ネットワーク上には性悪仮説がまかり通っていて、そこでは力(スキル)こそが正義になってしまう。その現状は何かおかしいのではないか、ということを一所懸命に主張している人がいた。まー、要するに、ネット世界ではやったもん勝ち(やられた方――ウイルスに感染したり、サーバをクラッキングされたり――のガードが甘いことが悪いことであるかのように言われる)であることが多いのは確かではあるし、悪意を持ったものが跳梁跋扈している現状は、別に悪意なんか持ち合わせていない人間にとってはいまいち居心地が悪いことも確かである。
しかし、そこで「力こそ正義」という言葉が出てきたことで、あまりにナイーブな世界の見方をしていてなんかほのぼのとした気分になってしまった。
この世界に絶対正義が存在しないように(絶対正義なるものが存在するという主張をお持ちの方は、なるべくなら具体的実例を挙げて私を論破してみせてください)、その鏡であるネットワーク上にも絶対正義なんてものは存在しないのである。あるのは力と人の意思だけ。現実世界にはそれ以外の要素も絡んでくるのでややこしいが、ネットワークではそれらの要素は切り捨てられているのでシンプルである。ある意味で理想化された人間社会といえよう(ここで言う理想は理想気体の理想と同じ意味である)。
要するに「力を持った奴が好き勝手やってる状態」というのは大概の人にとって正義なんかではないけれども、それはネットワーク世界の現状を説明する言葉として正しい。そこに正義なんていう単語を持ち出してくるのは話をややこしくするだけなので止めた方が良い。ネットワーク社会は原始的極まりないけれども、それはそれで居心地が良い部分が多いので、変に社会化されてしまうのはやっぱり気持ち悪いし、今よりは確実に不便になるだろう。そもそも誰が誰に社会化に伴う権力行使の権利を認めるのだろうか。
どうせ、コンピュータ自体が本当に使い物になるレベルにはまだまだ到達していないのであるからして、コンピュータを使っているからには、スキル=力がなければいつの日かひどい目に遭うことは約束されているようなものなのである。ひどい目に遭っていない人は単に運が良いだけなのだ。自動車を運転していれば、いつか必ず大なり小なりの事故に関わることになる、というのと似ているか。自動車を運転するに当たって、任意保険に入っていない人というのは単なる馬鹿である、という認識は、社会的なコンセンサスを得ることができるものであると思う。データのバックアップやウイルスやクラッカーに対する防備というのは、この任意保険のようなものであると思う。
自動車が全て自動的に動き歩行者や自転車などの他の移動手段の動きも完全な形で制限されて、事故の責任はその動きを管理するシステムが担う世界と、今のように自動車も自転車も歩行者も(道路交通法というある程度のルールはあるとしても)自由意志で移動できる世界、どちらがお好みだろうか? 国境が存在しないネットワーク上に、普遍的なルールの導入は可能だろうか?
日曜のNHKスペシャル「アジア古都物語 (2) 生と死を見つめる聖地・インド・ベナレス」を観て思ったこと。
日本では「死」は不浄であり、なるべく避けるべき、日常生活から隔離すべきものである。そのイメージは古事記の黄泉の国のエピソードにも登場することからして、日本人がかなり昔から、たぶん自分が日本人であるという意識を持つ前から持っている感覚なのだろう。
しかしながら、ヒンドゥーにおいては、少なくともベナレスという都市においては、死は人生の一部であり、避け得ないからこそかなり能天気なお為ごかしを施してでも正面から向き合うものであるとされていると感じた。
それは、国土と人口の比率から必然的に生じたものかもしれない。インドでは死を不浄として隔離するための国土的余裕がなかったので、必然的に火葬を行い、火葬をすべき場所を決定しなければならなかったのだろう。それに対して日本では、死体を隔離する場所に事欠くことはなかった。だからこそ、土葬を行い、墓地は日常から切り放された場所として存在し得たのだろう。
しかしながら、それは少なくとも戦前までしか成立しなかった話なのではないか。移動にコストを掛けることを厭わなければ、日本にもいくらでも土地は余っている筈である。でなければ過疎農村などという問題が発生するはずがない。しかしながら、我々は葬儀やそれに付随する宗教的行事への参加に当たって移動コストを払うことを良しとしていない。それでいながら、死を日常から切り離し、遠ざけておこうという意識は持ち続けている。
これは大いなる矛盾である。人口が集中する都市には必然的に大規模な斎場と墓地が必要とされるのに、都市部に斎場や墓地を作ろうとする動きには激しい抵抗運動が発生する。
