシンもリタイアしたり、フェラーリよりもストレートでの伸びがいまいちに見えたマクラーレンメルセデスは、ちょっと株を下げたのかな?(フェラーリ原理主義者としては、フェラーリのエンジニアがきちんと仕事をしてきた、と思いたいところなんだけど)
 バリチェロの仕事は「お見事」の一言。こうやって活躍していると、来期にフェラーリを出て行ってしまうんでないかとちょっと思ったりもするが。
 しかし、やはりエンジニアリングの乗り越えるべきは状態遷移点である、ということを強く実感できたレースであった。走り続けている状態から、いったん止まって、また走り出すところでのリタイアがとても印象に残った。
 同じホンダ勢でも、BARのマシンだけが完走できたのは、ジョーダンよりもチューニング度が低かった(=限界性能は低いがメカニズム全体としての余裕はある)からなのだろうか。フレンツェンの代わりに走ったゾンタのリタイアは単なる凡ミスだけどな。
 昨日は書き忘れたが、予選でも結構いい線まで上がってきた感のあるジャガーのアーバインが、リタイアしてしまったのはちょっと悲しかった。

 選挙は、もう投票率が前回より低いという点だけを指摘して終わりにしよう。
 問題意識がない人間に権限を与えるのは、無意味である以上に有害だからもう止めにしよう。各選挙区の投票率を調べて、投票率の低い選挙区の票の重みを下げていく法律でも作ればいいんじゃないか。別に文句は出ないでしょ。投票に行かないってことは関心がないことなんだから。
 敢えて良かった探しをするとすれば、非拘束名簿式に従った有権者が少なかった、という点か。あんな訳が判らん上に有権者を馬鹿にしているし、候補者も無駄に金を使わざるを得ない制度はもう止めれ。

 瀬名公演資料が読みにくいのは、PDFだから、という理由だけではないと思う。
 無意味(でもないんだろうけど)に紙のサイズに拘るのは、コンピュータディスプレイ上での読み易さを明らかに無視した振舞いだろう。SFオンラインで販売されている短編はPDFだけど、瀬名公演資料よりずっと読み易い。ページサイズがコンピュータディスプレイの画面縦横比を考慮に入れたサイズになっているからである(微妙にずれてたりするんだけど)。
 仕事柄、さんざんPDFの資料を読まざるを得ない身としては、さっさとこの点にみんな気づいて欲しいと思う。紙に打ち出して読めってのは後退でしょ?
 本当は、コンピュータディスプレイが縦型になる方が建設的解決方法だとは思うのだけど。横型の方が優れている理由ってなにかあるだろうか?


2001/07/31

 街中に買い物に出る。
 何を買うかといえば、本を買うのである。
 色々買ったが、暑い中をうろうろしていると、体力の衰えを実感すること頻り。ちょっと生活を考え直そう。

 とりあえず、読んだ中でのお勧めは、「なつのロケット」(あさりよしとお)[bk1で購入]と「ゆめのかよいじ」(大野安之)[bk1で購入]の二冊である。

 こういう状況で「なつのロケット」を誉めると、SF右翼のレッテルが貼られそうな気がしないでもないのだが(笑)、良いものは良い。しかしながら、小形液体燃料ロケットエンジンの設計を度外視すれば(現実にはこれの設計と実験と改善に年単位の時間を取られることになるだろう)、現実に可能な話なので、これは果たしてSFなのか?
 私は物心ついた頃から妙に分別臭い子供で(保育園で、保母さんに「将来はなんになる?」と聞かれて「サラリーマン」と答える嫌な子供だったのである)、夢を追いかけることも教師に楯突くこともしなかったので、こういうモチーフにはきわめて弱い。
 昔から分別臭かったおかげで、いつまで経っても子供の頃と同じ人格を維持しているのかもしれない。

 「ゆめのかよいじ」は、日本全国を東京化してしまおうという、ばらまき型公共事業が問題になっている今読むと、昔読んだ時とはまた違った感慨があったりもする。
 きっとこういうのは都会で生まれ育った人間の勝手な思い入れなのだろうが。この作品も町並が変容していくこと自体を肯定的に描いている訳だし。
 作品自体の印象は、ほぼ同時期に出たと言っても良い「SCENE」とごっちゃになっていた。どちらも同じモチーフの作品だったのと、「SCENE」の方が刺戟が強かったのが原因だと思われる。
 13年前の作品を、キャラクターとトーンワークを全面改稿してもう一度世に出しても(つまりは話自体にはほとんど手が加わっていないことになる)、全く色褪せて見えないというのは、この話が名作なのか、それとも私が昔から全然変わっていないからなのか。

 昨日の話に一つ補足。
 PDFを紙の書類と同じサイズで表示しても読みにくくならないための解決策はもう一つあることを失念していた。
 ディスプレイの解像度を上げることである。現在でも、19"ディスプレイなどで1600x1400辺りの解像度でコンピュータを使っている人は、A4を前提にしたPDFも苦にならずに読むことができるだろう。たぶん。


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