小泉首相が靖国参拝を今日行なったようで、マスコミはその話題で持ち切りである。
だから中国と韓国以外は何を言ってるんだよ。日本の外交先はそこしかないのか? がたがた吐かすようなら、財政再建を楯にODAを全部切っちまえ。どうせ中国はODAなんか核武装のためにしか必要としていない。阿呆臭い使い方のNo.1だと言っても言い過ぎではない。
50年間も過去のことを引き合いに出してねちねち言い続ける国と、友好を保つ必要なんか個人的には感じない。今起きていることが問題なのであり、過去はこれから間違わないための教訓でしかない。
中国と韓国の歴史教育が、そういう視点でなされているようには私には思えない。
終戦記念日。
一部では敗戦記念日という自虐的な用語を使いたがる人もいるが、敗戦を記念してどうすんねん。敗戦国であることを50年間もねちねち突かれてきた歴史を鑑みるに、それは記念するようなもんじゃないぞ。
まぁいいや。色々公式行事があったようだが、参加する気もなし。私は自堕落な享楽主義者なもんで、戦争なんかないに越したことはない。戦没者には、他の死者と同等の弔意を持つが、それ以上の感情はない。なんでそうなのかは数日前の記述を見ると判ります。
ところで「侵略戦争」なる言葉が、この時期になるとなんの検証もなしによく使われるが、ある国の植民地に出張って行って、そこの宗主国の軍隊を追っ払う行為は果たして侵略なんだろうか。そりゃ、宗主国に取っては侵略だろうけど、その場合は「アジアに対する侵略」にはならんのではない?
韓国は日華事変が始まる前から日本だったので、侵略戦争は起きていない。韓国併合に至るまでに戦争と呼べるような軍事行動は行なわれていない。つまりは、日本が侵略を行なったのは、中華民国に対してだけであり(ボツダム宣言に書かれている中国代表は中華民国であり、中国共産党はその時点では単なる反政府組織だった)、あんまり広範囲に渡って「侵略」という言葉を使うのも如何なものかと思うのだがどうか。
埼玉県内の道路が奇々怪々な構造をしていることには、これまで何度も驚かされてきたが、パッと見、地図上で十字路になっているように見える道が、行ってみると二車線道路一本分ずれて連結されているというのにはちょっとびっくりした。しかも信号の扱いはどうやら十字路扱いのようなのだ。
なにをどうやったらこんな道ができるんだろう?
IQテスト。要JavaScript&集中力。仕事中にはしない方が良いです。ちなみに私は120.8。
それはともかくとして「ドリブン」の感想をば。
なんつーか、ストーリー展開やら映像表現やらに色々突っ込みどころが多い映画ではあったが、レースシーンは迫力があり、まずまず楽しめた。
プロットは単純極まりないので、いちいち突っ込みを入れずに、迫力のある画面を楽しむのが正しい見方だろう。
しかし、レイトショウであるにも関わらず、席がほとんど埋まっていたのは少々驚き。隣に座ったのが小学生で、中盤まで喋るわ動くわで鬱陶しいこと極まりなかったが(この映画、小学生が興味を持つようなストーリーだとはとても思えないのだが、親は何を思って連れてきたんだか)、レースシーンが続けて展開される中盤以降はおとなしくなった。要するにこういうことである。カーレースが好きならば、楽しめると思う。
時間は前後するが、秋葉へ行商に出かける。
行商に出かけたはずなのだが、SHARP製の液晶ディスプレイの「色温度が数字で示されない」という仕様に驚愕したり、他人にモンティ・パイソンのDVD Boxを買わせたり、IKE SHOPでPSION Siries 5の解説本を買ったり、同じくIKE SHOPで14800円のVisor Platinumの誘惑に打ち勝ったり(明日、後継機が発表されるという噂を知らなかったら負けていたかも知れない。恐ろしい敵であった)、何故か新宿で酒を飲んだりする。
おかしいなぁ、行商に行ったはずなのだが。
瀬名秀明「ロボット21世紀」(文春新書)[bk1で購入]読了。(お、文芸春秋社、科学啓蒙書連発じゃん)
P3から火の点いた感のある、日本のロボット工学に関する広範な話題を扱った本。
事前に、こばやしゆたか氏の書評で触れられていた、柳原望「まるいち的風景」(花とゆめコミックス)[bk1で購入](なんでbk1では4巻しか検索にヒットしないんだろう?)を読みながら読んだ所為かどうかは判らないが、やけに読むのに時間がかかった。