これは理性と感情の衝突であり、感情に動かされている側が冷静にならない限り、解決することはないと思われる。都市生活が必要とする事実と感情の擦り合わせをするための方法論を発達させることなく、我々は急激に都市生活者になってしまった。
私は生活に支障が発生しない限りは、斎場が家の横にあろうが墓地が家の横にあろうがゴミ処理場が家の横にあろうが気にしない(実際、今住んでいるアパートは、家一軒と道一本を挟んだ先が墓地である。日曜になると寺の行事がかすかに聞こえてきたり、盆や彼岸になると洗濯物が線香の匂いになってしまう以外の不都合は感じていない。ここに10階建てのマンションが建っているよりもよほど良いくらいである)。私は、それが「都市で生活する」というベネフィットを受けるためのコストであることを承知している。必要な施設は必要なのであり、それを自分から遠ざけておこうなどという考えは、単なる甘えに過ぎない。私は甘えを承知していながらその甘えを通すための主張ができるほど面の皮が厚くないのだ。
もちろん、生活に支障を来たすようならその原因を取り除くように要求することはやぶさかではない。例えば、ゴミ処理施設があったとして、そこから悪臭が発生していれば、悪臭を発生させないように要求することはあるだろう。それにコストが掛かるのは当然だが、必要なコストを支払う覚悟もある。しかし、ゴミ処理施設を移転させようとはしない。それは問題の先送りに過ぎないからである。
しかしながら、世の中の全ての人に自分のスタイルを強制するつもりはないし、それは不可能であることも知っている。だから、事実と感情の擦り合わせを行うための方法論を探さなければならない筈なのである。私の不勉強かもしれないが、日本の宗教界にそれを行う動きがあるという話は寡聞にして聞いたことがない。日本の社会は、社会に必要不可欠なものを作り上げた人間が必ずしも報われない社会でもあるので、きっとこれは損な役回りなのだろう。進んで苦労することが推奨されるのは、進んで苦労する奴なんざほとんどいやしないからなのである。
秋山瑞人欠乏症に陥った私は、「鉄コミュニケーション」を読破した勢いに乗って、「E.G.コンバット」[bk1で購入]、「E.G.コンバット 2nd」[bk1で購入]、「E.G.コンバット 3rd」[bk1で購入]を一気に読み終えたのであった。
面白ぇ。めちゃくちゃ面白ぇ。こんな面白い本が未だに初版でしか本屋の店頭に並んでないのは、世の中間違ってる。絶対どこかしらが間違ってる。
入手できない本は諦めるものじゃない。探し回り、その余力がなければ注文してでも入手すべきものだ。人生は短く、楽しみに回せる時間はその人生の中でもさらに限られているのだ。書店の棚の幅などという、物理的な制限に屈している場合ではないのだ。楽しみくらいには貪欲でありたいものだとは思わないか?
この話に問題点がないわけじゃない。主役クラスのキャラは、5人組なのだが最初に見て思ったのは「レッド・スナッパーズだ……」だし、キャラとしてはレッド・スナッパーズの方が明らかに立っている。
ペスカトーレとアイ、アイとマリポは微妙にキャラが被っていて、カデナの存在もあってマリポの印象はごく薄い。次で終わりなのに三冊過ぎても印象が薄いというのはかなり致命的なんではないか。
ところで、これ本当に次で終わるのか? 2ndの時点で予告されていた某キャラの出番は3rdにはとうとう無かったのだけど。そんでもって、この続きは「イリヤの空、UFOの夏」が終わった後で、「イリヤ」は今年中に終わるか終わらないかが微妙なところで、ということは後1年は待たなきゃいかんということで、これも一種の拷問ですか。
もう欠乏症を忘れさせてくれる未読の本はない筈で、これからどうしたらいいのか途方に暮れないこともない。
3/2の上映開始を観んがために、ワーナーマイカルに「指輪物語」のチケットを買いに行く。ところで、The Load of The Ringsって、One Ringのことじゃないんですか?
なんか今日の先行オールナイトも、午後からやってる様子で、しかも全部は売れていない模様である。まー、こんなもんだよなぁ。
というわけであっさり入手。
ついでにSATYの店内もぶらぶらしていたら、ちけっとぴあが復活していたので、4/10のZABADAK Liveのチケットも入手しておく。しかし、機を見るに敏と言うべきか無節操というべきか<ちけっとぴあ
SATY内のビブロスには、「E.G.コンバット」全巻と「猫の地球儀」は揃っていたが、なぜか「イリヤの空、UFOの夏」はない。何故?
いやはや、ちょっと外をバイクで走っただけでSATY内でくしゃみ連発。参ったなぁ。
帰り道ではヘルメットの通気穴を塞いだ(そういう機能があるのだ)ので、行きよりはマシだが。帰って来てすぐにうがいをするし、目も洗うので、単純な比較はできないけれど。
杉の花に感染して、花粉を作る機構を駄目にする細菌とか作れないんだろうか。
杉の木の栽培方法は知らないが、実が生らなくなったら絶滅するってもんでもないだろう。
Jterminalとシステム標準のemacsを使って、日本語入力が可能になった。方法はこちら。
しかもインライン変換もほとんど何の問題もなくできる(文の途中に挿入しようとすると、後の文章が入力中には表示されないという些細な不具合と、インライン変換中の文字列は折り返し表示されてくれないというあんまり些細じゃない不具合はあるが)。
Jterminalという環境を作ってくれた人々に感謝。これでほぼ完全にOS X環境で日常的に行なっている作業を完結することができる。
PowerBookのキーボードは、P.T.K.に換装してあるので、私にとっては、これでほぼ無敵の日本語テキストエディット環境である。ことえり3の訳の分からん候補表示順を除けば、であるが。EGBRIDGEに今さら移行するのもなんか嫌だし、ATOKは10.1.3 updateと相性が悪いようだし。帰って来てくれ〜>VJE-Delta
それにしてもことえり3の候補順はわけ分からん。特に辞書を鍛えるまでは頻繁に使うことになるであろう単漢字変換時の順番は本当にわけ分からん。
もう一つ問題発生。
emacsを使ってHTML文書を編集すると、勝手にクリエイターをIEにしてしまう。
TypeとCreaterを認識しないのは勝手だ。UNIXの文化にはそもそも存在しなかったのだから、それは仕方がないと思う。
しかし、前の情報を勝手に上書きすんじゃねーよ。上書きしてなかったとしても、消すな! 残せ! 扱ったファイルの情報をユーザに通知することなく勝手に欠損させるアプリケーションは最低である。
Createrを自分に設定するならまだ許せるが、違うアプリケーション(しかもエディタじゃねぇ)に設定するとは何ごとか(これはemacs & JterminalよりもむしろFinderの仕様の責任であることが判明。emacsはtypeとcreater情報を落としてしまい、.htmlという拡張子(!)でFinderがIEの書類だと認識してやがるのである)。
これでは、ファイルをダブルクリックでアプリケーションを起動、なんてことは夢のまた夢。Jterminal & emacsという環境では、Dockにアプリケーションを置いておいて、Drag & Dropで起動なんてこともできない。こんなものはMac OSと呼べん。
TypeとCreaterという発明品は、そんなに簡単に切り捨てていいものじゃない。MacをMacたらしめているのはTypeとCreaterである。少なくともその一要素であることは間違いない。
Cocoaでは現状、正式にTypeとCreaterはサポートされていない。Mac OS Xの中核を握っているのはNeXTから来た技術者である。これらのことを考えると、非常に不安になるのは私だけだろうか。
Dockという代物がどうもMulti Finderに比べて気持ち良くない、と感じる一因は、あるアプリケーションが管理する全てのウインドウがDockに仕舞われたとしても、アクティブアプリケーションは切り替わらない、という点にあると思う。
これって、すごく直感的ではない。普通、ウインドウを全部片付けたら、そのアプリケーションがアクティブになってるとは考えない。Dockを使っていると、頻繁にウインドウをDockに仕舞ったのにメニューだけそのアプリケーションになっている、という状態を経験することになる。
この方が使い易い状況というのはちょっと思い付かない。新規ウインドウを開く前に、一次的に全部のウインドウをDockに仕舞ってしまおう、と考えるときはこっちの方が便利か。でもそれって、頻繁にあり得るシチュエーションだろうか?