一言で「ロボット工学」などと括られてはいるが、実はこの言葉にはきちんとした実体は存在しない。薄い人々は「ガンダム」も「鉄腕アトム」もいっしょくたに「ロボット」と呼ぶが、この二つは違うものである。「ガンダム」は人型をした乗物であって、ロボットではない(ラストシュートのシーンではロボットだったかも)。
まぁ、そういうことを言い出すと、P3やASIMOも厳密な意味ではロボットではなくなってしまうので、ロボット工学ではどちらも研究分野として扱っている。
これは要するに、自律型なのかそうではないのか、という話に集約される。人が乗って操縦するのであれば、キャタピラの足にパワーショベルのマニュピレータを二つ付けてやれば、ガンタンクに近いもののでき上がりである。これをロボットと呼ぶ人はあんまりいないと思う。この線引をどこでするか、という話である。
この本では、日本のロボット工学研究の実情に合わせて、このような厳密な解釈に基づく区分をしていない。そんなことをしたら、ホンの一部しか紹介できなくなってしまっただろうし、普通の人は混乱するだけなので正解だろう。
閑話休題。メカトロとか制御関係の話には、全然異論はないのである。違和感を感じたのは、こばやし氏の指摘する、人間とヒューマノイドロボットの関係の設計図を我々はまだ手にしていない、という指摘と、人間のような知性は人間の身体がなければ成立しない、という指摘の二点である。
前者に関しては、「まるいち的風景」でひとつの形として見事に描写されている。工学的には、実現不能な夢物語に見えるかもしれないが、「ロボットが身近に存在する社会」というもののビジョンはくっきりと表されている。私もこばやし氏のコラムを読むまでは存在を知らなかった作品なので、単に知られていないだけなのだろう。
後者に関しては、長年にわたる人工知能研究の停滞と、ブルックスのGenghis(環境フィードバック制御型の昆虫型ロボット)しか、それを証明する証拠はない。つまり、人間の身体があれば人間の知性を獲得できるかどうかはまだ判らないのである。そのベクトルによる研究は、その端緒にしか到達していない。そりゃまあ、その研究をしている人はモノになると思ってやっているのだから、確信的に語るだろうが、そのバイアスを引き算しないでそのまま提示するのは如何なものかと思う。
やはり人工知能に関しては、一応学士号取得に関連した分野であるし、多少はこだわりがあるのだ。Genghisは、かなり詳しくその制御メカニズムが明らかになっている、下等生物のシミュレータ(しかも歩くという行動のみ)に過ぎないわけで、そこから一足飛びに人間に来てしまうのは、かなり危うい道のように私には見える。ましてや知能などという、一番高度なものに手が届くのか? まだ研究の前段階にあるのだから、その答は誰も知らないわけだが、過大な期待を抱かせるような書き方は止めておいた方が無難だろう。
「20世紀SF 4 1970年代 接続された女」(河出文庫)[bk1で購入]読了。
表題作になっている、ティプトリーJrの「接続された女」は別格として、面白かったのは、ル・グィン「アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』からの抜粋」、ジョージ・R・R・マーティン「七たび戒めん、人を殺めるなかれと」くらいか。後者はちょっとばかり何が起きたか、がよく判らないところもあるのだけど。
巻末の解説を読むに、私にとっての海外SFというのは、ちょうどこの辺りと、後は90年以降のものであるらしい。これなら翻訳されていた時期に日本で発表されていた作品群の方が魅力的に思える。80年代のサイバーパンクは、これっぽっちも面白いと思えないので、ここでは取り上げない。
クリストファー・プリースト「限りなき夏」は、時間テーマの梶尾真治を思わせる作品だが、これよりはカジシンの方が上手いと感じる(それは私が日本人だからなのかもしれないが)。
解説で言及されている「フェミニズムSF」という代物も、どうも肌に合わない。攻撃的性格を持つ思想があまりに前面に押し出されているので、居心地が悪いのだ。そういうものは、あんまり表立ってやるのは下品だ。もっと遠回しに、鈍い人間には気づかれない程度でやるのがスマートだと思う(自分ができているかどうかはともかくとして)。