昨今叫ばれている理科教育の問題を真剣に考えている人々に、一つ絶望的な話をしよう。
大学まで進んで、その大学に教育学部があった人なら御存じだろうが、教育学部というのは基本的には文系の人間が進む学部なのである。
理系の人間なら、普通は理学部か工学部に行く。よほど教師という職業に対する情熱を持っているか、教育論そのものに興味があるか(そういうやつは理系にはあんまり居ないような気がするが)、偏差値の問題で近場の理系の学部には進めなかったか、まあ最後のはかなり失礼な憶測であるが、ともかく、教育学部に進む、という選択肢が頭の中に存在するということは、それはもうまぎれもなく文系の発想なのだ。理系の人で、高校で進路を考える際に、理科を教える教師になろうかと思った人がいたらびっくりである。
一応、工学部や理学部から教職免許を取得するための方法は存在する。しかしながら、それは高校に限定されたものであり、しかも学士で取得できるのはかなり特殊な部類の免許であり、その免許では中学校や小学校の教師にはなれないのである。
なにが言いたいかといえば、理科教師は、少なくとも小学校、中学校においては文系の人間がやっている、ということだ(理系の人間が一度工学部なり理学部なりを卒業してから、教育学部に入り直す、という稀な例も考えられないことはないが、稀な例なので無視しても日本の現状を考察するという立場からは問題はないと考える)。小学校の教師に至っては、国語算数理科社会、果ては体育や音楽までこなすオールラウンドプレイヤーであることが求められるため、理系の人間にはさらに敷居が高いものになる。
そんな状態が、いつからは知らんが、私が大学教育を受けるまではずっと続いていて、変わったという話も聞かないので今でもきっと続いているのだ。
その状況で理科離れが起きないということがどうしてあり得ましょうか。中学か高校か、あるいはもっと早い段階で、数学なり理科なりに見切りを付けた人間が、少なくとも初等教育の現場では教師をやっているのだ。
ほら、絶望的な気分になったでしょう。
昨日、発売日に大宮では見つけることができなかったのに有楽町のビックカメラには山ほど売っていたので早速買った、大島ミチル、他「ICO 〜霧の中の旋律〜」(SME Visual Works Inc. SVWC7117)を聴きまくり。素敵。
そうか。あのCMソングはボーイソプラノだったのか。とにかく素敵。You were there、素敵。
映画の内容とどれくらい齟齬があるのかを確認すべく、新訳版の「指輪物語」を買って来て読んでいる。
最初に読んだのは大学生の時で、その時は、ハードカバーのページを文庫サイズに縮小したという無理やりな本で、小さな文字がギッチリ詰まった読みにくいことこのうえない本であった。
新訳版はちゃんと版を組み直して読み易くしてあるのだが、その影響で「旅の仲間」は旧版の倍の四冊に。「二つの塔」は三冊で、「王の帰還」が前と同じ二册なのが不思議で仕方ないのだけれども、「追補編」は文庫版には含まれていないそうで、すると旧版には「追補編」が入っていたということなのだろうか。いやしかし、新訳のハードカバー版は、追補編が一冊の本として独立していて七冊なのだ。謎。
まだ上1しか読み終えていないのだけれども、昔読んだときよりもスラスラ読めるようになっている自分に少々驚きを感じる。昔経験した、決してつまらなくはないけれども、難渋に満ちた読書体験はなんだったのか。
阿呆なことに他の予定がある日に医者の予約を取っていたことに気付き、予約無しで受け付けられる火曜である今日に慌てて行くはめになる。
こういうことができる状態で良かったというかなんというか。
同じ処方の薬だけを飲み続けるのであれば、診察は要らないのだけど、良くなって来ているのと副作用が気になり始めていることを説明して処方が多少変わったので、まるっきり無駄とは言えない。
もう外出時には、がっちりマスク装着で不審人物大爆発なのだが、最初に花粉を意識した23日よりは飛ぶ量は少ないらしく、症状の出方がなんか微妙。
1時間に1回くらい鼻をかまなきゃいかんとか、半日に1回くらいは目を洗わないと何となく痒いような気がするとか、そういうレベル。このままずっとこのレベルで続いてくれればこんなに有り難いことはないが、そんな甘い話はこの天と地の間にはあり得ないな。
喉が微妙に痒いのは、花粉のせいなのか、それとも風邪なのか、判断に迷うところ。
今日、とても不愉快な事態に巻き込まれたのだが、思い出すのも嫌なのでそのことがあったという事実だけ書き留めておこう。
こうやって書いておくだけでもきっと忘れない。
浦沢直樹「MONSTER」最終巻を読み終えた。
最後のあれは果たして必要だったんだろうか。なんか突然問題が身近に降りて来ちゃったような気がして仕方がない。
あれくらいで人間は怪物になることができるのだろうか。
思ってもみなかった方から、思いもよらぬ贈り物を頂く。
なんと申しましょうか。私のようなひねくれ者に対しても、降り掛かるのは悪いことばかりではなく、厚意を頂けるのは、運悪く(それはそれは本当に!)私と浅からぬ縁を持ってしまった人たちだけからではないのだ。
平たく言えば、この世の中はずっと素朴なレベルで悪くない。うん、悪くない。
歪んだ鏡には歪んだ像しか結ぶことはできないということなのだろう。